198『世界の歴史と世界市民』イギリスの清教徒革命(1637~1647)
イングランドの17世紀は、既に政治的隘路(あいろ)にさしかかっていた。この世紀の初め、子供のいなかったエリザベス1世が亡くなり、代わってスコットランド王のジェームス6世が王位につく。ヘンリー8世の血を引くジェームスがイギリスの王も兼任することになったのである。ちなみに、両者の連合で成り立つイギリス王は、ジェームス1世を名乗る。
時は移っての1637年、チャールズ1世は、スコットランドにカトリック的な国教会祈祷書をつくって強制しようとしたものの、反発が強く実現できなかった。翌年のスコットランド教会会議は、ジェームズ1世に強制されて以来続いていた主教制の廃止を決議した。1638年、チャールズ1世は、軍を派遣してこの決議を無効ならしめようとした。これを「第一次主教戦争」という。鎮圧は失敗し、翌年スコットランド教会会議と和議を結ぶ。この後、同会議は再度の決議を行う。王は、再度の遠征費を調達するべく、11年の間沙汰やみとなっていた議会の力を借りなければならない。そう考え、1640年4月に議会を招集する。しかし、議会は王と鋭く対立する。扱いに窮した王は、たった3週間で議会を解散した。このため、「短期議会」と呼ばれる。
1640年7月、国王はスコットランドへ遠征軍をおこした。けれども、スコットランド軍に逆襲され、10月には和約を結ぶ。その条件として、イングランドはスコットランドに、一日850ポンドずつ2か月間(つごう5万ポンド)にわたる賠償金を支払う。仕方なく、チャールズ1世は、賠償金支払いの算段のため、再度議会を招集する。10月に選挙をし、11月には議会が召集された。この議会は、後の1653年まで解散されることなく存続し、機能し続けたことから、「長期議会」と呼ばれる。
1641年2月、国王の召集がなくても3年に1回は議会は開かれるべきと定めた三年議会法が成立する。5月、会の解散は議会自身の決定のみに基づくとする法が成立する。
1641年11月、オリバー・クロムウェルが長期議会に、国民に訴える内容の「大抗議書文」を提出する。国王、カトリック教徒、堕落したカトリック主教の不正や堕落を責めた。この文は、議会で賛成159、反対148の僅差で可決された。これ以後、長期議会は王党派と議会派に分裂していっく。また、アイルランドでカトリック教徒の反乱があり、数千人のイングランド人ピューリタンが殺害もしくは傷つけられた。議会は、これに国王の許可を得ることなく、鎮圧のための軍隊派遣を決めた。
1642年3月、王党派はヨークシャーに移った国王を追ってイングランド北部に本拠を移す。かれらは、ロンドンに本拠をおく議会派と戦いを交える構えを見せる。どうすればこの戦いを避けられるかは、顧慮されなかったようだ。7月~8月には、国王チャールズ1世は、挙兵した王党軍を率いて議会に戦線布告し、内戦が勃発した。10月には、エッジヒルの戦いがあった。立ち後れた議会軍であるが、1643年9月、スコットランドとの間に「厳粛な同盟と契約」を約す。これに力を得た議会軍が、1644年7月のマーストン・ムーアの会戦に勝利する。議会軍の士気は、クロムウェルの発案で、従来の出身社会階層による差別を否定したことで高まったと考えられている。
1645年6月のネーズビーの戦いで、議会軍の勝利は確定的となる。国王は変装してスコットランド軍に投降し、翌年6月には王党軍の主力も降伏した。これまでを「第一次内戦」という。1647年1月には、スコットランド軍より国王の身柄引渡しが行われる。
ここで、当時の議会勢力の中身を覗いておきたい。この段階で、長老派と独立派が議会内に明確に現れるのは、1645年以後のことであった。そればかりではない、議会内ではレヴェラーズ(平等派もしくは水平派、Levellers)、議会外では軍の存在があった。1747年5月、軍はクロムウェルの指揮命令で、国王チャールズ1世を軍本部に連行した。長老派と結託して、国王が革命を阻止することを警戒したのだ。
同時に、軍は「軍の主張」を発表し、その中で「軍は全国民のための共通で平等な権利・自由・安全の確立をめざす」(古賀秀男「西洋近代史像ー市民革命と産業革命」明玄書房、1969)とある。軍は、世の常で信じようと信じまいと独自の意思と主張を持っていたようである。ところが、独立派が支配権を握っていた議会の中で、1647年には下層の兵士の中でレヴェラーズ(平等派)が勢力を増しつつあった。そして、当時のレヴェラーズとこれに同調する軍の一部の主張としては、レヴェラーズが取りまとめた「人民協定」(The Agreement of the People)がある。それには、人民主権で、21歳以上の全自由人が選挙権を持つことでの普通選挙、それに十分の一税の廃止要求が含まれていた。
(続く)
