今年最後の「水曜どこでしょう」、丸森町にある斎理屋敷に行ってきました。
丸森町は、角田市との境にあり、阿武隈川沿いの113号線を走っていると、
「おらほの角田さ、また来てけらいん」 (私達の角田にまたきてくださいね)の看板があり、
少し行くと今度は、「よくござったな 丸森」と出てきます
斎理屋敷。昔、大金持ちだった商家さんが遺してくれた、蔵やお屋敷の郷土資料館です。
今から250年前、嘉永元年に造られた店蔵の入口を一歩入ると2000坪の、不思議なセレブ空間が広がっています。
こちらは「嫁(よめご)の蔵」という名のついた蔵。 箱階段で二階へ上ると、嫁入り道具の並んだ部屋がありました。
新館は、斎理がもっとも栄えていた大正時代の洋風建築を取り入れて、平成10年に建てられました。
中に入ると、昭和初期の丸森の町の様子が、模型で見ることが出来ます。
私にとっては初めて見る、「歴史の模型」ですが、
年配の観覧者の方たちが「ああこれ」「懐かしいなあ!」と口々に仰っているのが印象的でした。
「あの頃はよかった」と言える時代を持っていること、それはとても幸せなことなのではないかと思いました。
ちなみに、見出しの女性の写真は、大正時代に一番の売れっ子だった丸森町の芸者さん、丸子さんです。
店蔵の二階はレストランになっていて、美味しい定食を頂いてきました。
お店の内装がまたすごく素敵なのですが、あんまり写真ばかり載せても、これから行く人がつまらないと思うので、
ぜひ行って感じてください。とっても素敵なお店でした。
そして店蔵に隣接する「こだわり屋」さんで、斎理小判焼きを買って帰りました。
113号線を走っていると、行きの「よくござったな 丸森」の反対側、
「まだこらいん 丸森」 (また来てね)がありました
丸森の人たちは、穏やかでのんびりしていて、優しい。 どれだけ優しいかと言うと、
車で信号待ちをしていた時のこと、焼きたての小判焼きがあまりにもいい香りしてるので、
私がくんくんと嗅いでは恍惚に浸っていたところ、ハッと気づいたら信号が青に変わっていた。
それも、私の前に停まっていた車がずーんと向こうまで、もう見えないくらいになっていたのにも関わらず、
私の後続の車が誰一人、「プッ」と鳴らさなかった、 くらい優しいのです。
すぐ後ろは、軽トラに乗ったおじいちゃんでした。
福島県は自主避難の住民、避難しなかった住民一律に賠償する、との指針が発表されましたね。
子供と妊婦40万、それ以外の人は8万、という金額に耳を疑いましたが、(特に、8万のほう。安…)
自主避難者、滞在者それぞれの苦痛が認められたことは、良かったと思います。
一方、今日訪れた丸森町は、福島県の伊達市と相馬市に挟まれており、
原発からの距離も近いですが、賠償の対象になっていません。
でも丸森町の、のんびりとおだやかな人達をみていると、
外のひとたちがどんなに、「もっと怒れ!」と声を荒げても、それがどんなに現実的でないことかがわかります。
福島の人たちにも同じことが言えたと思います。
そんな優しい人たちがあげた声は、よほど耐えかねた上でのことに違いない、ということも。
原発の問題はとても入り組んでいて、「原発反対」のひとつだけをとっても、
無関心層を考慮に入れなかったとしても、意見が完全にひとつに一致することがありません。
それぞれの立場、思いがあって、誰かが「正解」を知っているわけではない。
答えのない難問の中で、一人ひとりが自分で考え、自分で答えを出さなければならない。
ただ、原発事故さえなければこんなに苦しい境遇になっていなかったことだけは、確かだと思います。
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