写真多め、長文なのでお暇なときにお読みください。
諏訪大社のことをよく調べもせずに行き当たりばったりで行くことになりました。
トップ写真は、諏訪大社上社本宮の社殿です。
中央道から八ヶ岳(やつがたけ)を望みました。
助手席から撮った割には運転席から撮ったみたいな構図で自分でも驚きました。
神話では、富士山と八ヶ岳が背比べをしたら八ヶ岳が勝ったことに腹を立てた富士山が八ヶ岳を蹴飛ばしたそうです。
おかげで八ヶ岳は山頂が8つに割れてしまったそうです。
富士山は、孤高で気位が高いという印象があるのはこのせいかもしれませんね。
到着したのは午後2時20分くらいで、すでに山影になっていました。
気温1度でしたから寒かったです。
1868(慶応4)年の付近の様子の絵図です。
この年、明治元年となり太政官令により神仏分離令が出ました。
そのため周囲にあった宿坊が無くなってしまったそうです。
入口御門から社殿に向かいました。
絵馬殿に立ち寄りました。
手前に柵があって中には入れません。
右端に砲弾型の記念碑がありました。
でも中に入れないので、いつの時代のモノかは分かりません。
絵馬殿にあるので、戦勝祈願の記念碑だとは思われますが、説明が無いのが惜しいです。
お正月準備が進んでいました。
御柱祭は名前を聞いたこともあるし、映像も見たことがありますが、御柱の現物を見たのは初めてです。
雷電爲右衛門(らいでんためえもん)の像がありました。
江戸時代の力士で、史上最強の力士と言われています。
信濃国出身だったと思い出しましたが、信濃国は広いのでどの辺りかは知りませんでした。
調べてみると現在の東御市出身、1769(明和4)年生まれ。
ああ、あの浅間山大噴火(1783(天明3)年)を経験している年代の人だったんだ、気が付きました。
この噴火では成層圏まで火山灰が舞い上がり、天明の大飢饉をもたらしました。
実はこの大噴火は世界的に影響をもたらしたと言われています。
1789年のフランス革命も、その前の数年間が異常気象による飢饉が発端で、浅間山大噴火もその一旦を担ったという説もあります。
さて、雷電の像の前にある手形は、実物大と書かれていました。
MIFさんが比べていましたが、高身長の彼でも遙かに及ばない大きさでした。
思わず縮尺が間違ってコピーしたのでは?と思うくらいでした。
私たちは入口御門の近くの手水場を使いましたが、この像の近くには湯気が出ている手水場がありました。
写真を撮り忘れましたが、温泉水の手水で、本当に温かかったです。
温泉水で手水とは、なんと贅沢と驚くとともに初めて見かけました。
たぶん青銅製で、昭和60年製作。
ちょっと意外なのは、元々塑像だったモノから型起こしをしているみたいです。
青銅製なのかはさすがに、コンコンと叩く訳にもいかず経緯は分かりません。
この目と鼻の先に諏訪市博物館がありますが、前日12月27日で今年の営業は終わったそうで今日は休館。
神社関係者はお正月準備で忙しそうだし、そもそもこういうことは神社関係者は意外と疎いです。
※私も神社の巫女バイトをしたことがあるので事情は承知しています。
こちらの狛犬ちゃんは、入口御門(回廊)下にありました。
こちらも青銅製のようですが、来歴がイマイチ分からず。
午後2時半過ぎなのに土俵ののり面が霜柱でビッシリです。
たぶんこの時間で凍っていて、しかも山影ですから、今日は溶けること無く明日に持ち越しでしょう。
なんと寒いのか、と驚くばかりです。
石畳の上も所々凍っていて、溶ける気配がありません。
木立の奥にある大きな屋根が入口御門です。
石垣も積み方がいろいろあって興味深いし、こんなに寒いのに苔がビッシリ生えていたり、もっと調べてから来たかったと心底思いました。
入口御門から右側にある坂を上ると石垣、しかもあまり古いようには見えないけれどなんだこれは…と思いました。
後で分かりましたが、どうやら高圧洗浄機をつかったのか、コンクリート部分などがキレイになっていました。
私は苔むした石垣も好きなので、あまりキレイになると違和感があります。
赤い楼門が印象的な法華寺です。
前述した宿坊はこのお寺さんの宿坊だったのでしょうね。
さてここの階段を上りました。
まだ午後3時前ですが、階段もその先も凍っていました。
