テレビで西欧の教会を紹介していた。カーンカーンと高い鐘の音と厳かな賛美歌が流れていた。
茶事では、後入の前に銅鑼を使う。この銅鑼、ぼーーんと深く低い音。寺院で聞く鐘に似て心に染み渡るようで、好きな瞬間である。
茶道具―銅鑼―
http://blog.goo.ne.jp/m-tamago/e/b216b2d2976342c3465d7f41b3f48d94
仏教寺院の鐘の音は、世界の鐘の音の中でも低く、土に還された霊の鎮魂の意味を持っている。一方、キリスト教会の鐘の音はかん高く、霊を呼び戻すために使われる。
世界で一番低い人間の声は、チベットラマ僧の読経の声で、それは地震前の地鳴りにも似ていると聞いていた。先日、生のチベット僧の声明(読経のこと)を聞く機会に恵まれ納得した。
(砂曼荼羅 http://blog.goo.ne.jp/m-tamago/e/3cc0f4f069917ef1134446daaa5e7815)
一方、人間が出した一番高い声は1921年に死亡した、幼児期に去勢されたある男性の声。ジェット機の金属音のような声だとか。今も西欧では賛美歌を歌う聖歌隊メンバーは変声期が訪れる前の男児に限られている。
このように三途の川を渡って彼岸に行き、輪廻することはあっても一度は土に帰り、二度と肉体の再生することのない仏教と、霊の再生を願い、復活を信じて身体を保存したまま土葬にするキリスト教では、鐘の音や祈りの声が違ってくる。
仏教は地に向かい、キリスト教は天に向かい、音を出す。この考え方と音の違いが仏教はしっとりと落ち着いた(ある意味暗い)印象、キリスト教は希望の感じられる(明るい)印象を与えるのだろう。日本人が洋風の結婚式やミサに憧れるのはこの明るい印象ゆえかもしれない。
いずれにも良さがあり、お互いを尊重しバランスをとって存在できれば一番いい。こんなところにも陰陽を見た気がする。
日本文化は当然のことながら神道や仏教をベースにできており、民族的にも農耕民族として自然に帰依する傾向が強い。美術芸術の分野でも自然と融和するわびさびや余白(空間)の美がもてはやされる。
西洋文化はキリスト教ベース、狩猟民族の彼らは移動し、他の領域へ入り、狩ることで生きてきた。美術的にも隅から隅まで余白を残さずに飾りつくす傾向があるといわれる。
宗教や生業はひとつの倫理的規範に通じ、この規範がその社会の文化や様々な考え方に反映されていてなんとも興味深い。
茶道は仏教(禅)をベースにしている。自然に感謝し、二度とまみえることのない今を大切にする。やはり日本人で茶道を学ぶ私には寺院の鐘の音が心地よい。若い頃はキリスト教や西洋文化に憧れたが、年齢を重ね、益々仏教や東洋文化の良さ、深さを感じる。西洋文化にはもちろん興味があり、海外旅行や美術館など足を運ぶ。西洋文化に触れると、いいなぁと思うと同時に、東洋文化ではどうかを考えるきっかけとなり、互いが相乗効果を生んでそれぞれの理解が深まる気がしている。
後入で銅鑼が鳴る、寺院で時の鐘を聞く、心癒される幸せな瞬間である。
茶事では、後入の前に銅鑼を使う。この銅鑼、ぼーーんと深く低い音。寺院で聞く鐘に似て心に染み渡るようで、好きな瞬間である。
茶道具―銅鑼―
http://blog.goo.ne.jp/m-tamago/e/b216b2d2976342c3465d7f41b3f48d94
仏教寺院の鐘の音は、世界の鐘の音の中でも低く、土に還された霊の鎮魂の意味を持っている。一方、キリスト教会の鐘の音はかん高く、霊を呼び戻すために使われる。
世界で一番低い人間の声は、チベットラマ僧の読経の声で、それは地震前の地鳴りにも似ていると聞いていた。先日、生のチベット僧の声明(読経のこと)を聞く機会に恵まれ納得した。
(砂曼荼羅 http://blog.goo.ne.jp/m-tamago/e/3cc0f4f069917ef1134446daaa5e7815)
一方、人間が出した一番高い声は1921年に死亡した、幼児期に去勢されたある男性の声。ジェット機の金属音のような声だとか。今も西欧では賛美歌を歌う聖歌隊メンバーは変声期が訪れる前の男児に限られている。
このように三途の川を渡って彼岸に行き、輪廻することはあっても一度は土に帰り、二度と肉体の再生することのない仏教と、霊の再生を願い、復活を信じて身体を保存したまま土葬にするキリスト教では、鐘の音や祈りの声が違ってくる。
仏教は地に向かい、キリスト教は天に向かい、音を出す。この考え方と音の違いが仏教はしっとりと落ち着いた(ある意味暗い)印象、キリスト教は希望の感じられる(明るい)印象を与えるのだろう。日本人が洋風の結婚式やミサに憧れるのはこの明るい印象ゆえかもしれない。
