○46の1の5『自然と人間の歴史・日本篇』解放令~四民平等の告諭

2020-08-14 21:58:57 | Weblog
46の1の5『自然と人間の歴史・日本篇』解放令~四民平等の告諭

 まずは、1871年10月12日(明治4年8月28日)には、太政官布告ということで、等の称や身分の廃止などの旨を記す。それには、こうある。
 「等ノ稱被廢候條、自今身分職業共平民同様タルヘキ事。
辛未(かのとひつじ)八月、太政官
 ノ稱被廢候條 一般平民ニ編入シ身分職業共都テ同一ニ相成候様可取扱 尤地祖其外除◻️ノ仕来モ有之候ハ丶引直方見込取調大蔵省ヘ可伺出事。
辛未八月 太政官」
(ただし、本文中の◻️は「溢」の旧字の傍に「蜀」)

 ここに、「・等の称、廃せられ候条、自今、身分・職業とも平民同様たるべきこと」というのであるから、従来用いていた「」「」等の身分の名称が廃止となったので、これ以後は、かかる範疇での、いずれの身分や職業も平民と同様とすべきである、ということになるという。
 このあと、具体的な廃止の手順などが簡単に書かれ、各府県へよろしく通達するように、となっている。



 次に移ろう。それから約2か月が経っての「四民平等に関する告諭」(1871年12月26日(明治4年11月15日)付け)を紹介しよう。こちらは、かなりの復古調の文言にて、こうある。

 「夫れ天地の間草木生し禽獣居り、虫魚育す。日月之を照し、雨露之を瀑し、生生育育運行流通して更に息む時なし。人天地の正気を稟け其の間に生し霊昭不昧の良知を具足す。故に之を万物の霊と言う。

 夫草木禽獣虫魚人物生育處を五大州と言う。五大州中に区々の国を別つ文字を知り、義理を明らかにし、人情を弁へ風俗美にして知識技能を研究し勉強刻苦心を同うしか殲せ。(中略)

 老少男女の差別なく人々報国の志を懐く之を名けて文明開化の国と言う。(中略)

 古へは士農工商を別ちて文字を知り、義理を明にせし者を士と言う。今や士農工商の別なく、万物の霊たる人間に教を設け義理を明かにして、風俗を正し知識技能を研究し勉強刻苦心を同うし、力を戮せ。
 人々をして国に報るの誠を懐き開化の域に進ましむるにあり。(中略)

 真に其子を愛するなら学校に入れ、人間の道を学はしめ、刻苦勉強して開化安楽の境に至らしむ可し。是天地無用に報ひ、朝旨に答ふる所以なり。」(出所は、池田藩市政提要を元資料とした、岡山平野研究会「藩政資料抜粋一」1959)

 
 これにあるのは、要は、「万物の霊たる人間に教を設け義理を明かにして、風俗を正し知識技能を研究し勉強刻苦心を同うし、力を戮せ。人々をして国に報るの誠を懐き開化の域に進ましむるにあり」とあるように、これからは「朝旨に答ふる」べく、分け隔てのない、「臣民」(この文面にはないが)の立場で一生懸命がんばりなさい、というのであろう。 
 このように、上の方から諭す体裁をとっているのは、天皇並びに朝廷は旧体制下にも増して雲の上の存在であり、その意を体しての政府の指示、命令には率先して従うように、という論理構成に他ならない。

 ちなみに、明治時代となっての族籍別での人口構成は、どういう構成だったのだろうか。これを1873年(明治6年)ということでいうと、次の通りとされる(平野義太郎「日本資本主義社会の機構」)。
 すなわち、総人口は、3329万8286人。このうち華族が2829人、旧士族が154万8568人、それに旧足軽以下が34万3881人であり、これらを合わせての総人口にしめる割合は5.7%であった。
 次に、平民を見ると3110万6514人で、総人口の大部分、93.41%を占めていた。なお、1872年に、「旧足軽」については、その一部を士族、残りを平民に編入して廃止された。
 それから、僧尼(そうに)が6万6995人、旧神官が7万9499人、最後に、不詳(推計)としてちょうど15万人を充てている。


(続く)


☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

◻️200『岡山の今昔』岡山人(20世紀、吉岡三平)

2020-08-14 09:41:19 | Weblog
200『岡山の今昔』岡山人(20世紀、吉岡三平)


 吉岡 三平(よしおかさんぺい、1900~ 1984)は、早々の図書館で叩き上げから長らく働くかたわら、郷土史家も手掛ける。 


 当時家は傾いていたが、地元素封家の家に生まれる。1919年(大正8年)に関西中学校を卒業する。大学進学のため、上京。その後、一説には、「偽計を用いて」親に呼び戻されたというから、驚きだ。

 おりしも、1918年(大正7年)12月に、岡山市立図書館が開館式を迎える。1924年(大正13年)7月、岡山市役所文書課に就職し、同年9月末からは同図書館の書記となる。1929年には、司書に昇格する。

 1938年(昭和13年)10月末には、岡山図書館司書として同職場に復帰する。主に、エクステンション中心から、館内サービス中心へ業務を変更する仕事を任された模様だ。
 文筆にも元々嗜みがあったようで、執筆についても、「ひげだるまの家本為一」 (1938)を手掛けるあたり、後に花開く、根っからのアイデアマンの血脈であるのは、この時既に想像するに難くない。

 そして迎えた敗戦の年には、同図書館の館長に就任する。あの戦争敗北が近づくのを、当時の鋭敏な感覚の持ち主などには、なにかしら見えてきていたのではなかろうか。戦時中に、大きな出来事があった。
 これを改めて伝えるのは、戦後71年目の報道である。すなわち、毎日新聞(2016年6月29日付け地方版)によると、戦時中の疎開によって生き残った図書200冊が、29日、岡山市立中央図書館(北区二日市町)で展示される。


 これを企画したのは、岡山中央図書館であって、飯島章仁・学芸副専門監は「空襲の中、偶然残ったのではなく、人が受け継いで今に伝わったということを感じてほしい」(飯島章仁・学芸副専門監)と、その意義を強調したという。


 それというのは、同図書館の前身の岡山市立図書館、その当時の館長が吉岡三平であって、県内の図書館について記した「岡山の図書館」(日本文教出版)によると、敗戦の年の、地方都市でも空襲が激しくなったのを見て、図書館を守ろうと蔵書の疎開を計画する。北東に約3キロ離れた寺へ、6月の岡山空襲前に図書館からかなりの蔵書を運び出し、難を逃れることができたという。なんとも、言いがたい、静かに響く感動話ではないだろうか。

 それからは、時代のニーズに合わせることが至上命題てあったらしく、また文筆においても、例えば、「昨年晩夏「岡山の干拓」刊行の話があり、干拓の民族性探求・必要性を痛感しておったので、畏友吉岡三平氏に御無理をお願いし、快諾を得た」との、同共著者の進昌三の告白には、それなりの重みがあるのではないだろうか。

 それからの著作は、じつに広範な分野に及ぶ。ざっと、「新旧市町村名対照 一目で判る岡山県」(1955)、「岡山歳時記」(岡山文庫12)、1966、「吉備の女性』(岡山文庫 22) 日本文教出版、1969。『岡山の干拓」(進昌三との共著で岡山文庫58、1974)、「岡山事物起源」(岡山文庫60)、1974、「岡山人名事典」(監修、1978)など多数。
 その人生について、特段に触れられていないようなのだが、いかがであろうか。もし、まだ埋もれている事柄があるとすれば、岡山の郷土史の草分けとしての、吉岡自身の気持ちがどうであったかなども含め、某か明かされるようだと有難い。

(続く)

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