○251の3『自然と人間の歴史・日本篇』盛岡藩・三閉伊一揆(1847~1853)

2020-12-19 21:34:26 | Weblog
251の3『自然と人間の歴史・日本篇』盛岡藩・三閉伊一揆(1847~1853)

 1847年(弘化4年)の冬に勃発した盛岡藩での三閉伊一揆(さんぺいいっき)というのは、同藩領地内、太平洋沿岸の一帯を占める、三閉伊通と呼ばれる一帯の農民・漁民1万数千人が蜂起したもの。大方でいうと、いわゆる「日本三大一揆」の一つに数えられる。
 
 この辺りは、江戸時代後期に商工業が盛んになっていたので有名だ。
 その騒動のきっかけとしては、藩が専売制を強化し,臨時に御用金を課したことに対して、彼らが我慢ならないとして立ち上がったことにある、 
 かれらは、この要求をまとめてから、藩の重臣のいる遠野(とおの)に強訴した。遠野には、横田城があった。

 「願い上げ奉り候こと
この度仰せつけられ候御用金三千二百両、宮古通り。二千四百八十両、大槌通り。一千四百三十両、野田通り。
 ほかに毎年大豆御買上げにて候にて迷惑、なおまた塩買上げにて百姓ども一同迷惑まかりおり候ところ、五か年の軒別銭仰せつけられ、やむをえざることと納め上げ奉り候。
 この軒別銭があいすみ申さざるうちは御用金等いっさい仰せつけられまじく候との御沙汰にござ候ところ、近ごろにいたり一か年に三度四度ずつの御用金にごさ候。
 したがっておそれ多い願い上げにござ候えども、なにとぞ御定役御年貢のほかの新税御役立過金など御免下さたく願い上げ奉り候。
おそれながら願い上げ奉り候。
弘化四年十二月
大槌通御百姓共
宮古通御百姓共
野田通御百姓共

弥六郎様
土佐様」

 この年、南部藩は、領内におよそ5万2千両の新税(軒並別銭)を課し、見られる通り、そのうちの約7千両を三陸海岸地域の村々に割り当てていた。そこでこの書状は、見られる通り、この間の藩政への不信を募らせ、税の減免を訴えている。その半年に及ぶ交渉の結果、新たな課税や流通の統制の廃止など多くの要求が通り,また一揆の指導者を処罰しないことも約束させたのであったのだが。
 
 
☆☆☆☆☆☆
 
 1853年(嘉永6年)、今度は、田野畑村の畠山太助、喜蔵らを指導者とし、再び一揆が起る。
 
 今度の一揆の立ち上げは、沿岸北部・田野畑村でもって押し出し、亡き佐々木弥五兵衛を慕う畠山喜蔵、畠山多助(太助)、三上倉治らを頭領として、普代・野田村方面へ向かうという、一旦北上する道を選んだ。
 その出で立ち姿としては、赤だすきの肩に、筵(むしろ)を立て、それには「小○」(困るの意味)と書き、のぼり旗とした。そればかりか、彼らは、竹槍や棒をたづさえての役割を与えられる部隊もあって、それなりの隊列を組んで行進していたというから、驚きだ。そして、浜通りを南下する頃には、大群衆となっていた。
 
 さらに、大槌方面では、三浦命助の率いる一揆軍と合流し、やがての一揆衆は1万6千人とも言われ、釜石から藩境を越え、政治的三ヶ条と具体的な四十九ヶ条の要求を仙台藩に訴える。

 まず、願いの三ヶ条には、一、南部藩主を交迭せしめること、一、三閉伊通の百姓を仙台領民とされたいこと、一、三閉伊通を幕領とされたい、若しできなければ仙台領とされたい、とある。

 その原文としては、こうある。
 
「一、御隠居遊ばされ候甲斐守様、御入口なさせられ度、偏に願上げ候事。
一、三閉伊通に罷り在り候百姓ども一統、御慈悲を以て御抱へ、露命御助け下し置かれ度く、偏へに願上げ奉り候事。
一、三閉伊通、公儀御領に仰せ付けられ下され度く、この義御成り兼ねに候はば、仙台様御領に成し下され候様、願上げ奉り候事。
 右箇条、御慈悲を以て、願の通り仰付けられ下し置かれ候はば、一統重畳有りがたき仕合せと存じ奉り候、恐れながら此段願上げ奉り候。以上」

