リンゴや桃がエロスなのではなく、リンゴと桃との空間がエロスなのだと思う。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/19/ad/088438cc41f37e0a4c6aeb090a636e0a.jpg)
もし「馬鹿」を勉強するなら、馬鹿についての本を読むか、馬鹿な本を読むか悩むかもしれない。
学生なら、馬鹿についての本を読むしかないが、まわりは馬鹿な本も読んでいるので、馬鹿の上級者。
勉強している人が、常に初心者に思われる理由はそこにあるのかもしれない…というお馬鹿な話。
子供の頃、同級生の指示に、「いやだ!」とだけ言ったことがある。もし、そのとき「バカにされ隊」と冗談で切り返してしまっていたらと妄想する。予想通り、バカにされるのだろうけれど、その輪が広まってバカにされるほうの人気が高まってしまったとき、バカにしていたほうの気分はよくないだろうことは想像できるので、「バカにされ隊」を逆に結成してしまうかもしれない。仮定の仮定は続く。そうなれば、その人たちのほうが人気が一時的に出るだろうが、よその学校からバカにされてしまって、教諭たちはその犯人探しをしたとき、私になってしまうのだろう。そうなるとまた一時的に相手は大盛り上がりになることが想像できる。けれど、もし裁判で「ただ言っただけで、権利は持っていない」と主張すると通ってしまうかもしれないが、誰も徳はしないうえに、その人たちの名誉は失墜したままになってしまう。そうなるとまた裁判なのだろうけれど、お笑い話のまま。
ここで怖いことを妄想してしまう。
「○○が、○○なんだと言っていたよ」誰かが言っただけで、嘲笑のループが出来上がり、それでその集団の知能は高まるかもしれないけれど、運動機能の低下させてしまう危険性があるのではないか。
漫画のMONSTERの世界に入ってしまいそう…。
「バカを相手にするな」ということはよく言われますが、バカにされたときの切り返しを冗談にした場合、その冗談が通じない、あるいは通じないものとしてことが進んだとき、それはバカを相手にしたときと同じ不利益なことが起こるのかもしれません。
自分は賢くないと自覚していますし、誰でもいつかは自分よりも賢い人に出会う訳ですから、「バカを相手にする」ということが成立しないと考えていましたが、相手が賢くても、起こってしまう危機感を感じています。
「いやだ!」以外のものの言いようがあったのではないかと思うのは、言づてだと別の意味なってしまって危険なので実際に合って話さなければいけない場合が多いけれど、まだその「いやだ!」以外の別の言い方は思いつきません。
計画停電のカードを切られたときのことを考えています。
大企業になれば省エネという選択肢が浮かびますが、一個人としては電力量を減らすことよりも、電力が止まったときのことを考え、その準備に創作活動などで電力を使用しています。
個人としての電力使用量は多いかもしれませんが、停電でも生きていけるように模索し始めているところです。
![橋本マナミ似顔絵イラスト画像](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/27/f4/3c05a780eb9bb352ad2b84fc2d1cb951.jpg)
似顔絵を線で描いてみました。
立体感というよりは、草書や英語の筆記体の書くように、すらすらーっと、を目指して描いてみました。
クロッキーで、目を合わすポーズや、目を合わせている絵というものは滅多にありません。
難しいと思ったら顔を描かないのも一つの方法かもしれません。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6a/bc/e7408c91c283407cb70e2b6e2be2c188.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/58/74/9f59958576a64313225c834dba691c10.jpg)
お化け屋敷のように、
具象画であることを入り口で伝えたい。
具象画であると分かる表現を絵に含めたい。
抽象画だけを見たい人が間違って入らないように。
分かりづらいということ。
分かりづらい文章を、分かりやすくする方法はかなりある。
箇条書きにしたり、順序を整理したり、文体とまではいかないけれど毎回一定の規則性を持たせて書いたり、伝えたいことを絞り取捨選択をしたり。
けれど、その分かりやすい文章を読んだ方の中には、
「かろうじて分かるのですが、もっと分かりやすく伝えてほしい」
という要望が出てしまうことが想像できる。
私の世代では、「読みづらい文章は、書いている方が悪い」というとんでもない考えの書籍が広まった時期がある。それも、一理あると思ってしまったことを恥じている。
古文や他の国の言葉の書籍はもちろん、「入試の問題が悪いから入れない」などという発想が出てきやしないか心配しています。
一般常識や義務教育の範囲内の平易な言葉で書くようにつとめていますが、美術的なことがやや専門的になってしまうことに反省しています。
