♦️198『自然と人間の歴史・世界篇』イギリスの清教徒革命(1637~1647)  

2020-08-16 20:46:41 | Weblog
198『世界の歴史と世界市民』イギリスの清教徒革命(1637~1647)

 イングランドの17世紀は、既に政治的隘路(あいろ)にさしかかっていた。この世紀の初め、子供のいなかったエリザベス1世が亡くなり、代わってスコットランド王のジェームス6世が王位につく。ヘンリー8世の血を引くジェームスがイギリスの王も兼任することになったのである。ちなみに、両者の連合で成り立つイギリス王は、ジェームス1世を名乗る。
 時は移っての1637年、チャールズ1世は、スコットランドにカトリック的な国教会祈祷書をつくって強制しようとしたものの、反発が強く実現できなかった。翌年のスコットランド教会会議は、ジェームズ1世に強制されて以来続いていた主教制の廃止を決議した。1638年、チャールズ1世は、軍を派遣してこの決議を無効ならしめようとした。これを「第一次主教戦争」という。鎮圧は失敗し、翌年スコットランド教会会議と和議を結ぶ。この後、同会議は再度の決議を行う。王は、再度の遠征費を調達するべく、11年の間沙汰やみとなっていた議会の力を借りなければならない。そう考え、1640年4月に議会を招集する。しかし、議会は王と鋭く対立する。扱いに窮した王は、たった3週間で議会を解散した。このため、「短期議会」と呼ばれる。
 1640年7月、国王はスコットランドへ遠征軍をおこした。けれども、スコットランド軍に逆襲され、10月には和約を結ぶ。その条件として、イングランドはスコットランドに、一日850ポンドずつ2か月間(つごう5万ポンド)にわたる賠償金を支払う。仕方なく、チャールズ1世は、賠償金支払いの算段のため、再度議会を招集する。10月に選挙をし、11月には議会が召集された。この議会は、後の1653年まで解散されることなく存続し、機能し続けたことから、「長期議会」と呼ばれる。
 1641年2月、国王の召集がなくても3年に1回は議会は開かれるべきと定めた三年議会法が成立する。5月、会の解散は議会自身の決定のみに基づくとする法が成立する。
1641年11月、オリバー・クロムウェルが長期議会に、国民に訴える内容の「大抗議書文」を提出する。国王、カトリック教徒、堕落したカトリック主教の不正や堕落を責めた。この文は、議会で賛成159、反対148の僅差で可決された。これ以後、長期議会は王党派と議会派に分裂していっく。また、アイルランドでカトリック教徒の反乱があり、数千人のイングランド人ピューリタンが殺害もしくは傷つけられた。議会は、これに国王の許可を得ることなく、鎮圧のための軍隊派遣を決めた。
 1642年3月、王党派はヨークシャーに移った国王を追ってイングランド北部に本拠を移す。かれらは、ロンドンに本拠をおく議会派と戦いを交える構えを見せる。どうすればこの戦いを避けられるかは、顧慮されなかったようだ。7月~8月には、国王チャールズ1世は、挙兵した王党軍を率いて議会に戦線布告し、内戦が勃発した。10月には、エッジヒルの戦いがあった。立ち後れた議会軍であるが、1643年9月、スコットランドとの間に「厳粛な同盟と契約」を約す。これに力を得た議会軍が、1644年7月のマーストン・ムーアの会戦に勝利する。議会軍の士気は、クロムウェルの発案で、従来の出身社会階層による差別を否定したことで高まったと考えられている。
 1645年6月のネーズビーの戦いで、議会軍の勝利は確定的となる。国王は変装してスコットランド軍に投降し、翌年6月には王党軍の主力も降伏した。これまでを「第一次内戦」という。1647年1月には、スコットランド軍より国王の身柄引渡しが行われる。
 ここで、当時の議会勢力の中身を覗いておきたい。この段階で、長老派と独立派が議会内に明確に現れるのは、1645年以後のことであった。そればかりではない、議会内ではレヴェラーズ(平等派もしくは水平派、Levellers)、議会外では軍の存在があった。1747年5月、軍はクロムウェルの指揮命令で、国王チャールズ1世を軍本部に連行した。長老派と結託して、国王が革命を阻止することを警戒したのだ。
 同時に、軍は「軍の主張」を発表し、その中で「軍は全国民のための共通で平等な権利・自由・安全の確立をめざす」(古賀秀男「西洋近代史像ー市民革命と産業革命」明玄書房、1969)とある。軍は、世の常で信じようと信じまいと独自の意思と主張を持っていたようである。ところが、独立派が支配権を握っていた議会の中で、1647年には下層の兵士の中でレヴェラーズ(平等派)が勢力を増しつつあった。そして、当時のレヴェラーズとこれに同調する軍の一部の主張としては、レヴェラーズが取りまとめた「人民協定」(The Agreement of the People)がある。それには、人民主権で、21歳以上の全自由人が選挙権を持つことでの普通選挙、それに十分の一税の廃止要求が含まれていた。

(続く)

