♦️421『自然と人間の歴史・世界篇』マーカシズム(1950~1954、アメリカ)

2020-12-15 22:02:48 | Weblog
421『自然と人間の歴史・世界篇』マーカシズム(1950~1954、アメリカ)

 マーカーシズムというのは、1950年から1954年にかけてアメリカ合衆国のウィスコンシン州選出上院議員ジョゼフ・R・マッカーシーの活動に代表される反共産主義のヒステリーとでもいおうか、事実に基づかないことを言うのに急な現象をいう。
 これには、下地として、第二次世界大戦後のアメリカが直面した、世界との関わりがあった。政府は、1947年3月、トルーマン・ドクトリンの発表と相前後して、連邦政府職員の忠誠審査令を出して思想統制を強化し、翌年の大統領選挙に進歩党から出馬した対ソ協力派のヘンリー・ウォーレス元副大統領を容共的であると非難していた。
 そして迎えた1949年の中国の人民民主主義革命(国民党の蒋介石政権は大陸を追われ、台湾を占領の上、その地で統治を始める)によって、アメリカのこの地域への関与の野望が潰えたのみならず、同年ソ連が原爆実験に成功した。アメリカとしては、戦後の主導権を握ろうとしていた矢先の出来事であったろう。時代は、「東西冷戦」に向かっている、とされていた。


 このような時、マッカーシーは、自らの所属する上院(彼が議席を得て3年目ら)を利用して、国民の危機感に訴える一大キャンペーンに打って出る。いわく、「それまでのマッカーシーは上院で影の薄い、とるにたらぬ人物のように見えた」(「R・H・ロービア著、宮地健次郎訳「マーカシズム」岩波文庫、1984)というのだが。

 これらの困難の源は、国内や政府のなかに国益を裏切った共産主義者がいるためだとし、1950年2月に行われた「国務省のなかに205人の共産党員がいる」という演説を行うなど、根拠のない話を、しかも針小棒大に広める。これが、アメリカ国民をらなる不安と混乱に陥れ、まもなくの1950年に勃発した朝鮮戦争によって勢いを増していく。

 続いての1952年の選挙演説で、彼は、「農民、労働者、経済人にとって真の問題は唯一つ、それは政府の中の共産主義の問題である」と、また朝鮮戦争に触れては「こうして、国内で共産主義と戦う気のない政府は、海外で共産主義と戦う意欲のあることを米国民に証明してのである」ともいう。

 ところが、このような、「大変だ、さあ、どうする」式の言動が、大衆受けする、その余勢をかって議会でも影響力を伸ばしていくのであった。特別の人脈はなかったものの、その受け手の類型としては、「第一は、マッカーシーの言っていることはでたらめだという理由で、無視することである」、「第二の考え方は証拠不十分とする見方であった」、さらに「第三の見方は、大体においてマッカーシーに疑わしい点は出来るだけ有利に解釈してやるのが妥当だとするものであった」(同訳書)、といったところだろうか。

 と、およそこのような流れで絶頂期を迎えた後には、さしもの彼の弁舌にも、陰りがやって来る。その極めつけとは、1954年に起きた変化であって、こう言われる。

 「その年はウィリアム・フルブライト唯一人しかマッカーシーに反対投票をする議員はいないという状況で明けたのに、年の終わりには67人、いいかえれば当時では3分の2をこす議員が非難決議に賛成票を投じた。それから6か月たって、マッカーシーがその名を冠する最後の決議案を投じた時(これはジュネーブ会議に衛星国の自由の問題を持ち出すよう要求して、大統領を困らせようとしたものであった)、それは77対4で否決された。(同訳書)」

 かくして、アメリカはマーカーシズムという流れをどうにか打ちきり、彼らの本来的な道を通じて、世界を自己に有利に動かしていこうと、あれこれ行うことになっていく。


(続く)

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♦️421『自然と人間の歴史・世界篇』マーカーシズム(1950~1954、アメリカ)

