49の3『岡山の今昔』神戸事件(1868)
時代の変わり目には、よく予想もつかないことが起こるものだ。ここに神戸事件とは、1868年2月4日(明治元年1月11日)、兵庫県明石に宿泊していた岡山藩の軍勢約450名及び大砲方を率いた一軍がいた。同藩の家老日置氏が率いて、11日午後2時ごろ、一行が神戸の三宮神社前に差しかかった。
と、その時、一説には、備前藩兵の隊列をフランス水兵が横切ったのだという。すると、これに驚いた藩兵が、彼らに向けて発砲し、相手方に負傷者が出る、フランス側も応戦したことで銃撃戦になっていく。
また、別の一説によると、こうなっていたという。
「2月4日、この日早朝から備前の兵士が神戸を行進しつつあったが、午後2時ごろ、その家老某の家来が、行列の前方を横切った一名のアメリカ人水兵を射殺した。日本人の考えからすれば、これは死の懲罰に値する無礼な行為だったのである。
そのあとで、彼らは出会った外国人をかたっぱしから殺害しようとしたが、幸いにも大事には至らなかった。後に外国人居留地となった場所は、当時は広々とした野原で、その奥の端を大きな道が通っていたが、そこを行進中の備前の兵士が確かに元込銃で突然火ぶたを切ったのである。すると、外国人が平地を横切って、ころげるようにして行くのが見られた。」(アーネスト・サトウ著、坂田精一訳「一外交官の見た明治維新(下)」岩波文庫、1960)
そのうちに、「居留地(神戸旧居留地)を検分中の欧米諸国公使らに水平射撃を加えた」として、外国軍が組織され、彼らが神戸中心部を占拠する動きにまで発展する。
かかる列国で組織する公使団(イギリス、フランス、イタリア、アメリカ、プロシア、オランダ)は、日本の政権交代と幕府が彼らと締結した条約に基づき、発砲を号令した士官の処刑を明治新政府に対し要求してくる。
時代の変わり目には、よく予想もつかないことが起こるものだ。ここに神戸事件とは、1868年2月4日(明治元年1月11日)、兵庫県明石に宿泊していた岡山藩の軍勢約450名及び大砲方を率いた一軍がいた。同藩の家老日置氏が率いて、11日午後2時ごろ、一行が神戸の三宮神社前に差しかかった。
と、その時、一説には、備前藩兵の隊列をフランス水兵が横切ったのだという。すると、これに驚いた藩兵が、彼らに向けて発砲し、相手方に負傷者が出る、フランス側も応戦したことで銃撃戦になっていく。
また、別の一説によると、こうなっていたという。
「2月4日、この日早朝から備前の兵士が神戸を行進しつつあったが、午後2時ごろ、その家老某の家来が、行列の前方を横切った一名のアメリカ人水兵を射殺した。日本人の考えからすれば、これは死の懲罰に値する無礼な行為だったのである。
そのあとで、彼らは出会った外国人をかたっぱしから殺害しようとしたが、幸いにも大事には至らなかった。後に外国人居留地となった場所は、当時は広々とした野原で、その奥の端を大きな道が通っていたが、そこを行進中の備前の兵士が確かに元込銃で突然火ぶたを切ったのである。すると、外国人が平地を横切って、ころげるようにして行くのが見られた。」(アーネスト・サトウ著、坂田精一訳「一外交官の見た明治維新(下)」岩波文庫、1960)
そのうちに、「居留地(神戸旧居留地)を検分中の欧米諸国公使らに水平射撃を加えた」として、外国軍が組織され、彼らが神戸中心部を占拠する動きにまで発展する。
かかる列国で組織する公使団(イギリス、フランス、イタリア、アメリカ、プロシア、オランダ)は、日本の政権交代と幕府が彼らと締結した条約に基づき、発砲を号令した士官の処刑を明治新政府に対し要求してくる。
この国際間での紛争に驚いたのは明治政府で、なんとか大事にならないように、岡山藩に厳しい処置をもとめる。いわく、「天朝の為、皇国のため、備前一国のため、日置一家のため」、発砲を命じた者の死を望むと。
結局、岡山藩は「非」を認める。その隊列の隊長であった備前藩士滝瀧善三郎(1837~1868)を切腹させ、これによってなんとか解決を見た。
(続く)
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