340『自然と人間の歴史・日本篇』ファシズムへの突入(対米英蘭仏へ、1939~1941)
この間の日本の軍国主義の急傾斜に対して、国際連盟は1938年9月、連盟規約第16条の制裁規定の日本への適用を決議する。
この間の日本の軍国主義の急傾斜に対して、国際連盟は1938年9月、連盟規約第16条の制裁規定の日本への適用を決議する。
アメリカは、その前の1938年10月には、日本の中国への経済的な権益拡大を非難する覚書を日本に手渡していた。アメリカが既に持っている、中国に対する関税改正措置、アメリカ人の居住そして往来、経済活動に加えられている各種制限を即時撤廃を日本に要求してきた。同年11月になると、イギリス、アメリカ、フランスは、揚子江の開放、自由航行を日本に要求してくる。さらに12月になると、アメリカは、国民党政府に2500万ドルの借款を供与すると発表するに至る。
そして迎えた1939年(昭和14年)7月、日米通商航海条約の廃棄を日本に通告し、半年の猶予期間の後の1940年(昭和15年)1月には、同条約は失効した。この条約には、日本に対する貿易上の「最恵国待遇」がふくまれていた。
日本としては、それまで原材料や原料をアメリカから自由に買うことができていた。それが、無条約だと、アメリカは自由に日本向けの輸出を制限したり、禁止したりできることになったのだ。
案の定、条約の廃棄の最初には、アメリカは工作機械の輸出禁止に踏み切った。
あわせて、このアメリカの措置は、同じく中国への強い権益をもつイギリスなどへの側面からの援助でもあったろう。
おりしも世界では、1939年(昭和14年)、ドイツがポーランドに電撃的に進駐した。1940年(昭和15年)5月には、ドイツがヨーロッパを席巻してフランス、イギリスと戦争状態に入った、かくして第二次世界大戦が勃発する。イギリスとフランスは、勢い、極東からのかなりの部分での撤退を余儀なくされていく。
案の定、条約の廃棄の最初には、アメリカは工作機械の輸出禁止に踏み切った。
あわせて、このアメリカの措置は、同じく中国への強い権益をもつイギリスなどへの側面からの援助でもあったろう。
おりしも世界では、1939年(昭和14年)、ドイツがポーランドに電撃的に進駐した。1940年(昭和15年)5月には、ドイツがヨーロッパを席巻してフランス、イギリスと戦争状態に入った、かくして第二次世界大戦が勃発する。イギリスとフランスは、勢い、極東からのかなりの部分での撤退を余儀なくされていく。
世界情勢がこのような激変の中、アメリカによる航空機ガソリンを含むガソリン、石油、屑鉄などへの輸出禁止の措置は、さしあたり、いざというときのために残されたものの、アメリカは日本への経済的な圧力をさらに強めていく。
1940年(昭和15年)3月に、日本傀儡政権の範疇である汪兆銘(おうちょうめい)政府が成立の時、アメリカのハル国務長官は、こう述べた。
「1931年以来、中国各地で発生した事態からみて、南京汪兆銘政権の成立は、一国が武力によって隣国にその意志を押しつけ、広大な地域を、世界の他の部分との正常な政治的、経済的関係から閉鎖してしまう一連の措置である。」
1940年(昭和15年)7月22日、日本陸軍は軍事的な海外進出に慎重な米内内閣を倒し、第二次近衛内閣を発足させた。
その内閣成立直後の7月27日の政府大本営連絡会議において、「世界情勢ノ推移に伴フ時局処理要綱」が決定された。この中には、ドイツとイタリアとの提携を密にするとともに、次第によってはイギリス、アメリカとの戦争を構えることが盛り込まれていた。
続いての同年9月には、日本は北部仏印(現在のベトナムのハノイ、ハイフォン地区)に進駐するとともに、ドイツ、イタリアとの間で「三国同盟」を締結した。
その内閣成立直後の7月27日の政府大本営連絡会議において、「世界情勢ノ推移に伴フ時局処理要綱」が決定された。この中には、ドイツとイタリアとの提携を密にするとともに、次第によってはイギリス、アメリカとの戦争を構えることが盛り込まれていた。
