341の1『自然と人間の歴史・日本篇』対米英戦争へ(1941)
はたして、近衛首相の辞表(1941年10月16日)には、日中戦争のまだ解決していない状況でさらに戦争に突入することへの大いなる恐れが、「重大なる責任を痛感しつつある臣文麿」の言として読み取れる。
いわく、「国連の発展を望まばむしろ今日こそ大いに伸びんがために善く屈し、国民をして臥薪嘗胆(がしんしょうたん)ますます君国のために邁進せしむるをもってもっとも時宜(じぎ)を得たるものなりと信じ、臣は衷情をひれきして東条陸軍大臣を説得すべく努力したり」と。
しかしながら、このままでは自分はもはや新たな戦争開始への防波堤になり得ないと認識したのなら、なぜもう一度閣僚らに対し個別に説得を試みるなり、天皇に直訴してでも対米英戦争突入を避ける努力をしなかったのだろうか。
そこまで至らずして、あっさり首相を辞めるということではなかったのか。だとすれば、早すぎる辞表提出は、軍部強硬派にとって「渡りに船」になるであろうことは明らかで、疑問なしとしない。
そうはいっても、なにしろ急なブレーキを踏むにはそれなりの理由がいる、ということであったのなら、「英米に対し事を構えるのなら、国力の差があまりにも大きい」という抗弁があり得るだろう。
はたして、近衛首相の辞表(1941年10月16日)には、日中戦争のまだ解決していない状況でさらに戦争に突入することへの大いなる恐れが、「重大なる責任を痛感しつつある臣文麿」の言として読み取れる。
いわく、「国連の発展を望まばむしろ今日こそ大いに伸びんがために善く屈し、国民をして臥薪嘗胆(がしんしょうたん)ますます君国のために邁進せしむるをもってもっとも時宜(じぎ)を得たるものなりと信じ、臣は衷情をひれきして東条陸軍大臣を説得すべく努力したり」と。
しかしながら、このままでは自分はもはや新たな戦争開始への防波堤になり得ないと認識したのなら、なぜもう一度閣僚らに対し個別に説得を試みるなり、天皇に直訴してでも対米英戦争突入を避ける努力をしなかったのだろうか。
そこまで至らずして、あっさり首相を辞めるということではなかったのか。だとすれば、早すぎる辞表提出は、軍部強硬派にとって「渡りに船」になるであろうことは明らかで、疑問なしとしない。
そうはいっても、なにしろ急なブレーキを踏むにはそれなりの理由がいる、ということであったのなら、「英米に対し事を構えるのなら、国力の差があまりにも大きい」という抗弁があり得るだろう。
政治家というものは、自らの所信を貫くためには、説得力が大事に違いあるまい。事ここにおよんでは、あくまで最後まで諦めない気概を持って臨むべきであったろう。
けれども、それは結局なされなかった。仮にアメリカとの合意が成立して、日本軍が中国から撤退する道が開けるとしても、中国軍がどう出てくるかは未知数であり、数十万人もの日本軍兵士が全員が無事に本土に帰れるかどうかはわからない。だからといって、そのような意味のある撤退が、はじめからあり得ないと決めてかかってよいものだろうか。
例えば、次のような話が現代に伝わる。それは、あの満州事変を引き起こした片割れの関東軍の当時幹部であった石原莞爾(いしはらかんじ、彼は当時、板垣征四郎とともに参謀であった)にまつわる話である。
「昭和十三年三月下旬頃だったと思う。私は緋田と二人で、当時関東軍副参謀長をしていた石原莞爾に会った。会ったのは官邸であった。石原という人は、日本一すぐれた戦略家だときいていた。会った印象は、まことにものしづかな宗教信者の感じであった。鬼をもひしぐというようなごつい感じは、およそ縁遠いものであった。この人は日蓮宗の信者だったとも聞いている。
私はこの日、もう一人面会する人があったので、それをすませて行った時には、石原と緋田との間の話は、もう終わりに近づいていた。だからこれからのべる石原の話は、緋田からのまた聞きである。」(「川崎堅雄(かわさきけんお)遺稿集」、この本は「自家本」ということで2000年に発行された、なお本人は、戦後の日本労働総動同盟幹部)
