皆様おはようございます。
今日はこのあたりは、早朝から雨。
早朝のミサはサボってしまいました。(前日の疲れか?寝坊ですが)実は昨日もなんとなく寝坊?でサボったのですが・・。
そのせいか?昨日から母が、苦しんでいる時の様子が思い出されて少し辛くなった。
もちろん、今、多くの皆様と共有のために転記している「ヨブ記を読みなおす」で確かに安らかではあったものの
自分自身も勝手な思いを書けば、母も比較的に多くの人々がいる教会からの訪問を心待ちにしていたけれど、
約20年近いなか・・・この5年間でも人が来てくれた記憶がない。
しかし、私自身は、結構良く祈り、人々には愛想良かったようにも思う。
ただ確かに、私は大学の授業や図書館にはまじめに出かけていたし、NTTに行っていた時はあまり行けなかった。
母の苦しみもそこにあったようだ。
亡くなる一ヶ月前に、私の服の胸をつかんで暴れられたときは、辛かった。
奇跡を願うには時間も沢山経ったけれど、そして、母も私も年をとってきたけれど、何かはっきりとした奇跡がほしいと感じてしまう。
私ももっと人々に信頼して、司祭として有名になったら解消できる問題なのか?とも考えてしまうが、
それでも、やはり、日本の歴史は、私にこれから、遅くなってでも医学者としてサポートする気持ちにさせる。
そこまで日本人の?大抵の日本人の生活は、自立的なある種高度な精神では生きていない。
政策の中心に合わせて若者が、自分自身のためにがんばることで何とかつじつまを合わせているけれど、
現実の心の問題は、深く厳しく、答え・出口のないと感じる日本の一般的な人々の心境だと思う。
自分自身「回心」の深い意味を、生活の中で、人々に教えて大丈夫か?とまだまだ感じる今日この頃だ。
神の愛と慈しみと恵みと平安がこの世界中に満ち溢れる日が来ることを願いつつ今日のブログを終えたい。
Pietro Francisco Xavier Francisco Hiroyuki Sawaguti
*************************「『ヨブ記』を読みなおす」から続き****************************
このように、神の不公平を神に強く訴えるヨブの心中には、当然、
神に完全に忘れられ、見放されて、今や不幸な日々を送っている、惨めな自分自身があるからです。
このように恵まれ、祝福された毎日を過しているその人々は、呼ぶとは正反対に、神に向かって、
「ほっておいてください。あなたに従う道など知りたくもない。なぜ、全能者に仕えなければ
ならないのか。神に祈って何になるのか」、と主張していた人々です。
しかも神は、かつてヨブに対してなさったように、彼らから財産を奪い去るようなこともせず、
彼らが幸せに生きることを許しておられるからこそ(21・13-16参照)、ヨブは神の不公平を
厳しく咎めるのです。
******************************本日の転記はこれまで*******************************
今日はこのあたりは、早朝から雨。
早朝のミサはサボってしまいました。(前日の疲れか?寝坊ですが)実は昨日もなんとなく寝坊?でサボったのですが・・。
そのせいか?昨日から母が、苦しんでいる時の様子が思い出されて少し辛くなった。
もちろん、今、多くの皆様と共有のために転記している「ヨブ記を読みなおす」で確かに安らかではあったものの
自分自身も勝手な思いを書けば、母も比較的に多くの人々がいる教会からの訪問を心待ちにしていたけれど、
約20年近いなか・・・この5年間でも人が来てくれた記憶がない。
しかし、私自身は、結構良く祈り、人々には愛想良かったようにも思う。
ただ確かに、私は大学の授業や図書館にはまじめに出かけていたし、NTTに行っていた時はあまり行けなかった。
母の苦しみもそこにあったようだ。
亡くなる一ヶ月前に、私の服の胸をつかんで暴れられたときは、辛かった。
奇跡を願うには時間も沢山経ったけれど、そして、母も私も年をとってきたけれど、何かはっきりとした奇跡がほしいと感じてしまう。
私ももっと人々に信頼して、司祭として有名になったら解消できる問題なのか?とも考えてしまうが、
それでも、やはり、日本の歴史は、私にこれから、遅くなってでも医学者としてサポートする気持ちにさせる。
そこまで日本人の?大抵の日本人の生活は、自立的なある種高度な精神では生きていない。
政策の中心に合わせて若者が、自分自身のためにがんばることで何とかつじつまを合わせているけれど、
現実の心の問題は、深く厳しく、答え・出口のないと感じる日本の一般的な人々の心境だと思う。
自分自身「回心」の深い意味を、生活の中で、人々に教えて大丈夫か?とまだまだ感じる今日この頃だ。
神の愛と慈しみと恵みと平安がこの世界中に満ち溢れる日が来ることを願いつつ今日のブログを終えたい。
Pietro Francisco Xavier Francisco Hiroyuki Sawaguti
*************************「『ヨブ記』を読みなおす」から続き****************************
このように、神の不公平を神に強く訴えるヨブの心中には、当然、
神に完全に忘れられ、見放されて、今や不幸な日々を送っている、惨めな自分自身があるからです。
このように恵まれ、祝福された毎日を過しているその人々は、呼ぶとは正反対に、神に向かって、
「ほっておいてください。あなたに従う道など知りたくもない。なぜ、全能者に仕えなければ
ならないのか。神に祈って何になるのか」、と主張していた人々です。
しかも神は、かつてヨブに対してなさったように、彼らから財産を奪い去るようなこともせず、
彼らが幸せに生きることを許しておられるからこそ(21・13-16参照)、ヨブは神の不公平を
厳しく咎めるのです。
******************************本日の転記はこれまで*******************************