地上を旅する教会

私たちのすることは大海のたった一滴の水にすぎないかもしれません。
でもその一滴の水があつまって大海となるのです。

秋の雨【日本における東方正教会、 最初の侍からドストエフスキーまで】

2013-11-05 15:09:01 | 今日の御言葉




兄弟たち、主が来られるときまで
忍耐しなさい。
農夫は、秋の雨と春の雨が降るまで
忍耐しながら、
大地の尊い実りを待つのです。

「ヤコブの手紙」 / 5章 7節



私たちのすることは
大海のたった一滴の水に
すぎないかもしれません。

でもその一滴の水があつまって
大海となるのです。


マザーテレサ
(『マザーテレサ愛のことば』より)




photo ニコライ堂(東京 御茶ノ水)
日本ハリストス(イエスキリスト)正教会の本山


★日本における東方正教会、
最初の侍からドストエフスキーまで

◆ボイス オブ ロシア 2013年10月31日 23:51




▲Photo: RIA Novosti


「日本人は深い信仰心を持つことの出来る民族である。これは尊敬する多くの日本人キリスト教徒の顔つきにはっきりとうかがえる。」日本に正教を「植えつける」ことに成功した初めての主教、ニコライ神父は日本滞在30年がたったときにこう書き付けている。正教には日本人の心に近い物が多くある。キリストの教える愛、自己犠牲、死者へ捧げる祈りがそうだ。
 

  日本における東方正教会の「初穂(最初の信者)」が現れたのは1868年。日本に渡ったニコライ修道司祭(ニコライ・カサートキン)が正教に入信したいと希望する3人の日本人に対して、極秘に洗礼を施したときだった。

    極秘、というのは、1869年まで日本は他の宗教を伝道することも、それを信仰することも固く禁じられており、それを侵した場合、死刑に処せられる恐れがあったからだった。だが、こうしたご法度も若い修道士に現れた最初の教え子たちをとどめはしなかった。3人のうちの1人は、函館の神社に神官として仕えていた沢辺琢磨だった。パーヴェルという洗礼名を授かった沢辺は後に正教の司祭となる。沢辺は実はニコライを殺そうとやってきたのだが、ニコライの説教にすっかり驚いてしまい、その忠実な使徒となり、後継者となったのだった。

 日本で初めて東方正教会の信者になった侍たちは東北出身者らだった。明治維新で、古い時代を代表してきた、こうした侍たちは路傍に捨てられたかのような生活を囲い、内面的には深刻な危機状態にあった。改革から逃れるため、侍たちは東北部に分け入っていったが、それでも祖国に仕えたいという真摯な気持ちを変えることはなかった。彼らはこの苦しい時代に自分を支えることのできる、なんらかの教えや理想を必要としていた。そこにこの若いニコライ修道士が現れたのだ。キリストの愛についてニコライの語る教えは、傷ついた侍たちの心を励ました。もちろん、侍たちが感心したのは、ニコライの人柄や人間愛、豪胆さもそうだった。正教は侍たちの間で急速に広まっていき、侍らは新たな教えやロシア人の聖職者について口々に語り始めた。そしてそうした侍らは次第に自分の出身地へと戻っていき、今度はその親類縁者らも正教の教えに帰依していった。

    日本で最初の正教徒が出現し、東京ではロシア公使館付属地という条件で伝道が公式的に始まった頃には、ニコライの日本滞在も8年に及んでおり、函館のロシア総領事館付属教会で主任司祭として働いていた。この間、ニコライは日本語の学習を続けており、自分が半世紀にわたって生涯最後の日までとどまることになる国の歴史、文化、伝統を深く掘り下げていた。その国の言語、文化を深く知ることなしに、ニコライ大主教は正教の本質を日本人に伝えきることはできなかっただろう。ニコライのおかげで教会日本語が作られている。

