あのひとの言葉を、ひとつ残らず
覚えていた。
優しい言葉も、熱のこもった言葉
も、さり気なく置かれたひとこと
も、ただの相槌でさえも。いいえ、
それは覚えていたのではなくて、
突き刺さっていたのだ。だから
わたしの胸は、あんなにも、痛
かった。
「俺が日本に戻ってきたと時には、
会ってくれますか」
「もちろんです。今度はいつ、戻
ってくるの」
「それはまだ決めてないんだけど
四十週間、朝から晩まで料理の勉
強をするんだ」
「四十週間というと、十ヶ月?」
十ヶ月というと、来年の一月。
「うん、それが終わったら、今度
は実習があって・・・・・・」
そのあとに、ひと呼吸置いて、あ
のひとは言った。
「桜木さんって、今、つき合って
いる人とか、いるの?俺はいない
けど」
はっきりと、わたしは答えた。
「いません」
十九歳の時に、片思いの恋を一度
だけ。あとは恋に恋してばかり。
臆病だった。勇気がなかった。
嫌われるのが怖くて、丸ごとの
女になれなかった。求めること
も、できないまま、まるで蛹の
ように、身も心も固くして。
それが、きのうまでのわたし。
あなたに出会うまでの、わたし。
ふたりのあいだを、沈黙が流れ
た。透明な砂時計の中を、透明
な砂がさらさらと、こぼれ落ち
ていくような、清潔な沈黙。
「そう、ないんだ」
あのひとはそれ以上、何も言わ
なかった。「つき合ってほしい」
とも、「つき合おうか」とも。
わたしも言えなかった。
だって、あしたはもう、遠く、
離れ離れになってしまう人に、
どうしてそんなことが言える?
茫洋とした海をあいだに挟んで、
東京とニューヨークに別れ別れ
になって、どうやって、つき
合っていったらいい?
カーテンの取りはずされた部屋
の窓から、見えていたのは、朧月。
滲んで、霞んで、今にも闇に溶け
てしまいそう。でもわたしはこの
想いを、このまま溶かしてしまい
たくはない。
受話器を固く、固く握りしめた
まま、わたしは思い出していた。
その夜、一緒にお酒を飲みなが
ら、語り合った親友の言葉。
佳代子は言った。ワインレッド
のマニキュアをきれいいにつけ
た細い指で、カクテルグラスを
弄びながら。
わえ、カノちゃん、教えて、
どうして人は人を、好きになっ
たするんだろう。
悲しくなるとわかってて、淋し
くなるとわかって、そんな恋
でも、平気で踏み込んでしまう
のは、なぜ。
恋ってそんなにすてきなもの?
だったらなぜ、恋すると、こ
んなにたくさんの涙が出るの。