2020-12-15 22:02:48 | Weblog
421『自然と人間の歴史・世界篇』マーカーシズム(1950~1954、アメリカ)

 マーカーシズムというのは、1950年から1954年にかけてアメリカ合衆国のウィスコンシン州選出上院議員ジョゼフ・R・マッカーシーの活動に代表される反共産主義のヒステリーとでもいおうか、事実に基づかないことを言うのに急な現象をいう。
 これには、下地として、第二次世界大戦後のアメリカが直面した、世界との関わりがあった。政府は、1947年3月、トルーマン・ドクトリンの発表と相前後して、連邦政府職員の忠誠審査令を出して思想統制を強化し、翌年の大統領選挙に進歩党から出馬した対ソ協力派のヘンリー・ウォーレス元副大統領を容共的であると非難していた。
 そして迎えた1949年の中国の人民民主主義革命(国民党の蒋介石政権は大陸を追われ、台湾を占領の上、その地で統治を始める)によって、アメリカのこの地域への関与の野望が潰えたのみならず、同年ソ連が原爆実験に成功した。アメリカとしては、戦後の主導権を握ろうとしていた矢先の出来事であったろう。時代は、「東西冷戦」に向かっている、とされていた。


 このような時、マッカーシーは、自らの所属する上院(彼が議席を得て3年目ら)を利用して、国民の危機感に訴える一大キャンペーンに打って出る。いわく、「それまでのマッカーシーは上院で影の薄い、とるにたらぬ人物のように見えた」(「R・H・ロービア著、宮地健次郎訳「マーカシズム」岩波文庫、1984)というのだが。

 これらの困難の源は、国内や政府のなかに国益を裏切った共産主義者がいるためだとし、1950年2月に行われた「国務省のなかに205人の共産党員がいる」という演説を行うなど、根拠のない話を、しかも針小棒大に広める。これが、アメリカ国民をさらなる不安と混乱に陥れ、まもなくの1950年に勃発した朝鮮戦争によって勢いを増していく。

 続いての1952年の選挙演説で、彼は、「農民、労働者、経済人にとって真の問題は唯一つ、それは政府の中の共産主義の問題である」と、また朝鮮戦争に触れては「こうして、国内で共産主義と戦う気のない政府は、海外で共産主義と戦う意欲のあることを米国民に証明しているのである」ともいう。

 ところが、このような、「大変だ、さあ、どうする」式の言動が、大衆受けする、その余勢をかって議会でも影響力を伸ばしていくのであった。特別の人脈はなかったものの、その受け手の類型としては、「第一は、マッカーシーの言っていることはでたらめだという理由で、無視することである」、「第二の考え方は証拠不十分とする見方であった」、さらに「第三の見方は、大体においてマッカーシーに疑わしい点は出来るだけ有利に解釈してやるのが妥当だとするものであった」(同訳書)、といったところだろうか。

 その被害については、なおつまびらかには明かされていない。マッカーシーの影響下での非米活動調査委員会の聴聞会では、欺瞞と偏見に満ちた運営がなされ、合衆国憲法の人権条項もなんのその、思想信条を厳しく問う話となった。槍玉に挙げられた分野、業界なりでは、個人があぶり出されていく。 
 文化の殿堂、映画界も例外でななく、共産主義の主張に関係していると目される映画人だけでなく、共産党員を友人に持つ者など、疑わしいと思われた人物が呼び出された。その中で共産主義に染まっているとみなされた者、もしくは証言を拒否した者は、ブラックリストに載せられていく。ハーバート・ビーバーマン(映画監督。代表作「地の塩」(1953年)など、「赤狩り」の犠牲となり、それぞれの職業的地位を追われた代表的な映画人のことは、「ハリウッド・テン」と呼ばれた。