    ニコライは信者らと共に福音書を訳し、教会の礼拝や祈祷文、そして多くの神学書も日本語になおしていった。日本人にはまったく馴染みのない非常に複雑な宗教的概念を伝えるために、正確な言葉を見つける作業は本当に大変な労働を要した。モスクワ大学、アジアアフリカ語大学のヴィクトル・マズリク教授はこれについて、次のように語っている。

   「ニコライ・ヤポンスキーは体系的に日本を研究したロシア人としては最初の人です。他のキリスト教の宣教師らとは異なり、ニコライは仏教、神道、儒教を研究しました。それはその民の精神的な生活を知らずにキリスト教を布教しても、何の結果も得られないことを知っていたからです。カトリックやプロテスタントの宣教者らは多額の資金を投じましたが、ニコライが投じたのは心でした。これは彼という人格のなした大きな功績です。ニコライは病院、孤児院、学校を建てていますが、そうした施設から後に有名なロシア文学の翻訳者らが育っていきました。半世紀の間にニコライは、他の宣教師ら全員を束ね、彼らが数世紀をかけて行ったことあわせても、それ以上のことを成し遂げ、これによって日本中のキリスト教信者全員の尊敬を集めました。日本人は聖ニコライを偉大な日本国民だととらえています。ニコライは宣教師や研究者のみならず、腕のいい外交官でもありました。なぜならば、ニコライは日本とロシアが最も複雑な関係にあった時期に、1905年に日本に残ることのできた唯一のロシア人です。これを可能にしたことで、彼は第1の権威者となったのです。」

    露日戦争の時代の聖ニコライの行いは特筆すべき大きな勲といえる。ニコライは祖国を愛していた。だが日本の敗北は望まなかった。平和のために祈りなさいと信者を祝福し、ロシア人捕虜らへの支援に自分の努力を集中した。終戦後、戦った二つの国の間の友好関係はあまりに迅速に回復されたが、これにはニコライの功績が大きい。露日戦争後、ニコライ堂の名で有名な東京復活大聖堂が、そして全国各地に約200もの正教会寺院が建立された。ニコライ堂は歴史的建築物となっている。また正教会の共同体も260を越え、およそ3万4千人の信者、43人の聖職者、116人の布教者を集め、神学校、学校6校が開校されていたほか、通訳者協会も2つの出版社も抱えていた。

    ニコライ大主教が1912年に死没すると、彼に代わって日本における東方正教会、日本ハリストス正教会を率いたのはセルゲイ・チホミロフ府主教だった。セルゲイ府主教の率いた日本ハリストス正教会は苦しい試練の時代を味わった。1917年に社会主義革命が起こる。これは本国からの宣教へのあらゆる金融支援を損ねただけでなく、正教を信仰する大国、ロシアという手本を台無しにした。ロシアに登場した新たな政権によってロシアのあらゆる宗教組織を代表する人々は苦しんだ。日本の正教会は自活の道を踏み出し、宣教活動、啓蒙活動も著しく縮小された。このため、1920年代、多くの教会が閉鎖されてしまった。

    1923年、日本の正教会をもう一つの試練が襲う。関東大震災が起こり、東京復活大聖堂、ニコライ堂が大きな損壊を受けたのだ。図書館や宣教のための建物は全壊した。セルゲイ府主教は大聖堂再建のために資金を集めようと、日本全土を、そして近隣諸国を束ね、心血を注いだ。

    1920年代の日本正教会は独立独歩で生きぬく力を発揮したが、そんななかにあってもモスクワ総主教座とのつながりを絶ったわけではなかった。これはロシア正教会が、1917年の革命以降、ロシアをあとにした亡命者らによって設立されたロシア正教在外教会と袂を分かったときでさえも同じだった。分裂の原因は在外教会の高位聖職者らの立場だった。在外教会の高位聖職者らはモスクワ総主教座が反宗教的なソビエト政権の圧力に屈していると捉え、総主教座に非好意的な態度を示していた。ところが日本正教会は、モスクワ総主教座はソ連のなかで勇猛果敢に生き残りを図っていると考え、これを支持しつづけていた。日本の正教会にとっては、ロシアの正教会はつねに母体教会だったからだ。

