くに楽 2

"日々是好日" ならいいのにね

日々(ひび)徒然(つれづれ) 第四十二話

2021-01-07 16:29:41 | はらだおさむ氏コーナー

生かされて、生きる

      

 外出自粛が続いて、週二回整形リハビリに出かけるだけになった。

二日ほどはユ・チュウブで辻井伸行、加古隆、レ・フレールのピアノを聴き続けてみたが、それも疲れた。

 思い立って、二階の書棚を見つめる。

 並んでいる書冊は基本的には手に取ったはずだが、表題だけではほとんど内容は思い出せない。

 文庫本の棚から、つぎの三冊を取り出した。

 辰巳浜子『料理歳時記』(中央文庫)、平山郁夫『生かされて、生きる』(角川文庫)、安藤次男『古美術の目』(ちくま学芸文庫)。

 

 『料理歳時記』(昭和五十二年七月四版)

 なぜか、これが一番黄ばんでいる。

 裏表紙には、こう記されている。

 「いまや、まったく忘れようとしている昔ながらの食べものの知恵、お惣菜のコツを、およそ四〇〇種の材料をとりあげて四季をおってあますところなく記した、いわば“おふくろの味”総集編」

 あとがきを見ると、昭和37年から43年の七年間毎月『婦人公論』に連載、娘やお嫁さん、お手伝いさん、お友達などからガリ版でもよいからまとめてほしい、との念願がかなって、五年後「どうやら一冊の本にまとめ上がりました」。

 目次には春夏秋冬、四季折々の食材を使っての料理が満載されているが、あまり口にしたことはない。どうもこの本の黄ばみ方から見て、これは古書展などで手にして・・・戦中・戦後の食糧難の折、六人の子供を育てたおふくろの味を思い出そうとしていたのか・・・。 

 『生かされて、生きる』(平成十二年五月六版) 

これは第二部として司馬遼太郎との対談「日本文化のこころ」が掲載されていて、かなり記憶が残っている。のちに述べる。

 『古美術の目』(二〇〇一年八月初版)

 詩人安藤次男との出会いは学生時代手にしたルイ・アラゴンの訳詞が最初、以後かれの詩集や蕪村などの俳論集は書棚のどこかにあるはずだが、いまこの本に食指が伸びたのは、さて、どんな話だっけ、ということか。

 98/99頁に栞が挟んである。

 「真贋」というエッセイの数頁目、まだあと八頁ほど続く

 蕪村の俳仙画をめぐるその「真贋」のおはなしのよう、はじめから読み直すことにする。

(上図は逸翁美術館蔵)                   

真蹟を版下にして模写し、それを版木に彫る、江戸時代の印刷工程のどこで「真」「贋」の鑑定がなされるか、というムツカシイおはなし。蕪村について一家言のある安藤は「勘と経験にたよった真贋の極めというものを、私は嫌いである」と書いている。

 本文は『芸術新潮』(昭和四十五年十二月号)に「蕪村の俳仙図」と題して発表されたもの。

『生かされて、生きる』

 平山郁夫画伯は、わたしより四歳の年長者。

 15歳(旧制中学三年)広島市内で勤労動員中、被爆された。

わたしは国民学校五年の夏、縁故疎開中で教科書を墨で塗りつぶしていた。

わたしが画伯の作品に心惹かれるのは、井上靖の小説(「天平の甍」、「楼蘭」、「敦煌」)などよりずっとのちになるが、同じく西域に題材を求めても画伯には

求道のこころが貫かれている。

それはこの本のまえがきでも、つぎのように記されている。

 「私はもう一度この世に生を享けるとすれば・・・もう一度、玄奘三蔵のあとを追って仏教伝来の道を妻と二人で旅したい」

 わたしは一九五四年の春 第五福竜丸の水爆被災後平和運動に与し、のち国交未正常下の中国との「友好交流、友好貿易」に加わった。訪中は画伯より十年ほど早いが、憧れの敦煌など西域に足を入れたのは九十年代になってからである。