 と、およそこのような流れで絶頂期を迎えた後には、さしもの彼の弁舌にも、陰りがやって来る。その極めつけとは、1954年に起きた変化であって、こう言われる。

 「その年はウィリアム・フルブライト唯一人しかマッカーシーに反対投票をする議員はいないという状況で明けたのに、年の終わりには67人、いいかえれば当時では3分の2をこす議員が非難決議に賛成票を投じた。それから6か月たって、マッカーシーがその名を冠する最後の決議案を投じた時(これはジュネーブ会議に衛星国の自由の問題を持ち出すよう要求して、大統領を困らせようとしたものであった)、それは77対4で否決された。(同訳書)」

 かくして、アメリカはマーカーシズムという流れをどうにか打ちきり、彼らの本来的な道を通じて、世界を自己に有利に動かしていこうと、あれこれ行うことになっていく。


(続く)

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○234の2『自然と人間の歴史・日本篇』江戸期の大衆文化(文学1、俳句、和歌)

2020-12-15 10:08:55 | Weblog
234の2『自然と人間の歴史・日本篇』江戸期の大衆文化(文学1、俳句、和歌)

 松尾芭蕉(まつおばしょう、1644~1694)は、日本における江戸期の俳句の最高峰ともされる人物であろう。その人生は、何かしらベールにまとわれているように感じられよう。
 死後に編纂されたか、「奥の細道」は、あまりに有名だ。その彼がすべてを俳句づくりにかけてきた姿勢が窺えるものに、「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」がある。
 また、律儀な性格を伝えるものに、「名月や池をめぐりて夜もすがら」とある。旅の途中、出没する至る所において、誠に臨機応変、自己表現の「達人」というべきか。


 小林一茶は(こばやしいっさ、1763~1828)は、信濃北部の農家の長男に生まれた。幼名を小林弥太郎という。3歳で生母を亡くし、その後父が迎えた継母とは折合いが悪かったらしい。それまで何かと守ってくれていた祖母を亡くすと、江戸へ奉公に出される。

 俳諧(はいかい)との馴れ初めは、25歳の頃だったのではないかという。その辺りの詳しいことはわかっていないようだ。39歳のときに、病に倒れた父の看病で故郷に戻るも、父はまもなく亡くなる。遺産相続問題で継母や異母兄弟との間で争いが起こり、和解まで12年を要する。

 52歳で初めて結婚し、生涯三度結婚して、子どもは5人。暮らし向きがそこそこになり、やや安定してきたのだろうか。

 生涯に詠んだ俳句は、2万句とも言われる。それらの大半は、生活の中から、自然な感じで産まれてきたのだろうか。それとも、あれこれ気張っての作品なのだろうか。「おらが春」や「一茶発句集」という俳句文集も出す。
 作風は、どんなであろうか。正義の味方というよりは、弱者の味方ともとれそうな句を沢山つくった。例えば、「やせ蛙負けるな一茶是にあり」とあり、なんだか大きな蛙に小さな蛙がけとばされながらも、相手をにらんでいる、一種剽軽(ひょうきん)な様が窺える。
 そんな負けず嫌いの彼にしても、いつか道に迷ったとき、心の苦しい時も多くあったらしく、「露の世は露の世ながらさりながら」とい愛児の死に浸る句がある。そのかたわら「ともかくもあなたまかせの年の暮れ」ともあり、阿弥陀如来にはからいに任そうとという神妙な心境もうたっているところだ。


 与謝蕪村(よさぶそん、1716~1784)は、俳諧のみならず、画業でも有名だ。大阪市都島区毛馬町(当時の摂津国(せっつのくに)東成郡(ごおり)毛馬村、現在の大阪市都島区毛馬町)の生まれ。
 生前自らの出身地について語ったものとして、「馬堤は毛馬塘也則(つつみなりすなわち)余が故園也(なり)」とあり、これは、1777年(安永6年)2月23日付け、伏見の柳女(りゅうじょ)と賀瑞(がずい)という門人の母子に宛てた手紙にあるという。 
 本人は、なかなかに、無骨、口数も少なめといったところであったろうか。27歳の時、師匠の巴人と死別すると、同門の結城俳人砂(いさ)岡雁とうを頼る。その後、北関東を転々とし、1751年秋には上洛(じょうらく)。その頃には、各地に弟子や援助者もできていたのではないか。
 生涯に作った俳句の全容については、例えば、こう言われる。 「今日、蕪村の句として知られる総数は、約2千8百句。その中から、晩年に至り、蕪村自身精選して世に残そうと努めたものが、蕪村自筆句集である。」(尾形つとむ「蕪村俳句集」岩波文庫、1989) 