こう川崎は前置きしてから、二人の会話をこんなふうに紹介している。
緋田「戦争の見とおしについて・・・。」
石原「長期戦ということがいわれているが、長期戦は、手をぐっとひきつけて、にたにた笑っていなければやっていけない。日本の手は、もう伸び過ぎている(この話は、徐州会戦(現在の江蘇省徐州市において、1938年に戦われた・引用者)前にしたものである)。」
緋田「長期戦をするには手が伸び過ぎているとなると、どうすればよいでしょうか。」
石原「日本軍を無条件に引きあげして、戦争のはじまる前の状態に戻してしまう。その上で蒋介石政府と今後のことを話しあう、そのほかに途はない。」
緋田「それには軍人が承知しないのではないですか。」
石原「軍人は口ではブウブウいいながら、腹では喜んでみんな引きあげていく。」
彼は、東条と仲が悪かったと聞いている。関東軍副参謀長をやめさせられ、一時済州島(現在は韓国の、韓国語でチェジュド・引用者)の要塞司令官をやっていた。その後中将になり、京都師団長を最後として退役した。」(以下、略)
(続く)
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けれども、それは結局なされなかった。仮にアメリカとの合意が成立して、日本軍が中国から撤退する道が開けるとしても、中国軍がどう出てくるかは未知数であり、数十万人もの日本軍兵士が全員が無事に本土に帰れるかどうかはわからない。だからといって、そのような意味のある撤退が、はじめからあり得ないと決めてかかってよいものだろうか。
例えば、次のような話が現代に伝わる。それは、あの満州事変を引き起こした片割れの関東軍の当時幹部であった石原莞爾(いしはらかんじ、彼は当時、板垣征四郎とともに参謀であった)にまつわる話である。
「昭和十三年三月下旬頃だったと思う。私は緋田と二人で、当時関東軍副参謀長をしていた石原莞爾に会った。会ったのは官邸であった。石原という人は、日本一すぐれた戦略家だときいていた。会った印象は、まことにものしづかな宗教信者の感じであった。鬼をもひしぐというようなごつい感じは、およそ縁遠いものであった。この人は日蓮宗の信者だったとも聞いている。
私はこの日、もう一人面会する人があったので、それをすませて行った時には、石原と緋田との間の話は、もう終わりに近づいていた。だからこれからのべる石原の話は、緋田からのまた聞きである。」(「川崎堅雄(かわさきけんお)遺稿集」、この本は「自家本」ということで2000年に発行された、なお本人は、戦後の日本労働総動同盟幹部)
こう川崎は前置きしてから、二人の会話をこんなふうに紹介している。
緋田「戦争の見とおしについて・・・。」
石原「長期戦ということがいわれているが、長期戦は、手をぐっとひきつけて、にたにた笑っていなければやっていけない。日本の手は、もう伸び過ぎている(この話は、徐州会戦(現在の江蘇省徐州市において、1938年に戦われた・引用者)前にしたものである)。」
緋田「長期戦をするには手が伸び過ぎているとなると、どうすればよいでしょうか。」
石原「日本軍を無条件に引きあげして、戦争のはじまる前の状態に戻してしまう。その上で蒋介石政府と今後のことを話しあう、そのほかに途はない。」
緋田「それには軍人が承知しないのではないですか。」
石原「軍人は口ではブウブウいいながら、腹では喜んでみんな引きあげていく。」
彼は、東条と仲が悪かったと聞いている。関東軍副参謀長をやめさせられ、一時済州島(現在は韓国の、韓国語でチェジュド・引用者)の要塞司令官をやっていた。その後中将になり、京都師団長を最後として退役した。」(以下、略)
(続く)
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