新◻️49の3『岡山の今昔』神戸事件(1868)

2020-08-06 09:00:12 | Weblog
49の3『岡山の今昔』神戸事件(1868)

 時代の変わり目には、よく予想もつかないことが起こるものだ。ここに神戸事件とは、1868年2月4日(明治元年1月11日)、兵庫県明石に宿泊していた岡山藩の軍勢約450名及び大砲方を率いた一軍がいた。同藩の家老日置氏が率いて、11日午後2時ごろ、一行が神戸の三宮神社前に差しかかった。
 と、その時、一説には、備前藩兵の隊列をフランス水兵が横切ったのだという。すると、これに驚いた藩兵が、彼らに向けて発砲し、相手方に負傷者が出る、フランス側も応戦したことで銃撃戦になっていく。

 また、別の一説によると、こうなっていたという。

 「2月4日、この日早朝から備前の兵士が神戸を行進しつつあったが、午後2時ごろ、その家老某の家来が、行列の前方を横切った一名のアメリカ人水兵を射殺した。日本人の考えからすれば、これは死の懲罰に値する無礼な行為だったのである。
 そのあとで、彼らは出会った外国人をかたっぱしから殺害しようとしたが、幸いにも大事には至らなかった。後に外国人居留地となった場所は、当時は広々とした野原で、その奥の端を大きな道が通っていたが、そこを行進中の備前の兵士が確かに元込銃で突然火ぶたを切ったのである。すると、外国人が平地を横切って、ころげるようにして行くのが見られた。」(アーネスト・サトウ著、坂田精一訳「一外交官の見た明治維新(下)」岩波文庫、1960)

 そのうちに、「居留地(神戸旧居留地)を検分中の欧米諸国公使らに水平射撃を加えた」として、外国軍が組織され、彼らが神戸中心部を占拠する動きにまで発展する。
 かかる列国で組織する公使団(イギリス、フランス、イタリア、アメリカ、プロシア、オランダ)は、日本の政権交代と幕府が彼らと締結した条約に基づき、発砲を号令した士官の処刑を明治新政府に対し要求してくる。

 この国際間での紛争に驚いたのは明治政府で、なんとか大事にならないように、岡山藩に厳しい処置をもとめる。いわく、「天朝の為、皇国のため、備前一国のため、日置一家のため」、発砲を命じた者の死を望むと。
 結局、岡山藩は「非」を認める。その隊列の隊長であった備前藩士滝瀧善三郎(1837~1868)を切腹させ、これによってなんとか解決を見た。

(続く)

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◻️新192の4の13『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、竹内文)

2020-08-06 08:19:20 | Weblog
192の4の13『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、竹内文)

 竹内文(たけのうちあや、たけのうちふみ、1868~1921)は、教育家だ。父は津山藩士で、柔術師範として禄を食(は)んでいた。1874年(明治7年)に開校された時習(じしゅう)小学校に学ぶ。それを卒業後は、津山中学校にいく。

 その頃既に、福沢諭吉の「男も人なり、女も人なり」、また「学制頒布(はんぷ)に付布告」(1872)での「以後一般の人民華士族農工商及婦女子必ず邑に不学の戸なく家に不学の人なかりしめん」、さらに「人間の道男女の差あることなし」(「学制施行に関する文部省の計画」、1872)などという言葉に感銘を受け、女性の自立を模索していたのであろうか。

 それからは、大阪府立中学校に入学して6か月を過ごし、翌年郷里に六郡共立中学校ができたことから、津山に帰郷して、入学をはたす。

 そして迎えた1884年(明治17年)9月には、人生の転機が訪れる。神戸の神戸英和女学校(現在の神戸女学院)に入学する。その時の新聞には、こんな祝辞が載る。

 「作州津山伏見町森本宗吉長女フテは・・・父母に乞い学友竹内フミと共に奮発して終に神戸英和学校へ入学したりしはツイこの程の事なりとか」(10月7日付け山陽新報)

 その翌年にはキリスト教の洗礼を受ける。この間に、英語を熱心に学ぶ。1889年(明治22年)にそこを卒業すると、札幌独立教会伝道師の馬場種太郎と北海道で所帯を持つ。

 ところが、1893年(明治26年)に夫が死に、子供二人と残されてしまう。それからは京都に行き、下宿屋をしたりで暮らしていたという。さらに、1894年(明治27年)には、津山に帰り、南新座の自宅で裁縫の塾を開く。

 その頃にはもう英語の塾をやりたい気持ちがあったようで、まずは1897年(明治30年)に、津山女学学芸会(津山女学校)を開校する。同年9月に文部省に設立認可を願い出たものの、うまくいかない。

 翌年には、同じ津山で裁縫が中心の淑徳館が認可を得る。竹内の女学校は、私塾として続けるしかなく、なかなかに経営が大変だったらしい。そんな中でも、授業前には皆で賛美歌を歌い、体操にはダンスを採り入れ、家事や育児に時間を設け、さらに英語は竹内自らが教えるなど、斬新な授業であったという。

 そしての1901年(明治34年)、津山を訪れた薄田泣菫は、かかる女学校校長の竹内を励まそうとしたらしい。後に設けられた詩碑「公孫樹下にたちて」(長法寺)には、その一部がこう記されている。
 「銀杏よ、汝常盤樹の神のめぐみの緑葉を、霜に誇るにくらべては、いかに自然の健児ぞや。われら願はく狗児の乳のしたゝりに媚ぶる如、心よわくも平和の小さき名をば呼ばざらむ。絶ゆる隙なきたゝかひに、馴れし心の驕りこそ、ながき吾世のながらへの栄ぞ、価値ぞ、幸福ぞ。」
 その同じ1901年には、津山に県立の女学校の設立が許可されており、1903年(明治36年)に県立津山女学校として開校する。竹内は自らの学校を閉じ、単身で東京へ出る。津山の松平家の家庭教師を務める。その後の1921年(大正10年)に波乱の人生を閉じたのは、いかにも惜しい、せめて自ら育み、培ってきた大いなる夢を某かの手記にして後世に総覧してほしかった。


(続く)

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