続いての同年9月には、日本は北部仏印(現在のベトナムのハノイ、ハイフォン地区)に進駐するとともに、ドイツ、イタリアとの間で「三国同盟」を締結した。
これらにより、日本のアメリカ、イギリスとの間は決定的に悪化する。特にアメリカは、日本の南部仏印進駐の報復として、日本に対する石油輸出を全面的に禁止するとともに、日本の在米資産を凍結した。経済面で、国交断絶に踏み切ったのである。
ちなみに、1941年(昭和16年)10月時点の日本の石油保有量は840万キロリットルといわれ、それだけが「虎の子」の石油ストックであったことが覗われる。
ちなみに、1941年(昭和16年)10月時点の日本の石油保有量は840万キロリットルといわれ、それだけが「虎の子」の石油ストックであったことが覗われる。
1941年(昭和16年)4月、アメリカとイギリスの対日経済封鎖を打開すべく、日本は日ソ中立条約を締結する。これには、2正面の的と戦うことを避けようとする意図が働いていた。ところが、この作戦は、ドイツが秘密裏に独ソ不可侵条約を結んでいるソ連に侵攻したことらより破綻する。この報告に接した政府の狼狽ぶりは、大変なものであった。
第二次近衛内閣は、1941年(昭和16年)7月にいったん総辞職した。この内閣は、この年の春から極東問題についてアメリカとの交渉を開始したが、「和戦」を巡る日本の支配層内の対立が解けぬままに、時間を浪費していた。
この総辞職の直前、松岡外相が「我が国が三国同盟の誼(よしみ)を弊履のごとく棄て、多数同胞の血と涙と巨億の犠牲とを顧みずして、着々武を進め来たりたる大陸政策を断念せざるかぎり」ということで、アメリカとの交渉にもはや展望が見出し得ない」としたことで、政策の行き詰まりが露わとなったのである。そこで、外務大臣を松岡から豊田貞次郎に交替して、近衛は第三次内閣を組閣するに至る。
この総辞職の直前、松岡外相が「我が国が三国同盟の誼(よしみ)を弊履のごとく棄て、多数同胞の血と涙と巨億の犠牲とを顧みずして、着々武を進め来たりたる大陸政策を断念せざるかぎり」ということで、アメリカとの交渉にもはや展望が見出し得ない」としたことで、政策の行き詰まりが露わとなったのである。そこで、外務大臣を松岡から豊田貞次郎に交替して、近衛は第三次内閣を組閣するに至る。
その第三次近衛内閣が発足して間もない1941年7月22日、独ソ戦開始後の世界情勢についての、昭和天皇と杉山参謀総長とのやりとり(問答)があり、彼によるメモには、こうある。
「御上
支那事変に何かよい考えはないか。
総長
この前にも申し上げましたとおり、重慶側は戦力戦意とも衰え、軍は低下し、財政経済的にも困○(こんばい)しており、あたかも瀕死の状態と考えられ、命だけを保って長期抗戦をしているのであります。この長期抗戦ができるのは、英米等敵性国家の注射または栄養を与えるためであります。すなわち英米が重慶の起死回生をやっているのでありまして、英米を抑えなければ支那事変の解決は困難と考えます。
第二次欧州戦の発生前は支那事変のみを考えてよかったが、これが始まり、また独ソ戦が始まりましてより以来は、世界戦争の動きにより、反枢軸諸国をいためることが重慶を長つづきさせぬものと考えます。従って、活力を与えるものをおしつける必要があるものと思います。・・・・・やはり機をとらえて撃たなければならぬと思います。」(出所は『杉山メモ』、引用は臼井勝美(うすいかつみ)『日中戦争ー和平か戦線拡大か』中公新書、1967)
一国の軍事力は、その国の経済力の問題でもある。相手があることから、彼我の経済力格差がどのくらいあるかが最重要な問題であったろう。
