♦️644『自然と人間の歴史・世界篇』中国の四つの近代化路線

2017-10-23 09:38:50 | Weblog

644『自然と人間の歴史・世界篇』中国の四つの近代化路線

 1964年12月、周恩来(zhou1en1lai2)総理が第三期全国人民代表大会第一回会議における「政府活動報告」でこう述べました。
「あまり長くない期間内に中国を近代的農業、近代的工業、近代的国防、近代的科学技術をそなえた社会主義の強国に建設する」
 これを受けて、1965年1月、政府は「農業・工業・国防・科学技術」の4つの近代化を提起しました。1958年から推進された「大躍進」運動が失敗に終わった後の経済調整期を綾(あやど)るスローガンとして提起されました。
 この四個現代化(si4ge4 xian4dai4hua4)は、その後の文化大革命(1966年から1976年まで続いた政治運動のこと。略して「文革」(wen2'ge2)と言われる)などの党内政治闘争にかき消されていった感がありますが、1975年にまた政治の表舞台に登場します。
 1973年、毛沢東への周恩来(zhou1en1lai2)、の進言により、鄧小平が副首相になりました。1975年1月、第四期全国人民代表大会第一回会期において、周恩来(zhou1en1lai2)が「今世紀中に」と期限を明示して、「政府活動報告」の中で再びつぎのように唱えました。
「第一段階では15年の時間をかけて、すなわち1980年までに、独立した、比較的整った工業体系と国民経済体系をうち立てる。
 第二段階では、今世紀内に農業、工業、国防、科学技術の近代化を全面的に実現して、我が国の国民経済を世界の前列に立たせる。」
 周恩来(zhou1en1lai2)は翌1976年1月に死去し、毛沢東(mao2ze1dong1)も同年9月に死去しました。
 この報告については、鄧小平(deng4xiao3ping2)は後に「毛沢東主席がわたしに責任をもって起草するよう指示した」(「鄧小平選集」第三巻)ものであったことを明らかにしています。このことは、当時の毛沢東(mao2ze1dong1)の頭の中が、一部で報じられているような「階級と階級闘争」一辺倒のものではなかったことを示唆しているのではないでしょうか。
 この四個現代化(si4ge4 xian4dai4hua4)が国家目標に据えられたのは、さらにその2年後、1978年12年の中国共産党大11期第3回中央委員会全体会議(三中全会)の場でした。

(続く)