 お馴染みの句としては、例えば、「なの花や月は東に日は西に」「春の海終日(ひねもす)のたりのたりかな」などがあろう。 
 俳句仲間との会合ということでは、例えば、「連歌してもどる夜鳥羽(とば)の蛙哉」や、「床涼み笠着(かさぎ)連歌のもどり哉」が見られて、その場がなんとなく脳裏に浮かんでくるではないか。

☆☆☆☆☆

 平賀元義(ひらがもとよし)は、1800年(寛政12年)、岡山城下富田町で生まれた。岡山藩士平尾長春の嫡男だった。1832年(天保3年)、33歳の時脱藩したのは、そのままでは世に出られないと考えたのか。平賀左衛門太郎源元義と名乗って、備前、備中、美作などへ、放浪を始める。
 多くの万葉調の歌を作った。また、書を能くした。性格は、奔放純情ながら、潔癖などの奇行も多かったとか。生涯不遇の人で、仕官の話があった矢先、岡山市長利の路傍で卒中のため急死した。
 66年の生涯におよそ700首を詠んだ。ここに数例を挙げれば、「放たれし野辺のくだかけ岡山の大城恋しく朝夕に啼く」、「春来れば桜咲くなり。いにしへのすめらみことのいでましどころ」、「神さぶる大ささ山をよぢくれば春の未にぞ有紀は零りける」(大佐々神社(おおささじんじゃ、現在の津山市大篠)にて)、「見渡せば美作くぬちきりはれて津山の城に旭直刺」(同)等々。
 正岡子規の『墨汁一滴』には、歌人としての平賀元義を褒めちぎる一節がある。
 「徳川時代のありとある歌人を一堂に集め試みにこの歌人に向ひて、昔より伝へられたる数十百の歌集の中にて最善き歌を多く集めたるは何の集ぞ、と問はん時、そは『万葉集』なり、と答へん者賀茂真淵を始め三、四人もあるべきか。その三、四人の中には余り世人に知られぬ平賀元義といふ人も必ず加はり居るなり。
 次にこれら歌人に向ひて、しからば我々の歌を作る手本として学ぶべきは何の集ぞ、と問はん時、そは『万葉集』なり、と躊躇なく答へん者は平賀元義一人なるべし。
 万葉以後一千年の久しき間に万葉の真価を認めて万葉を模倣し万葉調の歌を世に残したる者実に備前の歌人平賀元義一人のみ。真淵の如きはただ万葉の皮相を見たるに過ぎざるなり。世に羲之を尊敬せざる書家なく、杜甫を尊敬せざる詩家なく、芭蕉を尊敬せざる俳家なし。しかも羲之に似たる書、杜甫に似たる詩、芭蕉に似たる俳句に至りては幾百千年の間絶無にして稀有なり。
 歌人の万葉におけるはこれに似てこれよりも更に甚だしき者あり。彼らは万葉を尊敬し人丸を歌聖とする事において全く一致しながらも毫も万葉調の歌を作らんとはせざりしなり。この間においてただ一人の平賀元義なる者出でて万葉調の歌を作りしはむしろ不思議には非るか。
 彼に万葉調の歌を作れと教へし先輩あるに非ず、彼の万葉調の歌を歓迎したる後進あるに非ず、しかも彼は卓然として世俗の外に立ち独り喜んで万葉調の歌を作り少しも他を顧ざりしはけだし心に大に信ずる所なくんばあらざるなり。(2月14日)」

(続く)

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