このやりとりでは、事態の深刻さが、さして問題とされなかったのかもしれない。ここからは、経済力で余りにも差のある英米を相手に安易に構えるという道に踏み出しつつある姿が読み取れる。これにかぎらず、日本側には、先を見通す力量にかけていたと評価されても仕方あるまい。
この頃には、米英の対日経済封鎖と、すでに対中国戦争の長期化とのダブル・パンチをくらって混迷を深めていた日本経済は、いよいよゆきづまりの状況を呈してきており、この難局を打開すべく思い切った決定を下そうという空気が満ちていくことになったのである。
そして迎えた9月6日の御前会議では、重大決定がなされた。いわく、「10月上旬になっても対米交渉において進展の見込みがなければ、米、英、蘭に対し開戦やむなし」というのだ。それを受けた13日では、かかる決定の基礎となる「日中和平の基礎条件」が決定された。
これにて目新しいのは、第三項中での「六蒋介石政権と汪兆銘政権との合流」及び「八満州国承認」、それに第三項での日本軍駐留の地点及び期間につき「従前の取決めおよび慣例にもとづく」とし、明示するのを拒んだことであろう、これではアメリカなどが納得するはずもな かったろう。
案の定、9月22日にこれの提示を受けたアメリカ大使館は、本国にこれを伝えたことだろう。すると、アメリカは10月2日に日本に覚書を渡し、その中で、日本側が要請した日米首脳会談を行う前に、「日本はアメリカが提示した原則を実際に適用する場合に、制限ないし例外をもうけようとしているとみられるので、会談の前にさらに討議が必要である」と突っぱねた形だ。
このような交渉の膠着化に直面しての近衛首相は、、10月12日の五相会議において、「(英米などとの)戦争に私は自信がない、今どちらかをやれといわれれば外交でやるといわざるをえない」と述べた。
これにて目新しいのは、第三項中での「六蒋介石政権と汪兆銘政権との合流」及び「八満州国承認」、それに第三項での日本軍駐留の地点及び期間につき「従前の取決めおよび慣例にもとづく」とし、明示するのを拒んだことであろう、これではアメリカなどが納得するはずもな かったろう。
案の定、9月22日にこれの提示を受けたアメリカ大使館は、本国にこれを伝えたことだろう。すると、アメリカは10月2日に日本に覚書を渡し、その中で、日本側が要請した日米首脳会談を行う前に、「日本はアメリカが提示した原則を実際に適用する場合に、制限ないし例外をもうけようとしているとみられるので、会談の前にさらに討議が必要である」と突っぱねた形だ。
このような交渉の膠着化に直面しての近衛首相は、、10月12日の五相会議において、「(英米などとの)戦争に私は自信がない、今どちらかをやれといわれれば外交でやるといわざるをえない」と述べた。
そうした流れでこれからはいこうと思っていたのか、その後の14日の閣議において、近衛が「日米交渉は難しいが、駐兵問題に色つやをつければ、成立の見込みはあると思う」と言ったところ、東条陸軍大臣から激しい反論があった、それの一節には、次にみられるような調子が含まれていた、とのこと。
東条はその場でいわく、「撤兵問題は心臓だ。撤兵を何と考えるか、陸軍としてはこれは重大視しているものだ。米国の主張にそのまま服したら支那事変の成果を壊滅するものだ。満州国をも危うくする。さらに朝鮮統治も危うくなる。帝国は聖戦目的にかんがみ非併合、無賠償としておる。
支那事変は数十万の戦死者、これに数倍する遺家族、数十万の負傷兵、数百万の軍隊と一億国民に、戦場および内地で辛苦を積ましており、なお数百億の国幣を費やしているものであり、普通世界列国なれば領土割譲の要求をやるのはむしろ当然なのである、しかるに帝国は寛容な態度をもってのぞんでいるのである。駐兵により事変の成果を結果づけることは当然であって、世界に対しなんら遠慮する必要はない。巧妙なる米の圧迫に服する必要はないのである」と。
(続く)
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