♦️204の2『自然と人間の歴史・世界篇』資本主義はなぜ西欧で始まったのか

2020-12-14 10:42:50 | Weblog
204の2『自然と人間の歴史・世界篇』資本主義はなぜ西欧で始まったのか


 資本主義という社会システムをささえているものの他に、どのような背景がそれに力したのかを巡っては、色々な流れがあろう。
 その一つは、西洋諸国がそれ例外の地域社会なり国家に対して収奪を行うことにより富を得、それをもって資本主義の発展が可能になったのだという。


 二つ目は、西洋においては、そもそも多神教ではあっても、やがて一神教が現れた。そして、そのことが物質的な生産に人間が精出すのを引っ張り、あるいは後押したのだという。例えば、こういう。
 「少々むずかしくいえば、一神教からは「主体」(人間)と「客体」(自然)を分離するような精神が生まれる。物質はしょせん物質なのだから、草や木や虫を客観的に分析することになんのタブーも感じない。そんな合理的な精神が科学を生み、その科学は数々の発明・発見を可能にした。それがひいては生産性の大幅な上昇を可能にした。」(中谷巌(なかたにいわお)「資本主義以後の世界」徳間書店、2012)


 三つ目としては、キリスト教でいうところの宗教改革と絡めつつ、「勤勉の精神」と、禁欲に根差しての「節約精神」を醸成したのだという。この説の代表格は、次のようにいう。
 
 「ベンジャミン・フランクリンの例に見たような、正当な利潤を「天職」として組繊的かつ合理的に追求するという心情を、われわれがここで暫定的に「(近代)資本主義の精神」と名づけるのは、近代資本主義的企業がこの心情のもっとも適合的な形態として現われ、また逆にこの心情が資本主義的企業のもっとも適合的な精神的推進力となったという歴史的理由によるものだ。」(マックス・ウェーバー「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」)

 なお、当該のフランクリン(1706~1790)による自伝には、こうある。

 「この物語を書いている数え年で七十九歳になる今日まで私がたえず幸福にして来られたのは、神のみ恵みのほかに、このささやかな工夫をなしたためであるが、私の子孫たる者はよくこのことをわきまえてほしい。(中略)
 若くして窮乏を免れ、財産を作り、さまざまの知識をえて有用な市民となり、学識ある人々の間にある程度知られるようになったのは、勤勉と倹約の徳のおかげである。(中略)
 それで私は、子孫の中から私の例に倣(なら)って利益を収めようとする者が出てくることを希望するのである。」(・フランクリン著、松本慎一・西川正身訳「フランクリン自伝」岩波文庫、1957)


 四つ目としては、科学の発展を宗教との兼ね合いでいうのではなくて、哲学を含め、自然観の変化がある段階に達したことを指摘している。例えば、哲学者のデューイは、こういう。

  「大筋において、ベーコンはその後の発展のほうこを予言した。けれども、彼は、進歩を「予想した」にすぎない。彼は、新たな科学が長期にわたって人間搾取という古い目的のために使用される運命にあることに気がつかなかったのである。(中略)
 科学は、他の階級を犠牲にして自らが強大化するという昔からの目的を達成するための手段を、一階級の自由に委ねたのである。
 彼が予見したように、科学の方法の革命の後に産業革命が続いて起こった。だが、この革命が新たな精神を生み出すにはまだまだ多くの世紀がかかる。封建制度は、新たな科学の応用によって、土地貴族から工業の中心へと権力が移ったからである。しかるに、社会的人道主義より、むしろ資本主義が封建主義に代わったのである。
 あたかも新たな科学は、いかなる道徳的教訓も含んでおらず、ただ、生産と利用における私利の蓄積という経済に関する技術的教訓しか含んでいないかのように、生産や商業が営まれたのである。当然、このような科学の応用は(もっとも顕著にあらわれたものだったので)、自称人道主義者たちの、科学は唯物主義的傾向を有する、という主張を強化した。」(デューイ著、松野安男訳「民主主義と教育(下)」岩波文庫、1975)


 次に移ろう。その後の資本主義の展開については、だんだんにというか、あるいは経済変動に直面するうちに変化が起きていく。そちらへの橋渡しがどのようになされていったのかについては、例えば、こう評される。

 19世紀の「50年代には、ドイツ人やフランス系カナダ人の流入が起った。かれらは、賃金や労働時間がいかなるものであっても、工場で働く以外に生きる手段を持たないものてあった。ここに至って、資本家・経営者と労働者との間の、人種的および宗教的同一性は消滅し、前者は労働者に極悪の労働条件をしいるのに、さして痛痒(つうよう)も、良心の呵責(かしゃく)も感じなくなったのである。
 こうして、産業資本形成期に(19世紀初め=1830年代初めまで)、アメリカの企業家も利己心や営利欲に駆り立てられなかったとは言えないとしても、かれらの精神を、単に利己心あるいは営利欲として特色づけることは困難である。まして、かれらが剰余価値の追及に全力を尽くしていた、かれらの行動はすべてその意図から出たものである、と断言することは困難である。」(尾上一雄「増補、アメリカ経済歴史研究1」杉山書店、1969)



