153『自然と人間の歴史・日本篇』能と連歌と足利学校
「能」というのは、現代において一般の場で観賞する機会は、かなり限られているのではないたろうか。元の呼び名は「猿楽」、それに「田楽」といい、さらに遡ること、中国の王公貴族あたりがその源流なのではないだろうか。
しかして、その特色とは、次のように。かなりの特異性をもって語られている。
しかして、その特色とは、次のように。かなりの特異性をもって語られている。
「諸道諸事におうて幽玄なるをもて上果とせり。ことさら当芸において、幽玄の風体(ふうてい)第一とせり。(中略)
そもそも幽玄の堺(さかひ)とは、まことにはいかなる所にてあるべきやらん。(中略)
ただ美しく柔和(にゅうわ)なる体(てい)、幽玄の本体なり。(中略)
言葉の幽玄ならんためには、歌道を習(なら)ひ、姿の幽玄ならんためには、尋常なる為立(したて)の風体をならひ、一切ことごとく物まねは変るとも、美しく見ゆる一(ひと)かかりをもつ事、幽玄の種(たね)と知るべし」(世阿弥元清(ぜあみもときよ)「花鏡(かきょう)」、1424)
さても、「言葉の幽玄ならんためには、歌道を習(なら)ひ、姿の幽玄ならんためには、尋常なる為立(したて)の風体をならひ」との脚色が施されている。そのためには、相応の人と舞台がしつらえてなければ、何事もうまくいかない話のようだ。
これを編み出したのは、観阿弥・世阿弥の親子であって、当時民間の演芸であった猿楽と田楽からヒントを得たのだという。
その際は、「支配階級から民衆にいたるあらゆる階層に享受されるところの民族的な文化にまで高めることに成功したのであった」(家永三郎「日本文化史(第二版)」岩波新書、1982)というから、もしそれを意識しての新芸術誕生なら、その時代、世界にも誇れる話なのではないだろうか。
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そもそも幽玄の堺(さかひ)とは、まことにはいかなる所にてあるべきやらん。(中略)
ただ美しく柔和(にゅうわ)なる体(てい)、幽玄の本体なり。(中略)
言葉の幽玄ならんためには、歌道を習(なら)ひ、姿の幽玄ならんためには、尋常なる為立(したて)の風体をならひ、一切ことごとく物まねは変るとも、美しく見ゆる一(ひと)かかりをもつ事、幽玄の種(たね)と知るべし」(世阿弥元清(ぜあみもときよ)「花鏡(かきょう)」、1424)
さても、「言葉の幽玄ならんためには、歌道を習(なら)ひ、姿の幽玄ならんためには、尋常なる為立(したて)の風体をならひ」との脚色が施されている。そのためには、相応の人と舞台がしつらえてなければ、何事もうまくいかない話のようだ。
これを編み出したのは、観阿弥・世阿弥の親子であって、当時民間の演芸であった猿楽と田楽からヒントを得たのだという。
その際は、「支配階級から民衆にいたるあらゆる階層に享受されるところの民族的な文化にまで高めることに成功したのであった」(家永三郎「日本文化史(第二版)」岩波新書、1982)というから、もしそれを意識しての新芸術誕生なら、その時代、世界にも誇れる話なのではないだろうか。
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ついで、連歌を取り上げよう。元は、上句と下句とを問答の形にて、隣り合う二人でよみ出すものであった。具体的には、和歌が5・7・5・7・7の計31文字でその時々の思いを表現するのをベースにして、連歌は複数人で行うものであり、一人目が5・7・5、次の歌い手が7・7と句をつないでいく。いうなれば、雅の世界でいう、和歌の変形なのでであった。
それが、14世紀頃から、より多くの人がよみ連ねていくのに変わっていく。平安時代の院政期から、公家の間で行われていたものが、そこから徐々に武士や商人などに広まっていく。前者を「堂上連歌」といい、後者を「地下連歌(ちげれんが)」と言い慣わす。
そんな連歌の集大成として、現代に伝わるのが、「新撰莵玖波集(しんせんつくぼしゅう)」なのであって、次なる解説が付いている。
「それ連歌はやまとうたの一体として、そのかみよりつたはりて人の世にさかりなり。(中略)
しかはあれど代々をかさねてことにあつめえらばれたる事は 其跡なかりしを、なにがしのおとゞ 外にはまつり事をたすくる契をわすれず、うちには道をもてあそぶ心ざしのあさからざりしゆへにひろくまなび、とをくもとめて、いにしへ今の連歌をあつめて、莵玖波集となづけしめ、おほやけごとになずらふるみことのりを下されしより、此みちいよいよひろまりて、さかりにとゝのほりける。あるは本式新式のむねをろんじ、賦物嫌物の法をさだめしまでも、すべてかしこき心ばへにあらずといふ事なんなかりける。(中略)
