421『自然と人間の歴史・世界篇』マーカシズム(1950~1954、アメリカ)
マーカーシズムというのは、1950年から1954年にかけてアメリカ合衆国のウィスコンシン州選出上院議員ジョゼフ・R・マッカーシーの活動に代表される反共産主義のヒステリーとでもいおうか、事実に基づかないことを言うのに急な現象をいう。
これには、下地として、第二次世界大戦後のアメリカが直面した、世界との関わりがあった。政府は、1947年3月、トルーマン・ドクトリンの発表と相前後して、連邦政府職員の忠誠審査令を出して思想統制を強化し、翌年の大統領選挙に進歩党から出馬した対ソ協力派のヘンリー・ウォーレス元副大統領を容共的であると非難していた。
そして迎えた1949年の中国の人民民主主義革命(国民党の蒋介石政権は大陸を追われ、台湾を占領の上、その地で統治を始める)によって、アメリカのこの地域への関与の野望が潰えたのみならず、同年ソ連が原爆実験に成功した。アメリカとしては、戦後の主導権を握ろうとしていた矢先の出来事であったろう。時代は、「東西冷戦」に向かっている、とされていた。
このような時、マッカーシーは、自らの所属する上院(彼が議席を得て3年目ら)を利用して、国民の危機感に訴える一大キャンペーンに打って出る。いわく、「それまでのマッカーシーは上院で影の薄い、とるにたらぬ人物のように見えた」(「R・H・ロービア著、宮地健次郎訳「マーカシズム」岩波文庫、1984)というのだが。
これらの困難の源は、国内や政府のなかに国益を裏切った共産主義者がいるためだとし、1950年2月に行われた「国務省のなかに205人の共産党員がいる」という演説を行うなど、根拠のない話を、しかも針小棒大に広める。これが、アメリカ国民をらなる不安と混乱に陥れ、まもなくの1950年に勃発した朝鮮戦争によって勢いを増していく。
続いての1952年の選挙演説で、彼は、「農民、労働者、経済人にとって真の問題は唯一つ、それは政府の中の共産主義の問題である」と、また朝鮮戦争に触れては「こうして、国内で共産主義と戦う気のない政府は、海外で共産主義と戦う意欲のあることを米国民に証明してのである」ともいう。
ところが、このような、「大変だ、さあ、どうする」式の言動が、大衆受けする、その余勢をかって議会でも影響力を伸ばしていくのであった。特別の人脈はなかったものの、その受け手の類型としては、「第一は、マッカーシーの言っていることはでたらめだという理由で、無視することである」、「第二の考え方は証拠不十分とする見方であった」、さらに「第三の見方は、大体においてマッカーシーに疑わしい点は出来るだけ有利に解釈してやるのが妥当だとするものであった」(同訳書)、といったところだろうか。
と、およそこのような流れで絶頂期を迎えた後には、さしもの彼の弁舌にも、陰りがやって来る。その極めつけとは、1954年に起きた変化であって、こう言われる。
「その年はウィリアム・フルブライト唯一人しかマッカーシーに反対投票をする議員はいないという状況で明けたのに、年の終わりには67人、いいかえれば当時では3分の2をこす議員が非難決議に賛成票を投じた。それから6か月たって、マッカーシーがその名を冠する最後の決議案を投じた時(これはジュネーブ会議に衛星国の自由の問題を持ち出すよう要求して、大統領を困らせようとしたものであった)、それは77対4で否決された。(同訳書)」
かくして、アメリカはマーカーシズムという流れをどうにか打ちきり、彼らの本来的な道を通じて、世界を自己に有利に動かしていこうと、あれこれ行うことになっていく。
(続く)
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マーカーシズムというのは、1950年から1954年にかけてアメリカ合衆国のウィスコンシン州選出上院議員ジョゼフ・R・マッカーシーの活動に代表される反共産主義のヒステリーとでもいおうか、事実に基づかないことを言うのに急な現象をいう。
これには、下地として、第二次世界大戦後のアメリカが直面した、世界との関わりがあった。政府は、1947年3月、トルーマン・ドクトリンの発表と相前後して、連邦政府職員の忠誠審査令を出して思想統制を強化し、翌年の大統領選挙に進歩党から出馬した対ソ協力派のヘンリー・ウォーレス元副大統領を容共的であると非難していた。
そして迎えた1949年の中国の人民民主主義革命(国民党の蒋介石政権は大陸を追われ、台湾を占領の上、その地で統治を始める)によって、アメリカのこの地域への関与の野望が潰えたのみならず、同年ソ連が原爆実験に成功した。アメリカとしては、戦後の主導権を握ろうとしていた矢先の出来事であったろう。時代は、「東西冷戦」に向かっている、とされていた。
このような時、マッカーシーは、自らの所属する上院(彼が議席を得て3年目ら)を利用して、国民の危機感に訴える一大キャンペーンに打って出る。いわく、「それまでのマッカーシーは上院で影の薄い、とるにたらぬ人物のように見えた」(「R・H・ロービア著、宮地健次郎訳「マーカシズム」岩波文庫、1984)というのだが。
これらの困難の源は、国内や政府のなかに国益を裏切った共産主義者がいるためだとし、1950年2月に行われた「国務省のなかに205人の共産党員がいる」という演説を行うなど、根拠のない話を、しかも針小棒大に広める。これが、アメリカ国民をらなる不安と混乱に陥れ、まもなくの1950年に勃発した朝鮮戦争によって勢いを増していく。
続いての1952年の選挙演説で、彼は、「農民、労働者、経済人にとって真の問題は唯一つ、それは政府の中の共産主義の問題である」と、また朝鮮戦争に触れては「こうして、国内で共産主義と戦う気のない政府は、海外で共産主義と戦う意欲のあることを米国民に証明してのである」ともいう。
ところが、このような、「大変だ、さあ、どうする」式の言動が、大衆受けする、その余勢をかって議会でも影響力を伸ばしていくのであった。特別の人脈はなかったものの、その受け手の類型としては、「第一は、マッカーシーの言っていることはでたらめだという理由で、無視することである」、「第二の考え方は証拠不十分とする見方であった」、さらに「第三の見方は、大体においてマッカーシーに疑わしい点は出来るだけ有利に解釈してやるのが妥当だとするものであった」(同訳書)、といったところだろうか。
と、およそこのような流れで絶頂期を迎えた後には、さしもの彼の弁舌にも、陰りがやって来る。その極めつけとは、1954年に起きた変化であって、こう言われる。
「その年はウィリアム・フルブライト唯一人しかマッカーシーに反対投票をする議員はいないという状況で明けたのに、年の終わりには67人、いいかえれば当時では3分の2をこす議員が非難決議に賛成票を投じた。それから6か月たって、マッカーシーがその名を冠する最後の決議案を投じた時(これはジュネーブ会議に衛星国の自由の問題を持ち出すよう要求して、大統領を困らせようとしたものであった)、それは77対4で否決された。(同訳書)」
かくして、アメリカはマーカーシズムという流れをどうにか打ちきり、彼らの本来的な道を通じて、世界を自己に有利に動かしていこうと、あれこれ行うことになっていく。
(続く)
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