74の1『自然と人間の歴史・日本篇』関ヶ原(1600)
1598年(慶長3年)豊臣秀吉が死ぬ。その晩年には、朝鮮に出兵したり、側近の黒田官兵衛らをやや遠ざけたりで、豊臣政権は、既に内部できしみが見られた。それでも彼は、前田利家に家康を牽制させたかったのではないか。また、五大老・五奉行の制度を設けて、家康の独走を阻もうとしていたのが読み取れる。
しかし、頼みとした利家がその翌年に死ぬと、情勢は流動化し、家康の独走を阻む者がいなくなっていく。当時の家康は、伊豆、相模、武蔵、上総、下総、上野の6か国の他にも、近江などに賄い料として与えられた分があって、合わせて約250万石を領有していた。
1598年(慶長3年)豊臣秀吉が死ぬ。その晩年には、朝鮮に出兵したり、側近の黒田官兵衛らをやや遠ざけたりで、豊臣政権は、既に内部できしみが見られた。それでも彼は、前田利家に家康を牽制させたかったのではないか。また、五大老・五奉行の制度を設けて、家康の独走を阻もうとしていたのが読み取れる。
しかし、頼みとした利家がその翌年に死ぬと、情勢は流動化し、家康の独走を阻む者がいなくなっていく。当時の家康は、伊豆、相模、武蔵、上総、下総、上野の6か国の他にも、近江などに賄い料として与えられた分があって、合わせて約250万石を領有していた。
これを拠り所に実力を養い、秀吉に可愛がられた武将で三成を嫌う大名を味方につけるなどして、天下の声望はいよいよ家康に集まっていく。
おりしも、五奉行の一人である石田三成は、秀吉恩顧の大名に働きかけ、打倒家康を図って策を練るうちに、上杉家と気脈を通じ、家康に反旗を上げる機会を伺う。
はたして、1600年6月、家康とそれに従う勢力の軍勢は、会津の上杉景勝が上洛の招きにも応ぜず、兵備を整えているというのを口実に景勝討伐の軍を起こし、大坂城を発して東へ向かう。自分らが大坂、京都をはなれることで、反対派が挙兵しやすくしたものと見られよう。
案の定、挙兵の機をうかがっていた三成らはこの機をとらえ、毛利輝元、宇喜多秀家を主とする西国諸大名や、小西行長、増田長盛、長束正家、大谷吉継、島津氏らを巻き込んで、兵をあげ、家康の老臣鳥居元忠の守る伏見城を落とし、家康との決戦を目指し、これまた東下していく。
おりしも、五奉行の一人である石田三成は、秀吉恩顧の大名に働きかけ、打倒家康を図って策を練るうちに、上杉家と気脈を通じ、家康に反旗を上げる機会を伺う。
はたして、1600年6月、家康とそれに従う勢力の軍勢は、会津の上杉景勝が上洛の招きにも応ぜず、兵備を整えているというのを口実に景勝討伐の軍を起こし、大坂城を発して東へ向かう。自分らが大坂、京都をはなれることで、反対派が挙兵しやすくしたものと見られよう。
案の定、挙兵の機をうかがっていた三成らはこの機をとらえ、毛利輝元、宇喜多秀家を主とする西国諸大名や、小西行長、増田長盛、長束正家、大谷吉継、島津氏らを巻き込んで、兵をあげ、家康の老臣鳥居元忠の守る伏見城を落とし、家康との決戦を目指し、これまた東下していく。
その途中、江戸から陣営を二隊にわけ、西へ向かって引き返してくる家康らの軍勢を、美濃、ついで関ヶ原で待ち受ける。その時点での、大方の戦力比較としては、例えば、山本博文「「関ヶ原」の決算書」には、こうある。
「このように美濃に石田三成の率いる本隊3万6000、伊勢に毛利勢3万余、越前から近江に1万5000というのが岐阜城陥落前後の西軍の状況であった。大坂城には毛利輝元以下3万がいた。
対する東軍は岐阜城を落とした清洲城の5万に加え、西上する家康の3万余、秀忠の3万8000がいた。」(山本博文「「関ヶ原」の決算書」新潮新書、2020)
このように、西軍の軍勢の数は「10万人余」ともいわれる堂々たるものであったとか。しかし、概して統制はとれておらず、総大将の毛利輝元は豊臣秀頼とともに大坂城を出ることなく、これでは味方の士気があがろうはずもない。おまけに、毛利や小早川秀明(秀吉の妻・ねね方の大名)などには、家康の懐柔の手が入っていたと聞く。
もう一方の家康は、どのようであったのか。彼は、1600年10月17日(慶長5年9月11日)に清洲に到着し、19日には岐阜城に入る。そして翌20日朝には、岐阜から杭瀬川を渡り、正午には美濃の赤坂に本陣を構える。この地は、この川を挟んで西軍の立て籠る大垣城と向かい合う形にて、さっそく前哨戦としての小競り合い(「杭瀬川の戦い」)が展開され、東軍が劣勢であったという。
しかしながら、西軍としては家康がかくも迅速に現れて、大垣を抜けて京都を目指す動きなのに対し、どうするかを軍議する。しかして、これを阻止するにはいち早く関ヶ原に退いて陣を張り家康を待ち構えるという意見と、一説には島津義弘(遣わされたのは甥の豊久)がする同夜夜襲を行うべしという意見が出された模様だが、後者の話が真実なのかの確証な見つかっていない。
参考までに、豊久の提案内容を山本、前掲書が照覧されていて、こんな風ではなかったか、という。
「「関ヶ原に引くのはよくありません。今宵、家康の旗本の陣へ夜討ちをかけるのがいいでしょう。同心いただければ、私が先手を引き受けます。秀家殿か貴殿かが関ヶ原に行き、かの地の軍勢を率いて家康の軍勢の先手へ攻め掛かれば切り崩すことができるでしょう。」(中略)
「しかし、この場に集まる西軍は、大軍とは言いがたい。豊久はなお食い下がったが、左近(島左近のことで、三成の参謀格)の考えを変えることはできず、豊久は「まったく合点がいきません」と言い捨て、苦笑いしながら帰っていった。
もっともこの話は、後に成立した「落穂集」に載せられているもので、真偽(しんぎ)のほどは明らかでない。しかし百戦錬磨の義弘であれば、そういう計略を、思いついたとしても不思議ではないように思う。」」(山本、前掲書)
「「関ヶ原に引くのはよくありません。今宵、家康の旗本の陣へ夜討ちをかけるのがいいでしょう。同心いただければ、私が先手を引き受けます。秀家殿か貴殿かが関ヶ原に行き、かの地の軍勢を率いて家康の軍勢の先手へ攻め掛かれば切り崩すことができるでしょう。」(中略)
「しかし、この場に集まる西軍は、大軍とは言いがたい。豊久はなお食い下がったが、左近(島左近のことで、三成の参謀格)の考えを変えることはできず、豊久は「まったく合点がいきません」と言い捨て、苦笑いしながら帰っていった。
もっともこの話は、後に成立した「落穂集」に載せられているもので、真偽(しんぎ)のほどは明らかでない。しかし百戦錬磨の義弘であれば、そういう計略を、思いついたとしても不思議ではないように思う。」」(山本、前掲書)
結局、関ヶ原にて決戦することに決まり、同20日の夜、主力は大雨の中を密かに行軍し、現地に陣を敷くのであった。だが、その際、小早川秀明警戒のため、松尾山の麓の平地に、大谷吉継らをおいた他は、それらの全体の布陣からして、さしたる作戦上の意思統一がなされてのことであったかどうか、疑問なしとしない。
(続く)
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(続く)
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