19の2の1『自然と人間の歴史・日本篇』赤穂事件(1701~1703、~円山会議)
1703年1月30日(元禄15年12月15日)、江戸で赤穂の浪人たちが、吉良の隠居屋敷を夜襲し、主人の高家旗本の吉良上野介義央を殺した。
彼らがこの挙に及んだのは、主君であり播州赤穂藩主であった浅野内匠頭長矩の無念をはらすためであった。それというのは、それより2年余り前の1701年4月21日(元禄14年3月14日)、江戸城中松之大廊下でその長矩が高家旗本の吉良上野介義央に「遺恨有り」として斬りつけたのにさかのぼる。
そこで、その時の模様のおよそを記そう。まずは、上野介は額と背中を斬られたものの、命は奪われずに済んだ。というのは、長矩は、居合わせた旗本、梶川与惣兵衛頼照に背後から止められた。その梶川によると、長矩は「この間の遺恨おぼえたるか」と叫びながら斬りつけたという。
おりしも、江戸城は勅使を迎える話であって、普段よりかしこまった振る舞いが要求される日柄であった。大げさにいうと、一瞬たりとも無作法がならない時なのではなかったか。さらにいえば、かたや長矩は此度の接待役であり、義央はそのかしこき家柄から同指導役を仰せつかっていた。
1703年1月30日(元禄15年12月15日)、江戸で赤穂の浪人たちが、吉良の隠居屋敷を夜襲し、主人の高家旗本の吉良上野介義央を殺した。
彼らがこの挙に及んだのは、主君であり播州赤穂藩主であった浅野内匠頭長矩の無念をはらすためであった。それというのは、それより2年余り前の1701年4月21日(元禄14年3月14日)、江戸城中松之大廊下でその長矩が高家旗本の吉良上野介義央に「遺恨有り」として斬りつけたのにさかのぼる。
そこで、その時の模様のおよそを記そう。まずは、上野介は額と背中を斬られたものの、命は奪われずに済んだ。というのは、長矩は、居合わせた旗本、梶川与惣兵衛頼照に背後から止められた。その梶川によると、長矩は「この間の遺恨おぼえたるか」と叫びながら斬りつけたという。
おりしも、江戸城は勅使を迎える話であって、普段よりかしこまった振る舞いが要求される日柄であった。大げさにいうと、一瞬たりとも無作法がならない時なのではなかったか。さらにいえば、かたや長矩は此度の接待役であり、義央はそのかしこき家柄から同指導役を仰せつかっていた。
ともあれ、罪と罰は急いで決められなければならない、そんな雰囲気であった。そして、将軍・綱吉の裁可により、長矩は即日切腹となる。同時に、赤穂浅野家は断絶となる。
一方、上野介については、殿中での争いに手向かいしなかったことから咎めなく、この幕府の措置は、当時の規範(現代でいう慣習法か)と言えなくもない「喧嘩両成敗」の原則を逸脱するものにて、赤穂藩側に大いなる不満と吉良方への激しい怒りを植え付けることになった。
(続く)
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