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イングランドの17世紀は、既に政治的隘路(あいろ)にさしかかっていた。この世紀の初め、子供のいなかったエリザベス1世が亡くなり、代わってスコットランド王のジェームス6世が王位につく。ヘンリー8世の血を引くジェームスがイギリスの王も兼任することになったのである。ちなみに、両者の連合で成り立つイギリス王は、ジェームス1世を名乗る。
時は移っての1637年、チャールズ1世は、スコットランドにカトリック的な国教会祈祷書をつくって強制しようとしたものの、反発が強く実現できなかった。翌年のスコットランド教会会議は、ジェームズ1世に強制されて以来続いていた主教制の廃止を決議した。1638年、チャールズ1世は、軍を派遣してこの決議を無効ならしめようとした。これを「第一次主教戦争」という。鎮圧は失敗し、翌年スコットランド教会会議と和議を結ぶ。この後、同会議は再度の決議を行う。王は、再度の遠征費を調達するべく、11年の間沙汰やみとなっていた議会の力を借りなければならない。そう考え、1640年4月に議会を招集する。しかし、議会は王と鋭く対立する。扱いに窮した王は、たった3週間で議会を解散した。このため、「短期議会」と呼ばれる。
1640年7月、国王はスコットランドへ遠征軍をおこした。けれども、スコットランド軍に逆襲され、10月には和約を結ぶ。その条件として、イングランドはスコットランドに、一日850ポンドずつ2か月間(つごう5万ポンド)にわたる賠償金を支払う。仕方なく、チャールズ1世は、賠償金支払いの算段のため、再度議会を招集する。10月に選挙をし、11月には議会が召集された。この議会は、後の1653年まで解散されることなく存続し、機能し続けたことから、「長期議会」と呼ばれる。
1641年2月、国王の召集がなくても3年に1回は議会は開かれるべきと定めた三年議会法が成立する。5月、会の解散は議会自身の決定のみに基づくとする法が成立する。
1641年11月、オリバー・クロムウェルが長期議会に、国民に訴える内容の「大抗議書文」を提出する。国王、カトリック教徒、堕落したカトリック主教の不正や堕落を責めた。この文は、議会で賛成159、反対148の僅差で可決された。これ以後、長期議会は王党派と議会派に分裂していっく。また、アイルランドでカトリック教徒の反乱があり、数千人のイングランド人ピューリタンが殺害もしくは傷つけられた。議会は、これに国王の許可を得ることなく、鎮圧のための軍隊派遣を決めた。
1642年3月、王党派はヨークシャーに移った国王を追ってイングランド北部に本拠を移す。かれらは、ロンドンに本拠をおく議会派と戦いを交える構えを見せる。どうすればこの戦いを避けられるかは、顧慮されなかったようだ。7月~8月には、国王チャールズ1世は、挙兵した王党軍を率いて議会に戦線布告し、内戦が勃発した。10月には、エッジヒルの戦いがあった。立ち後れた議会軍であるが、1643年9月、スコットランドとの間に「厳粛な同盟と契約」を約す。これに力を得た議会軍が、1644年7月のマーストン・ムーアの会戦に勝利する。議会軍の士気は、クロムウェルの発案で、従来の出身社会階層による差別を否定したことで高まったと考えられている。
1645年6月のネーズビーの戦いで、議会軍の勝利は確定的となる。国王は変装してスコットランド軍に投降し、翌年6月には王党軍の主力も降伏した。これまでを「第一次内戦」という。1647年1月には、スコットランド軍より国王の身柄引渡しが行われる。
ここで、当時の議会勢力の中身を覗いておきたい。この段階で、長老派と独立派が議会内に明確に現れるのは、1645年以後のことであった。そればかりではない、議会内ではレヴェラーズ(平等派もしくは水平派、Levellers)、議会外では軍の存在があった。1747年5月、軍はクロムウェルの指揮命令で、国王チャールズ1世を軍本部に連行した。長老派と結託して、国王が革命を阻止することを警戒したのだ。
同時に、軍は「軍の主張」を発表し、その中で「軍は全国民のための共通で平等な権利・自由・安全の確立をめざす」(古賀秀男「西洋近代史像ー市民革命と産業革命」明玄書房、1969)とある。軍は、世の常で信じようと信じまいと独自の意思と主張を持っていたようである。ところが、独立派が支配権を握っていた議会の中で、1647年には下層の兵士の中でレヴェラーズ(平等派)が勢力を増しつつあった。そして、当時のレヴェラーズとこれに同調する軍の一部の主張としては、レヴェラーズが取りまとめた「人民協定」(The Agreement of the People)がある。それには、人民主権で、21歳以上の全自由人が選挙権を持つことでの普通選挙、それに十分の一税の廃止要求が含まれていた。
(続く)
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