うちは各地転々と流浪しており、
行った先々であちこちめずらしいもの、めずらしい場所をみてまわる。山にも登る。
東北の山は自慢じゃないが結構詳しいし、九州の山も明日登ったら、16山め。
時々、自分がどこの人間なのかよくわからない、と思う時がある。
例えばいまは熊本にいて、地元のひとから、
「熊本人の私よりもよく知っている」と言われることがときどきある。
けど、ふと思った。
もごもごと、うまく説明できないところが案外、「ふるさと」なのじゃないか。
私は三重県で生まれ育った。
でも三重県のことを説明したまえ、と言われると、あんまりよく知らないし、
高校を出たらすぐ三重県を出たようなものなので、
車であちこち観光する機会もなく、聞かれても、もごもごしてしまう。
だけど、ひょっとしてふるさとってそういうものなんじゃないか。
観光雑誌に出てくるような、名所旧跡、名山や温泉、名産物、
そういったものには詳しくなくても、
生まれ育ったその土地の土のにおい、あの角を曲がると何屋さんがあって、
どこどこの家には犬がいて、あそこは昔火事があって、
小学校の理科の先生がよくみんなを連れて行ってくれた河原や、
友達とシロツメクサを編んで首輪を作った場所や、
転んで怪我をした場所や、好きな男の子を待ち伏せした場所や、
親と喧嘩して泣いた場所、部活終わりの夕陽の色、学校で流れていた音楽、・・・
そんなことをからだが覚えている。
だけど、名所旧跡についてはよくわからないから、もごもごしてしまう。
例えば三重県のことをよく知っている他県のひとの話を聞いたら私も、
「三重県で生まれ育った私よりもよく知っている」と感嘆するに違いない。
私が方々でそう言われるように。
だけど、「よく知らない」ことがふるさとなのだ。
よく知らないけれど、説明できないなにかを、言葉に出来ないなにかを、よく知っている。
南北に長い三重県の、私は自分の町のごく一部しか知らないけど、
そういうことを考えると、私はやはり、「三重県のひと」 です。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます