♦️140の4『自然と人間の歴史・世界篇』ハンザ同盟(1241~1648)

2020-12-20 21:59:28 | Weblog
140の4『自然と人間の歴史・世界篇』ハンザ同盟(1241~1648)


 中世が後期にさしかかる12世紀初期頃からは、ロンドンやブリュッヘ、ノブゴロド、ベルゲンに根拠地を置く「外地ハンザ」が形成されていく。ここにハンザとは、元来「商人仲間」の意味だ。彼らは、某かの盟約を結ぶもので、11世紀以降のフランスや、毛織物工業の盛んなフランドル地方にもみられよう。

 ドイツで台頭したのは、当初北ドイツ商人とライン、ケルン商人が北海やバルト海沿岸貿易を牛耳ろうという「商人ハンザ」であった。
 これらが、しだいに本国都市との間に政治的・軍事的同盟である都市ハンザを形成していく。1241年には、リューベックとハンブルグが同盟を結ぶにいたる。

 その甲斐あって、特に 1358年フランドル商業封鎖の宣言に際して都市同盟の性格が明確化し、ドイツ・ハンザと名のることになっていく。
 
 それというのも、彼らは中枢的地位を占めていたリューベックを盟主として、その力の及ぶ範囲たるや、市場権、都市防衛権、租税徴収権、度量衡監督権、裁判警察権、市会設置による自治権など、これらを総称して広く「都市権」というべきだろうか。

 そればかりではない。14世紀中頃以降、貿易における彼らの独占的な地位が脅かされるようになると、デンマーク戦争 (1368~1370) での制圧後は最盛期を迎えた。 皆が協力することで、対外的な地位を増していく。
 その活動範囲たるや、ウラル山脈から大西洋に至るヨーロッパ大陸のほぼ北半分をカバーして、加盟都市も100余市というから、凄い。

 15世紀以降になっては、絶対王政国家の権力にしだいに押されていく。時に、イギリスとオランダで外来商人排斥の風潮が広がっていく。それに伴い、ドイツ商人による、かかる地域での独占貿易が圧迫されていく、という構図であったろう。

 また、それ以外にも、加盟都市内での商人と手工業者の争いや、加盟都市間の利害の不一致が表面化、同時に常設統治機関をもたない組織上の脆弱さも露見したという。


 その終末については、1818年からの三十年戦争 1669年リューベックでハンザ会議が開かれた。ところが、出席したのはリューベック、ハンブルク、ブレーメン、ブラウンシュワイクの代表のみであり、衰退を押し進めた、やがての三十年戦争後に解散に追い込まれる。


(続く)

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♦️360の5『自然と人間の歴史・世界篇』電話の発明(1837~1876)

2020-12-20 09:55:41 | Weblog
360の5『自然と人間の歴史・世界篇』電話の発明(1837~1876)

 有線通信というのは、銅線を空中に張って端末に電源を繋げれば、送信機の手指の操作によって電気信号を相手に送ることが出来る。
 そのとっかかりは、1837年のサミュエル・モールス(1791~1872)に始まる、電信機を使っての電信の原理は、長い導線の一端から電流を断続させて、他端にある電磁石の磁気を変化させることにより信号を送る仕組みのことだが、その原理としては電磁誘導(でんじゆうどう)作用といって、ヘンリーが発見した物理法則だ。
 それを知ったモールスは、ヘンリーの技術指導により電信機を発明。その機械は、文字や数字をdot(トン)、dash(ツー)の組み合わせで表現する信号を考案、1840年に特許を得た。
 この信号は、電流の短点トン(・)と長音ツー(-)の」組合せで、アルファベット或いは、イロハ48文字、それに数字なとを表現する訳だ。
 発明者の名をとって、「モールス信号」といわれるこの伝達方式は、1844年には、世界初の遠距離(ワシントン-ボルチモア間)電信が行われた。当初は、直接トン・ツーを打鍵していたが、キーボードからモールス符号を紙テープに穿孔して送信する自働電信機や、受信側で音響器の送信音でモールス符号を聞き分けて通信文を記録する音響電信機など、多様な改良が行われた。
 その後の1850年にドーバー海峡を結ぶ海底ケーブルが敷設され、今日に続く国際通信の基礎となっていく。
 その基礎工事でいうと、アメリカの西部劇「西部魂」(フリッツ・ラング監督、1941)でのように、電信会社の労働者と技師が銅線を鉄道網に沿って空中に張っていくのだが、なにしろ架設の距離たるや大変な長さであったことだろう。

  そして迎えた1876 年2月14日、アメリカのグラハム・ベル(1847~1922)とエリシャ・グレイ(1835~1901)は、わずか2時間の差でもって電話の特許を申請し、本人ではなく彼の弁護士が代行して申請したベルの方が特許を取得、電話の発明者と認められたという。しかも、ベルはその時まだ電話の完成にいたってなかった。なぜなら、彼の特許申請範囲の大半が「多重電信装置」関係にとどまっていたというから、驚きだ。
  そして迎えた3月10日、実験室にてベルの「ワトソン(トーマス・ワトソン)君、ちょっと来てください。用があります」という声が、電線を通じて聞くことができたとされている。
 その実験中、うっかりしてズボンに希硫酸をこぼしてしまったことから助手に助けを求めたということらしい。そのため、その希硫酸はグレイが申請した内容、つまり適度な電気抵抗を持つ液体に針を立て、音声信号に針の動きが連動することとの関連性があったのかもしれないと。
  その後も、各方面で開発競争が続く。ベルの電気振動の実験の中では、電磁石に近接して置いた鋼鉄ばねの振動が電流を誘発し、それが電線を伝わって受信側の電磁振動板を動かし音が伝わる筈だった。
  1877年4月には、トマス・エジソンがベルの電話機を改良し、炭素型マイクロフォンの特許を申請した。一方、ベルと彼の最大の支援者ハバードは協力して電磁石形の電話機で大衆の前でデモンストレーションを行うなどして自信を深め、1877年7月にはリース制で電話機を顧客に提供する任意組合ベル電話会社(後のAT&T)を設立する。
  これに対して当時最大の電信会社であったWU社は、グレイの受話器やエジソンの受話器の特許を手に入れるとともに、エジソンを顧問に迎え、1877年12月にAST社を立ち上げる。こうした経緯の下に迎えた1878年2月、両社はうまみのある電話市場の争奪に突入していく。
  1878年9月、ベル社は特許権侵害をAST社に向け提訴、その中で炭素式マイクに関するエジソンの特許は無効であると主張した。あれやこれやの論点が出てきて、後世に「ダウド訴訟」と呼ばれた、この裁判は、引き続いて電話機の開発競争が進められる中で進められる。そして1879年5月にいたって、和解が成立する。
  その主な内容は、AST社はベル特許の優先権を認め、電話事業から撤退する、一方、ベル社は電信事業への参入を控える。AST社が保有する5万6千台の電話機をベル社が買い取るとともに、ベル社は電話事業から上がる利益の20%をWU社に17年にわたって支払うというもの。
  こうしてベルは、「電話機の原理的発明者」として名をはせることができた。
 
(続く)

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