211の18『岡山の今昔』岡山人(20世紀、森近運平)
岡山が生んだ社会進歩の先覚者に、森近運平(もりちかうんぺい、1881~1911)がいる。当時の後月郡高屋村(現在の井原市高屋町)の生まれ。鴨方の生石高等小学校の後、帰郷して農業に従事。その後、勉学を志し、岡山県農事学校と岡山農学校へと進む。優秀な成績であったという。1901年(明治35年)には、県庁へ入って主に農政を担当する。
その間に社会のありかたに疑問を感じるようになっていく。1906年(明治39年)には、日本社会党の結成に参加し、評議員、幹事となる。翌年になると、「日刊平民新聞」の発刊に参加するのだが、当局の弾圧により発行停止処分となる。党の方も、運動方針をめぐり折り合いがつかなかった。直接行動派(幸徳秋水ら)が議会政策派(片山潜ら)したところへ堺利彦が併用案を出して繕おうとしたものの、政府は結党を禁じた。平民新聞も廃刊となった。
それでも、怯まない。6月、大坂の宮武外骨らの援助で「大坂平民新聞」の発刊にこぎつける。森近は、その創刊号に「賃金の話・上」を掲載するのであった。彼らは、近畿での労働運動の発展に力を尽くす。多忙の中、相当に勉強したのであろう、11月には「社会主義要綱」を堺利彦との共著であらわす。しかし、1908年(明治41年)、「農民の目ざまし」と題した同新聞付録が秩序攪乱の名によって森近は逮捕され、新聞は休刊となり、当局(第二次桂内閣)の弾圧が強まる中、同新聞も廃刊に追い込まれる。
1909年(明治42年)、森近は岡山県高屋村の故郷に戻り、温室に着目した農業を営み、地域の農業指導から産業組合の育成に至るまで、地域人として暮らす。1910年(明治43年)からは、全国で無政府主義者、社会主義者への弾圧がエスカレートしていく。5月に長野県で大量検挙があった後、6月には明治天皇に対する暗殺計画があるとして、全国で逮捕者が出る。これを「大逆事件」という。この事件は、後に、実は実在しない「爆発物取締法違反」の容疑をかぶせることで国民の目をそらし、社会の批判勢力を一掃しようとする山形有朋(やまがたありとも、当時の政界の黒幕)や平沼騏(き)一郎大審院(当時の最高裁)検事の合作であったことが明らかとなっている。
かねてから直接行動派から距離をおき、身に覚えのない森近もこの事件の容疑者として逮捕された。かつて天皇紀元の非歴史性をもらしたことが嫌疑となった。12月10日、大審院で公判が始まり、被告26人に死刑、2人に無期懲役が求刑される。翌1911年(明治44年)1月には、判決が下り、森近を含む24人に死刑が言い渡されるも、その翌日には、そのうち12人を無期懲役に変更した。森近には減刑がならず、その6日後に死刑が執行される。堺利彦らが、被処刑者の遺体を引き取った。
そんな森近の最後に遺したものとしては、その刑の直前に書き始めた「回顧三十年」(娘あて)は、行方がつまびらかでないのであろうか。僅かに、次の書き置きが伝わる。
その間に社会のありかたに疑問を感じるようになっていく。1906年(明治39年)には、日本社会党の結成に参加し、評議員、幹事となる。翌年になると、「日刊平民新聞」の発刊に参加するのだが、当局の弾圧により発行停止処分となる。党の方も、運動方針をめぐり折り合いがつかなかった。直接行動派(幸徳秋水ら)が議会政策派(片山潜ら)したところへ堺利彦が併用案を出して繕おうとしたものの、政府は結党を禁じた。平民新聞も廃刊となった。
それでも、怯まない。6月、大坂の宮武外骨らの援助で「大坂平民新聞」の発刊にこぎつける。森近は、その創刊号に「賃金の話・上」を掲載するのであった。彼らは、近畿での労働運動の発展に力を尽くす。多忙の中、相当に勉強したのであろう、11月には「社会主義要綱」を堺利彦との共著であらわす。しかし、1908年(明治41年)、「農民の目ざまし」と題した同新聞付録が秩序攪乱の名によって森近は逮捕され、新聞は休刊となり、当局(第二次桂内閣)の弾圧が強まる中、同新聞も廃刊に追い込まれる。
1909年(明治42年)、森近は岡山県高屋村の故郷に戻り、温室に着目した農業を営み、地域の農業指導から産業組合の育成に至るまで、地域人として暮らす。1910年(明治43年)からは、全国で無政府主義者、社会主義者への弾圧がエスカレートしていく。5月に長野県で大量検挙があった後、6月には明治天皇に対する暗殺計画があるとして、全国で逮捕者が出る。これを「大逆事件」という。この事件は、後に、実は実在しない「爆発物取締法違反」の容疑をかぶせることで国民の目をそらし、社会の批判勢力を一掃しようとする山形有朋(やまがたありとも、当時の政界の黒幕)や平沼騏(き)一郎大審院(当時の最高裁)検事の合作であったことが明らかとなっている。
かねてから直接行動派から距離をおき、身に覚えのない森近もこの事件の容疑者として逮捕された。かつて天皇紀元の非歴史性をもらしたことが嫌疑となった。12月10日、大審院で公判が始まり、被告26人に死刑、2人に無期懲役が求刑される。翌1911年(明治44年)1月には、判決が下り、森近を含む24人に死刑が言い渡されるも、その翌日には、そのうち12人を無期懲役に変更した。森近には減刑がならず、その6日後に死刑が執行される。堺利彦らが、被処刑者の遺体を引き取った。
そんな森近の最後に遺したものとしては、その刑の直前に書き始めた「回顧三十年」(娘あて)は、行方がつまびらかでないのであろうか。僅かに、次の書き置きが伝わる。
「(前略)実際の処、私は多分無罪の判決を得る事と思ふて居たのである。併(しか)し滋(ここ)に一言を費やして置かねばならぬのは、自分が罪なしと思った事と裁判官が死に当たると断じた事は、一見妙に感ぜられるかも知らぬが、其実は両者の立場が違ふのであって、矛盾でも衝突でも無い、並立し得べき二箇の真実であると云ふの一事である。
しかして其結果は裁判官の真実が被告の真実を圧倒する。滋に現時の国家組織の特色を発揮するのである。私は斯(か)の如くして死なねばならぬ。近来少し考へて居った事実があるので、今死ぬのは聊(いささ)か口惜しい。
しかして其結果は裁判官の真実が被告の真実を圧倒する。滋に現時の国家組織の特色を発揮するのである。私は斯(か)の如くして死なねばならぬ。近来少し考へて居った事実があるので、今死ぬのは聊(いささ)か口惜しい。
けれども致方がない。自然界の理法に従って活き、また之に従って死ぬ。生死も自然であれば、生を喜び死を厭(いと)ふも亦(また)自然である。然り、私は唯だ自然法に支配せられて生死する。(以下略)」
それに加え、堺利彦の差し入れた本の裏表紙に、彼が爪で書いたという「父上は怒り玉ひぬ、我は泣きぬ、さめて恋しい故郷の夢」との句が、その時の心情を今に伝える。
(続く)
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