275の2『自然と人間の歴史・日本篇』「徴兵告諭」(1872)と「血税一揆」(1873~1875)
まずは、「徴兵告諭」(ここでは、関連文書を含む)には、こうある。
「徴兵令詔書及ヒ徴兵告諭」(明治5年太政官布告第379号)
「今般全國募兵ノ儀別紙 詔書ノ通リ被 仰出徴兵令相定候條各 御趣意ヲ奉戴シ末々ニ至ル迄不洩樣布達可致總シテ細大ノ事件ハ陸軍海軍兩省ヘ打合可申此旨相達候事
但徴兵令及徴募期限ハ追テ可相達事」
(別紙)
詔書寫
「朕惟ルニ古昔郡縣ノ制全國ノ丁壯ヲ募リ軍團ヲ設ケ以テ國家ヲ保護ス固ヨリ兵農ノ分ナシ中世以降兵權武門ニ歸シ兵農始テ分レ遂ニ封建ノ治ヲ成ス戊辰ノ一新ハ實ニ千有餘年來ノ一大變革ナリ此際ニ當リ海陸兵制モ亦時ニ從ヒ宜ヲ制セサルヘカラス今本邦古昔ノ制ニ基キ海外各國ノ式ヲ斟酌シ全國募兵ノ法ヲ設ケ國家保護ノ基ヲ立ント欲ス汝百官有司厚ク朕カ意ヲ體シ普ク之ヲ全國ニ吿諭セヨ
明治五年壬申十一月二十八日」
「我、朝上古ノ制海內擧テ兵ナラサルハナシ。有事ノ日、天子之カ元帥トナリ丁壯兵役ニ堪ユル者ヲ募リ以テ不服ヲ征ス役ヲ解キ家ニ歸レハ農タリ工タリ又商賣タリ固ヨリ後世ノ雙刀ヲ帶ヒ武士ト稱シ抗顏坐食シ甚シキニ至テハ人ヲ殺シ官其罪ヲ問ハサル者ノ如キニ非ス抑 神武天皇珍彥ヲ以テ葛城ノ國造トナセシヨリ爾後軍團ヲ設ケ衞士防人ノ制ヲ定メ神龜天平ノ際ニ至リ六府二鎭ノ設ケ始テ備ル保元平治以後朝綱頽弛兵權終ニ武門ノ手ニ墜チ國ハ封建ノ勢ヲ爲シ人ハ兵農ノ別ヲ爲ス降テ後世ニ至リ名分全ク泯沒シ其弊勝テ言フ可カラス然ルニ太政維新列藩版圖ヲ奉還シ辛未ノ歲ニ及ヒ遠ク郡縣ノ古ニ復ス世襲坐食ノ士ハ其祿ヲ減シ刀劍ヲ脱スルヲ許シ四民漸ク自由ノ權ヲ得セシメントス是レ上下ヲ平均シ人權ヲ齊一ニスル道ニシテ則チ兵農ヲ合一ニスル基ナリ是ニ於テ士ハ從前ノ士ニ非ス民ハ從前ノ民ニアラス均シク。
皇國一般ノ民ニシテ國ニ報スルノ道モ固ヨリ其別ナカルヘシ凡ソ天地ノ間一事一物トシテ稅アラサルハナシ以テ國用ニ充ツ然ラハ則チ人タルモノ固ヨリ心力ヲ盡シ國ニ報セサルヘカラス西人之ヲ稱シテ血稅ト云フ其生血ヲ以テ國ニ報スルノ謂ナリ且ツ國家ニ災害アレハ人々其災害ノ一分ヲ受サルヲ得ス是故ニ人々心力ヲ盡シ國家ノ災害ヲ防クハ則チ自己ノ災害ヲ防クノ基タルヲ知ルヘシ苟モ國アレハ則チ兵備アリ兵備アレハ則チ人々其役ニ就カサルヲ得ス是ニ由テ之ヲ觀レハ民兵ノ法タル固ヨリ天然ノ理ニシテ偶然作意ノ法ニ非ス然而シテ其制ノ如キハ古今ヲ斟酌シ時ト宜ヲ制セサルヘカラス西洋諸國數百年來研究實踐以テ兵制ヲ定ム故ヲ以テ其法極メテ精密ナリ然レトモ政體地理ノ異ナル悉ク之ヲ用フ可カラス故ニ今其長スル所ヲ取リ古昔ノ軍制ヲ補ヒ海陸二軍ヲ備ヘ全國四民男兒二十歲ニ至ル者ハ盡ク兵籍ニ編入シ以テ緩急ノ用ニ備フヘシ鄕長里正厚ク此 御趣意ヲ奉シ徴兵令ニ依リ民庶ヲ說諭シ國家保護ノ大本ヲ知ラシムヘキモノ也。
明治五年壬申十一月二十八日」
かかる内容部分についての書き下し文は、次の通り。
「我が朝上古の制、海内挙て兵ならざるはなし。有事の日、天子之れが元帥となり、丁壮兵役に堪ゆる者を募り、以て服さざるを征す。役を解き家に帰れば、農たり工たり又商賈たり。固より後世雙刀を帯び武士と称し、抗顔座食し、甚しきに至りては、人を殺し、官其の罪を問はざる者の如きに非ず。(中略)
太政維新、列藩版図を奉還し、辛未の歳に及び遠く郡県の古に復す。世襲座食の士は、其禄を滅し、刀剣を脱するを許し、四民漸く自由の権を得せしめんとす。是れ上下を平均し、人権を斉一にする道にして、即ち兵農を合一にする基なり。
✳️(参考までに、この節のみの現代訳(例、ただし意訳)は、次の通り)
「この度、政権と諸藩の領土を天皇に返上したことで、四民はようやく自由を得たのである。自由とは、上下の区別がないことであり、これがすべての人に人権を与える道である。このことが兵士と農民が一つになれる基礎なのである。武士も民もこれまでの身分と異なり、万民が等しく皇国の民であり、国に仕える時にこれまでの身分の区別はないのである」。✳️
是に於て士は従前の士に非ず。民は従前の民にあらず。均しく皇国一般の民にして、国に報ずるの道も固より其の別なかるべし。凡そ天地の間、一事一物として税あらざるはなし、以て国用に宛つ。然らば則ち人たるもの固より心力を尽くし、国に報ぜざるべからず。西人之れを称して血税と云ふ。其の生血を以て国に報ずるの謂なり。
且つ国家に災害あれば、人々其の災害の一分を受けざるを得ず。是れが故に人々心力を尽し、国家の災害を防ぐは、則ち自己の災害を防ぐの基たるを知るべし。苟も国あれば則ち兵備あり、兵備あれば則ち 人々其の役に就かざるを得ず。
