194『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、山上喜美恵)
山上喜美恵(やまがみきみえ、1898~1976)は、上道郡古都村大字宍甘(現在の岡山市)の生まれ。人力車夫の清水留吉と伊勢の長女であり、家計は貧しかったにちがいない。
小学校卒業後は、将来に備え、裁縫塾に通う。14歳になると、女中に出る。翌年には、帽子組み兼女中となる。
やがて、農家の長男東原猪久太と結婚し、3年目に男児を出産するも、1923年(大正12年)に離婚し、子を連れて実家に戻る。
それからは、一念発起して、助産婦になるために産婆足助に住み込む。1年間夜学にも通い、看護学や産婆学を学ぶ。また、キリスト教の洗礼を受けたのは、その頃ではなかったか。
1924年(大正13年)には、農民運動のリーダー山上武雄と再婚する。夫からの影響であろう、助産婦として働くかたわら、農民組合婦人部の組織拡大に奔走していく。
山上喜美恵(やまがみきみえ、1898~1976)は、上道郡古都村大字宍甘(現在の岡山市)の生まれ。人力車夫の清水留吉と伊勢の長女であり、家計は貧しかったにちがいない。
小学校卒業後は、将来に備え、裁縫塾に通う。14歳になると、女中に出る。翌年には、帽子組み兼女中となる。
やがて、農家の長男東原猪久太と結婚し、3年目に男児を出産するも、1923年(大正12年)に離婚し、子を連れて実家に戻る。
それからは、一念発起して、助産婦になるために産婆足助に住み込む。1年間夜学にも通い、看護学や産婆学を学ぶ。また、キリスト教の洗礼を受けたのは、その頃ではなかったか。
1924年(大正13年)には、農民運動のリーダー山上武雄と再婚する。夫からの影響であろう、助産婦として働くかたわら、農民組合婦人部の組織拡大に奔走していく。
おりしも、1925年の日農岡山連合会第一回大会において、山上は、こう提案したという。
「私達の運動は合理的合法的運動であります。(中略)又各個人の自由を尊重する運動でもあります。然るに私達は、地主と男子と此の両方から長い間屈辱と蹂躙に甘んじて来ました。
私達の運動は婦人の努力にまつ者が最も多いのであります。私達は此の点を総合して婦人の執行委員を選出しなければならないと思います。」(坂本法子「山上喜美恵の生涯」第三回、雑誌「人権21」2006.8)
「私達の運動は合理的合法的運動であります。(中略)又各個人の自由を尊重する運動でもあります。然るに私達は、地主と男子と此の両方から長い間屈辱と蹂躙に甘んじて来ました。
私達の運動は婦人の努力にまつ者が最も多いのであります。私達は此の点を総合して婦人の執行委員を選出しなければならないと思います。」(坂本法子「山上喜美恵の生涯」第三回、雑誌「人権21」2006.8)
1943年(昭和18年)には、62歳の夫と死別する。それからも、ハンセン病病院、各種地域活動などの奉仕活動を行う。
(続く)
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