 このような思いきった、しかも越訴になったのには、水稲生産力の弱い地帯に、この不利を克服するようにおこった新産業に、これをも押しつぶすように重税をかける盛岡藩政への著しい不信があろう。

 この交渉では、45人の代表を仙台藩に残し、一揆衆は村に帰る。その後も粘りづよい交渉が続けられての半年後、前記の45人衆と仙台藩と盛岡藩の度重なる交渉の結果、三十九ヶ条の要求を認めさせる。さらには一揆参加者の処罰も行わないとの「安堵状(あんどじょう)」を得て、解散する。
 
 なお参考までに、本一揆での双方及び一揆参加者内部の関係を見知るものとして、(1)「南部弥六郎奥書黒印状」、(2)「奉差上一札之事写」、(3))「乍恐奉申上候口上書之御事写」、(4)契約書(「嘉永6年6月25日」付け)などの文書が現代に伝わる。
 そのうち(1)とは、一揆に参加した三閉伊通りの農民に対する布告にて、一切の処罰は行わないので安心して帰村するように、盛岡藩の目付2名の連名捺印で約束し、さらに藩の大老である南部弥六郎の奥書を付し記名捺印してある。
 (2)については、(1)と同時に一揆側が藩に対して、約定がなったうえは間違いなく帰村する旨を約束した証文であり、また(3)とあるのは、双方代表を押し立てての折衝中に、一揆側が仙台藩気仙郡代官に対し、盛岡藩はこれまで重過ぎる税を課してきた家老・用人が更迭されず、心ある重臣は未だ閉門の有様、したがって帰国してもどのような処罰が下るかわからないので、仙台藩の百姓にしてほしいと訴えたものだという。
 さらに(4)は、一揆参加の面々が仙台範の仲介を受け入れて、代表45人を残し、帰国するにさいし、仲間うち後者に出した契約書であって、万一の時の家族の暮らし向きについて約している。ちなみにその文言は、次のようであった。
 いわく、「契約書 浜三閉伊通村々のため、身命相捨て候事も図り難く、若し右様の節は、一か年につき金十両ずつ十か年の間、その子孫の養育料として、村より取立て其当人に相渡すべく候事。嘉永六年六月二十五日、盟助殿、太助殿、喜蔵殿。三閉伊惣百姓中」と。
 
☆☆☆☆☆
 
 
 参考までに、一揆の指導者の一端について、数多き人物中から少し紹介しておこう。
 
 まずは、前篇の一揆から一人を取り上げると、佐々木弥五兵衛(ささきやごべい、1787?~1848)は、浜岩泉の切牛村(現在の田野畑村島)の生まれたとされるが、どのような親の下に生まれ、どのような少年時代までを過ごしたのか、正確にはわからないという。
 この地方の沿岸部でとれた塩を、牛の背中にのせて内陸部に運ぶ塩売り商人であった。
 1814年(文化11年)、隣村の岩泉・中里村で農民一揆が起きると、陰ながら応援したという。それが成功してからも、この辺りの農民を守る話わ行動に、自らも様々な関わっていく。
 そして迎えた1847年(弘化4年)には、本人が呼び掛けに加わり、6万両という膨大な御用金取立ての達しを下した盛岡藩に対して、農民たちの先頭に立って闘う。
 代官所から「オオカミを退治するから」と言って鉄砲や槍を借り受け、武器としたというから驚きだ。
 三閉伊の山里から狼煙を上げた一団は、村ごとに人数を増やし、宮古を過ぎ、難所である笛吹き峠を越え、遠野へと進軍する。藩庁のある盛岡に向かわない作戦であったという、

  大挙した農民軍に直面した南部藩家老新田小十郎(遠野南部家)は、善処することを約束し、一揆は成功裏に解散する。

 しかし、弥五兵衛はその先を見越していた、同藩が約束を守らない場合に備えて次の闘いを準備していたところを、密告されたのだろうか、藩の差し向けた刺客に襲われ、囚われた弥五兵衛は打ち首にされ生涯を終える。
 
 
 
