◻️195『岡山の今昔』岡山人(20世紀、法華滋子)

2020-08-04 22:30:50 | Weblog
195『岡山の今昔』岡山人(20世紀、法華滋子)

 法華滋子(ほっかしげこ、1912~?)は、真庭郡川上村(現在の真庭市)の生まれ。このあたりは、蒜山高原が広がる。父の職業は、特定郵便局の局長で、しかも牛を近隣の農家に貸し付けていた「牛持ち」でもあった。
 地元の小学校を出ると、長兄の法華義一と同じく教師を目指して、岡山女子師範学校の一部に進学を果たす。
 学生寮に入って勉学に励む中、次兄の法華暉良(てるよし)の影響でエスペラント語の勉強を始める。

 ところが、彼女が卒業する頃は、1930年代の不況期であって、彼女は暉良のいる東京に出て、喫茶店に勤める。エスペラント仲間ということでは、左翼の人達との交流があり、その分官憲ににらまれることにもなっていったようだ。
 その頃の知人によれば、「はなやかで、おっとりした滋子のエスペラントの会話は京浜の若い労働者のあこがれの存在であり、エス語の講師もしていた」(「エスペラントの女がー法華滋子の生涯(3)」、雑誌「人権21」2004.2)というから、もはやその筋のベテラン格になっていたのかもしれない。
 その頃には、この国はもはやエスペラントを喋べり、広め、世界平和を口にするだけで、「非国民」扱いのみならず、治安維持法違反に問われかねない時代になりつつあったという。
 これなどは、もはや、国民一般の人権などは、風前の灯火に近くなっていたのかもしれない。
 なお、滋子を見送ってからの兄、法華暉良は、1955年から郷里の川上村長となり、1965年に、多彩な人生の幕を閉じたという。


(続く)

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

◻️176の9『岡山の今昔』岡山人(18~19世紀、岸本武太夫)

2020-08-04 22:01:37 | Weblog
176の9『岡山の今昔』岡山人(18~19世紀、岸本武太夫)

 岸本武太夫(きしもとぶだゆう、1742~1810)は、美作の東南条郡押入村(現在の津山市)の庄屋、彦左衛門の5男として生まれた。名前を、武太夫という。地元では、比較的裕福ということであっても、塾に通うのはかなわなかったようで、幼い頃から父や祖父より漢学を習う。
 15歳になっては、英田郡倉敷(現在の美作市)代官の下役、つまり下僕が募集されているという話を聞きつけ、応募となる。幸い、採用となり、父の許しをもらって、務めを始める。
 当時の藤本甚介代官の下には、手代、手付、書役までが役人待遇、その下で役人を手助けする働き手(下働き)が7、8人はいるのが通例であったという。
 代官所に入りたての時の彼は、いちばん年下であったが、懸命に働いたという。それが上役にだんだんに認められていく。
 そして迎えた1759年(宝暦9年)、藤本代官が江戸に転勤になるとき、藤本は武太夫に一緒に来ないか、と誘う。18歳の武太夫にとっては、渡りに船、目の前が開けたような話であったに違いあるまい。


 さて、江戸にあっては、同代官の手代として働くうちに、当時の老中、田沼意次の政策に人材募集があるのを好機とし、受験し、7人の合格者の中に入る。28歳の時のことで、勇躍して飛躍を志したのであろうか。
 その田沼だが、武太夫を勘定奉行手付とした。旗本となって、主な仕事としては、貨幣をつくることであった。武太夫たちは、新しい銀のお金をつくり、貨幣の円滑な流通を目指す。
 そんな武太夫に、やがて、転機がやってくる。1780年(安永9年)には、勘定所詰普請役として美濃、伊勢、武蔵、常陸、甲斐を巡視する役柄となる。
 1780年(安永9年)には、佐渡勤務に転じる。上から2番目の奉行支配広間役となり、11年間の在任の間に、国府川に堤防をつくり、灌漑を整え、農民に喜ばれる。武太夫としては、それらのことが、金山経営にも益すると踏んでいたのであろう。
 1792年(寛政3年)には、江戸に呼び戻され、支配勘定、つまり勘定方の筆頭となる。1793年(寛政5年)には、下野(しもつけ、現在の栃木県)、6万8000石地域を支配する代官となる。そして、下野国都賀郡藤岡(現在の栃木県藤岡町)陣屋に赴任する。
 同国の芳賀郡東郷村(現在の栃木県真岡市)を出張陣屋とし、働く。ここでも、利根川沿いの湿地帯を田園に変える改革を担う。
 1799年(寛政11年)には、東郷陣屋に移る。小児養育、荒地起返しのための手当支給から、堕胎や子間引きの防止に至るまで、幅広で取り組む。
 1809年(文化6年)には、関東取締の役につくものの、ここまでくるのに、かなり疲れていたのではないか。

(続く)

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