 画伯の生まれ故郷・生口島(現尾道市)を訪れたのはいつごろだったか。

まだ「しまなみ海道」(福山―今治)の橋が繋がっていないころ、同好の士数名とフェリーでまず無人島の「毒ガス島」へ。いまは安全性告知のため兎を放し飼いにしている・・・、が周辺海域では?大久野島(竹原市忠海町)の、その旧施設などを見学のあと、またフェリーで生口島へ。画伯の生家に展示の作品は、その何年かのちに訪問した佐川美術館(滋賀県守山市)よりは少なかったように思えた。

 先生は一九九二年から二〇〇八年まで、十六年の長きにわたって公益社団法人日本中国友好協会全国本部の会長職を全うされた。

わたしも参加した南京城壁保存修復協力事業は戦後五十年を記念する日中間の友好事業で、平山会長が先頭に立って98年までの三年間「レンガと友好を積み重ねた」。

あのレンガの重さは、さらにさかのぼるその歴史を教えていた。

 

 二階の机と書棚に、画伯の二枚の複製画(プリント)が鎮座している。

 ひとつは「日中友好協会会長 平山郁夫」の署名のある、A5大の額縁入り、

これは北京・故宮内のひとつの建物、大極殿、ではないか?と思うが、どうだろうか。

「日中国交正常化25周年 97年9月27日」との日付、あと二年でその五十周年を迎える。

 もひとつは、ガラス縁に挟まれた絵葉書大の、砂漠を行くラクダの隊列。

 「日中平和友好条約35周年記念表彰 公益社団法人日本中国友好協会」とある。調印は78年8月12日のこと、35周年を迎えたこの二〇一三年、三月の全人代で習近平国家主席、李克強総理が選出されている。

 

 この本の解説―平山郁夫の素顔―を書いた原 孝さんは、つぎのように締めくくっておられる。

 <「生かされて、生きているんですよ、私は」

平山さんがよく使うこの言葉に、氏の人生観が凝縮されている、と私は思う>。

 わたしには、まだそう言い切れない私がいる。

                                                                        (2020年4月4日 記) 


日々(ひび)徒然(つれづれ) 第五十話

2021-01-07 16:24:54 | はらだおさむ氏コーナー

白 鳥

      

  拙宅の近在に小さな溜池がある。

  むかしはその崖下の田畑への用水池であったが、いまは一区画を残してすべてが宅地化され、防水池に転じている。

  わが家の庭の前後には小さな溝があり、それは丘の上から池まで繋がっているが、いま池に注ぐのはほぼ雨水のみ。このところ雨期を除いて池が満杯になることはなく、えさを求めて飛来する渡り鳥も少なくなった。

  先日は鷺の一種か、一羽だけ飛来してきたが仲間を呼ぶこともできないと三日ほどで姿を消した。下水も流入していたむかしは鶴の親子も姿を見せていたが、どうだろう、池浚いで道端に放りだされた鯉などが跳ねる姿も数年はお目にかかっていない。

  いま コーラスCで『ふるさとの山に向かひて』(詩:石川啄木 作曲:新井 満)と『ひたすらな道/白鳥』(詩:高野喜久雄 作曲:高田三郎)を練習している。

  後者『ひたすらな道』は「姫」「白鳥」「弦」の三曲、同じ作詞・作曲者で組まれている。「姫」は昨秋の演奏会ですでに歌い、この作詞家:高野喜久雄の幻想的な詩にはお目見えしているが、以下に触れる「白鳥」の詩句・作風には、いまだなじめないものがある。

わたしも若いころ作詩に芽生え、その処女詩集『ふくらみ』ではつぎのような詩も書いている。

 

火 山 礫

 

     煙がきなくさく思えた。

     灰も何かいじましかった。

     あつい溶岩はまだ来なかった。

 

      死んだ火山礫を拾い集めた。

      記念は いらないと思った。

      ガラガラと くずれて 散った。

 

      おれの火山は死んだ。

      息の根をとめてやった。

      がれき(・・・)の底で何かが動いた。

                (1968年10月)

 

  自分ではそのときの思いはいまでも沸々とこみあげてくるが、これはひと様に説明するものではない、私家版残部の記念ものだ。

  しかし、いま練習しているのはプロの作詞家のもの。

  すこしネットサーフィンした。

  高野喜久雄(1927~2006)詩人、数学者(仏教徒)。

  「白鳥」はNコン昭和55年(1980)中学、高校(女声)の課題曲。

  作曲家の高田三郎氏はこの作曲集の最後に、以下のような解説をされている。

 

