ヒロの残日録 

日残リテ昏ルルニ未ダ遠シ

若者の貧困に大人は無理解すぎる

2016年10月28日 | 日記
  東洋経済オンライン配信より
若者は働けば自立できる、働きさえすればまともな生活ができるという神話が根強く存在している。働けばそれに見合った賃金を得られ、その賃金によってまっとうな生活を営めるというものだ。

今は大学を卒業しても、普通に働いて生計を維持することが困難になっているのだ。
ブラック企業の台頭も若者の困難に拍車をかける。普通に働きたいが、普通に働くことも許してもらえず、短期間で使い捨てにされてしまう。それによって、うつ病や精神疾患を発症してしまい、働けない状態に追いやられることも珍しくない。だから、「働けば何とかなる」という話はもはや通用しない。
また大人は、労働していない若者や、労働を望まない若者を怠惰だと見なす傾向がある。そのため、できるだけ早く労働するように、なかば「仕事は選ばなければ何でもある」と、労働に若者を駆り立てる。

たとえば、ブラック企業を辞めたが、すぐに仕事をしないと生活に困ってしまうので、急いで再就職をした別の企業も、またブラック企業であったという話はいくらでもある。
そして、労働市場の劣化は、若者の労働意欲を奪っていく。
また、たとえ働かなくとも、若者たちには父母や祖父母がいるので、多少おカネに困ったとしても、家族が手を差し伸べてくれるのではないかという神話(家族扶養説)がある。

しかし、もうかつてのように、家族は若者を救えない。家族の世帯員が縮小し、相互扶助機能は前例がないレベルまで弱まっているからだ。世帯年収も減少傾向にあり、若者の親世代や祖父母世代は、自分たちの生活だけで精一杯であろう。
いずれにしても、若者たちを取り巻く環境を見る際には、家族への依存は困難になっていると想定しておく必要があるだろう。つまり、困ったら家族が助けてやればいいという論調は、ややもすると社会福祉や社会保障の機能を家族に丸抱えさせることにつながってしまう。これでは家族が共倒れの状況を招きかねず、さらに社会福祉や社会保障の発展も妨げる。そういう点において、家族扶養説は危険な前近代の思想であると言えるだろう。

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