○339の2『自然と人間の歴史・日本篇』ファシズムと戦争への突入(南方への進出、1936~1941)』

2020-12-26 22:22:21 | Weblog
339の2『自然と人間の歴史・日本篇』ファシズムと戦争への突入(南方への進出、1936~1941)』


 1936年(昭和11年)8月、広田弘毅(こうき)内閣の五相会議で「国策の基準」が決定された。この内閣が成立する前の2月26日の早暁(そうぎょう)、降り積もる雪の中を青年将校たちとその配下が立ち回り、猛威を奮った。
 そのために岡田内閣が倒れ、広田外相が首相になっては、まず共産軍の山西省への進攻を脅威とし、従来二千人の支那駐屯軍をいっきょに五千人にまで増加充実させた」(臼井勝美「日中戦争」中公新書、1967)というから、その反共産主義の姿勢たるや、並々ならぬものであったろう、

 1939年(昭和11年)2月には、海南島を占領した。3月になると、当時の南部仏印(フランス領インドシナ)の新南群島を占領する。6月には、汕頭(スワトウ)、福州などにも進出を果たす。

 同年9月に、第二次世界大戦が勃発(ぼっぱつ)すると、ヨーロッパ戦線の拡大により英仏勢力がアジアから後退する、その間隙を狙っての日本軍の南へと進攻していく。
 華南、そして仏印と蘭印(らんいん)(オランダ領インドシナ、現インドネシア)の二方面に進められた。
 米内光政(よないみつまさ)内閣も、南方への経済進出外交を推進、蘭印からの戦略物資輸入を部分的に実現するとともに、40年6月の日タイ友好条約で大いなる足場を確保する。

 1940年(昭和15)年7月22日に成立した第二次近衛文麿(このえふみまろ)内閣は、外務大臣に松岡洋石(まつおかようすけ)、陸軍大臣に東条英機を迎えた。その組閣直後には、「基本国策要綱」を閣議決定した。その中にて示された大東亜新秩序建設には、南方地域が包含されていた。

 これを踏まえ、7月23日には、南支那方面軍を支那派遣軍の管轄からはずし、大本営直轄に移す。

 それに、7月27日の大本営政府連絡会議は、「世界情勢の推移に伴ふ時局処理要綱」を決めた。仏印に対し、国民党政府への援助行為を遮断するとともに、日本軍の通過や飛行場の使用、さらに日本が必要とする資源の獲得を目指す、そのために必要なら武力行使を行うと。

 その辺り、7月30日の昭和天皇が発したの言葉として伝わるのは、「近衛首相は支那事変はなかなか片付けかないとみているもののごとく、むしろこのさい支那占領地域を縮小し、南方に向かわんとするもののようだ。言い換えれば、支那事変の不成功による国民の不満を南方に振り向けようと考えているらしい」と評した、と伝わる。



 この年の9月に入っての5日には、先の7月に大本営の管轄に移行した南支那方面軍に対し、北部仏印への進駐の任務が付与されるのであった。

 9月22日には!北部仏印進駐を強行する。そしての9月27日には、日独伊三国同盟を締結した。日本は、ヨーロッパ戦線で英仏と死闘を演じているドイツの正式な同盟者となった。

 ついては、これらにより、たとえ日中戦争が膠着状態のままでの推移であっても、南へ向かって進み、イギリス(ひいてはアメリカ)との開戦を回避しない、という、いわば「二正面戦争」まで視野に入れようとしつつあったのではなかろうか。これをあえていうならぱ、自己誇大症とでも形容しようか、それまでとは比較にならないほどの危険な賭けに出てきたのが窺えよう。

 さらに10月8日には、イギリスは、日本の仏印進駐と三国同盟を理由に、ビルマ・ルートを再開し、中国の国民党政府への援助を続行すると、日本側に通告してきた。

 そして迎えた1941年7月の御前会議は、「情勢の推移に伴ふ帝国国策要綱」を決め、南進政策をさらに強化、列強の権益のある東南アジアにも力をのばして、その面からも、いよいよ対米英戦も辞さない方針を最終的に固めていくのであった。

(続く)

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