♦️204の1『自然と人間の歴史・世界篇』資本の本源的蓄積(イギリス、普段の説明)

2020-12-09 10:02:30 | Weblog
204の1『自然と人間の歴史・世界篇』資本の本源的蓄積(イギリス、普段の説明)

 資本制(資本主義的生産様式)にいたるには、マルクスによって「本源的蓄積」となづけられる前段の歴史的過程があった。それは、封建制の中で培われていった。その創造劇だが、期間でいうと、数世紀にも跨る。ここではまず、イギリスを舞台にそのことがどういう坦懐を遂げていったかを俯瞰したい。まず封建社会の経済構造の中核をなすものは農民であって、14世紀終わり頃のイギリス農村での彼らは、農奴制から最終的な離脱の時期を迎えていた。15世紀に入ると、イギリス農村人口の大多数は自由な自由農民(「独立自由農民」という)に成り代わっていた。もっとも、社会の上部構造としては封建領主の権力があり、その下に家臣団がおり、さらにその下に家臣団の数に相応の農民たちがいて、上にいる非労働階級を支えていたのである。
 プロレタリアート創出を引き起こす農村変革の序曲は、15世紀の最後の3分の1期及び16世紀の最初の20~30年にかてけ起こった。一つは、15世紀の60~70年代から16世紀初めにかけて封建家臣団の中からこぼれ落ちるものたちが出てくる。これを、「封建家臣団の解体」と呼ぶ。これを促したのは、絶対権力の確立を目指す王権であった。
 二つは、羊毛マニュファクチュア(工場制手工業)の台頭により、これを営む封建貴族たちが農民の共同地を奪っていく。その背景には、フランドル地方を中心とする毛織物工業の繁栄による羊毛価格の騰貴があった。これに刺激された地主(ランドロード)たちが、王権や議会と頑強に対立して、それぞれの農地に領主と並ぶ封建的権利を有していた農民から暴力的にそれらの土地を奪い、また共同地を橫奪することにも血道をあげるのであった。後者の性格については、農民たちの養う家畜の放牧場であるとともに、彼らに燃料たる薪や泥炭などをも提供したものだ。
 参考までに、この頃トーマス・モア(モーア)(1478~1535、後に王朝の高級官吏となるも、ヘンリ8世の離婚問題に端を発し、ローマ教皇側に配慮し王に従わなかった罪で死刑に処せられる)は、この模様をみて、著書の中で「イギリスの羊です。以前は大変おとなしい、小食の動物だったそうですが、この頃では、なんでも途方もない大食いで、そのうえ荒々しくなったそうで、そのため人間さえもさかんに喰い殺しているとのことです」(トーマス・モア著、平井正穂訳「ユートピア」岩波文庫、1956)と比喩するのであった。その後で、こう続ける。
 「おかげで、国内いたるところの田地も家屋も都会も、みな喰い潰されて、見るもむざんな荒廃ぶりです。もし国内のどこかで非常に良質の、したがって高価な羊毛がとれるというところがありますと、代々の祖先や前任者の懐にはいっていた年収や所得では満足できず、また悠々と安楽な生活を送ることにも満足できない。その土地の貴族や紳士や、その上自他ともに許した聖職者である修道院長までが、国家の為になるどころか、とんでもない大きな害悪を及ぼすのもかまわないで、百姓たちの耕作地をとりあげてしまい、牧場としてすっかり囲ってしまうからです。」(同)
 こうした「牧羊囲い込み運動」は、イギリスにおいて、16世紀になっても延々と続く。それというのも、ヘンリー7世による1489年の条例以来ほぼ150年に及ぶこ囲い込み禁止令の発布も、この動きの前では無力にされていったのだから。
 二つ目の過程は、16世紀における宗教改革からは、イギリスにおける旧教会領(土地)の相当部分が没収されていく。そこに居住していた者(いわゆる「世襲的小作人」)たちは、かかる土地から追い出され、無産労働大衆(プロレタリアート)の中に投げ出される。旧教会領は、王の寵臣や有力貴族、投機的な生活をあわせもつ借地農業者や都市ブルジョアジーの面々であった。さらに、教会の10分の1税の分配にあづかっていた貧しい農民たちも、かかる土地収奪の過程で蹴散らされ、はじき出されていった。
 こうした事態にもかかわらず、17世紀の最後の数十年間にはまだ、独立自営農民の数は、彼らに置き換わった借地農業者の数を少し上まわっていたのではないか。クロムウェルがその権力掌握に当たって最大の拠り所にしていたのは、その独立自営農民であったし、農村にみられた賃金労働者の中にも、共同地の共有者の地位を保ち続ける者も相当数いたのではないか。
 だが、こうしたイギリス農村の土地所有にみるまだら模様も、18世紀の最後の数十年間に、農村に残っていた共有地のほぼ全体が奪われていく。これに力のあったのが、名誉革命によるスチュアート王朝復興のさいの、法律による封建的な土地所有制度の廃止であった。国有地になった土地の相当部分は、ウィリアム3世と彼に従う地主や資本家たちが牛耳るものとなっていく。これら両者を関連づけていうならば、彼らは国有地を合法的に横領するとともに、その同じ国家権力によって、古代ゲルマン的な土地制度に淵源をもつであろう共同地をも没収することに成功したのである。すべからくこの過程は、一方において農民や農村部民を工業プロレタりアートとして土地から遊離するとともに、他方では資本借地農場とか商人借地農場とと呼ばれる大借地農場を展開させるのである、

