◻️198『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、巌津政右衛門)

2020-08-02 22:23:17 | Weblog
198『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、巌津政右衛門)

 巌津政右衛門(いわつまさえもん、1893~1989)は、新聞記者で、郷土史家でもある。 児島郡赤崎村(現・倉敷市)の、脇坂家で生まれた。
 小学校の代用教員を務めたのち韓国に渡り、実業に従事する。しかし、間もなく病気になり、やむなく帰国する。
 大正10年に山陽新報社(のちの山陽新聞)に入社する。新聞記者として、関東大震災などを取材する。
 のち同社が合同新聞社に併合されると、取締役編集局長に就任する。1946年(昭和21年)には「夕刊岡山」を創刊し、専務理事に就任する。
 ようやくのことであったろうか、記者生活の傍らで郷土史研究を進める。古建築物や石造美術を中心に岡山県内の各地を調査する。
 24年には、新聞界を引退する。それからは、研究に専念し、県史跡名勝天然記念物調査委員や県文化財専門委員・倉敷市文化財保護委員などを歴任していく。1951年(昭和26年)には郷土研究誌「岡山春秋」を創刊する。
 著書としては、「岡山県美術名鑑」「岡山県古建築名鑑」「岡山の石仏」など、極めて多数。
 それというのも、新聞記者としての名声をさることながら、郷土史家としては、極めて多くのジャンルの論評を手掛けた。しかも、手抜きがまるでないと聞く。
 例えば、彼の『岡山の石造美術』(日本文教出版、1973年刊)とは、岡山文庫の中の一冊にして、岡山県内の石像を、層塔・宝塔・多宝塔・宝篋印塔・石灯籠・五輪塔・板碑・方柱碑・笠塔婆・無縫塔・石幢・石室・石仏・石鳥居・その他に分類し、紹介しているという。しかも、本人が訪れた藤戸寺五重塔や備前国分寺七重塔、総願寺跡宝塔、五流尊龍院宝塔、法界院石灯籠などを含むとか。
 これらにあっては、常々のメモもあってのことなのだろうが、「素晴らしい」の一言に尽きる、その丁寧さにも脱帽のほかないように思われる。

(続く)

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◻️193『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、津田白印

2020-08-02 10:05:37 | Weblog
193『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、津田白印

 津田白印(つだはくいん、1862~1946)は、笠岡の浄土真宗浄心寺住職、津田明海の二男だという。19歳にて、豊前国(現在の福岡県豊前市)の浄土真宗大教校・乗桂校において、仏教学と漢学を学ぶ。次いでであろうか、長崎派の鉄翁祖門の門下、成富椿屋(なりとみちんおく)に南画を学ぶ。
 のちに奈良監獄の教誨師となる。少年囚徒の教育を担当する。彼らの社会環境を研究するうちに、慈善社会事業家になる決意を固めたという。
 1900年(明治33年)、孤児収容施設の甘露育児院を笠岡の本林寺に設立。やがて、育児院を浄心寺に移す。主に、自らの画料や浄財によって同院の経営を行う。
 この育児院は1924年(大正13年)まで継続し、地域の福祉に大きく貢献したのは、想像に難くない。ほかにも、この前年に私立淳和女学校を設立して、校長としても女子教育にあたる。

 その画業としては、「蒲に蟹」(1928)、「養真」(1935)、「双竹」(1941)など多数と聞く。それらのかなりは、概ねインターネットでも、そこそこのレベルでの閲覧が可能で、便利ではないだろうか。その作風については、「伝統的でありながら時代を超えた瑞々しさを備える」とも評されるのだが、確かに、「さらり」とした雰囲気の中にも何かが「キラリ」と光っているようにも感じられるのだが。
 その人となりは、柔らかと伝わる。名前というのは、なかなかに複雑であり、幼名は峯丸、のちに明導。別号に白道人、吸江山人、黄薇山人、甘露窟主人などがあるというから、果たして、変幻自在を理想としていたのであろうか。

(続く)

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