 もう一人、この物語の後篇たる嘉永一揆にまつわる人物像のうち、三浦命助 (みうらめいすけ、1820~1864)には、その当時の時代の流れが乗り移っていたのかもしれない。

 それと、そもそもこの人は、陸奥国(むつのくに)盛岡藩領、その三陸海岸側といおうか、上閉伊(かみへい)郡栗林村の肝煎(きもいり)筋の分家に生まれであったという。天保の頃より、小規模なから塩や海産物を仕入れ、三閉通り沿いの農漁村を回って、いわゆる荷駄商いを行っていたとのこと。
 こちらでの一揆には、命助は指導者45人衆の一人として、途中の大槌通りへ入ってから嘉永一揆に加わった由(よし)、それには彼なりの心づもりがあったのだろうか、それとも急な思いが募ってのこと、もしくは人物を見込んで誘われてのことであったのだろうか。

 弁舌のみならず、文をつくるにたけ、それに類い稀といってよいほどの知恵が働くことで、仙台、盛岡の両藩との交渉に加わるうちに、三閉伊通りの人々にとってなくてはならぬ人となっていったようだ。

 大方勝利のうちに一揆が終息した後は、一時、村役人などを務めたという。しかし、自分を陥れる話を認めたのだろうか、京都へ出奔したという。  
 1857年(安政4年)、二条家の家臣と称して盛岡藩領に戻ろうとして捕縛される。新たな志をもって、雌伏していたのだろうか。

 それからの約6年を牢にいれられて、1864年(元治元年)に獄死するのであったが、残されるであろう妻子に生計の道などを説いた「獄中記」を書いた、その一節には、「人間と田畑をくらぶれば、人間は三千年に一度さくうどん花(げ)なり」とあるという。

(続く)


☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


(続く)


☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

♦️946『自然と人間の歴史・世界篇』イラン核兵器合意(2015~)

2020-12-19 09:41:20 | Weblog
946『自然と人間の歴史・世界篇』イラン核兵器合意(2015~)

 2020年もおしづまった今日、「火花を散らす」とは、このことをいうのだろうか。世界平和にとって一番の脅威と目されているのが、中東、中でもイランの核兵器開発をめぐる問題であろう。

 この合意というのは、2015年、イランのロウハニ政権が、米英独仏中ロの6カ国との間でかわした核関連活動に関する制約の取り決めをいう。国際原子力機関(IAEA)の規定より厳しい内容で、濃縮ウランの貯蔵量を300キロ以下、濃縮度は3.67%に制限し、遠心分離機の稼働数の削減などが入っている。
 これにより、米欧は義務履行の見返りとしてイランへの経済制裁を解除した。
 ところが、である。イランを敵対視するトランプ米大統領が2018年5月に核合意からの離脱を一方的に表明し、イラン産原油の全面禁輸など制裁を再開する大統領令に署名した。そもそも2017年に就任したトランプ政権は、合意内容にイランの弾道ミサイル開発規制が盛り込まれていないことなどを問題視し、「史上最悪の合意」と批判したのだ。

 それからは、イランは核合意が事実上崩壊していると反発し、2019年5月以降、義務の履行をなおざり、もしくは破り始める。特に、合意で定められた低濃縮ウラン貯蔵量の上限を突破させるなどの逸脱行為を繰り返してきた。
 2020年1月5日には、第5弾の措置として「制限なしに技術的な必要に応じてウラン濃縮活動を続ける」とする声明を発表した。それでいて、制裁解除を条件に再び核関連の義務を履行する考えも示していることから、米欧の譲歩を狙い、揺さぶりをかける作戦のようだ。


(続く)
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

新257『自然と人間の歴史・世界篇 』イギリスの19世紀文学(ディケンズ) 

2020-12-19 08:46:38 | Weblog
257『自然と人間の歴史・世界篇 』イギリスの19世紀文学(ディケンズ) 

