198『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、巌津政右衛門)
巌津政右衛門(いわつまさえもん、1893~1989)は、新聞記者で、郷土史家でもある。 児島郡赤崎村(現・倉敷市)の、脇坂家で生まれた。
小学校の代用教員を務めたのち韓国に渡り、実業に従事する。しかし、間もなく病気になり、やむなく帰国する。
大正10年に山陽新報社(のちの山陽新聞)に入社する。新聞記者として、関東大震災などを取材する。
のち同社が合同新聞社に併合されると、取締役編集局長に就任する。1946年(昭和21年)には「夕刊岡山」を創刊し、専務理事に就任する。
ようやくのことであったろうか、記者生活の傍らで郷土史研究を進める。古建築物や石造美術を中心に岡山県内の各地を調査する。
24年には、新聞界を引退する。それからは、研究に専念し、県史跡名勝天然記念物調査委員や県文化財専門委員・倉敷市文化財保護委員などを歴任していく。1951年(昭和26年)には郷土研究誌「岡山春秋」を創刊する。
著書としては、「岡山県美術名鑑」「岡山県古建築名鑑」「岡山の石仏」など、極めて多数。
それというのも、新聞記者としての名声をさることながら、郷土史家としては、極めて多くのジャンルの論評を手掛けた。しかも、手抜きがまるでないと聞く。
例えば、彼の『岡山の石造美術』(日本文教出版、1973年刊)とは、岡山文庫の中の一冊にして、岡山県内の石像を、層塔・宝塔・多宝塔・宝篋印塔・石灯籠・五輪塔・板碑・方柱碑・笠塔婆・無縫塔・石幢・石室・石仏・石鳥居・その他に分類し、紹介しているという。しかも、本人が訪れた藤戸寺五重塔や備前国分寺七重塔、総願寺跡宝塔、五流尊龍院宝塔、法界院石灯籠などを含むとか。
これらにあっては、常々のメモもあってのことなのだろうが、「素晴らしい」の一言に尽きる、その丁寧さにも脱帽のほかないように思われる。
(続く)
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巌津政右衛門(いわつまさえもん、1893~1989)は、新聞記者で、郷土史家でもある。 児島郡赤崎村(現・倉敷市)の、脇坂家で生まれた。
小学校の代用教員を務めたのち韓国に渡り、実業に従事する。しかし、間もなく病気になり、やむなく帰国する。
大正10年に山陽新報社(のちの山陽新聞)に入社する。新聞記者として、関東大震災などを取材する。
のち同社が合同新聞社に併合されると、取締役編集局長に就任する。1946年(昭和21年)には「夕刊岡山」を創刊し、専務理事に就任する。
ようやくのことであったろうか、記者生活の傍らで郷土史研究を進める。古建築物や石造美術を中心に岡山県内の各地を調査する。
24年には、新聞界を引退する。それからは、研究に専念し、県史跡名勝天然記念物調査委員や県文化財専門委員・倉敷市文化財保護委員などを歴任していく。1951年(昭和26年)には郷土研究誌「岡山春秋」を創刊する。
著書としては、「岡山県美術名鑑」「岡山県古建築名鑑」「岡山の石仏」など、極めて多数。
それというのも、新聞記者としての名声をさることながら、郷土史家としては、極めて多くのジャンルの論評を手掛けた。しかも、手抜きがまるでないと聞く。
例えば、彼の『岡山の石造美術』(日本文教出版、1973年刊)とは、岡山文庫の中の一冊にして、岡山県内の石像を、層塔・宝塔・多宝塔・宝篋印塔・石灯籠・五輪塔・板碑・方柱碑・笠塔婆・無縫塔・石幢・石室・石仏・石鳥居・その他に分類し、紹介しているという。しかも、本人が訪れた藤戸寺五重塔や備前国分寺七重塔、総願寺跡宝塔、五流尊龍院宝塔、法界院石灯籠などを含むとか。
これらにあっては、常々のメモもあってのことなのだろうが、「素晴らしい」の一言に尽きる、その丁寧さにも脱帽のほかないように思われる。
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