    日本における正教会の歴史に詳しい横浜国立大学のエレオノラ・サブリナ教授は次のように語っている。

   「 日本正教会は正教の源であるロシアの正教会、そしてその聖職者らを信じ続けています。なぜなら正教の教えはロシアから伝えられたからです。日本では教会の分裂のことも、1917年の革命後、ロシアをあとにした亡命者らに在外ロシア正教会が出来たことも知られていました。日本人は在外教会の立場を理解せず、ソ連に残った正教会が迫害される様子に胸を痛めていました。日本でも19世紀には日本人司祭らも投獄の憂き目を味わっていたからです。聖ニコライの直弟子であったパーヴェル沢辺でさえ、監獄暮らしを経験しましたし、1870年代に布教の許可が出たあとも、迫害は続いていたのです。」

    第2次世界大戦中の日本の法律では、外国人は宗教団体の代表を務めてはならなかった。このため、セルゲイ府主教は日本正教会を管轄する権利を失い、引退を余儀なくされた。終戦の年、1945年、セルゲイは諜報行為を疑われ、特別高等警察(特高)に逮捕され、拷問を受けた。40日に及ぶ拘留を解かれ、出獄したセルゲイの健康状態はあまりにも衰弱していた。その数ヵ月後、セルゲイは永眠する。セルゲイに代わってニコライ小野帰一掌院が信徒を束ねることになった。ところが小野司祭が同胞であるにもかかわらず、信徒らは新たな主管者となった小野司祭の存在をすぐには認めようとしなかった。だが時がたつにつれ、ニコライ小野司祭は信徒らの尊敬を集めるようになる。

    平和なときが訪れた。だが、日本正教会にとっては平和なときではなかった。それは日本正教会が日本における米国の国益の人質的な存在になってしまったからだった。1946年、ニコライ小野主教と日本の主教管区監督局はモスクワ総主教座のアレクシー1世に対し、日本の正教会と母体教会との合一を要請する。この問題はほぼ解決されたかに思われたが、ニコライ小野主教が突然要職を解かれ、合一の話は取りやめになってしまった。これが起きたのはマッカーサー元帥を頂点とする米国のGHQの圧力が原因だった。マッカーサーは日本正教会に自分の腹心の米国のヴェニアミン主教を押し付けた。ヴェニアミン主教はロシア正教会によって作られた、いわゆる米国府主教座を代表していたが、この府主教座は後に、母体であったロシア正教会とは分離してしまう。こうした米国の影響がなくても、日本の正教徒は、そのほとんどがヴェニアミン主教を頂点とする米国府主教座に入った。ただニコライ小野主教とアントン高井司祭の率いる少人数のグループのみがモスクワ総主教座に忠実な立場をとり続けた。これは大体が北海道と東京の信者たちだった。

     サブリナ教授はさらに次のように語っている。

   「ニコライ堂が建つ丘のふもとにはプーシキン学校がありました。このプーシキン学校には外交官の子息らが学んでいたのですが、学校の建物のなかに、北米の管轄に入ることを拒み、モスクワ総主教座ととどまろうとした信徒らのための礼拝の場がしつらえられました。」

    日本正教会の2つの流れは、米国占領政府が、モスクワ総主教座とのやりとりを様々に妨害しようとしてきたにもかかわらず、長い間、和解しようと試みてきた。だが母体教会との合一はやはり実現しなかった。1969年、米国府主教座とモスクワ総主教座の間に完全な和解が成立し、これに続いて日本の正教会を「自治教会」(アフトノモス)とすることが決まった。このとき以来、日本正教会は日本人の聖職者らが率いており、現在は、東京の大主教、全国の府主教のダニイル主代郁夫が日本正教会を代表する府主教となっている。こういった経緯があったものの、文書には日本正教会とモスクワ総主教座の関係は今日でも保たれており…と書かれている。