「読みづらい文章は、書いている方が悪い」
というのは、相手の文に対してではなく、自分が書いているときに注意する心がけとしてとらえたほうがよいのかもしれません。
「よし!」と言われたことがある。高校の頃の成績の話で、「よし」と言われることが、よくないことだと気付くのが少し遅かった。
学校なので成績は大事で、点数がよければ、「よし」なのである。
「よし!」と点数だけ見られて言われたことで、何一つよくないことに気付いてしまった。
そこからだった。
点数にはならないことを伸ばそうとしたり、興味深い絵を試みていった。
「よし!」という声には、未だ抵抗感を感じる。
良くなくたって、いい絵でありたいと思っています。
![東山紀之似顔絵イラスト画像](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0b/bf/920417fe43112374614ba93cff82bbdd.jpg)
「似顔絵には文字を入れない方がいい」
文字を入れてしまうと「描く」をしているのに、「読む」が働いてしまって、「見る」をしてくれなくなり、「書く」になりやすい。
けれど、
「自分の名前を入れて下さい」
と言われたり、自分のサインを入れたりするときもある。
個展ではなく、グループ展だと、隣に文字の作品が展示されることだってあり得るので、相手には厳しくないほうがよいのかもしません。
「見る」をしてもらいたいとき、「これは何であるか?」を曖昧に描きたくなる。
似顔絵で、モデル名を尋ねてくる、あるいは「○○さんの似顔絵ですね」とコメントしてくださる方はいる。説明を求められることもある。
それは、「書く」の側であり、「見る」ことをしてくれなくなる可能性が高い。実際、モデル名がコメント欄にあったら、作品を見ることなく、「似顔絵描きが、誰々を描いた。それは似ていなかった」という情報を言語として伝達することができてしまう。
「分かる、書く」ではなく、「感じる、描く」を見てる人に味わってほしい場合、描き手は感じて描こうとしても、「理解できない」と言われ、感じることはおろか、分かることもしてもらえなくなる。それをふせぐために、「書く」と「分かる」を用いて描かなければいけないという、「描きたいこと」と「伝えたいこと」に齟齬が生じることが多い。
それは、描くことを教えるときにも、「描き方というものを文字言語化したい」人に似顔絵を伝えると、「書くの習い事」と勘違いされ、「似顔絵が書けないための説明」になってしまう。
例えると、「スキップを踏む」の説明。スキップというものが成立する定義を懇切丁寧に分かりやすく説明されると、スキップが実際にできなくなってしまうような。
「言っていることは、理解できないが、なんとなく感じるので、実際に描いてみたら描けた」
ということがあると思う。
例えると、「ランラランララーンで軽くピョン」。
で、スキップができてしまうような。
絵の説明が分かる、分かりやすいのであれば、それは文章で、評論家のように書くことは出来るかもしれませんが、「描ける」ことからは遠ざかり、「見る人」でもなく、「絵を読む人」になってしまうのかもしれない。
「この似顔絵は、何を意味するのだろうか?」
と尋ねられれば、意味するものがあったとしても、
「たいした意味はないです」
と答えるしかない場合があるのだぴょーん。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/73/b6/a3757e3cc37b109cb91742a5d3ec80eb.jpg)
散歩をしながら、似顔絵や絵画のことを考えている。
高級時計などをしている人を前に、絵の具を使えなかったのですが、飛沫感染防止の透明のアクリル板があるのなら、色を塗っても不安にならないのかもしれません。ウイルスは怖いですが…。
似顔絵を描くとき、できるだけ短時間にどんな似顔絵を描いてほしいのかを知りたい。
そのために、「ちょいとワル」「普通」「カラー」と尋ね、普通だったら誇張を抑え気味にするなどの、選択してもらうことで予測していました。
「ちょいとワル」も「ちょいとクール」へと少しずつ変化させていき、目が光っていて怖い雰囲気から、デッサンの基礎的な描き方へと移行させました。
専門家の似顔絵師に見てもらうことの難しいところは、「画風を知ったあとに、モデル名を確認しチョイスする」という順序があるようで、いっしょに似顔絵師さんと対話をしたときに、「ちょいとクール」なのに、悪く描いていると勘違いされたまま、不機嫌でおられるということがありました。どれだけ、流布されてしまったのかは分かりませんが、「悪い似顔絵を描く人」というイメージが付いてしまったようです。
建築の広告を描いた経験から、人間の寿命以上の木材の生命のことを考えたりします。私の生きている間は、悪い情報というもので見られていくのかもしれませんが、私や流布した方が無くなったあと、私の名前も知らなくなった世界で、絵だけはよいものとして残したいという気持ちはあります。少なくとも、さほど気にならない絵を描いていけたらと考えています。