“聖徳太子”のことなど
(本文では一万円札の写真がありました)
ツンドクのなかから 昨年の入院中に読み落としていた文庫本を拾い出し
た。
山本博文ほか著『こんなに変わった歴史教科書』(新潮文庫、平成二十三年
十月発行)。
「六・三制 野球ばかり 強くなり」と校舎も教科書もなかった“新制中学
第一期生”のわたしにとって、へぇ~そんなことがあったのと、知らぬことと
はいえその“歴変”には驚くばかりだったが、本書発案企画の山本博文先生ご
出生の1957年(昭和32年)は、わたしの社会人スタートの年・・・まさ
に隔世の感がする。
山本先生は東京書籍の中学校教科書の編集委員に平成八年度版から参画され
ている由だが、その経験を踏まえ、歴史学会での旧説が新説に改められるには
およそ三十年間の時間が必要であろうとの観点から、本書は昭和四十七(一九
七二)年と平成十八(二〇〇六)年の東京書籍刊行の中学校用教科書を取り上
げ、比較・検討を加えておられる。
わたしの初任給は一万円であった。
手取りは千円札九枚と税引き後のザラ銭が給料袋に入っていた。
聖徳太子像の一万円札が発行されたのは翌58年の12月だが、60年安保
で岸内閣が退陣、所得倍増政策を掲げた池田内閣が誕生、わたしも経済団体の
青年部で耳にした労働所得分配率を会社の数値に適用、企業内所得倍増の道筋
を提案していた。
64年2月に初訪中したとき、持ち出し外貨は500ドル(固定制@360
円)と制限されていて、4月末までの滞在費は腹巻に巻き込んでいた聖徳太子
さんになにかとお世話になった。 いつごろからか大卒の新入社員の初任給は20万円を超え、わたしのサラリ
ーもそれなりに増えていたが、ポケットの聖徳太子さんが長期滞留することは
なかった。
会員制の対中投資コンサル業を始めたころ 振込やカード決済が多くなったが、それでも訪中時にはキャッシュも財布に入れていることが多かった。
万札はいつの間にか福沢諭吉に替わっていた。
中国の紙幣は金額の多寡にかかわらずすべて毛沢東像オンリーである。
95年1月に外貨兌換券(FEC)が廃止されるまで外国人旅行者は人民元の
使用は認められていなかったが、地方へ行くと人民元のみしか利用できないこともあった。
90年代の後半 友人たち十余名とトルファンから列車とマイクロバスを乗り継いで砂漠を横断、中国最西端のカシュガルに行ったことがある。ホテルで両替、市内見学に出かけた。ある小百貨商店でショッピングのメンバーが支払いの100人民元が偽札と突き返され、ひと騒動。買い物はあきらめホテルのバーで同じ百元札を支払ったらセーフ。目には目を、というところだが、中国の偽札はこの高額紙幣百人民元のみが対象に頻発し、国際偽造団の暗躍との噂も罷り通る。
日本の一万円札の肖像が聖徳太子から福沢諭吉に替わったのは偽札が問題ではない。
上掲の山本先生の本によるとひとつは「聖徳太子像と伝えられる肖像画(東京都宮内庁蔵)」の可否、ふたつめは「歴史的事実と異なる伝承」により<死後の「聖徳太子信仰」と生前に推古天皇のもとで政治を行った人物を区別するために、現在では「聖徳太子」を「厩戸皇子」「厩戸王」と叙述し、「摂政」としない教科書が増えている」と解説されている(同書P56)。
今世紀に入って中国の改革開放路線は、北京五輪、上海万博などを起爆剤に、そのGDPはいつしか日本を追い越して世界第2位に定着、トランプの振り出した怪しげなカードに挑戦している。
先年久しぶりにチェックインした上海の定宿で、カウンターにエクスチェンジマネーの窓口がなくなり、友人の案内で街に出るともはや一人歩きは出来ないほどキャッシュレスの世界が展開していた。銀行よさようなら・・・は偽札氾濫の、毛沢東さん さようならになっていた。
日本は世界一キャッシュレスが遅れているそうだが、それは逆に日本の紙幣の贋札防止技術が長けていてコスト的に偽札つくりが対応できないこと(安全・安心)、狭い国土の隅々まで金融網のネットが張りめぐらされている(便宜性)など、中国の関係者から見れば日本の現金主義は文明的に優れていると羨望の眼で評価されている。但し、タンス預金は禁物、国際的な“オレ、オレ”詐欺グループが、あなたのへそくりを狙っていますよ!
(2018年9月25日 記)
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