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♦️643『自然と人間の歴史・世界篇』中国の文化大革命

2017-10-23 09:37:42 | Weblog

643『自然と人間の歴史・世界篇』中国の文化大革命

 1966年5月、中央文革小組が設置され、文化大革命(通説では1978年に終了)が始まりました。この年の5月4日から5月26日まで開催された党中央政治局拡大会議では、従来の各レベルの党組織の過半が機能麻痺の状態であることを認めました。そして1966年5月末には、陳伯達ら中央文革小組の工作組が「人民日報」に進駐して、同社を支配下に治めました。
 顧みて劉少奇(liu2shao4qi2)は、1958年の暮れには大量の餓死者が発生したことで、大躍進政策の失敗の責任をとり国家主席を辞任した毛沢東の後を受けて、1959年4月に国家主席に就任していました。ところが、それから数年後の1966年に毛沢東の肝いりで始まった文化大革命において、その彼が打倒されるべき政治勢力として攻撃の矢面に立たされました。彼は、農業生産活動面では、自留地(農民個人が占有し、自由な作付けで自分の所有物として収穫できる若干の土地)や農家が行う現金収入獲得のための副業、農村定期市といった創意工夫を復活させ、拡大させようとしていました。けれども、毛沢東からすれば、これは農業の個人経営と農村の市場経済を容認することから、これを拡大していけば、やがては中国は資本主義への道を歩むようになっていくであろうことを危ぶんだからにほかなりません。
 1966年8月8月1日から12日、中共8期11中全会(中国共産党中央委員会第11回全体会議)で、「プロレタリア文化大革命についての決定」がなされました。
 その中では、「無産階級文化革命の権力機構」として文化革命小組、文化革命委員会、 そして文化革命代表大会の執行部の選出に当たっては、「パリ・コミューンのように、全面的な選挙制を実行しなければならない」としています。
 この大会において選出された新人事では、急進左派の文革組の躍進が目立ちました。その一方で、それまで第二位の序列であった劉少奇(liu2shao3qi2)は第8番目へと降格した反面、林彪(lin2biao1)は党内第二位の地位を手に入れました。
 1966年12月16日、林彪(lin2biao1)は「毛沢東語録」再版の予言を執筆しました。そして、1969年4月12日から24日にかけて開催された共産党第9回全国代表大会において、林彪の党内における地位が法律で定まりました。
 1967年1月11日、党中央委員会、国務院、中央軍事委員会(林彪)、中央文革小組の4つの部門の連盟で、「上海労働者革命造反総司令部」等32の「造反派」組織に向け権力奪還を賞賛する祝電が発せられました。
 同年10月17日、この4者の連名で「系統別に革命的大連合を実行することに関する通知」を発表しました。
 翌1968年8月25日、この4者の連盟で、「労働者宣伝隊を派遣して学校に進駐させることに関する決定」を出しました。
 「実をいえば、党中央、国務院、中央軍委、中央文革小組の4部門のなかで、党中央と国務院の毛沢東、周恩来は架空の存在にすぎず、実際の権力は中央軍事委員会-林彪の手中に掌握されており、中央文革小組は単に世論の扇動工作を担当しているだけであった。中央と国務院には兵力がないが、林彪は数百万の大軍を操作ていた。この数百万の大軍は実質的にその当時すでに各レベルの地方行政工作に携わり、さらに地方の民兵を連合させることを通じて全国各戦線の権力を支配していた。」(加々美光行編集「現代中国の挫折-文化大革命の省察、アジア経済研究所、1985」)
 文化大革命のその後の歩みは、どうであったのでしょうか。第3次(1966年-1970年)、第4次(1971年-1975年)に加え、第5次(1976年-1980年)もあったいわれますが、毛沢東(mao2ze1dong1)の死後のものは、いわば幻の計画で、21世紀初頭の今日でも詳しい内容は公表されていません。そこで、文化大革命という政治運動は、1976年には政治の主役から降りていったというのが大方の見方となっています。
 第3次運動の時期としては、ソ連でいえば利潤導入の経済改革が実施された時期ですが、中国においてもリーベルマンらの影響を受けた孫冶方(sun1zheng4fan1)などの経済改革派の存在がありました。しかし、1966年から吹き荒れた文化大革命の洗礼を受けざるをえませんでした。
 これらのうち1967年1月が一番の高揚期でした。同年2月5日、上海人民公社成立宣言「偉大な一月革命万歳」が発表されました。しかし、これは中央政府の認めるところとならず、2月24日には革命委員会が設立しました。1月31日には黒竜江省(hei1long2jiang1)革命委員会が、2月3日には山東省(shan1dong1sheng3)、2月13日には貴州省(gui4zhou4sheng3)革命委員会(ge2ming4wei3yuan2hui4)がそれぞれ成立しました。
 そして、この過程で出されたのが、毛沢東(mao2ze1dong1)の一連の「最新指示」にほかなりません。
 「権力奪取を必要とする一部の地方や単位では、革命的な「三結合」の方針を実施して、革命的で、代表性があり、しかもプロレタリア的権威をそなえた臨時権力機構をつくらなくてはならない。この権力機構の名称は、革命委員会とするのがよい。」(毛沢東(mao2ze1dong1)
 「革命委員会の基本的経験には三つある。一つは革命的幹部がいることであり、一つは軍隊の代表がいることであり、一つは革命的大衆の代表がいることである。革命委員会は一元化された指導を実行し、重複する行政機構を打ち砕き、精兵簡兵をおこない、革命化され、大衆と結びついた指導グループを組織しなければならない。」(毛沢東(mao2ze1dong1)
 「「三結合」の革命委員会は今回の文化大革命における労働者階級と人民大衆の一種の創造である。」(毛沢東(mao2ze1dong1)(以上は、山内一男「中国社会主義経済研究序説」法政大学出版局、1971より訳文を引用。)
 1966年12月当時の人民日報社説はこの点について次のように述べています。
 「生産を発展させるわれわれの方法は、帝国主義や現代修正主義のそれとはまったく異なっている。われわれは、第1に強制にたよらず、第2に物質的刺激によらないで、毛沢東(mao2ze1dong1)思想による統制にたより、政治思想工作にたより、ヒトの思想の革命化に頼る。人々の政治的・思想的様相がかわれば、精神的力は巨大な物質的力に転化するようになる。」
 このような主体性を重視する考えからは、利潤率を企業の優劣をはかる唯一の指標としている、との批判を免れることはできず、改革派は批判の矢面に立たされました。当時は、社会主義の生産は社会主義政治活動の一部であり、政治的任務に服従すべきものとみなされていたのです。これに対して、周恩来(zhou1en1lai2)首相は、「四つの近代化」を掲げて、生産活動の重要性を強調し、人間改造の動きを牽制したことが知られています。
 1969年4月には中国共産党第9回代表大会が開かれ、つぎの党人事が決定されました。中央委員会主席:毛沢東(mao2ze1dong1)、中央委員会副主席:林彪(lin2biao1)、政治局常務委員:毛沢東(mao2ze1dong1)、林彪(lin2biao1)、陳伯達、周恩来(zhou1en1lai2)など。ここでは林彪の勢力が増進している一方、劉少奇と鄧小平(deng4xiao3ping2)が失脚しているのがわかります。

