◻️194『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、山上喜美恵)

2020-08-03 21:19:01 | Weblog
194『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、山上喜美恵)

 山上喜美恵(やまがみきみえ、1898~1976)は、上道郡古都村大字宍甘(現在の岡山市)の生まれ。人力車夫の清水留吉と伊勢の長女であり、家計は貧しかったにちがいない。
 小学校卒業後は、将来に備え、裁縫塾に通う。14歳になると、女中に出る。翌年には、帽子組み兼女中となる。
 やがて、農家の長男東原猪久太と結婚し、3年目に男児を出産するも、1923年(大正12年)に離婚し、子を連れて実家に戻る。
 それからは、一念発起して、助産婦になるために産婆足助に住み込む。1年間夜学にも通い、看護学や産婆学を学ぶ。また、キリスト教の洗礼を受けたのは、その頃ではなかったか。
 1924年(大正13年)には、農民運動のリーダー山上武雄と再婚する。夫からの影響であろう、助産婦として働くかたわら、農民組合婦人部の組織拡大に奔走していく。

 おりしも、1925年の日農岡山連合会第一回大会において、山上は、こう提案したという。
 「私達の運動は合理的合法的運動であります。(中略)又各個人の自由を尊重する運動でもあります。然るに私達は、地主と男子と此の両方から長い間屈辱と蹂躙に甘んじて来ました。
 私達の運動は婦人の努力にまつ者が最も多いのであります。私達は此の点を総合して婦人の執行委員を選出しなければならないと思います。」(坂本法子「山上喜美恵の生涯」第三回、雑誌「人権21」2006.8)

 1943年(昭和18年)には、62歳の夫と死別する。それからも、ハンセン病病院、各種地域活動などの奉仕活動を行う。


(続く)


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◻️160の7『岡山の今昔』岡山人(18世紀、松平康哉)

2020-08-03 08:51:16 | Weblog
160の7『岡山の今昔』岡山人(18世紀、松平康哉)

 松平康哉(まつだいらやすたか、1752~1794)は、津山藩の4代藩主・松平長孝の長男として生まれ、1762年には、父の早すぎる死により跡を継いで5代目の藩主となる。早くから、その英明さが際立っていたと伝わる。
 やがて、一人立ちすると、先代の長孝が行った「新法」を吟味してみたという。先代では、庄屋制度を廃するなど藩政改革を行なうことで藩財政などの再建を目指したという。けれども、実績が上がらないまま、重臣たちがとりあえず続けたのかもしれない。

 そして迎えた1771年(明応8年)の康哉は、父が始めた新法による改革を一旦廃し、新たな決意で藩政改革を行う。先代改革の全てが失敗したというのではなくても、踏襲するのべきでないとしたのであろう。

 その正式な触れ、それに家中向けとしては、「申渡十一時箇条」、「問九ケ条」と「郷中御条目」なりが出ていて、なかなかの体裁にちがいない。なお、詳細な内容及び氷解については、例えば、瀬島宏計「津山藩の安永改革」がネットにて拝見できることから、参照されたい。


 これに至るまでには、江戸にいるときは、上杉治憲や細川重賢らに教えをこう。彼らに倣い、機構改革、それに大村庄助や飯室武中といった、家柄にとらわれない有能な人材を登用したりで、藩政の刷新を目指す。
 また、税徴収の増加を目して、社倉や義倉孝行者に対して褒賞を出す、育児法を制定するなどの、いわゆる社会福祉的な政策を中心とした藩政改革を断行し、この方面に限っては某かの成功を収めたという。ほかにも、藩校を整え、学問を奨励、武道を励ますなど、多様な取り組みを行う。
 しかし、上意下達の感じもしており、バランスがとれていたのか、どうか。結果として、なかなかに短期での成果は上がらなかったようだ。1783年(天明3年)初夏には、天明の大飢饉による米価高騰により、領内で打ちこわしも起った。

 その人となりについては、有能かつ大胆なところが際立つ。家柄が、それを、あれこれで後押ししたこともあろう。「肝胆相照らす」というか、同時代の幕府老中で康哉と親交のあった松平定信の著書中に、こんな康哉評がある。
 「人となり博学弁才無双、相学、天学をなして高談をよろこぶ。 いかがしけん、予をば至って親しみて、常に来り訪ひ給ふ。相客あれば来り給はず。これ又偉人なり。」
 その定信においては、文芸にも秀でている康哉には、一目も二目もおいて、清談を楽しんでいたのではあるまいか。


(続く)

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