○19の2『自然と人間の歴史・日本篇』赤穂事件(1701~1703、~円山会議)

2020-08-30 19:32:01 | Weblog
19の2の1『自然と人間の歴史・日本篇』赤穂事件(1701~1703、~円山会議)


 1703年1月30日(元禄15年12月15日)、江戸で赤穂の浪人たちが、吉良の隠居屋敷を夜襲し、主人の高家旗本の吉良上野介義央を殺した。
 彼らがこの挙に及んだのは、主君であり播州赤穂藩主であった浅野内匠頭長矩の無念をはらすためであった。それというのは、それより2年余り前の1701年4月21日(元禄14年3月14日)、江戸城中松之大廊下でその長矩が高家旗本の吉良上野介義央に「遺恨有り」として斬りつけたのにさかのぼる。


 そこで、その時の模様のおよそを記そう。まずは、上野介は額と背中を斬られたものの、命は奪われずに済んだ。というのは、長矩は、居合わせた旗本、梶川与惣兵衛頼照に背後から止められた。その梶川によると、長矩は「この間の遺恨おぼえたるか」と叫びながら斬りつけたという。

 おりしも、江戸城は勅使を迎える話であって、普段よりかしこまった振る舞いが要求される日柄であった。大げさにいうと、一瞬たりとも無作法がならない時なのではなかったか。さらにいえば、かたや長矩は此度の接待役であり、義央はそのかしこき家柄から同指導役を仰せつかっていた。

 ともあれ、罪と罰は急いで決められなければならない、そんな雰囲気であった。そして、将軍・綱吉の裁可により、長矩は即日切腹となる。同時に、赤穂浅野家は断絶となる。

 一方、上野介については、殿中での争いに手向かいしなかったことから咎めなく、この幕府の措置は、当時の規範(現代でいう慣習法か)と言えなくもない「喧嘩両成敗」の原則を逸脱するものにて、赤穂藩側に大いなる不満と吉良方への激しい怒りを植え付けることになった。

(続く)

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新◻️160の5『岡山の今昔』岡山人(17~18世紀、茅野和助、神崎与五郎、横川勘平、早水藤左衛門)

2020-08-30 09:57:32 | Weblog
新160の5『岡山の今昔』岡山人(17~18世紀、茅野和助、神崎与五郎、横川勘平、早水藤左衛門)

 世にも有名な「赤穂浪士」のうちには、岡山出身の武士が幾人かいる。かれらのうち、茅野和助(かやのわすけ、1702)、神崎与五郎(かんざきよごろう、~1702)、横川勘平(よこがわかんぺい、~1702)は、美作出身だ。


 まず、神崎は生まれつきの頑張り屋にちがいない。幼い頃、すでに豪胆な行動でもって城下に知られていたという。津山において、父の半右衛門は藩主に仕えていたのが、「貞享(じょうきょう)年中に森長武が家兄忠継の嫡男長成に本藩を譲り、別に2万石をもらって支藩に列せられた際、一説にはそちらに移った模様だ(福本日南「元禄快挙録・中」岩波文庫、1940)。

 その与五郎としては、やがて父の家督をついで長武に仕えていたのが、主家が「御家断絶」となり、あえなく失業してしまう。浪人となって、「両親を津山に遺して播州に来たり、暫く赤穂に流寓(りゅうぐう)した。すろと何時か彼の気骨ある士(さむらい)であるということが内匠頭(たくみのかみ)の耳に入り、五両三人扶持を賜って、徒士目付に任ぜられた」(同)とある。

 が、いつの頃からだろうか、俳諧にも通じていた。次に紹介する2首は、たぶん、赤穂に住み着く前の歌だといわれ、こうある、
「旅人も道は迷はじ水の上に、雪一筋の勢田(せた)の長橋(ながはし)」「ふり積るほどぞ知らるる若竹(わかたけ)の、伏見(ふしみ)の星の夜の雪折れ」

 またもやの主家断絶後、志を奉じての江戸入りからは、前原伊助の営む米屋と合流、小豆屋善兵衛と名乗り雑穀を売る。その傍らで俳人としての世渡りをしつつ、情報を集めていた。