(続く)

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♦️642『自然と人間の歴史・世界篇』中国の大躍進政策

2017-10-23 09:36:23 | Weblog

642『自然と人間の歴史・世界篇』中国の大躍進政策

 1962年1月、共産党と軍の最高指導者であった毛沢東(mao2ze1dong1)が大躍進政策の失敗を共産党拡大中央工作会議(約7000人が参加)で表明しました。この会議において、1月26日には劉少奇(liu2shao4qi2)の書面報告が完成し、その骨子としては、代役新政策の誤りをのべつつも、「われわれは豊富な経験を得たのであり・・・・・、党中央と毛沢東同志の指導下にいっさいの困難を克服し勝利のうちに前進していこう」というものでした。
 続く1月30日には、毛沢東が「経験不足であった」という種子の発言で自らの指導の誤りを認め、自己批判を述べました。大躍進政策はここに、ようやく終止符を打ちました。
 これを受けて、大躍進政策による国民経済の疲弊を脱するための幾つかの措置がとられました。
①都市人口の削減(農民を農村に戻す)
②基本建設事業の縮小
③農業生産の回復と発展のための措置(人民公社における共有化の程度を下げ、農民の生産意欲の回復をはかる)④市場の安定のための措置
⑤赤字財政を緩和するための措置、等。
 1961~1965年の「調整期」にとられた農業政策としては、「三自一包政策」があります。ここで「三自」とは、自留地(自分用の土地)、自由市場、自負盈亏(自分で損益の責任を負う)の3つの「自」のことをいい、一包は「包産到戸」とは家族で生産を請け負うことを奨励する内容でした。
 これは、人民公社制度の活用を通じて農業生産を好転に向かわせようとする政策(後の「四四運動」と呼ばれる農村社会主義運動など)とは異なるものであり、同会議においてはこの二つの潮流が「くんずほぐれず」の状態で対抗しあっていたわけであり、後の文化大革命(1966~1976年)では、「三自一包政策」は徹底して批判の対象とされていきます。

(続く)

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♦️595『自然と人間の歴史・世界篇』南北問題(プレビッシュ報告の帰結)

2017-10-22 21:53:19 | Weblog

595『自然と人間の歴史・世界篇』南北問題(プレビッシュ報告の帰結)

