新◻️232の16『岡山の今昔』岡山人(20世紀、美土路昌一)

2020-08-12 09:37:06 | Weblog
232の16『岡山の今昔』岡山人(20世紀、美土路昌一)

 美土路昌一(みどろますいち、1886~1973)は、ジャーナリストを経て実業家になる。苫田郡一宮村(現在の津山市一宮)にて、中山神社の宮司を務める父の長男として生まれる。

 津山中学時代から文学に傾倒する。小説家になることを考えていたらしい。家は裕福というほどではなく、一時は大学進学を諦めようとしたものの、1905年(明治38年)に、早稲田大学文学部英文科に入学する。

 卒業すると、朝日新聞に入る。1934年(昭和9年)4月26日、朝日新聞の編集局に日本刀を抜いた右翼の暴漢が暴れこんできて、編集総務の鈴木文史郎が斬られて重傷を負う。犯人は「南無妙法蓮華経」を唱える日蓮宗系の右翼だったという。美土路は、4月に編集局長になっていたものの、出張していたらしい。

 1936年(昭和11年)5月には、常務取締役になり、軍制下での社の生き残りを目してか、同じ岡山県出身の宇垣一成(陸軍大将)の「側近」とも。政治力というか、そうしたことでの人脈づくりに、長けていたのではないか。

 戦後になっての1952年(昭和27年)には、日本ヘリコプター輸送株式会社の設立にあたって社長になる。純粋な民間会社を目指す。これに際しては、敗戦の前に朝日新聞を退社し、郷里の津山に帰る。開拓農場を企画したりの毎日であったらしいのだが、この時に色々と人生を、そして日本の今後を考えていたのではないだろうか。

 戦後のまだ落ち着かない中、かつての朝日新聞航空部の仲間から請われて、航空関係者の生活を支えるべく、「興民社」の会長となる。そして、会社に戻る時に仲間に示したのが、今でも全日空に掲げられていると伝わる「現在窮乏、将来有望」というスローガンと、三つの経営理念(いわく、「高潔な事業」、「権威に屈することのない、主体性をもつ企業」、それに「独立独歩できる企業」なのであった。

 それからは、事業に邁進、極東航空との合併をとりまとめ、全日空を立ち上げる。会長まで務め、相談役に。ところが、古巣の朝日新聞社が内紛ですったもんだの中、またもや請われて同社の社長となるあたり、かの孫文の「至誠」にも似て、「頼まれたら断れない性格」であったのだろうか。

 1967年(昭和42年)には、これを退任して郷里に戻り、それからを穏やかに暮らしたという。その晩年に魅せた穏やかで味わいの深い表情にちなんでは、、戦後の日本の立ち上がりを演出した一人の経営者として、また波乱万丈の人生行路であったのは、自他共に認めるところなのであろう。


(続く)


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