いずれにも良さがあり、お互いを尊重しバランスをとって存在できれば一番いい。こんなところにも陰陽を見た気がする。
日本文化は当然のことながら神道や仏教をベースにできており、民族的にも農耕民族として自然に帰依する傾向が強い。美術芸術の分野でも自然と融和するわびさびや余白(空間)の美がもてはやされる。
西洋文化はキリスト教ベース、狩猟民族の彼らは移動し、他の領域へ入り、狩ることで生きてきた。美術的にも隅から隅まで余白を残さずに飾りつくす傾向があるといわれる。
宗教や生業はひとつの倫理的規範に通じ、この規範がその社会の文化や様々な考え方に反映されていてなんとも興味深い。
茶道は仏教(禅)をベースにしている。自然に感謝し、二度とまみえることのない今を大切にする。やはり日本人で茶道を学ぶ私には寺院の鐘の音が心地よい。若い頃はキリスト教や西洋文化に憧れたが、年齢を重ね、益々仏教や東洋文化の良さ、深さを感じる。西洋文化にはもちろん興味があり、海外旅行や美術館など足を運ぶ。西洋文化に触れると、いいなぁと思うと同時に、東洋文化ではどうかを考えるきっかけとなり、互いが相乗効果を生んでそれぞれの理解が深まる気がしている。
後入で銅鑼が鳴る、寺院で時の鐘を聞く、心癒される幸せな瞬間である。
(稽古は別ですが。)
茶道のよりどころを求めて、禅を学ぼうとしましたが、よくわからず、
凡人にはまだわかりやすそうな、
維摩経や法華経などの仏教の本を読むようになってしまいました。
しまいに、論語も読んでいます。
ということで、ブログも書くことがなくなってきている今日この頃ですが、
m-tamagoさんのブログは茶道の勉強の良い切っ掛けになります。
あなたはどう答えますか?
答えられるでしょうか・・・
日本で生活していると どうしても宗教との距離があるように思えてなりません。
それも“心の問題だ”と言ってしまえば
それまでなんですが・・・
私の“こころの旅”はまだまだ続きそうです!
キリシタン大名高山右近は利休の高弟でもあったということは興味深いところです。
そういうあたしは、プロテスタント。
(かなりのやんちゃくれではありますが・・・)
どんな宗教でも、隣人への思いやりや謙虚に生きるということは共通ではないでしょうか。
それはそれで、感激するところはあるのですが、
外に向かうのと、内に向かう違いでしょうか?
無宗教とはいえ、煩悩を絶ちたいと内省しながら、除夜の鐘の音を聞くのが私は好きです。
>最近、茶道に於いて、何を勉強したらいいのかわからなくなってしまっています。
そうですか。。。。色々本を読まれているようですね。すごい知識ですねー。
私など知らないことばかり、勉強することばかり、、、、フゥ。それでも気のむくままのんびりです。。。。いつまでかかるのやら。
>m-tamagoさんのブログは茶道の勉強の良い切っ掛けになります。
そう言って頂けるとうれしいです。これからも宜しくお願いします。
それに神仏習合、様々な仏像の存在も外国の方にはわかりづらいかもしれませんね。
東洋の宗教は自然や生かされていること、そこに宿る魂に手を合わせ感謝するという大きな括りなのかなあと思っています。
私の“こころの旅”もまだまだ続きそうです!
そうですね、茶道もキリシタンと関係がありますよね。
ゆみやんさんはプロテスタントなのですね、祖母と同じです。
>どんな宗教でも、隣人への思いやりや謙虚に生きるということは共通ではないでしょうか。
そうですよね。人として生きる為に大切なことはどの宗教であっても同じはずですね。なのに人は戦争をする、悲しいことです。
>外に向かうのと、内に向かう違いでしょうか?
そうですね、キリスト教と仏教・神道では印象は正反対ですよね。
>煩悩を絶ちたいと内省しながら、除夜の鐘の音を聞くのが私は好きです。
私も除夜の鐘を聞く時は、去る年に感謝し、来る年に新しい願いを篭め、静粛な気持ちになります。今年もあっという間に年末が来るんでしょうね。。。。
ヨーロッパ人の大半は農耕民族です。
ヨーロッパは、日本よりも古い時代から農業が盛んでしたし、
今でも日本よりも食料の自給率が高いです。
大昔のことを言うのなら、日本も縄文時代は狩猟民族でしたし、
現在でも、アイヌ民族、琉球民族は狩猟民族的要素を残しています。
ヨーロッパで肉食が多いのは、
狩猟によるものではなくて牧畜が盛んだからです。
私が思うに、地に向かうというのは、この地球は人間、生物に託されたものと考えた方が・・・
この地を荘厳して行こう~という決意と祈りみたいに思えばな~
キリスト教は天上の神を賛嘆して。
でもイメージ的には仏教は暗いよな~(ーー;
仏教が死んだ人にばっか、血道を上げていた結果か?
キリスト教会の結婚式に走るのもわかる(笑)