 プレビッシュ報告はこうしたすう勢を踏まえ、発展途上国の一次産品に係る貿易の拡大を促すため、主に次のような提案を行いました。
 その1として、先進国側の関税など貿易諸障壁の緩和、撤廃。その2として、一次産品の輸入目標の設定。その3として、一次産品の輸出・価格安定のための国際的商品協定の締結。その4として、発展途上国の製品や半製品に対する特恵関税制度の採用。その5として、交易条件の悪化によって輸出所得が減少した国に対し、その損失を補うための補償融資(救済資金の供与)制度の導入。その6として、先進国の援助額の増加と借款条件の緩和。その7として、国連の機関としての新しい貿易機構の設置。
 要するに、この報告では発展途上国の一次産品輸出の停滞や交易条件の悪化と、そのことによる発展途上国の開発と発展の行きづまりを憂慮する姿勢を打ち出しています。この視点は広い意味での「南北問題」に通じるものです。すなわち、一次産品価格の暴騰現象が発生するまでの一次産品交易条件の推移を分析して、一次産品交易条件が長期的にかなり大幅な落ち込み傾向を示しています。
 しかし、こうした世界市場での一次産品貿易改革を盛り込んだプレビッシュの名を乗せた提案は、その後の世界経済において、実質的にはほとんど進展させることができませんでした。1960年代から1970年代初頭にかけては、南北問題にかかわる沢山の国際会議が持たれましたが、先進国側は幾つかの譲歩のほかは自らの主張を曲げようとせず、発展途上国側の不満は募るばかりでした。
 ここで一次産品というのは、概ね自然から採取されて高度の加工が施されていない天然産品のことをいい、具体的には、SITC(標準国際貿易分類)の第0~4類と第68類の食料・飲料類、非食用原料、油脂、鉱物性燃料、金属、鉱産物などが含まれます。例えば、同報告の後、砂糖やココアなどの若干の商品については国際商品協定の締結で需給と価格の調整が少しながらはかられました。ただし、1974年秋の第一次石油危機を契機に産油国の資源ナショナリズムが爆発的に強まってからは、この一次産品定義うちの鉱物性燃料を除いて一次産品とする考え方が一般的となりました。

(続く)

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♦️594『自然と人間の歴史・世界篇』南北問題(プレビッシュ報告の真実)

2017-10-22 21:50:29 | Weblog

594『自然と人間の歴史・世界篇』南北問題(プレビッシュ報告の真実)

 1964年3月~6月、プレビッシュ報告(Prebisch Report)が出されました。この報告は、ジュネーブで開催された第1回国連貿易開発会議(UNCTAD)総会の討議資料として、R.プレビッシュ同会議事務局長が提出した『開発のための新しい貿易政策を求めて』を指しています。
 そこで、この報告でいう交易条件に説明に移りますが、その国の輸出財の平均価格PXと輸入材の平均価格PMとの比、TOT=PX/PMをもっていい、この比率が上昇すると自国の貿易が改善に向かっているとみなすことができます。また、これに関連して 交易利得という言葉がありますが、こちらは、交易条件が変化することで生まれる貿易の利益(実質額)のことです。いま輸入物価に対して輸出物価が上昇(即ち交易条件が好転)すると、自国から同じだけの輸出を行った時、交換される海外からの財やサービスの輸入品の量は増加しますが、この増加分が交易利得となります。GDP統計では、実質GDI(国内総所得)と実質GDPの差が交易利得(マイナスの場合は損失)となる関係があります。
 話を戻して、ここでは発展途上国の一次産品(輸出)価格と先進諸国の工業製品(輸入)価格との相対価格のことを指しています。1950年から1961年までの間の、低開発国向けに行われたあらゆる型の資金供給(借款・投資及び援助供与)の純流入は474億ドルでした。これから利子・利潤の送金を除くと残りは約131億ドルとなります。さらに、交易条件の悪化に伴う損失が約131億ドルと推計されています。
 ところがここに第一次産品とあるのは、通常、石油を除いた、主として発展途上国産品のことをいいますが、1958年の世界的な景気後退期には第一次産品価格が低落しました。それは、低開発国(発展途上国)の主たる輸出品である第一次産品の大方は天然材料や食糧品は所得弾力性が高く、所得が減っても需要はあまり減らないのではないか、という予想とは異なった動きでした。宮崎義一氏は、同価格の低落の影響について、次のように述べています。
 「所得弾力性の低いはずの第一次産品の輸出額を減少させたものは何か。それは、第6図から明らかなようにもっぱら輸出価格の低落によるものであって、輸出数量はやはり多少増加していたのである。しかし約3%の輸出額の減少は、その前年の1957年、すでに輸入増のため外貨準備を7億ドルだけ失っていた低開発国にとっては、重要な影響を与えた。1958年、ついに、やむを得ず少しでも多くを望んでいた開発資材の輸入を削減せざるを得ないはめに追い込まれた。事実その年の輸入額は6.7%減になった。低開発国にとって輸入が減少するということは、開発が止まることと同じである。このような大幅な輸入減は、1953年以来初めてのことで、低開発国に大きい衝撃を与えた。結局、輸入削減を行い、しかも国際機関などからかなりの経済援助と借款を受けたにもかかわらず、1958年は1957年に続いて、実に10億ドルの大幅な国際収支の赤字を低開発国は経験したのである。」(宮崎義一「現代の資本主義」岩波新書、1967)

