
画家のクロード・モネの似顔絵を描いてみました。
結果的には、印象派の画風模写似顔絵になると思います。
ところで、似顔絵塾テーマ「ヘタウマ文化論」(=山藤先生の新著)からヒントに、「ヘタウマ似顔絵」も描けるようにと、描き続けてきたわけですが、それは、人の理論に乗っかった借り物だったと言えます。
どういう意味かと言うと、一般的な視点、デザイナーの視点として、「ヘタウマ」を描こうとしていたということです。
印象派も、最初は「印象しか描いていない」という否定的な目から名付けられたそうです。
つまり、評論家の視点では「ヘタな絵」だったわけです。
(私の個人的な)「ヘタウマ」は、印象派であったと言えます。
他の「○○派」という分類も、自ら命名していない場合は、否定的な意味で用いられていた、と思います。
まとめると、
一般の人や、評論家、デザイナーには受け入れられない「ヘタ」というくくりの似顔絵に、
革新的な希望があると言えるのではないでしょうか。
もちろん、肖像画に対する、軽視的な意味での似顔絵の存在そのものも、革新的である、と私は思います。
肖像画に近づくことも時には必要ですが、似顔絵という自由であるくくり、さらに「ヘタ」と言われるくくりにこそ、未来の芸術の光を見るのです。
全くの見当違いかもしれませんが、似顔絵に魅かれるのは、似顔絵がまだ革新的なサブカルチャーであるところです。
ヘタウマの習作を通じて、これからも似顔絵を描いていこうと思ったのでした。
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孫正義氏の似顔絵を描いてみました。
「ヘタな似顔絵を描こう」と思っていたのですが、
上手でなければ、下手にも描けない
ということが分かってきました。
「こう描くと上手く見える」という部分を、しらみつぶしに退けていく。
けれど、その「上手く見える部分」は、上手く描く能力がないと見つけられません。
自分も打ち止め状態になってきました。
より上手く描こうとしている人も、
より下手に描こうとしている人も、
ベクトルは違えども、苦しさはいっしょだと思いました。
それを楽しさに変えられる人が、
よい絵を描く人なのかもしれません。
そして、まだ上手下手のスパイラルから抜けだせないでいます。
本当に描こうとしていることに近づくことができない。
その表現したいことが表現できずにいるという面では、まだまだ「下手」だと思います。
つまり、「ヘタヘタ」だと言うことです。
「似顔絵でなければ…」と考えたりしますが、似顔絵だから面白いわけで、そこだけは外さないようにしたいです。
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普通に描いた船越英一郎さんの似顔絵です。

これは、少し誇張して描いた船越英一郎さんの似顔絵です。
まだテクニックが残っています。

これは、アクリル絵の具で描いた船越英一郎さんの似顔絵です。
まだ巧く描こうとしている感じがします。
自分の過去の似顔絵と比較して、ヘタに描くのは至難の業です。
少しずつ上手になってしまうのです。
このアクリル画の似顔絵も、以前のとげとげした下手感がなくなっている気がします。
やはり、デッサンをもとにすると、デッサンの枠からなかなか逸脱できません。
見てほしいのは技術力ではなく、似顔絵なのですから、技術はできるだけないほうがいい。
けれど、似せるのには技術がいる…大きな矛盾です。
似顔絵ではなく人物画だったら、プリミティブアートやアールブリュットのほうへ進んでいけそうな気がするのですが、似ている状態をたもつ意識が強すぎると、技術に頼ってしまうのだと思います。
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