マッカーサーの最初の改憲方針
このような一連の平和・民主化政策は明らかに明治憲法と根本的には相いれない内容であり、明治憲法改正は不可避であった。
(A)マッカーサーの最初の構想―日本政府による改憲案の作成
日本政府の「ポツダム宣言」受諾に関するアメリカ側の回答及びアメリカ本国の「初期対日方針」にも示されているごとく、日本の政府形態は日本人民の自由意思に基づくことを原則としていた。したがって、マッカーサーは最初、憲法改正の必要性を示唆したが、改憲案作成は日本政府に委ねる方針であった。
一方、裕仁天皇は降伏文書調印(1945.9.2)の3週間もたたないうちの9月21日、内大臣に対して、憲法改正問題の調査を命じた。この一例の中にも、裕仁天皇の機を見て敏なるなる、例の政治的したたかさが改めて示されている。続いて、第2回天皇・マッカーサー会見(10月4日)において、マッカーサーは自由主義的な憲法改正の必要性をはっきりと述べた(豊下楢彦『昭和天皇の戦後日本』)。そこで、未だ明治憲法に基づく主権者であった天皇は、東久邇宮内閣・副総理格として近衛文麿に憲法改正案作成を命じ、同内閣辞任後の幣原内閣の時期には、近衛を内大臣府(内閣ではなく天皇の直属機関)御用掛として、改憲草案作成に当たらせた。これを補佐したのが憲法学者・佐々木惣一であった。但し、その改正憲法案は明治憲法の焼き直しにすぎなかった。
幣原内閣では、これと並行して、松本蒸治国務相を長とする憲法問題調査委員会が国民
には秘密裡に、改憲草案の作成を開始した。憲法問題調査委員会は甲・乙両案を作成したが、両案ともに天皇主権を基本とし、明治憲法の基本的枠組みを前提とすることには変わりはなかった。これらの近衛・松本2案が競合したが、近衛案が内閣ではなく天皇直属機関によって作成されていること、及び近衛は戦犯容疑者に該当すること、などに対してアメリカ国内や、日本でも幣原内閣の内部およびマスコミにおいて批判が高まり、マッカーサーは近衛の改憲作業を支持せずとして、これを葬った。いずれにせよ、繰り返して言えば、マッカーサーの最初の改憲計画では、まずは日本側に改憲案の作成を委ねるということであった。(岩本 勲)
(つづく)