195『岡山の今昔』岡山人(20世紀、法華滋子)
法華滋子(ほっかしげこ、1912~?)は、真庭郡川上村(現在の真庭市)の生まれ。このあたりは、蒜山高原が広がる。父の職業は、特定郵便局の局長で、しかも牛を近隣の農家に貸し付けていた「牛持ち」でもあった。
地元の小学校を出ると、長兄の法華義一と同じく教師を目指して、岡山女子師範学校の一部に進学を果たす。
学生寮に入って勉学に励む中、次兄の法華暉良(てるよし)の影響でエスペラント語の勉強を始める。
ところが、彼女が卒業する頃は、1930年代の不況期であって、彼女は暉良のいる東京に出て、喫茶店に勤める。エスペラント仲間ということでは、左翼の人達との交流があり、その分官憲ににらまれることにもなっていったようだ。
その頃の知人によれば、「はなやかで、おっとりした滋子のエスペラントの会話は京浜の若い労働者のあこがれの存在であり、エス語の講師もしていた」(「エスペラントの女がー法華滋子の生涯(3)」、雑誌「人権21」2004.2)というから、もはやその筋のベテラン格になっていたのかもしれない。
その頃には、この国はもはやエスペラントを喋べり、広め、世界平和を口にするだけで、「非国民」扱いのみならず、治安維持法違反に問われかねない時代になりつつあったという。
これなどは、もはや、国民一般の人権などは、風前の灯火に近くなっていたのかもしれない。
なお、滋子を見送ってからの兄、法華暉良は、1955年から郷里の川上村長となり、1965年に、多彩な人生の幕を閉じたという。
(続く)
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法華滋子(ほっかしげこ、1912~?)は、真庭郡川上村(現在の真庭市)の生まれ。このあたりは、蒜山高原が広がる。父の職業は、特定郵便局の局長で、しかも牛を近隣の農家に貸し付けていた「牛持ち」でもあった。
地元の小学校を出ると、長兄の法華義一と同じく教師を目指して、岡山女子師範学校の一部に進学を果たす。
学生寮に入って勉学に励む中、次兄の法華暉良(てるよし)の影響でエスペラント語の勉強を始める。
ところが、彼女が卒業する頃は、1930年代の不況期であって、彼女は暉良のいる東京に出て、喫茶店に勤める。エスペラント仲間ということでは、左翼の人達との交流があり、その分官憲ににらまれることにもなっていったようだ。
その頃の知人によれば、「はなやかで、おっとりした滋子のエスペラントの会話は京浜の若い労働者のあこがれの存在であり、エス語の講師もしていた」(「エスペラントの女がー法華滋子の生涯(3)」、雑誌「人権21」2004.2)というから、もはやその筋のベテラン格になっていたのかもしれない。
その頃には、この国はもはやエスペラントを喋べり、広め、世界平和を口にするだけで、「非国民」扱いのみならず、治安維持法違反に問われかねない時代になりつつあったという。
これなどは、もはや、国民一般の人権などは、風前の灯火に近くなっていたのかもしれない。
なお、滋子を見送ってからの兄、法華暉良は、1955年から郷里の川上村長となり、1965年に、多彩な人生の幕を閉じたという。
(続く)
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