    さて、日本正教会は現在、どうなっているのだろうか? 現在、日本の正教徒はずいぶん増え、3万人を越す信者と2人の主教、22人の聖職者がいる。教会の数は72軒、そして神学校が1校あるほか、正教徒の団体、正教青年団体が活動しており、「正教時報」という雑誌が出版されている。礼拝は日本語で行われているが、用いられる言葉は耳で聞くだけではかなり理解に難しい。というのも聖ニコライとその使徒たちが礼拝と聖書を翻訳したのはまだ19世紀のことで、文法的にも、語彙自体も古典的な表現があまりに多いからだ。付け加えると、ロシア語で行われる礼拝も全く今の言葉からはかけ離れている。普通のロシア人でも、子どもの頃から祈祷や礼拝のテキストと馴染んでいなければ、それを理解するのはとても難しい。

    日本人の正教徒らは独自の運営を行っている。運営予算もきちんとたてられており、日本の正教徒らの持ち寄る資金を集め、それによって成り立っている。これはロシアの現状とは異なる。ロシアの教会も信者の持ち寄るお金で運営されているが、会計は不明瞭で、いくらお金があって、翌月はどうなるか、翌年はどのくらいあるかも把握されていない。今日は裕福なスポンサーが来るかもしれないが、明日は蝋燭を買うのにやっと足りるだけのお金しか集まらないかもしれない。ロシアの現状は日本のそれとは全く異なる。

    函館のハリストス復活教会のニコライ・ドミトリエフ司祭はこれについて次のように説明している。

   「信者ひとりひとりが、来年の寄付額をあらかじめ明らかにするので、教会はこれを元にして予算を立てます。日本人正教徒は決して裕福ではありませんが、きちんと定期的に寄付を行ってくれます。年に一度慈善バザーが行われ、新品の物品から要らなくなったものを売った収益金は困っている人たちや障害者リハビリセンター、老人ホームなどの社会施設に送られます。」

    正教会の一員となるためには洗礼を受けねばならない。洗礼を受けるためには福音書を学び、正教の信仰の基礎を知って、礼拝に来なければならない。これは親が正教徒であり、子どものときに洗礼を受けた人には当てはまらない。日本の正教会の場合、信仰は親から子へと140年間、継承されてきたというケースが多いのだ。それでも信仰にいたるというのは、一人一人の人間の心の秘密であり、独自の歴史といえる。現在の日本人正教徒は、聖ニコライ・ヤポンスキーの洗礼を受けた侍の子孫らだけではない。これについて、函館ハリストス正教会のニコライ・ドミトリエフ司祭はさらに次のように語っている。

   「日本の信者は、まず昔からの信徒で、最初に入信した者たちの子孫がいます。日本人は誠実な民で、忠実な姿勢を保ち、それを他にも伝えていきます。次に信者となった人たちは、いわゆる「頭で考えて」きた人たちで、ロシア語を学び、ドストエフスキーと衝撃的な出会いを経験し、正教会に通うようになって、信者となったケースです。セルゲイ・ラフマニノフの教会音楽を聴いて、またロシアの宗教絵画を目にして、それから信仰にいたったという人もいます。次のグループは「偶然」に信者になった人たちで、散歩していたら、教会の灯りがともっているのが見えたので、入ったら気に入ってしまい、そのまま信仰の道に入ってしまったというケース。こういう人たちに、どうして正教を選んだんですか、とたずねると、説明はできないんですけど、ここにはなにか本物のものがある、ここには神様がいるって感じるんです、と答えますよ。」

    日本人には、入信の理由に、正教会にくるとひとつの家族のなかにいるように感じるからと答える人もいる。これがまさに互いを兄弟姉妹と呼び合う正教会の魅力なのだ。

  (東京復活大聖堂教会の水の輪混声合唱団と函館ハリストス正教会の聖歌隊に、番組内での日本語翻訳の聖歌の音声使用許可を頂きました。末筆ながら感謝申し上げます。)

(31.10.2013, 23:51)



▲谷中にあるニコライ・カサートキン司祭の墓 (東京 日暮里)
http://oedo.houkou-onchi.com/yanaka/yanaka6.htm


【今日の御言葉】