 チャールズ・ディケンズ(1812~1870)は、イギリス南部のポースマス近郊に生まれた。一家がロンドンに移転後には、父が借財不払いで投獄される。そのため、ディケンズは、幼くして靴墨工場ではたらき、家計を支えたという。
 そんな彼が成長して新聞記者になってからは、あちらこちらで見聞した風俗をスケッチ風にして発行したところ、これが当たって、めきめき頭角を表していく。
 その中での出世作の一つ、「クリスマス・キャロル」の筋は、ロンドンに住む、ケチで無慈悲、それに人間嫌いのスクルージ老人が、クリスマス・イブの夜、相棒だった老マーレイの亡霊と対面し、翌日からは彼の予言どおりに第一、第二、第三の幽霊精霊に伴われて知人の家を訪問していく。
 そこそこで、炉辺でクリスマスを祝う、貧しいけれど心暖かい人々に出会うのであったが、自分の将来の姿を見せられる思いもしてきて、さすがのスクルージも心を入れかえざるを得なくなる。そして迎えた「大団円」(第五章)、晩年を迎えた老人の姿を、こうまとめている。
 「(前略)好い古い都なる倫敦ロンドンにもかつてなかったような、あるいはこの好い古い世界の中の、その他のいかなる好い古い都にも、町にも、村にもかつてなかったような善い友達ともなれば、善い主人ともなった、また善い人間ともなった、ある人々は彼がかく一変したのを見て笑った。
 が、彼はその人々の笑うに任せて、少しも心に留めなかった。彼はこの世の中では、どんな事でも善い事と云うものは、その起り始めにはきっと誰かが腹を抱えて笑うものだ、笑われぬような事柄は一つもないと云うことをちゃんと承知していたからである。
 そして、そんな人間はどうせ盲目だと知っていたので、彼等がその盲目を一層醜いものとするように、他人ひとを笑って眼に皺を寄せると云うことは、それも誠に結構なことだと知っていたからである。彼自身の心は晴れやかに笑っていた。そして、かれに取ってはそれでもう十分であったのである。」(森田草平訳「クリスマス・カロル」岩波文庫を、青空文庫で現代仮名遣いにしたものから引用)
 このように、拝金主義にまみれた状態からの脱出でしめくくる作品が見られる一方、晩年にさしかかるにつれ、後期の作品群には複雑な人間心理が見てとれるようになっていく。
 たとえば「大いなる遺産」は、主人公ピップの人生遍歴を通して、莫大な財産が転がりこんでくる夢に翻弄される若者を、これでもか、と描いている。
 そもそもが、幼いピップが、遊びにくるように言ってくれた老婆ミス・ハヴィシャムの家を訪れた時、その彼女から「さあ、私を見なさい。お前の生まれた頃からこの方、一度も日の光を見ていない女がお前は怖いのかね」(神山妙子編著「はじめて学ぶイギリス文学史」ミネルヴァ書房、1989)というのであった。


 もう一つ、今度は、ディケンズ自身が自分の代表作に任じている「デイビット・コパフィールド」を取り上げよう。こちらは、そのおおくの部分が一人称での自叙伝的な長編小説であって、紹介される登場人物は多彩、かつ個性的だ。例えば、ミコーバー夫妻の印象的なシーンから紹介するとしよう。

「ミスタ・ミコーバーの貧乏は、とうとう、行き詰ってしまって、ある日、朝早くつかまると、バラ区の債務者拘置所へ連行されていった。家を出るとき、彼は、天道、我に非なり、と私につぶやいたが―さぞかし彼も断腸の思いだったろうが、私も悲しかった。だが、その後聞いたところによると、午後にはもう、元気に九柱戯をやって遊んでいたという。」(新潮文庫 中野好夫訳「デイヴィッド・コパフィールド㈠」、349ページ)

 「あの主人ひとを捨てるなんて、そんなことできませんとも。あの主人も、初めのうちは、困ってること、わたしには隠してたらしいんですのよ。とにかく、呑気な楽天家だもんですから、なんとか、乗り切れるつもりだったんでしょうね。母親の形見だった真珠の首飾りも腕輪も、相場の半値で、手放してしまいますし、結婚のとき、父からもらった一揃いの珊瑚珠まで、ただ同様で売り払っちまったんですからね。
 それでも、あの主人ひとを捨てるなんて、そんなことできませんとも。あの主人も、初めのうちは、困ってること、わたしには隠してたらしいんですのよ。とにかく、呑気な楽天家だもんですから、なんとか、乗り切れるつもりだったんでしょうね。母親の形見だった真珠の首飾りも腕輪も、相場の半値で、手放してしまいますし、結婚のとき、父からもらった一揃いの珊瑚珠まで、ただ同様で売り払っちまったんですからね。それでも、あの主人を捨てるなんて、そんなことができるもんですか。ええ。そうですとも」彼女は、いよいよ、興奮してきて、叫んだ。「絶対、そんなことはできません!いくら頼まれたって、そんなことできません!」

