◻️165『岡山の今昔』岡山人(17~18世紀、井戸平左衛門)

2020-08-01 13:35:53 | Weblog
165『岡山の今昔』岡山人(17~18世紀、井戸平左衛門)

 江戸時代の享保年間には、西日本でも凶作による飢饉が相次いでいたという。そうした中で、大森代官として現地に赴任していた井戸平左衛門(いどへいざえもん、1672~1733)をまつった「井戸神社」(島根県太田市)内に建立されている顕彰碑(1872年設立)には、平左衛門の功績が刻銘され、その事績についての次の説明文が刻まれているとのこと。

 「時は徳川の中期将軍吉宗の頃、当時全国をおそった享保の大飢饉に石見銀山領二十万人民の窮乏はその極に達し、正に餓死の一歩寸前をさまよっていた時大森代官井戸平左衛門正明公は、食糧対策百年の計をたててこの地方に初めて甘藷を移入、その栽培奨励に力を注ぎ、一方義金募集・公租の減免を断行、遂には独断で幕府直轄の米倉を開くなど非常措置により、一人の餓死者も出さなかったというこの深い慈愛と至誠責任を貫いた偉大なる善政は、千古に輝き今も尚代官様として敬慕して公のみたまをこの地に祀り、その遺徳を永く顕彰している。」

 ここに「甘藷」(かんしょ)というのはサツマイモのことで、当時薩摩藩領内で栽培されていたのを伝え聞いた平左衛門が幕府に頼み込んで、種芋(100斤=約90キログラム)を手に入れたという。これより前の1731年(享保16年)に、彼は60歳にして石見国大森の代官(第19代石見銀山領代官職)に就任していた。翌年には、備中国笠岡代官を兼務するのであった。
 そして迎えた春以降において、西日本を襲ったのがウンカ発生などによる未曽有の稲など穀物の凶作に連なっていく。この時、代官の平左衛門がとったのは、様々な農民救済策であった。
 その極めつけとされるのが、後段に述べるように、甘藷栽培の奨励・導入と、豊かな者から募った資金で米を買って配給し、また陣屋の蔵を開く、年貢の減免などでの緊急救済であったと伝わる。その効果がいかばかりであったかは、彼の支配地内での餓死者がいなかったことで広く地域の人々に伝わる。

 ところが、翌1733年(享保18年)には、仕事先の備中笠岡の地で死んだという。これには、幕府の許可を得ないで蔵を開いたことで責任を取らされての自刃説と、病死の説とが拮抗しているようだが、確かなところは今日までわかっていないようなのだ。

 その彼は、武蔵野国の下級武士の家に生まれ、それから後に生家の事情によるのであろうか、井戸正和の養子に入る。1692年(元禄5年)には21歳で井戸家の家督を引き継ぎ、小普請組に属する。1697年(元禄10年)になると、表火番といって、江戸城内において火災の防御に当たる役職となる。その5年後には、一転、勘定役に昇進する。
 以来、30年ほどはその職に在ったという。この間の1721年(享保6年)には、日ごろの勤勉をたたえられ黄金2枚を贈られたとのこと。と、ここまでは、「まずは、めでたし」ということであったのだろう。
 その実直な仕事ぶりから、今度は60歳という、当時としては高齢にもかかわらず、石見代官に任命され、政務に励む毎日に没頭するのであった。まさに、第二の人生ともいうべき大仕事がここに始まった。それからの生きざまについては、例えば、笠岡市の成徳寺に墓、また井戸公園に見える顕彰碑文には、こうある。

 「井戸平左衛門は幕臣である。享保16年(1731)、60歳で石見国大森代官となった。翌年、備中国笠岡代官が病没したため、笠岡代官も兼務することになる。
 このころ、西日本一帯は雨やイナゴの大発生によって大飢饉となっていた。そこで平左衛門は幕府の命令を待たずに年貢を減免するとともに私財や官金を使って領民を救済し、餓死者を最低限にくいとめた。
 また平左衛門は幕府に願い出て薩摩から甘薯(サツマイモ)の種芋を取り寄せ、領民に栽培させて飢饉をしのいだため、いも代官、とも呼ばれている。
 享保18年(1733)笠岡の陣屋において発病し、ついに不帰の客となった。法名を、「泰雲院義岳忠居士」という。
昭和49年7月30日 笠岡市教育委員会」

 およそ彼の「希有」ともいえるく生涯は、このような次第にて、なんとも清々しい話ではないか。果たして、相当に異色の経歴であったにちがいないものの、特段の書き物などを残していないなら、なんとも惜しい。
 その分、一人その赴任地での代官にとどまらず、それを起点に稀代の名代官として、方々の地にて額に汗して働く人々の方々に顕著な影響を及ぼしたことでは、日本歴代の「大人物」の列に悠々加えない訳にはゆかないであろう。

(続く)

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◻️171の5『岡山の今昔』岡山人(18世紀、岡雲臥)

2020-08-01 10:00:39 | Weblog
171の5『岡山の今昔』岡山人(18世紀、岡雲臥)

 岡雲臥(おかうんが、1713~1773)は、江戸時代中期に活躍した医師だ。備中の窪屋郡倉敷村(現在の倉敷市)の生まれ。生家は「俵屋」だという。
 家を出て、京都で松岡恕庵(じょあん)に本草学を学ぶ。それと、堀元厚らに医学を学ぶ。家からの援助があってのことだろう。
 やがて、郷里の倉敷村にて、医業を開業する。珍しいのは、それでいながら、かたわら私塾をひらく。
 1769年(明和6年)には、地主、庄屋などの有力者などの協力をえて、「義倉」を創設する。彼らとともに出資し融通し合うことでの金融機関であったのだろう。
 それからは、数度の凶作があった。そして、かかる事業の幅広さにより多くの窮民が救済されたという。
 その事業にこめられた高い志は、近隣を越えて聞こえていたのであろう。ちなみに、現在の倉敷市本町の鶴形山、阿智神社の社務所の東には、犬養木堂が寄与しての「岡雲臥翁顕彰碑」がしつらえてある。
 それに、「初名は武韶、のち藤馬。字(あざな)は汝粛。別号に九畹」というから、名前にはなかなかの思いがあったのかもしれない。さらに儒学者としての心得も名高く、それでいて、とうやら、なかなかの好人物であったようだ。


(続く)

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