新◻️211の18『岡山の今昔』岡山人(20世紀、森近運平)

2020-08-10 18:08:37 | Weblog
211の18『岡山の今昔』岡山人(20世紀、森近運平)

 岡山が生んだ社会進歩の先覚者に、森近運平(もりちかうんぺい、1881~1911)がいる。当時の後月郡高屋村(現在の井原市高屋町)の生まれ。鴨方の生石高等小学校の後、帰郷して農業に従事。その後、勉学を志し、岡山県農事学校と岡山農学校へと進む。優秀な成績であったという。1901年(明治35年)には、県庁へ入って主に農政を担当する。
 その間に社会のありかたに疑問を感じるようになっていく。1906年(明治39年)には、日本社会党の結成に参加し、評議員、幹事となる。翌年になると、「日刊平民新聞」の発刊に参加するのだが、当局の弾圧により発行停止処分となる。党の方も、運動方針をめぐり折り合いがつかなかった。直接行動派(幸徳秋水ら)が議会政策派(片山潜ら)したところへ堺利彦が併用案を出して繕おうとしたものの、政府は結党を禁じた。平民新聞も廃刊となった。
 それでも、怯まない。6月、大坂の宮武外骨らの援助で「大坂平民新聞」の発刊にこぎつける。森近は、その創刊号に「賃金の話・上」を掲載するのであった。彼らは、近畿での労働運動の発展に力を尽くす。多忙の中、相当に勉強したのであろう、11月には「社会主義要綱」を堺利彦との共著であらわす。しかし、1908年(明治41年)、「農民の目ざまし」と題した同新聞付録が秩序攪乱の名によって森近は逮捕され、新聞は休刊となり、当局(第二次桂内閣)の弾圧が強まる中、同新聞も廃刊に追い込まれる。
 1909年(明治42年)、森近は岡山県高屋村の故郷に戻り、温室に着目した農業を営み、地域の農業指導から産業組合の育成に至るまで、地域人として暮らす。1910年(明治43年)からは、全国で無政府主義者、社会主義者への弾圧がエスカレートしていく。5月に長野県で大量検挙があった後、6月には明治天皇に対する暗殺計画があるとして、全国で逮捕者が出る。これを「大逆事件」という。この事件は、後に、実は実在しない「爆発物取締法違反」の容疑をかぶせることで国民の目をそらし、社会の批判勢力を一掃しようとする山形有朋(やまがたありとも、当時の政界の黒幕)や平沼騏(き)一郎大審院(当時の最高裁)検事の合作であったことが明らかとなっている。
 かねてから直接行動派から距離をおき、身に覚えのない森近もこの事件の容疑者として逮捕された。かつて天皇紀元の非歴史性をもらしたことが嫌疑となった。12月10日、大審院で公判が始まり、被告26人に死刑、2人に無期懲役が求刑される。翌1911年(明治44年)1月には、判決が下り、森近を含む24人に死刑が言い渡されるも、その翌日には、そのうち12人を無期懲役に変更した。森近には減刑がならず、その6日後に死刑が執行される。堺利彦らが、被処刑者の遺体を引き取った。
 そんな森近の最後に遺したものとしては、その刑の直前に書き始めた「回顧三十年」(娘あて)は、行方がつまびらかでないのであろうか。僅かに、次の書き置きが伝わる。

 「(前略)実際の処、私は多分無罪の判決を得る事と思ふて居たのである。併(しか)し滋(ここ)に一言を費やして置かねばならぬのは、自分が罪なしと思った事と裁判官が死に当たると断じた事は、一見妙に感ぜられるかも知らぬが、其実は両者の立場が違ふのであって、矛盾でも衝突でも無い、並立し得べき二箇の真実であると云ふの一事である。
 しかして其結果は裁判官の真実が被告の真実を圧倒する。滋に現時の国家組織の特色を発揮するのである。私は斯(か)の如くして死なねばならぬ。近来少し考へて居った事実があるので、今死ぬのは聊(いささ)か口惜しい。
 けれども致方がない。自然界の理法に従って活き、また之に従って死ぬ。生死も自然であれば、生を喜び死を厭(いと)ふも亦(また)自然である。然り、私は唯だ自然法に支配せられて生死する。(以下略)」

 それに加え、堺利彦の差し入れた本の裏表紙に、彼が爪で書いたという「父上は怒り玉ひぬ、我は泣きぬ、さめて恋しい故郷の夢」との句が、その時の心情を今に伝える。


(続く)
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♦️647『自然と人間の歴史・世界篇』二人目のケネディの闘いと死

2020-08-10 08:37:07 | Weblog
647『自然と人間の歴史・世界篇』二人目のケネディの闘いと死

 顧みれば、1968年6月6日、当時のロバート・フランシス・ボビー・ケネディ)(Robert Francis Bobby Kennedy)が暗殺された(狙撃されたのは5日)。彼が、民主党の西部カリフォルニア州予備選挙で勝利してからは、同党候補指名は有利に展開。大統領候補指名選挙のキャンペーンの熱が上がる中での出来事であった。