(続く)

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♦️346『自然と人間の歴史・世界篇』イギリスによる平和の終焉

2017-10-22 20:53:38 | Weblog

346『自然と人間の歴史・世界篇』イギリスによる平和の終焉

 第一次世界大戦の前後で大きく変化したものに、イギリスの繁栄に陰りがさし始め、その一方でアメリカがのしてきたことがある。そもそもの話、第一次世界大戦は1914年7月28日のオーストリアのセルビアに対する宣戦布告に始まる。その開戦のきっかけは、同年6月28日、ハプスブルク帝国の皇位継承者であるフランツ・フェルディナント大公夫妻がボスニアの州都サラエヴォで暗殺されたのに始まる。
 当時のサラエヴォは、同帝国の軍事占領下にあったことから、ドイツとしては我慢がならない。これにより、当時の三国同盟と三国協商にほぼ二分されていたヨーロッパの緊張した国際関係に一度導火線に火がつくと、あれよあれよという短い間にヨーロッパ全体の規模での戦争へと広がっていく。この大戦の主戦場は西ヨーロッパ全域であり、大規模消耗戦のため国土は荒廃していく。イギリスからも、軍隊が派遣される。イギリスの映画『チップス先生さようなら』は、その頃の大陸に兵隊を送る学園の姿を浮き彫りにしている。
 さしもの大戦争も、1918年11月の休戦条約をもって終わった。両軍が最も激しく闘った、ドイツとフランスの国境にかけては、大地は廃墟と化していた。大戦後に、イギリスになりかわり世界の経済力にのし上がっていくのがアメリカである。イギリスにおいては、金融面からのショッキングな出来事も重なる。1925年(大正14年)、対戦前と同一の平価である1ポンド=4.866ドルで金本位制に復帰することをきめるのだが、その背景には、「投資収益の対ドル価値を維持するためには、イギリスの輸出競争力の弱体化をも辞さないイギリス政府の金利生活者階級擁護のドラスティックな措置であったといっていいだろう」(宮崎義一「ドルと円」岩波新書、1988、233ページ)とされている。

(続く)

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♦️345『自然と人間の歴史・世界篇』帝国主義と第一次世界大戦(1916~1918)

2017-10-22 20:51:22 | Weblog

345『自然と人間の歴史・世界篇』帝国主義と第一次世界大戦(1916~1918)

