339の3『自然と人間の歴史・日本篇』中条山会戦(1941)から長沙会戦(1941、第一次、第二次)にかけての中国軍の変化
1938年に漢口(ハンコウ)を占領してからの日本軍は、この地から出撃した空軍機が、現在の四川省の中心都市、重慶(チョンチン)に繰り返し爆撃を行う。
1938年に漢口(ハンコウ)を占領してからの日本軍は、この地から出撃した空軍機が、現在の四川省の中心都市、重慶(チョンチン)に繰り返し爆撃を行う。
やがての山西省(シャンシーション)の中条山(チョンティヤオシャン、山脈の
の一つ、近くに黄河が流れる)会戦(晋南会戦ともいう)が戦われた、これは、1941年(昭和16年)5月、山西省南部で行われた日本軍と中国軍の戦闘である。北支那方面軍が中国第1戦区軍の包囲殲滅を狙い、大きな戦果を上げたもので、日本側では、百号作戦とも呼ばれる。
その内容としては、1941年5月7日、日本軍北支那方面軍が6個師団、3個旅団を動員して、現在でいう山西省黄河北岸の中条山地区に展開している中国国民政府軍9個軍に対し、陸と空から攻撃を行ったもの。
日本軍は、黄河を背にした中国軍に対し、東西北からの包囲攻撃をかけ、中国国民党軍はこれに反撃を行う。
5月12日になると、日本軍に中央突破され黄河南岸との連絡を断たれた中国国民党軍は山岳の隘路で苦戦したようだ。13日には撤退を開始し、5月19日には各主力は日本軍の包囲網をすり抜け戦線後方へと後退、そのことで5月27日には、事実上戦闘は日本軍が圧倒的な勝利のうちに終結した。
日本軍は、黄河を背にした中国軍に対し、東西北からの包囲攻撃をかけ、中国国民党軍はこれに反撃を行う。
5月12日になると、日本軍に中央突破され黄河南岸との連絡を断たれた中国国民党軍は山岳の隘路で苦戦したようだ。13日には撤退を開始し、5月19日には各主力は日本軍の包囲網をすり抜け戦線後方へと後退、そのことで5月27日には、事実上戦闘は日本軍が圧倒的な勝利のうちに終結した。
そして迎えた1941年9月18日から10月6日にかけて、湖南省長沙周辺のおいて、第一次の長沙会戦(ちょうさかいせん)が戦われた。
これは、長沙(チャンシャー、現在の湖南省)を拠点とする中国国民党軍第9戦区軍に、日本の第11軍が打撃を与えた。あわせて、日本軍の長沙方面への作戦に対して中国国民党軍は、宜昌(イーチャン、現在の湖北省西部)方面への反攻を進めるも、これを迎えうつ側の日本軍は苦戦の末撃退した。
この戦闘が日中の戦力及びその展開における一つの変化をもたらしたであろうことは、疑いあるまい。それというのは、10月20日の国民党政府の南嶽での第三次軍事会議において、蒋介石は、「日本軍の最近の攻撃は、長くとも10日ないし2週間程度のあいだしか戦闘力を持続できず、われわれの拠点を占領しても、これを固守する能力を持たない」と評価したという。
そればかりか、その場で行われた長沙会戦の賞罰令たるや、渡河長沙新攻の先頭に立った者に賞与を与えるは反面、勝手に戦線離脱した者には厳罰をもって臨むという軍律の厳しさを新たにしたというから、その意気込みがうかがえよう。
第二次の長沙作戦とは、日中戦争中の1941年12月24日から1942年1月16日まで、湖南省の長沙周辺で行われた戦いである。日本側は、太平洋戦争の開戦(1941.12)により始まった香港攻略作戦(第23軍)を支援する目的第11軍が実施した。ただ前回の第一次長沙会戦より小さな兵力にとどまった模様。
始めとしては、広東(カントン)方面へ南下した中国軍を牽制するのが、いっそのこと長沙攻略へと発展した。しかし、日本軍は第一次に比べ、二回目の作戦では、弾薬や食料、医療品、それに輸送手段などの準備が整わないまま長沙への進攻を開始したのではないか、そのため、長沙の周辺で予め陣を敷いて待ち構えていた国民党軍の抵抗を受け、あえなく撤退する。
(続く)
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第二次の長沙作戦とは、日中戦争中の1941年12月24日から1942年1月16日まで、湖南省の長沙周辺で行われた戦いである。日本側は、太平洋戦争の開戦(1941.12)により始まった香港攻略作戦(第23軍)を支援する目的第11軍が実施した。ただ前回の第一次長沙会戦より小さな兵力にとどまった模様。
始めとしては、広東(カントン)方面へ南下した中国軍を牽制するのが、いっそのこと長沙攻略へと発展した。しかし、日本軍は第一次に比べ、二回目の作戦では、弾薬や食料、医療品、それに輸送手段などの準備が整わないまま長沙への進攻を開始したのではないか、そのため、長沙の周辺で予め陣を敷いて待ち構えていた国民党軍の抵抗を受け、あえなく撤退する。
(続く)
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