上京で所用を済ませてふと北山を見ればちらほら紅葉・・
京で一番紅葉が早いと言われる雲が畑までちょっと足を伸ばした。
雲ケ畑(くもがはた)は、
北区北東部の山間地域に位置し、
かつての三つの村(出谷村、中畑村、中津川村)が雲ケ畑地域を構成、
京都市北区域の5分の1を占める。
悲運の惟喬(これたか)親王が
都をしのんで眺めるため山頂に桟敷(さじき)を作ったとされ、
北区最高峰の桟敷ヶ岳(さじきがたけ)や北限の石仏峠、
観光客だけでなくハイカーやサイクリストも多い。
賀茂川の源流域に沿い広がる雲ケ畑は、
近世まで朝廷や皇室との結びつきが強く。
主殿寮・仙洞御料(せんとうごりょう、上皇の所領地)として、
木材や鮎など、
端午の節句には菖蒲(しょうぶ)を献上する「菖蒲役」を務めていた。
薪炭や鮎などを朝廷に献上する供御人の活動地でもあった。
平安時代前期に、
時の権力者の圧力で皇位継承から遠ざけられた惟喬親王が、
隠棲して出家した場所としても有名で
雲ケ畑の村人に慕われた惟喬親王にまつわる話が数多く伝えられています。
明治中期から大正にかけて「御猟場」(ごりょうば)が設けられるなど、
都を東の京に貸してから後も
皇室とのかかわりを保ち続けてきました。
実際、弘仁年間(810年 - 824年)に山城国に編入されるまで、
この地は丹波国桑田郡山国郷に。
1874年(明治7年)に、
雲ケ畑地域の三つの村が合併して愛宕郡雲ケ畑村に。
1955年(昭和30年)に分区され、新設の北区に含められた。
名前の由来は岩屋山志明院ゆかりの薬王菩薩が降臨し、
疫病退散のためこの付近に薬草を植えた。
その草花の咲き誇り、香りたなびく様子が、
まるで「紫雲」のようであったとの伝承説がある。
他に、出雲氏の作った集落「出雲ケ畑」の「出」が取れたとする説も残っています。
雲ケ畑は賀茂川の水源地です。
従って、この地が汚染されると、
下流の京都御所、ひいては京都の街一帯に幅広くその影響が及ぶ。
そこで、雲ケ畑の住民はこの水を汚さないよう心得て生活。
昭和30年代までは、死者の埋葬(穢れとされていた)に際しても、
この地を避けて持越峠を越えた真弓集落まで運び、
そこで埋葬の段取りを済ませていた。
かつては、おむつをゆすぐこともできなかったという。
現在でも、地元では「手作り廃油石鹸」の使用を奨励、
生活排水をきれいに保つよう努力しているという。
雲ケ畑の森林は「水源かん養保安林」に指定され、
賀茂川の治水に貢献。雲ケ畑では、
雲ケ畑小学校に通う児童は減少し続け、
中学校では2011年3月末、小学校は2012年3月末での廃校が決定。
森林面積1795haを有する雲ケ畑だが、
林業専業世帯も数戸に減少。
林業の衰退により、
山林荒廃、土砂流出や貯水力低下をも招きかねず、
賀茂川に与える悪影響が懸念されている。
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