 そもそもロバート・ケネディは、兄の大統領の下で、1961年1月からアメリカ合衆国司法長官を務めていた。その彼が、アメリカ合衆国上院議員選に出馬するため辞任するのが1964年9月、1965年1月からはニューヨーク州選出議員として活動を始める。やがて、彼は、兄が辿った大統領への挑戦の道を歩み始める。

 それからは、ハードなスケジュールの中で、試練の日々が続いたことだろう。1868年に入っては、敬愛して止まない、人権活動での同志でもあるマーティン・ルーサー・キング牧師が凶弾に倒れた、この時の大衆向けの演説の一節から紹介しよう。

「We can move in that direction as a country, in greater polarization - black people amongst blacks, and white amongst whites, filled with hatred toward one another.   
Or we can make an effort, as Martin Luther King did, to understand and to comprehend, and replace that violence, that stain of bloodshed that has spread across our land, with an effort to understand, compassion and love.」

 「私たちは国がその方向に、より大きな対立へと動いていくこともできるでしょう。その中では、黒人の中の黒人と、白人の中の白人が、お互いに憎しみ合うのです。

 あるいは、マーティン・ルーサー・キングが行ったように、理解しあい、認め合う努力をすることも、そして理解と同情と愛の努力によって、この地を覆う暴力を、流血を改めされることもできるのです。」(1968年4月4日の演説「キング牧師の死について」、場所はインディアナポリスの黒人街)

 もうひとつ、今度は経済面で、彼の知性の高さを示す話を紹介しておこう。経済指標は、人々の幸福度の高さと噛み合わぬことがあるという。

 「--- Even if we act to erase material poverty, there is another greater task, it is to confront the poverty of satisfaction - purpose and dignity - that afflicts us all. ----- Too much and for too long, we seemed to have surrendered personal excellence and community values in the mere accumulation of material things.----- GNP does not include the intelligence of our public debate or the integrity of our public officials.

It measures neither our wit nor our courage, neither our wisdom nor our learning, neither our compassion nor our devotion to our country.----- It measures everything in short, except that which makes life worthwhile.---- And it can tell us everything about America except why we are proud that we are Americans.----- If this is true here at home, so it is true elsewhere in world. -----」(1968.3)



 「(前略)たとえ物質的な貧困を無くしたとしても、我々はもっと大きな課題に取り組むことになる。我々はみな、満足すると言う事を忘れてしまうからだ。 
 我々はずっと、人や地域の素晴らしさを。ただ物質の豊かさで、はかってきたのではないだろうか。しかしGNP(国民総生産)は、人々の議論における知性や公務員の誠実さをもたらすものではなく、知恵や勇気、思いやりや国を愛する心を表すものでもない。(中略) 
 つまりGNPは、人生で本当に価値の有るもの以外の全てのものを数字で表す。(中略) 
 そしてこのGNPは、アメリカについて全てを語るかのようだが。(中略)   
 我々がアメリカ人である事をなぜ誇りとするのか、そこについては何も語らない。(中略)
 もしこれがこのアメリカにおいて真実であるならば、世界中のどこであっても同じ事だろう。」


 ここで話を暗殺当日に戻して、ロバート・ケネディは、ロサンゼルス市内のホテル内を移動中に、その調理場にいるところを狙われた。彼を銃撃した犯人は特定されたものの、その人物(パレスチナ系移民)は受刑者となってからも「犯行の記憶がない」と言い続けるのであった。また、録音された銃声を分析した音響技師や法医学者からも、当該「受刑者の銃とは別の銃で銃殺された」との主張するなどもあった。 

 この事件の背景には、彼の兄のケネディ大統領が暗殺されたときと同様、闇に覆われてわからない部分が多くあり、2017年の今日でも真相は明らかになっていない。ロバート・ケネディは、当時、国内的にも多くの政治的敵対者と向かい合っていたことがあり、それらの勢力との関係で事件を論じる向きも今なお出されているところだ。

 このロバートの暗殺については、彼が大統領に当選する勢いを増していた時期での出来事であり、それとの関連がないとはいえないだろう。いまだに、CIA(米中央情報局)関与などの陰謀論も根強い。

 米国の民主主義をして、現在そこそこに洗練され、成熟したものであると伝える向きがあるものの、果たしてどうなのだろうか。そしてこのような文脈においてかなりの頻度で見られることなのだが、他の世界観をもつ、例えば、「中国には自由がない」と決めつけてから話を始めるなどは、自身の民主主義への理解についても首をかしげざるを得ない。
 両ケネディの暗殺にみるような米国民主主義の「暗部」にも目を向けていくことが平衡感覚をもった歴史認識というものなのではないか。
 2018年5月、50年ぶりに受刑者と面会したロバート・ケネディの近親者がその時の模様を明らかにしているところでは、彼は真犯人とは思えないとのことであり、大きな波紋を呼んでいるところだ。

(続く)

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