107の6『岡山の今昔』幸島新田と忠兵衛
その時、現実には、何が起きたのだろうか。1684年(貞享元年)に完成し、入植が始まった幸島新田でいうと、前述のように、なかなかに入植農民の新生活は楽にならなかった。
そして迎えた1689年(元禄2年)には、新たな弾圧が起こる。それというのは、同新田のうち、幸田村(備前国邑久郡)に入植していた農民である忠兵衛(ちゅうべえ)が、岡山藩により、年貢米を割り当てられただけ納めなかった罪で捕らえられる。
なんでも、「残分隠置罪」ということであり、ありていにいうと、「あえて年貢にまわす一部の米を隠匿して納入義務をはたさなかった」ということになろう。
ちなみに、その正式な文書としての「御年貢米隠置不足払之者引渡之上成敗」(池田家文書元禄三年付け、法令集拾遺之九)においては、こうある。
「一、幸田村忠兵衛此者御年貢米少払、残分隠置、御代官吟味之節透と無之由申切候付、屋さかし仕候得は、御年貢に余り候程俵数大分隠置、卯十二月籠舎、巳十一月二十一日より御郡々引渡又籠へ入、牛三月二十一日御成敗。」
このような咎めの記録であるからして、藩当局としては、家捜しをして証拠を得たことになっている。
おりしも同年には、藩主の池田綱政の命令で、「後園」(後の後楽園)の造営が始まる。そしてこの年が、幸島新田の完成後4年目であり、検地による、正式な年貢納入の最初の年なのだった。
(続く)
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その時、現実には、何が起きたのだろうか。1684年(貞享元年)に完成し、入植が始まった幸島新田でいうと、前述のように、なかなかに入植農民の新生活は楽にならなかった。
そして迎えた1689年(元禄2年)には、新たな弾圧が起こる。それというのは、同新田のうち、幸田村(備前国邑久郡)に入植していた農民である忠兵衛(ちゅうべえ)が、岡山藩により、年貢米を割り当てられただけ納めなかった罪で捕らえられる。
なんでも、「残分隠置罪」ということであり、ありていにいうと、「あえて年貢にまわす一部の米を隠匿して納入義務をはたさなかった」ということになろう。
ちなみに、その正式な文書としての「御年貢米隠置不足払之者引渡之上成敗」(池田家文書元禄三年付け、法令集拾遺之九)においては、こうある。
「一、幸田村忠兵衛此者御年貢米少払、残分隠置、御代官吟味之節透と無之由申切候付、屋さかし仕候得は、御年貢に余り候程俵数大分隠置、卯十二月籠舎、巳十一月二十一日より御郡々引渡又籠へ入、牛三月二十一日御成敗。」
このような咎めの記録であるからして、藩当局としては、家捜しをして証拠を得たことになっている。
おりしも同年には、藩主の池田綱政の命令で、「後園」(後の後楽園)の造営が始まる。そしてこの年が、幸島新田の完成後4年目であり、検地による、正式な年貢納入の最初の年なのだった。
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