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『「エンタメ」の夜明け』

2023年05月21日 23時00分00秒 | 書籍関係

「エンタメ」の夜明け

[書籍紹介]

日米3人のエンタメ・プロデューサーの物語。

一人は小谷正一
正しい読み方は「まさかず」だが、
周囲の人は親しみをこめて「しょういち」と呼んだ。
1949年、パシフィック・リーグの創設に深く関わり、
1951年、日本初の民間ラジオ放送を興こし、
1961年、電通のラテ(ラジオ・テレビ)局長を務め、
1970年の大阪万博でいくつかのパビリオンのプロデュースを手掛けた。

一人は堀貞一郎
電通時代の小谷の部下で、
1960年代、「シャボン玉ホリデー」「11PM」の立ち上げに関わり、
万博では小谷の片腕として活躍。
後に、ディズニーランドを浦安に呼ぶ
陰の立役者となった。

そして、3人目は、ウォルト・ディズニー

見えない因縁の糸で結ばれた
この3人の物語を通じて、
読者は、
わが国のエンタテインメント・ビジネスの草創に立ち会うことになる。

というわけで、
話は1974年12月1日、
ウォルト・ディズニー・プロダクションズの経営陣首脳6人が
羽田に降り立つところから始まる。
会長、社長、副社長4人、
副社長の中には、遊園地担当副社長を含む。
何をしに来たか、
ディズニーランドの日本誘致の会社をどこにするかを決めるためだ。

当時、誘致の話は世界中から18カ所のオファーがあった。
日本は、その一つ。
誘致を意図する企業は二つ。
一つは三菱地所、もう一つは、三井不動産系列のオリエンタルランド。
三菱と三井の対決だ。

6人の来日は、この2つからプレゼンを受けることが目的だった。
プレゼンは両社2回ずつを予定していた。

三菱の案は、富士山麓に建設する案
三井の案は、東京湾の埋立地・浦安に建設する案

現地の富士山麓を案内した三菱のプレゼンに、
ディズニー側はあまりやる気を感じなかった。
対して三井のプレゼンは、対照的に違った。
関東圏の巨大な地図で浦安へのアクセスと人口動態を示し、
東京の主要な街が全て浦安から20キロ圏内に入ることを示す。
三菱案の弱点が都心からの距離にある、と睨んでいたからだ。
そして、現地案内のバスの中で、昼食を出した。
「遠慮なくご注文ください。何でもございますから」と言い、
6人の注文する飲み物を次々と出してみせた。
「あれはアイスボックスじゃなくて、マジックボックスだ」
とディズニー側は驚いた。
種明かしをすると、
6人の飲み物の嗜好を事前に調査していたのだ。
そして、昼食は、帝国ホテルのシェフに作らせたステーキ・ランチ。
和食にそろそろ飽きた頃だろうと、
アメリカ人の定番ランチを、しかも極上の牛肉で用意した。
浦安では、まず市役所につけて、
子供たちがアメリカ国旗を振る歓迎。
これも、当時、ディズニーがカリフォルニア州で
手がけたスキー・リゾートが
住民の反対で頓挫したことから、
地元民の歓迎ぶりを見せたのだ。
(この部分の記述には間違いがある。
「市庁舎」「市長」と書いてあるが、
当時の浦安はまだ「町」の時代。
浦安が市政に移行するのは、1981年である。
浦安市民だからこそ、指摘できる間違い)
その後、埋立地を一望する高台に案内して、
予定地を見せる。
(この「高台」とは、私の住むマンションの向かいにある
中央公園の「浦安富士」のことだろう。
埋め立ての際、まっ平らな埋立地に多少の高低差は必要と、
土砂を運んで、人工の丘を作ったのだ。)
その後、一行をヘリコプターに乗せて、
東京駅上空へ。
ヘリなら6、7分。
改めて都心への近さをアピールするものだった。
浦安に舞い戻った一行は建設予定地を視察。
実はオリエンタルランドの社員は
総出で数日前ら海のゴミを拾っていた。

