◻️107の6『岡山の今昔』幸島新田と忠兵衛  

2020-08-23 21:29:41 | Weblog
107の6『岡山の今昔』幸島新田と忠兵衛
 
 その時、現実には、何が起きたのだろうか。1684年(貞享元年)に完成し、入植が始まった幸島新田でいうと、前述のように、なかなかに入植農民の新生活は楽にならなかった。

 そして迎えた1689年(元禄2年)には、新たな弾圧が起こる。それというのは、同新田のうち、幸田村(備前国邑久郡)に入植していた農民である忠兵衛(ちゅうべえ)が、岡山藩により、年貢米を割り当てられただけ納めなかった罪で捕らえられる。
 なんでも、「残分隠置罪」ということであり、ありていにいうと、「あえて年貢にまわす一部の米を隠匿して納入義務をはたさなかった」ということになろう。


 ちなみに、その正式な文書としての「御年貢米隠置不足払之者引渡之上成敗」(池田家文書元禄三年付け、法令集拾遺之九)においては、こうある。

 「一、幸田村忠兵衛此者御年貢米少払、残分隠置、御代官吟味之節透と無之由申切候付、屋さかし仕候得は、御年貢に余り候程俵数大分隠置、卯十二月籠舎、巳十一月二十一日より御郡々引渡又籠へ入、牛三月二十一日御成敗。」

 このような咎めの記録であるからして、藩当局としては、家捜しをして証拠を得たことになっている。

 おりしも同年には、藩主の池田綱政の命令で、「後園」(後の後楽園)の造営が始まる。そしてこの年が、幸島新田の完成後4年目であり、検地による、正式な年貢納入の最初の年なのだった。



(続く)

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◻️107の5『岡山の今昔』倉敷の旧幕府天領

2020-08-23 14:55:27 | Weblog
107の5『岡山の今昔』倉敷の旧幕府天領


 現在の倉敷といえば、江戸時代からの白壁造りの建築群などを囲っての、「倉敷美観地区」として、つとに有名だ。その中でも、アイビースクエア附近の一帯は、その前々の戦国時代においては砦の跡で、大方殺風景な場所であったのではなかろうか。

 とはいうものの、1600年の、「天下分け目」の関が原の合戦で東軍が勝利を得て後は、徳川幕府の直轄領、すなわち「天領」となり代わる。


 追っての大阪冬の陣、これを幕府が仕掛ける時には、前線への兵糧米を、倉敷湊(くらしきみなと)から大阪に積み出すための陣屋としたと伝わる。


 さらに時は流れての1642年(寛永19年)には、かかる場所に倉敷代官所が置かれる。瀬戸内海へ出るための運河も整備の目安も立っての事であろう。

 それからは、明治維新にいたる二百余年間を、備中倉敷、美作(久世)及び讃岐(塩飽諸島(しわくしょとう))にいたる天領、しかして当地の人々を支配してきた、いわば、体制側の「砦と位置付けられるだろう。

 そんな倉敷の「古き善き」日々を振り返っての、現代人に某か連想させる地域においては、例えば、こんな厳し話も伝わっていることから、歴史の一断面として、以下に引用させていただこう。
 それというのは、1681年(延宝9年)、備中地域の70か村が連署した、時の倉敷代官への訴状である。


 「延宝5、6年(1677~1678年)の年ぐの未払いの分の代銀は、大部分の村は、未だお支払いしておりません。

 この件につきまして、年々百姓共は貧しく、困りはてておりますので、すべてお支払いできないでおります。何とぞ、おじひをもって10年から15年、支払いの期限をのばしていただきたいものと訴え申し上げます。


 9年前になります延宝元年、2年(1673~1674年)の大水害で、田畑はすべて耕作不能となりました。荒れ地もだいぶできました。

 被害で百姓はうえに苦しんでおりますが、それでも、その年の年貢は田畑や山林、家なとを売って工面し、すべてお納めいたしましたが、食べるものがないために、その年はうえ死にする人がたくさん出ました。


 以来、毎年作がらが悪く、延宝5年、1年だけはよくできたのですが、この年は検地をおおせつけられ、その上、見回りまであったため百姓達もひまがなく、農作業に手がまわらず、不作の年同様となってしまいました。


 水害の痛手の後は、毎年の年貢ものびのびとなり、納められない分は、次の年の分を売ったり、質に入れたり、田畑を質入れしたり、いろいろ工面しています。

 このように順送りに年貢を納めているので、百姓の損失は何度も重なり、年ごとに貧しさがひどくなり迷わくしています。米や金を借りている者も利子が重なりました、借りる事さえ不自由となり、借金して年貢を払うことすらできません。

 年貢を必ずや上納せよとの事ですが、去年の分すら未だにすませていない事をよくお聞き届けの上、おじひとあわれみをもって、納めていない年貢は、ごかんべん願いたいものと、訴えるしだいです。」(「倉敷史」、これを紹介している平島正司「実践ノート、「六年生の歴史学習」」、岡山県歴史教育者協議会「岡山の歴史地理教育」第12号、1980.11に所収のものから引用)

 これを読み進めるうちには、現代に生きる私たちにおいても、切々とした当時の額に汗して働く人々の息づかいまでもが感じられる。彼らにとって、なんという辛い時代であったことだろうか。


(続く)


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