  激しい型の別れの詩である。

  我々は高みからの呼び声により、或いは自らの目標に従い、土地や事物や人から、また、ある精神状態からの別れをしばしば経験しなければならない。

  しかし、血みどろになって飛び去ってゆく白鳥も結局は行為の円環性から離れる事はなく、春の湖にまた戻って来る。

 

  ネットサーフィンしたら、CDでもあったのだろう、2012年投稿のユウチュウブ(山形西高校、女声)があった。

  きれいな声、そして♪切れる、切れる・・・♪の絶叫、最後の折れた足が見つかったときの嬉しそうな響き。

 

  だが、理屈で詩を捉えてはならないと頭でわかっていても、白鳥は「眠り過ぎる」ことはない、そんな鈍感な渡り鳥はいない、とわたしの直感がまたまたネットサーフィンをさせる。

  「渡り鳥は、脳の半分ずつ交互に眠る=半球睡眠」が定説、脳波測定実験で最長数分は眠ることもあるらしいが、それは飛行中。「眠り過ぎ・・・」 「両足は固い氷の中」ということはありえない。

  数学者でもある作詞家が、仏教の輪廻の教えを表現するのに渡り鳥の回帰性に着目、クリスチャンの高田先生もそれを納得されたのか・・・。

 

  歌は理屈ではないと承知しても、これは困った!

  氷ではなく、人間が仕掛けた罠にひっかかったとしたら、これは理屈に合うが、はて、さて・・・・・。

                

 白鳥は、いまでも冬になると伊丹・昆陽池に群れ集い、その美しい群舞はバレー「白鳥の湖」を連想させる。スワン、鴻・・・とたどり、ユン・チュアンの『ワイルド・スワン』に思いつく。

 二階の書棚に土屋京子訳の講談社(上・下)一九九三年四月の、第8刷単行本があった。

 上巻の帯は「『大地』をしのぐ圧倒的なスケール」、下巻には「いつか誰かが言わねばならなかった現代中国の衝撃的な真実」と大きな字が躍っている。

  著者のユン・チュアン(張 戎)はエピローグで次のように語っている。

  「私は、現在ロンドンに住んでいる。中国を離れてから十年のあいだ、過去のことはなるべく考えないようにしてきた。一九八八年になって、母がイギリスに訪ねてきた。そのときはじめて母の口から、母が生きた時代、祖母が生きた時代の話を聞いた。母が成都に帰って行ったあとで、私はひとり部屋にすわって記憶を呼びさまし、残っていた涙で心をぬらした。そして、この本を書こうと思った」(中略)「一九八〇年代の経済改革の結果、中国の人々の生活水準はかってなかったほど向上した。・・・毎日毎日、中国に投資してくれそうな外国人を招いては贅をつくした饗応がくり広げられていた。ある日、そうした宴会を終えて出てきた客人のなかに、母は見おぼえのある顔をみつけた。・・・それは、四十年前に女学生だった母を公安に通報して逮捕させた、国民党スパイの政治主任であった・・・」(一九九一年五月)。

 

  著者のあとがきは、政治の世界でもかたちを変えた「輪廻」~「回帰性」のあることを示している。

  文革の後期 古参党員の父が直訴した毛沢東への手紙が原因で「精神病者」にされ、最後は医師の手当も遅れて“心臓麻痺”で死絶する。

  昨年末 はじめて新型コロナウイルスを告知した武漢の医師は、一時当局に拘束され、かれは若い妻と幼子を残して一月末に死亡した。

 

  歌の「白鳥」に戻ろう。

  詩人高野喜久雄の「世界」に疑念を挟むのは排し、作曲者高田三郎の前掲の「演奏上の注意」に再度留意したい。

  「はげしい型の別れ」と詩人のことばをとらえた作曲者は、それまでPPで流れていた調べを、mf飛び立とうと fもがく もがく と一気に盛り上げる。しかし、それは絶叫であってはならないだろう、苦痛と悲鳴、そして恐怖(そんな声が出せるかどうかわからないが、わたしたちは女学生ではない)。以下この注意を読み返しながら、練習を重ねていきたい。

  自宅待機がいつまで続くか・・・♪春よ来い 早く来い♪である。

                  (2020年3月2日 記)