かゝるにいま宗祇をいへる世すて人あり、このみちにたづさひて、やそぢにちかきよわひにもをよべり。
此たびかれらがちからを合て、もはらえらびとゝのへしむる事は、かの莵玖波を救済等におほせあはせんあとをおもへる者ならし。(中略)
此たびかれらがちからを合て、もはらえらびとゝのへしむる事は、かの莵玖波を救済等におほせあはせんあとをおもへる者ならし。(中略)
いまりん命をうけたまはれる事は、ひとへに道にふけるおほん心ざしのいたりなるべし。これまことに、君も臣も身をあはせたるといふにあらずや。時に明応四年六月廿日になんしるしをはりぬる。」(飯尾宗祇ほかの編集「新撰莵玖波集(しんせんつくばしゅう)」1495)
なにしろ、互いの顔がわかるであろう、集団的な席上、その参加者の間につながれ、かつ相呼応のうちに連作されていくものだから、平たくいえば、個々人の作品というのことにはならないのではないか。
そんな文人の中でも代表的な、室町時代に活躍した連歌師の宗祇(そうぎ)などは、地方の有力な武士や町人、寺社のところに出掛けては、会を催してもらい、その道を彼らに伝えて余りあったのだろう。
なにしろ、互いの顔がわかるであろう、集団的な席上、その参加者の間につながれ、かつ相呼応のうちに連作されていくものだから、平たくいえば、個々人の作品というのことにはならないのではないか。
そんな文人の中でも代表的な、室町時代に活躍した連歌師の宗祇(そうぎ)などは、地方の有力な武士や町人、寺社のところに出掛けては、会を催してもらい、その道を彼らに伝えて余りあったのだろう。
「「河越千句」は、河越城などを築城した太田道灌(おおたどうかん)の主催で行われた連歌会での作品です。文明2(1470)年正月10日から3日かけて行われました。「何人第二」では、宗祇が発句です。
何人第二
🌕遠く見て行けば霞まぬ春野かな、宗祇。🌕明くる梢ののどかなる色、義藤。🌕月薄く嶺に移ろひそ、道真。🌕ほの暗き江に水落つる山、心敬。🌕浪寒く火を焚く村の夕間暮れ、満助。🌕立つや千鳥の微かなる声、中雅。🌕踏む跡の真砂や風に扉くらむ、長畝。🌕身に染む朝の袖の初霜、修茂。✳️適宜校訂を施した」(埼玉新聞、2020年12月2日付けの記事「東国武士に連歌指導、知ってる?埼玉の文学者たち」より引用)
何人第二
🌕遠く見て行けば霞まぬ春野かな、宗祇。🌕明くる梢ののどかなる色、義藤。🌕月薄く嶺に移ろひそ、道真。🌕ほの暗き江に水落つる山、心敬。🌕浪寒く火を焚く村の夕間暮れ、満助。🌕立つや千鳥の微かなる声、中雅。🌕踏む跡の真砂や風に扉くらむ、長畝。🌕身に染む朝の袖の初霜、修茂。✳️適宜校訂を施した」(埼玉新聞、2020年12月2日付けの記事「東国武士に連歌指導、知ってる?埼玉の文学者たち」より引用)
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それから、足利学校というのは、日本最古級の民間の学校である、創建されたのは、平安時代だというのだが、諸説がある。
一説には、平安時代の公家、小野篁(たかむら)が、「史跡足利学校」(足利市昌平町)の地に、初めて営んだという。1549年11月5日付け「ザビエル書簡鎌」が、その由来の細かいところを、こう伝えている。
「聞く所に依れば、当地より都まで300レグワあり。同市に付きては我等に大なる事を語り、戸数は九万を超え、一の大なる大学あり。其内に主なる学部五つを有す。(中略)
都の大学の外に主なる大学五校あり。其名は高野(Coya)・根来(Nenguru)・比叡山(Feizan)・多武峰(Taninomine)なり。
此等の大学は都の周囲に在り、各学生3500以上を有せりといふ。甚だ遠き所に坂東(Bandou)と称する他の大学あり。日本の最大且主要なるものにして、此所に入学する学生最も多し。
坂東は甚だ大なる地方にして太守六人あり。其中一人の主なる者あり。他は皆之に服従せり。主なる太守は都の大主なる日本国王に服従す。此地方及び諸大学の広大なることに付き、我等は種々聞きたる事あれども、之を確めたる上通信せん為、先ず之を見んことを希望す。」(「耶蘇会士日本通信」)
(続く)
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