 茅野も、神崎と同様に美作の出であって、森家の断絶により失業し、浪人を経て、神崎と共に見いだされたという。そういえば、二人は、前々からの馴染みであったのかも知れない。
 役向きは、神崎と同等の扶持にて、徒歩横目に挙げられ、元禄10年から浅野家に仕える。それも「つかの間」ということであったのだろうか、奉公の4年目にして、主君を失う大事に出会う。忠節を固く誓う侍にして、当初から同志に加わって、働く。


 さらに横川は、讃岐国、丸亀の富豪、横山勘右衛門の従士にて働いていたのだが、町人のままでは終わりたくなかっのではないか。
 ぶらりと江戸へ出てからは、「が、太平の天下には可惜(あたら)好漢も世に知られ、空しく餞役(せんやく)を取って、身を浅野家に寄せていたもの」(福本、前掲書)を、これまた主君に見いだされたものといわれる。
 
 だが、平穏な日々は長くは続かない。やがての大事出来のおりは、江戸詰めであったのだが、率先して盟約に加わる。江戸に入ると、これまた偵察で才能を開花させる。苦心を重ねてのやがては、大高源吾とは別のルートて吉良方の茶会の日取りを聞き出す。


 それから、早水藤左衛門(はやみとうざえもん、1664~1702)は、備前西大寺の出身だ。藤左衛門は通称で、名は満尭(みつたか)という。こちは備前国岡山藩の池田家家臣の家の生まれ。家督を兄が継いだため、赤穂藩浅家家臣、早水家の婿養子に入る。弓術では海内無双と謳われた星野茂則に師事し、弓矢にかけては達人の域に達していたという。和歌や絵画もたしなむ。
 
 主君の浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)が江戸城内において刃傷事件を起こした時は江戸にいた。そこで、萱野三平とともに急使となり、第一の早籠で江戸から赤穂まで155里(約620キロメートル)を4日半で第一報を赤穂に伝えた。
 
 その後では、大石内蔵助に従い、ひたすらに進むうちに、金策に困っては兄の山口弥右衛門に「別して頼み入り存じ奉り候」(元禄15.2.21付けの書状)カネの無心をしている。
 なお、このあたり、山本博文「忠臣蔵の決算簿」(新潮新書、2012)によると、かかるおりに無心した額は「三百目」(もんめ)、すなわち「本書で採用しているレートで換算すると、六十万円」という。根っからの熱血漢ながらも、なんとか飢え死にしないために懸命であったことが窺えよう。
 
 参考までに、彼らが浅野家の家臣であった時の部屋住み、石数及び年齢をもう一度振り返ると、およそ次の通りであった。
 神崎与五郎は、足軽徒目付・郡目付にして5両3人扶持(役料5石)、38歳。 茅野和助は、横目、5両3人扶持、37歳。 横川勘平は、徒目付、5両3人扶持、37歳。そして早水藤左衛門は、馬廻、150石にして40歳であったという(進士慶幹「赤穂藩」、所収は児玉幸多、北島正元編「物語藩史5」人物往来社、1965)。

 そんな彼らの思いを乗せつつも、時代は移っていく。思い起こせば、1701年(元禄14年)の浅野家改易(かいえき)、4月19日の赤穂城明け渡し後に、赤穂城に入ったのは、下野(しもつけ、現在の栃木県あたり)にいた永井直敬であった。9月には、それまでは江戸城の城郭内、呉服橋門内(現在の千代田区八重洲)にあった吉良(きら)屋敷が取り上げられ、本所松坂町(現在の墨田区両国三目)に移らされた。さらに、その翌年の1702年(元禄15年)12月14日には、浅野家旧臣たちによる吉良邸討入りが起こる。

 一方、赤穂においては永井氏が4年ほどで信濃に移る。その後の1706年(宝永3年)には、備中の西江原藩2代目藩主の森長直が2万石で入府する。その前までの5万3500石からは大きく後退するも、塩田の専売経営などで持ち直していく面もある。それから明治維新になるまで、13代165年に渡って赤穂城の城主は森氏が代々受け継いでいく。

(続く)(なお、この項目は、これから調べるべきことがなお多く、だんだんに書き出していく予定でおりますので、しばらくお待ちださい)

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