◻️107の4『岡山の今昔』西部(西部の干拓、幸島新田、江戸時代~現代)

2020-08-22 21:55:39 | Weblog
107の4『岡山の今昔』西部(西部の干拓、幸島新田、江戸時代~現代)


 まずは、次の嘆願書を紹介しよう、当地の農民たちが、岡山藩に差し出したものだ。当時の彼らの間柄は、支配される者と支配する者との関係に貫かれていた。

 「幸島新田(こうじましんでん)を作る用意の米として385石4斗(と)を元禄4年(1691年)、5年(1692年)借りうけましたが、毎年年末に夫役によって返せとのおおせ、ありがたきしだいです。

 元禄8年(1695年)までにすべて返し、このたび、かん定をすませたいものと、藩のかん定場へ帳面をさし出したところ、貸した米の利子をもらってないから、かん定をすますわけにはいかない、と言われました。

 夫役(ふえき)で払えということだから、利子はめん除されているとばかり思っていましたのに、かん定がさしつかえ、迷わくしています。

 我々弱百姓は、大部分の米は、ほかよりおさずかりしておりますので、利子の米を払えと言われては、とても困ります。
 夫役の内、37石5斗5升は、元禄8年より、百姓小数が、普請(ふしん)夫役をつとめることができないので、米で支払いたいと申し出たところ、3年で返せとのおおせ、いつまでもありがたく思います。

 どうか利子のことは、おじひをもっておゆるし願い、おかん定をすませていただければ、ありがたく思います。」(「幸島村史」)


 ここに幸島新田(こうじましんでん)というのは、今では吉井川の東側の田園地帯にある、そもそもはその川が瀬戸内海に到達しての、デルタの先に広がる浅海であったという。
 おりしも、江戸時代の初期の1684年(貞享元年)に完成し、その成果は562町歩であったという。
 そしてまた、この工事たるや、二代(池田光政、頼政)にわたる藩主による命令により、津田永忠が指揮をとり、新技術を駆使して、こしらえた。中でも、「大水尾(遊水地)と樋門とを結合し、潮の干満に合せて排水までを調節する」という、日本国中に鳴り響くような「快挙」ものだったという。


 しかしながら、そうしたことは、大方、支配、采配する側からの捉え方であって、物事のすべてではあるまい。そのあたりの事情なり、成り行きにつき、平島正司氏(教師)は、授業用教材の中で、こんな説明をされている。


 「新しく田を開き、生産を高めていった百姓達。収かくの秋の喜びの後に、その百姓達を待ち受けていたものは、11月(霜月)の厳しい年ぐのとりたてであった。
 岡山市の東部。吉井川の東に広がる幸島新田は、岡山藩によって作られ、百姓達は1反当り、銀30匁(もんめ)をはらうという事で買いとり、夫役(ふえき)によってしはらっていた。」 (平島正司「実践ノート、「六年生の歴史学習」」、岡山県歴史教育者協議会「岡山の歴史地理教育」第12号、1980.11に所収)




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