是に由てこれを観れば、民兵の法たる、固より天然の理にして、偶然作意の法に非ず。然り而して其の制の如きは、古今を斟酌し、時と宜を制せざるべからず。西洋諸国数百年来研究実践以て兵制を定む。
故を以て、其法極めて精密なり。然れども政体・地理の異なる、悉くこれを用ふべからず。故に今其の長ずる所を取り、古昔の軍制を補ひ、海陸二軍を備へ、全国四民男児二十歳に至る者は、尽く兵籍に編入し、以て緩急の用に備ふべし。郷長・里正、厚く此の御趣意を奉じ、徴兵令に依り、民庶を説諭し、国家保護の大本を知るらしむべきものなり。」
なお、正式には、1872年(明治5年)12月28日に、「徴兵令詔書及ヒ徴兵告諭」(太政官布告第379号)の形だ。これに基づいて、翌1873年(明治6年)1月10日に「徴兵編成並概則(徴兵令)」が公布される。
主な内容としては、全国に六鎮台を置き、六軍管区におく。満20歳以上の男子は原則として徴兵検査を受けなければならない。合格すると、3年間の兵役が課せられる。その終了後2年間は家業に戻るも、後備軍として扱われる。なお、官吏、官立学校生徒、戸主、代人料270円の納入者などを対象に、兵役免役への道が付帯されている。
また、これにまつわる一説には、次のようなエピソード混じりで、徴兵対象を広め(富裕者などに有利か)に紹介する向きもある。
「徴兵が免除される者は、罪人・官吏・公立学校生徒・洋行学生・代人料270円の上納者・家長・嗣子(あととり)・独子独孫・養子・徴兵在役中の兄弟などであった。合法的に徴兵忌避をはかる者も少なくなかった。たとえば、夏目漱石は、大学生の徴兵猶予が26歳までと規定されていたため、大学卒業の前年の猶予期限切れをひかえた1892年(明治25年)に北海道に移籍して一戸を創立している。」(清水勲編「ピゴー日本素描集」岩波文庫、1986)
しかして、これの一説にある「凡そ天地の間、一事一物として税あらざるはなし、以て国用に宛つ。然らば則ち人たるもの固より心力を尽くし、国に報ぜざるべからず。西人之れを称して血税と云ふ。其の生血を以て国に報ずるの謂なり」というのは、如何にも「口が滑ってしまった」のかもしれない。かくして、かかる下りが、新たな時代に自分たちの暮らしはどうなるかを注視していた全国の農民を刺激し、全体としての心配を増幅、拡大させたのであろう。
そして迎えた1873年(明治6年)3月には、三重県牟婁郡神内村において、全国に先駆けての一揆が起こる(以下は、主なものを簡単に紹介したい)。
次いでの5月26日から6月2日にかけては、現在でいう岡山県において、特に東北部の美作地方では数万人がこの一揆に参加し、2万6906人が処罰(内、死刑15人)された。
当時のこの地域の大方は、北条県に区割りされていたのを含め、「美作血税一揆」もしくは「北条県一揆」と呼び慣わす。
なお、ここに北条県とは、1871年(明治4年)11月15日には、第1次府県統合により、それまでの津山県、鶴田県、真島県が統合されて発足したもの。県庁所在地は、西北条郡山下(現在は津山市山下、津山文化センターの地)の津山城内であった。旧津山県の小豆島の飛地も、当面の間管轄することとされた。1872年(明治5年)1月25日には、 かかる小豆島の飛地を香川県(第1次)に移管する。
1876年(明治9年)4月18日 には、第2次府県統合があり、北条県は廃止、岡山県に編入される。
これにも触発されたのであろうか、6月19日から23日にかけての鳥取県会見郡の一揆では、約1万2千人がそれに参加し、約1万905人が処罰されたという。
さらに、6月27日から7月6日にかけては、香川県7郡で同様の一揆が勃発し、これによる処罰者は約2万人(内、死刑7人)に上る。
それでも収まらなかったと見え、1874年(明治7年)の12月には、高知県幡多郡において、これまた、かかる「告諭」を、人間の血(なお、高知では、むしろ「膏(あぶら)」と言い慣わしていたとのことながら、ここでは立ち入らない)、すなわち農民から血の一滴、また一滴を搾り取る、いわば「血の税金」を天皇の名前をもって政府が言い渡たすものに見立て、これに実力行使で反対する一揆が続く。
これらで、かれらがほぼ一致して「徴兵制度を廃止すること」の要求を、「地租改正」への反対とともに、「時代がわり」での、他の様々な要求の中心に掲げるに至ったのは、ほかでもない、同告諭に込められる「新たな重税」であったのは、疑いあるまい。
(続く)
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