吉良義周のお墓です。
この吉良義周、忠臣蔵で有名な吉良上野介(吉良義央)の孫です。
吉良上野介の長男が上杉家に養子に行き、その次男が義周です。
赤穂事件で結局18歳で吉良家を相続しますが、翌年討ち入りで、祖父(養父)義央が亡くなり、自身も面と背中に傷を負います。
結局、吉良家最後の当主となり、本人は諏訪藩お預かりになり、幽閉状態から21歳で病死。
今回フラッと諏訪大社を訪れるまで私は、ここに吉良義周のお墓が諏訪にあることを知りませんでした。
討ち入りで、吉良上野介(当時はご隠居さま)の跡取りが傷を負って、その傷が武士らしくない傷だったことでお家断絶になった、とは知っていました。
でもその後まで気にも止めていなかったのです。
ネット情報ですが、元々虚弱体質だったこともあり、面と背中の傷は確かに武士らしくないです。
せてめ小手や肩周りならそこまで責められないだろうに、背中は評判ガタ落ちだなぁ、と。
お墓の位置は本堂の後ろの高台です。
正面からは見えませんが、本堂をお参りすればお墓に頭を下げている形になります。
仮名手本忠臣蔵により、赤穂浪士の人気が不動のモノとなりましたが、吉良義周の不遇を思うと、静かな墓標ではありますが諏訪の方々も物悲しい気持ちになったのかもしれません。
ここから下社に向かいました。
途中、岡谷市や上諏訪駅前を通過しました。
街道の様子から、とても往来が盛んで賑わっていたことが伺えました。
酒屋や呉服屋の多さが、地域の豊かさを感じられるとともに建物が大正~昭和(戦前)のデザインのモノが多いのです。
その時代に諏訪湖辺りで盛んだったのは、時計製造や生糸かな?と。
そして日本酒「真澄」の看板を何枚も見かけました。
ああ、この地域の産業構造を知りたい、と興味が湧きました。
この街並み、観光客としてはとても魅力的です。
案内板に「下社秋宮」と書かれていました。
御神湯と書かれていて、ここも温泉水の手水場でした。
湯気が出ていて、ホントに温かい!
正面は神楽殿です。
最初はここが本殿かと思いましたが、本殿ほ右側の参道を進んだ先にあります。
神楽殿前の狛犬ちゃん。
台座に「忠孝」となる組み合わせは初めて見ました。
たいてい「奉納」か「奉献」が多いので、それだけでも見に来た甲斐がありました。
社殿にはとても分かりにくいのですが、象の彫刻がありまして、この象という彫刻もちょっと珍しいです。
ここでも御柱。
地域に根付いているんだな、と感じました。
秋宮があるってことは、春夏秋冬あるのか?などちょっと分からないことと、もう日暮れが近くなりどうしたものかとネット検索をしました。
すると下社春宮が1キロくらい離れたところにあることが分かりました。
下社春宮です。
神社前がL字に曲がっていて、元々山城かな?と感じました。
ここでも狛犬ちゃん。
ここは「奉献」の台座です。
3つの社の狛犬ちゃんは、だいたいデザインが同じで、胸板が厚くて、尻尾は小さめ、腰を落とした落ち着いていると共に勇ましい姿です。
ここでは菊の御紋が見受けられました。
そして斎殿は修繕中でした。
MIFさんは、これまで数々の寺社仏閣を訪れていますが、そこで修復作業で公開していない場面に出会っています。
もう日暮れが近くなり、ここから帰宅することにしました。
帰りは長野道岡谷ICから高速道路に乗りました。
岡谷IC近くから見ると、山が夕陽で赤くなっていました。
普段私が住む場所からは見られない風景なのでとても感動しました。
車中では、戦国武将の武田勝頼の話や私が初めて長野県に来たときはまだ岡谷ICまでしか高速道路ができていなかったこと等を話しました。
普段は早朝5時頃出発、夕方の渋滞時間前に帰宅することが多いです。
この日は帰宅が午後8時過ぎで、普段はなかなかこの時間帯まで出かけない私にはちょっと珍しく感じる風景も楽しみました。
つい、私は門限がある子どもかっと自分に突っ込みたくもなりました。
この日は、遠くまでドライブに連れて行ってくれたMIFさんありがとうございました。
車中でも話しましたが、今度はちゃんと調べてから再訪したいです。
そして、諏訪大社は、この3つの社の他に上社前宮というお社があることを帰宅してから知りました。
全部お参りする日はちょっと先になると思いますが、ホントに楽しかったです。