○33『自然と人間の歴史・日本篇』古代日本語と漢字の伝来

2020-12-27 21:03:31 | Weblog
33『自然と人間の歴史・日本篇』古代日本語と漢字の伝来

 話言葉(はなしことば)としての古代日本語は、そのまま文字を具備することにはならなかった。つまりは、生まれたばかりの日本語(古代日本語)は、固有の文字を持っていなかった。

 ちなみに、「隋書」倭人伝には、「文字無し。ただ木を刻み、縄を結ぶのみ」とあり、また平安時代に記された斎部広成(いんべひろなり)の「古語拾遺」(こごしゅうい)にも、「上古の世、いまだ文字なし」と語られる。

 というのも、「日本民族」と呼べるものはまだ存在していなかった時代、日本列島に暮らしていた人々は、その日暮らしで文字を編み出すまでの生活の余裕がなかったのかもしれないし、或いは、考えあぐねていたのかもしれない。
 これまでの古代遺跡の調査で、記号のようなものは見つかっているらしいのだが。それでも、ある程度の信頼性をもった、真相に近いところはわかっていない。
 では、外部から文字を何をもらったのかといえば、それこそは然り、それよりはるか以前の時代に中国で成立していた漢字なのであった。

 それでは、日本列島に漢字という文字が伝わったのは、いつのことであったのだろうか。それへの回答としては、いまだに確固としたものは掲げられていないものの、弥生時代の中期の古墳から、篆書(てんしょ)で書かれた「貨泉(かせん、円形で角穴の貨幣にして、左右に文字を記す)」が発見されている、これは、前漢を滅ぼした王もうが立てた国、新の貨幣であることがわかっている。

 しかして、それ以外に伝来、導入の状況が窺えるものとしては、日本列島にまつわる伝説をまとめた「古事記」に漢字と漢文表記の書名が、倭(後に大和)朝廷編纂の歴史書の「日本書紀」に年代付きで、それぞれ記されている。

 そこて、この二つの記述を関連していると見なしてドッキングさせてみると、中国から最初に伝わったのは、「論語」と「千字文」であり、時代としては第15代応神大王(おうじんだいおう、この人物が実在していたかどうかはなお不明、実在人物だとしても、当時「天皇」の称号はまだ存在していない)の「十六年春二月16年」であったというシナリオが導かれる。
 合わせるに、「日本書紀」の記述の前後の関係から、大王の在位は西暦に直して270~310年頃とも計算でき、これをたどって漢字の輸入はその内の286年(西暦)頃の出来事であったのではないかとも考えられているところではないだろうか(ただし、同書であてがわれている各々の王の在位年については、諸家によりかなりの修正が加えられているところ)。

 では、この時代の漢字は、中国からどのような伝わり方をしたのであろうか。「日本書紀」の該当部分を参照すると、こうある、

 「王仁來之。則太子菟道稚郎子、師之、習諸典籍於王仁、莫不通達。所謂王仁者、是書首等之始也。」

 この文中に王仁(わに)とあるのが、漢字で記された書物を伝えた人物なのであろうか。当時、百済(くだら、朝鮮語ではペクチェ)から倭に来て滞在していた。ところが、「古事記」」に述べてある「論語」はそれまでに成立しているのでよしとして、もう一つの「千字文」については、中国の南朝・梁(リアン、502~557)の武帝((464~549)が、文官・周興嗣に命じて字の学習用にと文章を作らせたものだ。

 したがって、これでは、数十年どころか、それ以上の開きがあり、漢字伝来の時期の点で辻褄(つじつま)が合わない。したがって、これらの『訓紀』の記載は、歴史的事実ではなく、言い伝えに過ぎないとも考えられる。

 そこで別の面から考えてみたい。それに関する情報は、地中からやってきた。わが列島素人々に文字が伝来したのは、冒頭に述べたように、弥生時代のことであった。
 これまでの発掘なりで見つかっている最古の漢字としては、もう一度いうと、「貨泉」の二文字が刻まれた硬貨が見つかっている。これは、中国の前漢が倒れた後の「新」(しん、中国語読みでシン(第1声))の時代(9~25年)に皇帝を語っていた王もうが14年(中国の暦で天鳳元年)に鋳造させたものだ。

 さらにひとつ、これと並ぶものとして、江戸時代に博多(はかた)沖の志賀島(しかのしま)で発見された後漢の光武帝時代(25~57年)の金印、「漢委奴国王」(かんのわのなのこくおう)がある。

 更に時代が下ると、1994年には、京都府竹野郡の大田南五号古墳から、中国・魏の年号「青龍三年」(235年)の銘文が入った銅鏡が発見されている。それには漢文で、「顔氏」という鏡作りの工人の名前が長寿や出世を祈る吉祥句(きっしょうく)とともに記されている。

 ほかにも、「景初三年」(239年)や「正始元年」(240年)の銘の読み取れる三角縁神獣鏡などが見つかっていて、これらの鏡は当時の中国の王朝から当時の倭の某かの勢力(蓋然性としては古代の国)に「下賜」として渡されたものなのだろう。

 これらに加えて、傍証になれるのかどうなのかはわからないものの、その頃の社会において、骨をもって占う「骨卜」の習慣があった。そのことが、「魏志倭人伝」にこう記されている。

 「其俗舉事行來有所云爲輒灼骨而卜以占吉凶先告所卜其辭如令龜法視火、占兆其會同坐起父子男女無別人性嗜酒見大人所敬但搏手以當脆拝」
この前半部分は、「其の俗、事を挙げ行来するに、云為する所有れば、輒ち骨を灼いて卜し、以て吉凶を占う」と書き下される。

 これに、○末之(はいしょうし)の注に、「魏略」に曰く・・・・・其の俗、正歳四時を知らず」とあるのを重ねると、「中国の亀卜とは似て非なる獣骨卜を行い、暦も持たない弥生人の姿が見える」(湯浅邦弘編「テーマで読み解く中国の文化」ミネルヴァ書房、2016)と結論づけようとも、あながち誇張ではあるまい。
 これから推し量っても、当時の倭人にはまだ文字を使う社会的習慣は育っていなかったのではないだろうか。

 もちろん、書物にせよ、物的なものであるにせよ、刻印が残っているとしても、そのことが漢字が遣われていたということには、そのままでは繋がらない。実際に、日本人が日本語の表記にも使用し始めたのは、6世紀に入ってからのことであったのではないかと見られている。

 その後には、漢字を日本語の音を表記するために利用した万葉仮名(まんようがな)が作られ、やがて、漢字の草書体を元に平安時代初期に平仮名(ひらがな)が、漢字の一部を元に片仮名(カタカナ)がつくられていったというのだ。

(参考)現時点で参照させてもらっている本として、最も分かりやすいものとしては、山田勝美・松清秀一「漢字のはなしーことばから漢字へ」ポプラ・ブックス60、ポプラ社、1982)を推奨したい。

(続く)

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