ディズニー側は三井のプレゼンに満足し、
後に予定していた2度目の三菱のプレゼンをキャンセルして
三井に決めたという。

このディズニー側の知りたいことを
きちっと網羅したプレゼンの差配をしたのが、
堀貞一郎だった。

と、紹介文としては長くなったのは、
この話、全く知らなかった、初めて聞く話で、
そんなことがあって浦安に決まったのか、
と少々、興奮したからである。

この後、堀貞一郎と、
その師匠である小谷正一の話に移る。
テレビ草創期の数々の逸話は、ここでは省略
小谷正一の数々の逸話も省略。
このブログは「長い」と苦情をもらっているので、
一部省略。
ただ、小谷が新大阪新聞時代にプロデュースした宇和島の闘牛の興行
西宮球場で開催して、
雨にたたられて失敗した話は触れておく。
というのは、この経緯を小説にした人がいるからだ。
毎日新聞時代に小谷と同期入社の井上靖
この顛末を描いた「闘牛」は、1950年の芥川賞を受賞した。
あと、まだ国交が回復していないソ連から
バイオリニスト、ダヴィッド・オイストラフを招聘して
コンサートを開く話も面白い。
これも井上靖は「黒い蝶」という小説にしている。

そして、大阪万博。


筆者はこう書く。

日本では大阪万博を契機として、
それまでは年寄りの大御所に回されがちだった
デザインやイベントの仕切りの仕事が、
30代前半の若い世代に回されるようになり、
クリエイティブの世界で
世代交代が急速に進んだ。

小谷と堀は二人三脚で住友童話館パビリオンを運営する。


小谷は、準備のため視察したディズニーランドに魅せられており、
「ディズニーランドを日本にもって来られたら・・・」
と何度も口にしたという。

そして、話は東京ディズニーランドに戻る。
堀貞一郎は電通に籍を残したまま、オリエンタルランドの常務に出向。
元々オリエンタルランドは、
浦安の埋め立てのための会社だった。
埋立地払い下げの条件に、
「県民が楽しめる遊園地を造る」という条件があった。
その遊園地が東京ディズニーランドとして結実するためには、
様々な人がバトンを受け継ぐ。
まず、京成電鉄社長の川崎千春
渡米した折、ディズニーランドを訪れた川崎は、
「こんな夢の世界を日本の子供にも体験させてやりたい」
という思いから、招致を本気だ考えるようになる。

浦安の漁師の漁業権放棄を半年でまとめあげた高橋政知(まさとも)。
先祖代々守ってきた漁場を放棄してくれた
漁民1800人のひとりひとりの家を回り、
高橋はこう言った。
「あんたの海をいたずらに犠牲にはしない。
ここに必ず立派も遊園地を造ってみせる」

そして、堀貞一郎。
当時、「ホーンテッドマンション」「カリブの海賊」「イッツ・ア・スモールワールド」
の3つだけをディズニーから買い受け、
他は独自の遊園地を作る案があったが、
堀はフロリダのディズニーワールドを視察して、
3つだけ買うのではなく、
ディズニーランドを丸ごと誘致する案に転換する。

そして、作戦を練り、
冒頭のプレゼンの指揮を取る。

開園4日前のオープニングセレモニーに招待された人の中には、
手塚治虫の姿もあったという。
小谷正一もいた。
その昔、堀は「小谷さんのようになりたい」と口にしていた。
それについて、小谷はしばしば
「堀クン、俺にはまだまだだぞ」と言っていた。
招待日、堀の案内で、シンデレラ城のスロープを歩いていた時、
途中で立ち止まった小谷が堀にこう言う。
「きみ、いつの間にか、俺を越えたな」

ここを読んだ時、不覚にも落涙した。

筆者は、こう書いている。

ディズニーランドの出現ほど、
日本の行方を変えたできごとはなかった。
ディズニーランドを一度でも体験した若者は、
町の商業施設や飲食施設にも、
ディズニーランド並のデザイン・レベルを要求するようになった。
おかげで、日本のあらゆる店のデザイン・レベルが急速に向上した。

筆者の馬場康夫氏は、
ホイチョイ・プロダクションズの代表として、
映画「私をスキーに連れてって」(1987)を作った人。

ついでながら、
堀は美声で、テレビで映画解説などをしており、
「ホーンテッドマンション」の案内役「ゴースト・ホスト」の声を担当している。