(続く)

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○236の1『自然と人間の歴史・日本篇』海外の目に晒されて(外国船の寄港、1750~1855)

2020-12-09 09:42:10 | Weblog
236の1『自然と人間の歴史・日本篇』海外の目に晒されて(外国船の寄港、1750~1855)

 18世紀も後半に入ると、日本列島の入り組んだ、長い海岸線に沿って外国船の渡航が相次ぐようになり、西洋列強との関係が煩雑になってくる。1792年(寛政4年)、ロシア船のラクスマンが根室に到来する。漂流民送還や我が国との通商を要求した。幕府はこれを拒絶し、長崎への廻船を支持した。

 1798年(寛政10年)、探検家の近藤重蔵が千島と択捉島(えとろふ島)を周回する。彼は、その調査の結果を「大日本恵土呂府」にまとめる。1799年(寛政11年)、松前藩が治めていた東蝦夷地を幕府の直轄領とする。1802年(享和2年)、幕府が東蝦夷地直轄のため箱館(現在の函館)に奉行所を設置する。

 1804年(文化元年)、ロシアの使節レザノフが長崎にやってきて通商を要求するも、幕府は拒絶する。同年の幕府は、弘前、盛岡の両藩に蝦夷地の警備を命じる、沿海の諸藩にも外国船警戒を通達する。

 1807年(文化4年)には、幕府が蝦夷地全体を直轄領とし、奉行所を松島におくとともに、松前藩を陸奥梁川に転封するのであった。1808年(文化5年)、今度はイギリスのフェートン号が通商を求めて長崎にやって来るが、幕府は食糧などを与えて追い返した。

 1811年(文化8年)、ロシアの士官ゴローニンが国後島(くなしりとう)にやって来て、測量を始める。ロシアの旺盛な領土拡大への意思がくみ取れる事件となる。幕府はこれを咎め、幽閉する。彼はこの間に「幽閉記」を書いている。
 おりしも高田屋嘉兵衛(たかだやかへい)がロシア側に拘束されていた。その嘉兵衛の身柄と引換に、翌年になってから幕府はゴローニンを釈放する。嘉兵衛による密貿易の疑いは晴れたものの、その後の幕府の嘉兵衛への追求は厳しく所有する千石単位の所有の船12隻を没収の上、淡路へ謹慎を命じられる。
 また、彼の養子の嘉市に対しては船家業を差し止めるなどで商売の息の根を止めようとするのであった(この事件の経緯について詳しくは、塩澤実信著・北島新平絵による『新しい大地よー探検と冒険の時代』理論社、1987)。

 1837年(天保8年)になると、さらにアメリカのモリソン号が鹿児島と浦賀の沖合に現れ、我が国に漂流民の送還と通商を求める。
 我が国外交が、諸事全般慌ただしくなっていくのは、世界の趨勢であったに違いない。その圧力を振り払おうとしても、相次ぐ来航と諸要求を突きつけられるのは、避け続けることができない。ゆえに、内外にわたる人々の意志決定の蓄積がものをいう時代となってきていた。

 1853年(嘉永6年)の8月10日には、ロシアのプチャーチンの艦隊4隻が、長崎に入港してくる。その前の7月26日に、彼らは寄港地の小笠原に立ち寄っていた。  
 長崎でのプチャーチンは、ロシア皇帝からの国書を幕府に渡し、通商を求める。幕府の引き延ばし策により、一行はそれからおよそ3ヶ月を長崎で過ごす。

 1854年12月には、そのうちのディアナ号が駿河湾で沈没する。1855年2月になり、幕府は重い腰を上げる形で、日露和親条約の調印を行う。

 これらの様子については、日本側からは川路聖あきら、ロシア側からは1953年にプチャーチン提督の秘書官として来日していたゴンチャロフが、その交渉に参加していた。
 そのゴンチャロフの弁として伝わる一端としては、初めて長崎では日本人見てからどのくらい経っての印象であろうか、「鎖国をしていると、しらずしらずのうちに、こうまで子供にかえってしまうものか」と辛らつだ。
 一方、交渉相手の幕府代表の川路聖あきら(かわじとしあきら)については、こう評している。
 「川路は非常に聡明であった。彼は私たち自身を反駁(はんばく)する巧妙な論法をもって、その知力を示すのであったが、それもこの人を尊敬しない訳にはいかなかった。その一語一語が、眼差(まなざ)しの一つ一つが、そして身振りまでが、すべて常識と、ウィットと、炯敏(けいびん)と、練達をなしていた。」(ゴンチャロフ著「日本渡航記」岩波文庫)

 ちなみに、ゴンチャロフの帰国後には「フレガート・パルラダ」(「日本におけるロシア人」を含む)が刊行される。

(続く)

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