 1916年1月、ドイツで社会民主党の左派のローザ・ルクセンブルグらがスパルタクス団を結成する。ここにスパルタクスというのは、古代ローマの剣闘士奴隷による反乱の指導者の名前にほかならない。1917年1月、戦況の厳しくなったドイツが無制限潜水艦(Uボート)作戦を宣言するに至る。この頃の線状を描いた映画作品として、「西部戦線異状なし」がある。名も無きドイツの一青年が前線にいる間に、一個体の人間として成長していく姿を克明に描くとともに、塹壕と突撃を主体とした戦場のむごさ、悲惨さを余すところなく再現した、不朽の名作といえるのではないか。
 1917年4月、アメリカの対ドイツ宣戦があった。当初のアメリカは、「14か条の平和原則」を言って、大戦に介入しない方針であった。1917年3月、ロシアで最初の革命が起こり、皇帝が退位する。続いての1917年11月、ロシアで、社会民主労働等の多数派のボルシェビキがソビエト政権が樹立される。翌年3月、ソビエトはドイツとの間にブレスト・リトフスク条約を結ぶ。これにより、連合国軍の戦線から離脱する。
 1918年11月、ドイツ革命が起こる。水軍が、キール軍港を制圧すると、ヴィルヘルム2世の退位・亡命があり、これによりドイツ帝国が崩壊へとなだれ込んでいく。オーストリア・ハンガリ帝国では、皇帝カールが退位を余儀なくされる。ついにドイツが降伏、第一次世界大戦はここに終結する。この年の12月には、戦勝国となったセルビアを中心にモンテネグロ王国とドイツ帝国内の南スラブ地域が合わさって「セルビア人・クロアチア人・スロヴェニア人王国」(29年にユーゴスラヴィア王国と改称)をつくる。
 明けて1919年1月、敗戦国のドイツで、ローザ・ルクセンブルクらが率いるスパルタクス団が蜂起する。1919年6月、パリで講和会議が開催され、すったもんだのあげく、ベルサイユ条約が調印される。この条約で、ドイツは、アルザス・ロレーヌをフランスに返還。多額の賠償金を負う。1919年6月、ドイツで、スパルタクス団のリープクネヒトとローザ・ルクセンブルクが惨殺される。ワイマール共和国で国民議会が召集され、エーベルトが大統領に就任する。1919年7月、ドイツ共和国(ワイマール)ができ、ワイマール憲法が制定される。1919年には、コミンテルンが結成される。1820年3月には、カップ一揆が起き、共和制打倒を目指す。1920年には、国際連盟が結成される。

(続く)

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♦️344『自然と人間の歴史・世界篇』帝国主義と第一次世界大戦(~1915)

2017-10-22 20:42:54 | Weblog

344『自然と人間の歴史・世界篇』帝国主義と第一次世界大戦(~1915)