(続く)

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

♦️238『自然と人間の歴史・日本篇』海外の目に晒されて(1862~1867、高杉晋作の場合)

2020-12-14 08:55:31 | Weblog
238『自然と人間の歴史・日本篇』海外の目に晒されて(1862~1867、高杉晋作の場合)

 1862年(文久2年)4月27日、長州藩の高杉晋作は、幕府小人目付の犬塚鑅三郎の従者として幕船千歳丸に乗り込んだ。彼の家柄は、藩の重臣であることから、船内での立場はかなり恵まれていたのではなかろうか。

 5月6日には、上海に降り立ち、彼の地で滞在中、かなりの程度歩き回り、見聞を広めたという。幕府からの海外視察であることから、現地通訳もいたりであったのであろうか、ともかく精力的であったらしい。

 帰国後の彼は、その時の模様を日記風の『遊清五録』」として公表した。この日記は、「航海日誌」「上海掩留日録」という二編と、「内情探索録」「外情探索録」「崎陽雑録」という三篇の情報記録書から成る。まずは「航海日誌」に、初めてみる上海の景色を、こう伝える。

 「鞍山々々去上海四拾餘里、諸子大踴躍爲入生地之思、五月五月天晴風順船馳如矢、忽至呉淞江々々々乃洋子江中小名也、觀望两岸相隔三四里計、四面茫々草野、更不見山、外國船皆碇泊檣花如林、本船亦碇泊于此、待明朝川蒸気船來而上海去此纔七里。
 五月六日早朝川蒸気船來到本船左折溯江两岸民家風景殆與我那無異、右岸有米利堅商館嘗長髪賊與支那人戰于此地云、午前漸到上海港此支那第一盛津港、欧羅波諸那商船軍艦數千艘碇泊檣花林森欲埋津口、陸上則諸邦商館紛壁千尺、殆如城郭其廣大嚴烈不可以筆紙盡也。
 午後官吏上陸至和蘭館予亦陪従官吏登樓上、従臣待樓下、予與清人三两名筆話、官吏與蘭人應接了、乃以清人爲介者、徘徊街市、土人如土檣圍我輩其形異故也、毎街門懸街名、酒店茶肆與我邦大同小異唯恐臭氣甚而已黄昏歸本船甲板上、極目四方舟子欸乃聲與軍艦發砲之音相應實一愉快之地也、入夜两岸燈影泳水波光景如晝。」(「航海日誌」)

 これに「午前漸到上海港此支那第一盛津港、欧羅波諸那商船軍艦數千艘碇泊檣花林森欲埋津口、陸上則諸邦商館紛壁千尺、殆如城郭其廣大嚴烈不可以筆紙盡也」と述べてある通り、現地の状況たるや、なかなかに鮮烈な印象であったに違いあるまい。当時の清国は、列強にさまざまな権利を蹂躙(じゅうりん)されていた。

 続いて、本編の「上海掩留日録」に入って、上陸してから目の当たりにした事柄を、こう伝える。

 「上海実上海之地雖属支那、謂英仏属地、又可也。」(「上海掩留日録」)
 「支那人はことごとく外国人の便役のため、英法の人(英仏人)市(まち)を歩行すれば、清人(清国人)皆避けて傍らに道を譲る。実に上海の地は支那に属すると雖も、英仏の属地と謂ふも、又可なり。」(「上海掩留日録」書き下し文)

 「貴邦尭舜以来堂々正気之国、而至近世区々西洋夷蛮夷之所猖獗則何乎。」(「上海掩留日録」)
 「貴邦は尭舜以来堂々正気の国なり。而るに近世に至りて、区々たる西洋夷蛮夷の猖獗する所は、則ち何ぞや。」(「上海掩留日録」書き下し文)

 「貴邦国運陵替、君臣之不得其道故也、君臣得其道、何有国運陵替、清近世之衰微、自為災而已矣豈謂之天命乎。」((「上海掩留日録」)
 「貴邦は国運の陵替するは、、君臣の其の道を得ざるが故なり。君臣其の道を得れば、何ぞ国運の陵替あらんや。清の近世の衰微は、自ら災ひを為すのみ、豈に之を天命と謂はんや。」(「上海掩留日録」書き下し文)

(続く)

☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