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♦️925『自然と人間の歴史・世界篇』中国は、発展途上国から世界の強国へ (2018~2020)

2020-08-16 14:10:27 | Weblog
925『自然と人間の歴史・世界篇』中国は、発展途上国から世界の強国へ
(2018~2020)

 2019年10月の世界銀行総裁のデービッド・マルパスは、第27回の「貧困撲滅のための国際デー」である17日、「中国の市場化改革が数億人を貧困から脱却」と述べていた。
 同総裁はそのおり、世界銀行と国際通貨基金(IMF)の秋の年次総会開幕の記者会見であって、「中国は、世界から注目された改革措置を講じることで、世界経済により多く参加するようになっており、世界経済、グローバル・サプライチェンと緊密につながるようになっている。これは、中国の発展にとって有利であり、中国の貧困削減事業にとっても非常に重要である」と語っていたという。
 これを中国側からいうと、6回目の貧困扶助の日であり、1970年代半ばの改革開放政策の開始から約40年の間に7億人を貧困から脱却させたというから、人類史上に残る程の「快挙」と言えなくもない。
 そればかりか、これだけを見ると、中国はもはや発展途上国を脱皮し、先進国へと進みつつあるようにも受けとることができるのではないかと、そんな話があちこちで浮上してきているようにも見えてくるから、不思議だ。
 そんなおり、今度は、「中国対外融資が膨張、途上国へ強まる支配力、重債務68か国向け4年で倍」という見出しの記事、報道が世界を駆け巡る展開にて、こうした新たな動きを私たちはどのように理解したらよいのだろうか。

 そこで、かかる範囲での2018年末での融資額残高だが、1017億ドル、しかも、この4年間で1.9倍に急増とのこと。この額は、中国も加盟する世界銀行の同1037億ドルに迫る勢いだ。

 それではなぜ、中国からのかかる融資が膨張しているのかというと、あれこれの報道を見ると、おおよそとしては、融資対象の間口がより広く、また審査も簡単なことがあるらしい。だからして、金利が平均3%(20年の期中平均の債務残高をもとに日本経済新聞社が計算)と、世界銀行の1%やIMF(国際通貨基金)の0.6%などに比べかなり高くても、融資を受ける側の途上国としては借りやすいことになっているようだ。

 ついでにもう一つ、2017年の中国企業の対外直接投資額(フロー)を紹介しよう。これは、前年比19.3%減の1582億8800万ドルとなった。前年まで15年連続でその額を伸ばしていた。それが、2017年は中国が対外直接投資統計の公表(2003年)を始めて以降、初のマイナス成長となった。
 その内訳をみると、新規株式投資が42.9%、当期収益再投資が44%を占める。また、対外直接投資フローのうち、約2割の334億7000万ドル分が、クロスボーダー(Cross-border)取引、つまり国際間で行われるM&A(企業の合併・買収)によるもので、これだと経営権取得に突き進んでいる面もあろう。

 さらに、2018年の中国企業の対外直接投資額(フロー)についても、触れておこう。同じく中国の「対外直接投資統計公報」によると、こちらの収支は、前年比9.6%減の1430億37万ドルだったという。これは、統計公表を始めて以降、初のマイナス成長となった2017年に続いて、この年も減少したことになっている

 ご覧のように、2018年からの米中の貿易摩擦の激化前から、それまで一本調子で伸びていた対外直接投資が変調するに至っていることが読み取れよう。これには、政府による、直接投資には慎重を期すようにとの指導があるやに聞く。確かに、野放図に出ていけばよいというものではなく、双方の利益を第一目標に、将来的に持続可能な形で投資なり、経営がなさればなるまい。また、それに国内への投資機会がそれなりのレベルに達してきているのではないだろうか。



(続く)

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○258の6『自然と人間の歴史・日本篇』版籍奉還(1869)

2020-08-16 10:11:48 | Weblog
258の6『自然と人間の歴史・日本篇』版籍奉還(1869)


 顧みれば、東北での戦争終結の報が伝わると、新政府の参謀格にして長州藩の木戸孝允(きどたかよし)は、両手を挙げて喜ぶどころか、「もし版籍奉還が1月か2月に行われていれば、東北の戦乱はなく、惨害を被るものも少なかっただろうが、もはやその機を失してしまった」と嘆じたという。
 そして、不退転の決意で、宿願を果たそうとする。まずは、慎重派の岩倉具視らにその実現を催促し、それからは、志を同じくする大久保と連携して、事に当たる。
 その効果があったのか、旧暦の明治2年1月20日に、長州、薩摩、土佐、肥前各藩の4人の藩主(毛利、島津、山内及び鍋島)の連署による版籍奉還の建白が朝廷に提出される。
 その後、各藩もこれにならい、まず鳥取、佐土原、福井、熊本藩が、さらに大垣、松江、津、彦根藩もあとにつづく。同5月3日までには、262藩が同様の上表を提出する。

