251の2『自然と人間の歴史・日本篇』甲斐における天保の大騒動(1836)
まずは、この騒動の原因となった、当該地域での農民飢饉の実態については、「富士吉田市史・総説」と、「大月市通史編・近世」によると、それぞれ次のように記されている。
まずは、この騒動の原因となった、当該地域での農民飢饉の実態については、「富士吉田市史・総説」と、「大月市通史編・近世」によると、それぞれ次のように記されている。
「甲斐国においても同じことで、国中方面における一揆は毎度のことであったが、郡内(甲斐の国は、山梨、巨摩、八代、郡内の四つの郡よりなっていた・引用者)のそれは、史上名高い天保の大騒動がこの間の消息を物語って余りあるものであった。
天保4年(1833)以来、連年の凶作で郡内地方の農民の疲弊は極度に達し、その上に疫病の流行が重なり、飢餓するもの知れず、再三再四の救い米払下げに対する代官所の無策と、国中方面の米穀商の買占めなどが輪をかけて農民の不満を一気に増幅させた。」(「富士吉田市史・総説」)
天保4年(1833)以来、連年の凶作で郡内地方の農民の疲弊は極度に達し、その上に疫病の流行が重なり、飢餓するもの知れず、再三再四の救い米払下げに対する代官所の無策と、国中方面の米穀商の買占めなどが輪をかけて農民の不満を一気に増幅させた。」(「富士吉田市史・総説」)
「下和田村仕立て屋惣兵衛」の報告を記した「凶年日記控」によると、天保4年から降り出した雨は、5年、6年、7年と続き、空の見えた日はほんの数えるほどしかなかった。
ことに、この時は天明の飢饉に次ぐといわれるほどの全国的な不作不凶で、富士山麓地方から桂川の流域一帯は、夏中も冷え込み、農作はもちろん、最後の頼みとする養蚕・機業は原料・原糸も乏しくなり、わずかに織り上げた絹、紬も売れなかった。
さらに耕地は狭く生産力に乏しいこの地域では、食料品の自給自足も出来なかったので、米穀をはじめ、食品原料の相場は暴騰し、多くの農民は木の実、草の根まで食い尽くし、病人、衰弱者、捨て子、自殺者、餓死人、及び村を捨てた欠落者が続出した。谷村の長安寺前の空き家には100人あまりの死人が積み重ねられ、また犬に食いちぎられた乳幼児の手足が街の中に散乱していた。
猿橋では橋の上から入水自殺する親子があり、家族連れまで甲府まで紬乞いに出かける者もあった、と伝えている。
こうして天保7年の春には、農民の苦しみは極限に達し、この4、5年で郡内の人口約6万人のうち、死亡者は1万8000人、30%にも及んだ。このような状態にもかかわらず代官所は何の手も打とうとしなかった。(「大月市通史編・近世」)
次には、前に引用した「再三再四の救い米払下げに対する代官所の無策と、国中方面の米穀商の買占めなどが輪をかけて農民の不満を一気に増幅させた」という状況について、いま少し記そう。
おりしも、米価の高騰と郡内絹織物の暴落にも直面する中、この地の農民たちは、いよいよ「このまま座しては皆飢えて、命を失う」との悲壮感に包まれるのであった。
そこで、黒野田、白野、中初狩、真木、花咲、大月、駒橋、猿橋、烏沢、犬目、その他22ヵ村の有志が中初狩に集まった。その有志らは下和田の治左衛門、犬目の兵助、黒野田の泰順らの意見を聞き、取決めを行う。
それは、一村一名ずつ願書をもって、谷村及び石和の代官所に訴え出て、代官所の力で米穀商人に廻米してもらうこと、谷村の囲籾蔵の米を借りることなどを訴え出よう、との話になる。下和田村(現在の大月市)の治左衛門(森武七)、犬目宿(現在の上野原市)の兵助をはじめ22ヵ村の代表はみな、一通ずつ願書をしたため谷村の代官所に差し出した。
ところが、谷村の代官所では、そんな農民の嘆願のことがうまくいかない。彼らは、あれこれ口実をつけて願書を受け付けなかった。それでいて代官所では、ことの次第を石和の代官所に報告したともいう。
そこで有志の代表たちが編成され、国中の熊野堂村の米穀商、小川奥右衛門方などに掛け合いに出かけた。農民代表は、彼らに対し郡内の農民の窮状を伝え、米の融通なりを求めた模様だ。
ところが、彼らは郡内の農民の申入れを断り、かねてからの米買占めにもかかわらず、農民たちの窮状を救おうとするところがまるでなかった。
かくて、さらなる展開が現実味を帯びてくる。これはすなわち、当該の農民たちの思考のゆきつくところは、ただ一つしかなかったのであろう。かかる事件の発端は、1836年8月14日(天保7年8月14日)、都留郡上谷村(現在の都留市)の米屋など6軒が打ちこわしに遭ったのに始まる。
同月8月20日には、武七と兵助を頭として、白野宿(現在の大月市)に、甲州街道22か村の農民2千人余りが集合の上、15か条にわたる行動綱領を定め、同日、星野宿(大月市)などでの米穀商から米の押し借りを要求して回る、ここまでは暴力を伴うほどではなかったようだ。
同月8月20日には、武七と兵助を頭として、白野宿(現在の大月市)に、甲州街道22か村の農民2千人余りが集合の上、15か条にわたる行動綱領を定め、同日、星野宿(大月市)などでの米穀商から米の押し借りを要求して回る、ここまでは暴力を伴うほどではなかったようだ。
そしての10月1日には、彼らが笹子峠を越え国中領に入る。そして、駒飼宿(現在の大和村)などで打ちこわしが始まる。彼らは、街道沿いの豪商、豪農を打ちこわし、あるいは接待をさせながら西へと進み、翌22日になると、郡内農民が主目的としていた山梨郡の豪商、桑右衛門屋敷を打ちこわし、この時の一揆勢は一説には1万人に達していたのではないかと見られている、そこで初期の目的を達した郡内勢はほとんどここから引き揚げたという。
残った者のうち2、3千人は、10月3日には、山梨、八代両郡から幕府代官所の本拠たる甲府城下に迫った。甲府勤番支配ではこの人数を防ぎきれず、一揆勢は町方に乱入し、13軒の富商を打ちこわす、そして物資を強奪するとともに、諸帳面、諸証文の類は焼き捨てられるという有り様にて、国中地方における貧富の差の拡大を裏付ける結果にもなっていった。こうした「乱暴狼藉」は10月4日朝になっても収まる気配を見せないことから、取締り側は信州諏訪藩、駿河の沼津藩などへの出兵要請に踏み切る。
そしての10月6日、さしもの大一揆も鎮静化に向かう。巨摩郡の村々を打ちこわし、甲信境まで押しかけていった一揆勢については、諏訪藩兵と御岳山神主の出動によって鎮圧されることになるが、「この数日間における打ちこわしは甲府町方のほか106村、305軒に及んだ。」(前掲「富士吉田市史」)と伝わる。捕らえられた者のうち12人に死罪が言い渡され、そのうち12人が牢獄内で死亡、追放93人をはじめ、受刑者総数は562人を数えた。
(続く)
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(続く)
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