 「そりゃ、あの主人にも、落度はありますわよ。前後の考えも、何もない人だってこと、また財産のことも、借金のことも、一切わたしには、知らしてくれなかったってこと、そりゃ、別に否定いたしませんとも」じっと、壁を見つめながら、言うのだ。「でも、それでも、あの主人を捨てるなんてことは、断じてできません!」
 その頃はもう、すっかり金切り声になっていた。私は、驚いて、クラブの部屋の方へ、飛び出していった。ミスタ・ミコーバーは、長テーブルの司会席に坐って、
  はい、どう、子馬
  はい、どう、子馬
  はい、どう、子馬
  はい、どう、しっしっしっ!
 と、今しも陽気に、合唱の音頭をとっているところだったが、私は、とりあえず、制して、ただならぬ奥さんの様子を、話して聞かせた。と、たちまち、彼は、ワッとばかりに泣きくずれ、いままで食べていた小エビの頭や尻尾を、いっぱい、チョッキにくっつけたまま、私と一緒に、飛び出してきた。
「エマ、わしの天使!どうしたというのだ!」彼は、部屋へ駆け込むなり、わめいた。
「ねえ、ミコーバー、あなたを見捨てるなんて、絶対にできません」
「ああ、大事なエマ、そんなことは、ようくわかっとる」彼は、奥さんを両腕に抱いて、言う。

「この主人はね、この子供たちの父親!この双生児の親なんですもの。わたしの大事な、大事な夫」ミセス・ミコーバーは、身悶えしながら、叫ぶのだった。

 「この主人を―捨てる―なんて―絶対に―できるもんですか」
 この深い愛情の告白に、すっかり感動してしまったミスタ・ミコーバーは(そういえば、私も、すっかり涙ぐんでいたが)、激しく、上から抱き締めるようにすると、さあ、顔を上げて、そして、もっと落着いてと、まるで哀願でもするように言うのだった。だが、顔を上げてと言えば言うほど、奥さんの方は、いよいよ、ありもしない虚空を見つめ、落ち着いてと言えば言うほど、これまた、いよいよ、興奮してくのだった。とうとう、しまいには、ミスタ・ミコーバーの方が参ってしまって、すっかり私たちと一緒になって、泣き出してしまった。」(新潮文庫 中野好夫訳『デイヴィッド・コパフィールド㈠』、360~363ページ)

 この例からも、当時の工業先進国イギリスといえども、「ピープル」たる人々の日常からは、浮きつ沈みつ、なんとかまっとうな生活を送りたいとの心情が窺えるのではないだろうか。
 合わせるに、この国の後の作家モームが1954年に公にした「世界十大小説」中のディケンズの当該項においては、次のような含蓄ある賛辞が添えられている。

 「小説の世界は、神の国と同様、住みかが多いのて、そのどの住みかへ読者を案内しようと、それは作家の自由である。どの住みかであれ、すべてが同様に存在の権利を持っているのである。
 だが、読者その案内された環境に適応するようにしなければならない。たとえば「黄金の鉢」を読む場合と、「ビュビュ・ド・モンパルナス」を読む場合とでは、かける眼鏡を違えなければならない。
 「デイビッド・コパフィールド」は人生について自由奔放な空想を働かせた。ある時は賑やかで、ある時は哀れ深い作品で、活発な想像力と暖かな感情の持主が、その過去の思い出と願望充足とから作りあげたものである。
 この作品を読むには、シェイクスピアの「お気に召すまま」を読むのと同じ精神をもってしなければならない。事実「デイビッド・コパフィールド」は、「お気に召すまま」とほぼ同様な、心地よい楽しみを与えてくれる作品なのである。」(W・Sモーム著、西川正身訳「世界の十大小説」上、岩波新書、1958)

(続く)

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