くに楽 2

"日々是好日" ならいいのにね

日々(ひび)徒然(つれづれ) 第二話 (2016.10.3)

2020-07-30 16:08:18 | はらだおさむ氏コーナー

隠 し 田

  かくしだ(またはオンデンとも)の存在は、古来より支配者の苛酷な収奪に対応する庶民の抵抗を示すものであったが、発見されれば見せしめに厳罰が科せられた。しかし、江戸中期以降にもなると荒地の開墾や新田の開発などを奨励するため、有期の無上納や低額の献納策をとる領主も出現、新田開発が進行した。

 

  八十年代のはじめ、「改革開放」が称えられはじめた中国ではあったが、中央財政の三分の一以上は、上海からの上納金で支えられ、地元ではその住宅難、交通難などに対処するにも、鐚(びた)一文のカネもなかった。

  わたしは82年から対中投資諮詢の仕事をはじめ、頻繁に上海を訪問していた。市内を貫流する黄浦江は上流まで3千トンクラスの貨物船が往来するため橋が架けられず、対岸の浦東地区へは艀しか交通手段がなく、広大な未開発地が横たわっていた。

  当時の上海では、「都会戸籍」を持つ「上海市民」は旧市街地の数百万人のみで、操業を始めた宝山製鉄所のある「宝山県」ですら地元の住民は「農村戸籍」であった。非農業収入が80%以上になって、はじめて「県」から「区」

 となり、住民もはれて「都会戸籍」を持つ「上海市民」となる。いまでは長江下流に浮かぶ崇明島のみが上海での唯一の「県」で、他はすべて「区」(16)となった。

  88年の秋、上海で開催した「日中中小企業経済シンポジウム」のとき、見学に案内された「シンドラー・エレベーター」の工場は、「閔行分区」にあった。90年代初期に認知される「閔行経済開発区」の前身、上海の“隠し田”であった。

  後日、オールド・シャンハイ、むかしは城壁に囲まれていた南市区はのちに上海万博の会場にもなった黄浦江の対岸に「分区」を持っており、文革時の“屯田兵”は金山県に星光(イスクラ)工業区を形成していたことを知る。

 

  「6・4」のあと、どのような経緯でまとめられたのか、いまだ明らかにされていないが、上海市の関係者が中央に上申していた「浦東開発」が当事者の具申をはるかに上まわる内容になっていたー「国有地の有償譲渡」である。日本を含む西側諸国は、またまた大風呂敷をと冷笑したが、華僑・華商の琴線に触れるものがあった。

  土地の有償譲渡が国有地にとどまらず、農村の集団所有の「耕作地」まで

 その対象となるのに二年も要しなかった。虹橋空港に隣接する農村での合弁契約の手付け金に人民元(現金)を要求され、その入手に苦労したことを思い出す(外貨兌換券が廃止されたのは95年1月である)。

 

  あれから二十余年が経った。

  農村であった「県」に合弁企業を設立、採用した地元出身の従業員もいまや集団所有の農地を活用、マンションや商・工業団地への出資者となって左うちわのご身分であるが、それでもマイカーでご出勤。工場の片隅で雑談にふける。数年後の退職金と年金がたのしみの、ゴッドマザーたちである。

  “隠し田”が金の卵になったのか、政府主導のベースアップに“骨抜き”になったのか・・・。

  

  「衣食足りて、礼節を知る」⇔「衣食足りて、尚、礼節を知らず」(了)

 

                 (2016年9月28日 記)