 かかる「版籍奉還の上表」 には、こうある。

 「臣某等、頓首再拝、謹みて案ずるに、朝廷1日も失ふ可らざるものは、大体(国体)なり。1日も仮す可らざるものは、大権なり。天祖肇(はじめ)て国を開き、基を建たまひしより、皇統一系、万世無窮、普天率土(ふてんそっと)、其の有に非ざるはなく、其の臣に非ざるはなし、是大体とす。 且与へ、且奪ひ、爵禄以て下を維持し、尺土も私に有すること能はず、一民も私に攘(ぬす)むこと能はず、是れ大権とす。 在昔朝廷海内(かいだい)を統馭(とうぎょ)する一にこれにより、聖躬(せいきゅう)之を親らす。
 故に名実並び立ちて、天下無事なり。中葉以降、綱維(こうい)一たび弛び、権を弄し、柄を争ふ者、踵(きびす)を朝廷に接し、その民を私し、その土を攘(ぬす)むもの、天下に半し、遂に搏噬(はくぜい)攘奪の勢成り、朝廷守る所の体なく、とる所の権なくして、是れを制馭すること能はず。姦雄たがひに乗じ、弱の肉は強の食となり、その大なる者は十数州を併せ、その小なる者は猶士を養ふ数千。 所謂(いわゆる)幕府なる者の如きは、土地人民擅(ほしいまま)にその私する所に分ち、以てその勢権を扶植す。
 是においてか、朝廷徒(いたづら)に虚器を擁し、その視息を窺ひて、喜戚(きせき)をなすに至る。横流の極み、滔天(とうてん)回(めぐ)らざるもの、茲(ここ)に六百有余年。 然れどもその間往々天子の名爵を假りて、その土地人民を私するの跡を蔽う。これ固より君臣の大義上下の名分、万古不抜のもの有に由(よる)なり。
 方今大政新たに復し、万機これを親らす。実に千載の一機、その名あって、その実なかる可らず。その実を挙るは大義を明らかにし、名分を正すより先なるはなし。 さきに徳川氏の起る、古家旧族天下に半ばす。依って家を興すもの、また多し。
 而してその土地人民これを朝廷に受ると否とを問はず、因襲の久しきを以て今日に至る。世或いはおもへらく是祖先鋒鏑(ほうてき)の経始する所と。ああ何ぞ兵を擁して官庫に入り、その貨を奪ひ、是死を犯して獲所のものと云うに異ならんや。庫に入るものは、人その賊たるを知る。土地人民を攘奪するに至っては、天下これを怪しまず、甚だしきかな名義の紊壊(びんかい)すること。 今也丕新(ひしん)の治を求む。宜しく大体の在る所、大権の繋がる所、毫も假べからず。   

 抑(そもそも)臣等居る所は、即ち天子の土。臣等牧する所は、即ち天子の民なり。安(いづく)んぞ私有すべけんや。今慎みてその版籍を収めて之を上(たてまつ)る。願くは、朝廷その宜しきに処し、その与ふ可きは之を与へ、その奪ふ可きはこれを奪ひ、凡(およそ)列藩の封土、さらに宜しく勅命を下し、これを改め定むべし。   

 而して制度・典型・軍旅の政より、戎服(じゅうふく)・器械の制に至るまで、悉(ことごと)く朝廷より出で、天下の事、大小となく皆一に帰せしむべし。然る後に名実相得、始て海外各国と並び立つべし。是れ朝廷今日の急務にして、また臣下の責なり。故に臣某等、不肖謭劣(せんれつ)を顧みず、敢て鄙衷(ひちゅう)を献ず。天日の明、幸に照臨を賜へ。 
 臣某等 誠恐誠惶 頓首再拝以表。 毛利宰相中将 島津少将 鍋島少将 山内少将」


 つまるところ、これの後半になっての処にある「抑(そもそも)臣等居る所は、即ち天子の土。臣等牧する所は、即ち天子の民なり。安(いづく)んぞ私有すべけんや。今慎みてその版籍を収めて之を上(たてまつ)る。願くは、朝廷その宜しきに処し、その与ふ可きは之を与へ、その奪ふ可きはこれを奪ひ、凡(およそ)列藩の封土、さらに宜しく勅命を下し、これを改め定むべし」という下りが、「味噌」の部分なのだろう。


 それというのは、例えば、福井藩は郡県制度の採用も献言していたものの、ほとんどの藩はそれらとは別の思惑を抱いていたという。彼らは、いずれ版籍はあらためて与えられるものと信じていたようなのだ。 つまり、今ここで進んでみずからの支配の権利を差し出すのは形式的な事柄であって、その後、新政府から、これまでとほぼ変わらぬ実質にて沙汰があるのではないかと踏んでいたという。
 しかも、実は上表の文面にそう誤解されるような表現が入っていたとのこと、逆にいうと、それが「所領安堵の前提であるかのように説くほかなかった」とのちに木戸は述懐していると伝わる。
 それにしても、これにある仰々しい程のへりくだった文の羅列は、誰に対するものだろうか。この国の人民に対するものだろうか。しかして、新しい世の中(いわば政体)というのが、「自由」や「人権」とは表現しづらい、全く違う流れであることを、いみじくも表している。


(続く)


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