 1840年~1861年、プロイセンのフリードリヒ・ヴィルヘルム4世が即位する。
1844年、シュレージエン織工による一揆があった。1848年、マルクス・エンゲルスによる『共産党宣言』がだされる。この中で二人は、「労働者革命の第一歩は、プロレタリアートを支配階級に高めること、デモクラシーを戦いとることである」とした。続いてかれらは、「先進諸国にとっては、しかし次のもろもろの措置が概して一般に適用されうるであろう」とし、10項目を挙げている。それには、「すべての子供を公共的に無償で教育する。今日の形体における子供の工場労働を廃止する。教育を物質的生産と結合する、等々」の文言も含まれる。
 同年、フランスの二月革命が波及してドイツ(当時は、「プロイセン」といっていた)とオーストリアで民衆による革命運動が起き、ドイツ宰相のメッテルニヒが失脚する。12月には、オーストリアでフランツ・ヨーゼフ1世(~1916)が即位する。1848年にはフランスで「2月革命」が、1853年には「クリミア戦争」があった。後者は、衰退したオスマン帝国を食い物にしていたロシアと、これを嫌うイギリスやフランスとの戦いであった。1858年、プロイセン国王が発狂し、王弟ヴィルヘルムが摂政となる。1859年、オーストリアは、フランス・サルディニア連合軍に敗れてロンバルディアを失う。
 1861年、プロイセンのヴィルヘルム1世(~1888)が即位する。1861年には、イタリア王国が成立する。1861年には、ロシアで農奴解放令がだされる。1862年、プロイセンでビスマルクが首相(~1890)に就任する。1864年1月、プロイセン・オーストリアがデンマークに宣戦する。10月、ウィーン条約が締結され、シュレスヴィヒ・ホルシュタインをプロイセン・オーストリアに譲渡することになった。1866年、プロイセンとオーストリアの間で戦争となる、これを「普墺戦争」という。ドイツ連邦が解体し、プロイセンの覇権が確立する。1867年、北ドイツ連邦が成立する。これは、プロイセンを盟主とする連邦であった。1871年、オーストリア・ハンガリー帝国が成立する。
 1869年、ドイツで社会民主労働者党が結成され、アイゼナハ綱領が採択される。1870年、プロイセンとフランスの間で戦争が起こる。これを「普仏戦争」という。フランスは、アルザス・ロレーヌをプロイセンに割譲する。1870年には、イタリアがローマを併合する。1871年、ドイツ帝国が発足する。ヴィルヘルム1世がドイツ皇帝になる。これでドイツ統一国家(~1918)が成立した。1871年、フランスで「パリ・コミューン」が起きる。パリ市民の蜂起があったものの、やがて崩壊した。1873年、ドイツ、オーストラリア・ハンガリー及びイタリアの間で三国同盟が成立する。1875年、ドイツ社会主義労働者党が結成され、ゴータ綱領が採択される。1877~78年には、ロシアとオスマン・トルコ帝国との間で戦争が起こる。1878年6月、ベルリン会議が開催される。
 1878年10月、ドイツ帝国内で社会主義者鎮圧法が制定される。保護関税法も制定される。1879年10月、ドイツ・オーストリア同盟が結ばれる。対ロシア防衛の性格があった。1881年6月、ドイツ・オーストリア・ロシアの三国が同盟条約を結ぶ。1882年5月、ドイツ・オーストリア・イタリアの軍事同盟が成る。1884年、アフリカ大陸のトーゴ・カメルーンが、ドイツ保護領となる。ドイツ国内では、1888年、ヴィルヘルム1世没、フリードリヒ3世が即位となる。フリードリヒ3世没、ヴィルヘルム2世(~1918)と代わっていく。
 1890年3月、ドイツでビスマルクが首相を辞任する。ビスマルクは、社会主義者鎮圧法でヴィルヘルム2世と対立していた。1891年、ドイツ帝国内の社会民主党(旧社会主義労働者党)の大会で、党内中央派のカウツキーの提案したエアフルト綱領が採択される。1898年、ドイツで第1次の艦隊法が制定される。1898年、ドイツが清国に圧力をかけ、膠州湾(こうしゅうわん)を租借するのに成功する。1900年、第2次艦隊法が制定される。1905年3月、第一次モロッコ事件が起こると、これに触発されたドイツ皇帝が、モロッコに示威的訪問を行う。1907年には、英仏露による三国協商が成立する。
 1908年10月、オーストリア・ハンガリー帝国は、ボスニア・ヘルツェゴビナを併合する。1908年のトルコでは、青年トルコ党による革命があった。1911年7月、.第二次モロッコ事件が起きる。そして迎えた1914年6月28日、同帝国のフランツ・フェルディナンド大公夫妻が、訪れていたボスニアの首都サラエボ(サラエヴォ)で暗殺される。当時のボスニアは、この帝国の軍事占領下におかれていた。帝国は、この占領に反対している「青年ボスニア」の背後で糸を引いているのがセルビアの秘密組織「民族防衛団」だとした。犯人の引渡しをセルビア政府に求める。セルビア政府は、この要求の中に帝国の機関の参加が含まれることに反発した。48時間の猶予期限が設けてあった。
 セルビア政府が、その7月28日に至るまで手をこまねいている間に、この日、人口5千百万の帝国(その実体はハプスブルグ家)が、人口430万のセルビアに対し宣戦布告した。バルカンの局地戦であったものが、当時の二分された集団安全保障関係から、またたくまに第一次世界大戦へと発展する。大まかには、ドイツ、オーストラリア・ハンガリー及びイタリアの中央同盟が、ロシア、フランス及びイギリスの三国協商に相対峙した。オスマン帝国とブルガリアは前者に加わり、その他のバルカン諸国は後者の陣営に加わった。1915年、イタリアが三国同盟を破棄して、オーストリアに宣戦した。

(続く)

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♦️378『自然と人間の歴史・世界篇』ケインズ(古典派の第二公準)

2017-10-21 21:02:57 | Weblog

378『自然と人間の歴史・世界篇』ケインズ(古典派の第二公準)

