140の4『自然と人間の歴史・世界篇』ハンザ同盟(1241~1648)
中世が後期にさしかかる12世紀初期頃からは、ロンドンやブリュッヘ、ノブゴロド、ベルゲンに根拠地を置く「外地ハンザ」が形成されていく。ここにハンザとは、元来「商人仲間」の意味だ。彼らは、某かの盟約を結ぶもので、11世紀以降のフランスや、毛織物工業の盛んなフランドル地方にもみられよう。
ドイツで台頭したのは、当初北ドイツ商人とライン、ケルン商人が北海やバルト海沿岸貿易を牛耳ろうという「商人ハンザ」であった。
これらが、しだいに本国都市との間に政治的・軍事的同盟である都市ハンザを形成していく。1241年には、リューベックとハンブルグが同盟を結ぶにいたる。
その甲斐あって、特に 1358年フランドル商業封鎖の宣言に際して都市同盟の性格が明確化し、ドイツ・ハンザと名のることになっていく。
中世が後期にさしかかる12世紀初期頃からは、ロンドンやブリュッヘ、ノブゴロド、ベルゲンに根拠地を置く「外地ハンザ」が形成されていく。ここにハンザとは、元来「商人仲間」の意味だ。彼らは、某かの盟約を結ぶもので、11世紀以降のフランスや、毛織物工業の盛んなフランドル地方にもみられよう。
ドイツで台頭したのは、当初北ドイツ商人とライン、ケルン商人が北海やバルト海沿岸貿易を牛耳ろうという「商人ハンザ」であった。
これらが、しだいに本国都市との間に政治的・軍事的同盟である都市ハンザを形成していく。1241年には、リューベックとハンブルグが同盟を結ぶにいたる。
その甲斐あって、特に 1358年フランドル商業封鎖の宣言に際して都市同盟の性格が明確化し、ドイツ・ハンザと名のることになっていく。
それというのも、彼らは中枢的地位を占めていたリューベックを盟主として、その力の及ぶ範囲たるや、市場権、都市防衛権、租税徴収権、度量衡監督権、裁判警察権、市会設置による自治権など、これらを総称して広く「都市権」というべきだろうか。
そればかりではない。14世紀中頃以降、貿易における彼らの独占的な地位が脅かされるようになると、デンマーク戦争 (1368~1370) での制圧後は最盛期を迎えた。 皆が協力することで、対外的な地位を増していく。
その活動範囲たるや、ウラル山脈から大西洋に至るヨーロッパ大陸のほぼ北半分をカバーして、加盟都市も100余市というから、凄い。
15世紀以降になっては、絶対王政国家の権力にしだいに押されていく。時に、イギリスとオランダで外来商人排斥の風潮が広がっていく。それに伴い、ドイツ商人による、かかる地域での独占貿易が圧迫されていく、という構図であったろう。
また、それ以外にも、加盟都市内での商人と手工業者の争いや、加盟都市間の利害の不一致が表面化、同時に常設統治機関をもたない組織上の脆弱さも露見したという。
その終末については、1818年からの三十年戦争 1669年リューベックでハンザ会議が開かれた。ところが、出席したのはリューベック、ハンブルク、ブレーメン、ブラウンシュワイクの代表のみであり、衰退を押し進めた、やがての三十年戦争後に解散に追い込まれる。
(続く)
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15世紀以降になっては、絶対王政国家の権力にしだいに押されていく。時に、イギリスとオランダで外来商人排斥の風潮が広がっていく。それに伴い、ドイツ商人による、かかる地域での独占貿易が圧迫されていく、という構図であったろう。
また、それ以外にも、加盟都市内での商人と手工業者の争いや、加盟都市間の利害の不一致が表面化、同時に常設統治機関をもたない組織上の脆弱さも露見したという。
その終末については、1818年からの三十年戦争 1669年リューベックでハンザ会議が開かれた。ところが、出席したのはリューベック、ハンブルク、ブレーメン、ブラウンシュワイクの代表のみであり、衰退を押し進めた、やがての三十年戦争後に解散に追い込まれる。
(続く)
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