 (2)ケインズの名付けた古典派の第二公準(実質賃金の効用は労働の限界負効用に等しい)について。ついで、労働供給曲線の導出について考えてみましょう。
 この第二公準は、労働者が賃金の効用と労働の負効用との差である余剰効用を極大にするように労働供給量を決定するときの条件を示したものです。
 ここで、前提条件となるのはつぎのとおりです。
 1.資本設備が一定であること。つまり短期を仮定していること、ということはその間は技術の変化はないことになります。
 2.それに投じられる労働が等質性をもっていること。つまり、労働は同質であること。
 3.市場は独占のない完全(純粋)競走の状態にあること。したがって個別企業によって市場価格は所与として与えられています。言い換えれば、一企業にとつては市場で決まるところの価格は予見として与えられるものであり、自分からは動かすことができないものであること。この状況下では、一労働者にとって貨幣賃金率w(ダブリュー)も価格pも所与として与えられています。
 4.貨幣の限界効用一定。
 5.労働の限界負効用逓増の法則を仮定。これは、労働時間が増すにつれて、労働による苦痛の量は同じ1時間でもだんだんと増していくことになります。だから、横軸に労働量l(テル)を、縦軸に労働の限界負効用をとると、その限界負効用曲線(最後の単位時間あたりの労働者の苦痛を示す限界負効用)は右上がりになることでしょう。
 そこでいま、実質賃金(w/P)が上がると実質賃金の効用も上昇しますから、これまでの限界苦痛が大きくなっても労働者が働こうとする労働時間は長くなる、と「古典派」は考えるわけです。つまり、余剰効用が発生する実質賃金の効用が労働の限界負効用を上回っている範囲においては労働供給量を増加させることになるでしょう。そして、所与の賃金水準と限界負効用曲線との交点において余剰効用は極大となるとき、その点において労働供給量が決定されると考えるわけです。
 以上を式にすると、つぎのように表すことができるでしょう。
 w(ダブリュー)を貨幣賃金率で一定、Pを消費者物価水準で一定、実質賃金率(w/P)の効用をμ(ミュウ)(w/P)で一定、l(エル)を労働時間、Tを全部負効用、Sを余剰効用とすると、次の式が導かれます。
S=μ(ミュウ)(w/P)l(エル)ーT・・・・・・(3)
 ここでSを最大にするような労働時間は、
ds/dl=0とおくと、μ(ミュウ)(w/P)l(エル)=dt/dl・・・・・・(4)
 この式は、実質賃金の効用と労働の限界負効用とが等しいとき、余剰効用が極大であることを示しています。そこでPを消費者物価水準で一定のままでおき、貨幣賃金率(w)が上がると、労働の限界苦痛(dt/dl)がある程度大きくなってもよい、と「古典派」では考えるわけです。そしてケインズによれば、この「古典派の第二公準」は誤っています。これを言い換えると、古典派が賃金を収縮的なものとしたのに対し、ケインズは貨幣賃金率(名目賃金)の下方硬直性を主張したのです。

(続く)

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♦️377『自然と人間の歴史・世界篇』ケインズ(古典派の第一公準)

2017-10-21 20:51:27 | Weblog

377『自然と人間の歴史・世界篇』ケインズ(古典派の第一公準)

 ケインズの名付けた「古典派の第一公準」」(労働需要曲線を決定するものであり、利潤極大を追究する企業家は、貨幣賃金の水準が労働の限界生産力の純価値に等しいような水準に雇用量を決定するという考え方)について。まずは、労働需要曲線の導出について考えてみましょう。
 第一公準は企業が収入と費用の差である利潤を極大化するように労働需要量を決定する際の条件を示すものです。このことは、「第一の公準は労働雇用に対する需要に関するもので、労働雇用に対する需要は労働の限界生産が実質賃金に等しくなるような水準に決まってくる」(宇沢弘文)というのと同じことです。
 1.資本設備が一定であること。つまり短期を仮定していること、ということはその間は技術の変化はないことになります。
 2.それに投じられる労働が等質性をもっていること。つまり、労働は同質であること。
 3.市場は独占のない完全(純粋)競走の状態にあること。したがって個別企業によって市場価格は所与として与えられています。言い換えれば、一企業にとつては市場で決まるところの価格は予見として与えられるものであり、自分からは動かすことができないものであること。この状況下では、一労働者にとって貨幣賃金率wも価格pも所与として与えられています。
 4.企業は極大利潤を追求すること。
 5.収穫逓減の法則が働いていること。具体的にいうと、生産に投入される労働投入1単位あたりの生産量が、その労働投入の増加につれて次第に低下することがいえること。
 いまpを製品の価格、qを生産数量、vを固定費、uを製品1単位当たりの原材料費
uqを比例費、wl((ダブリュー・エル)を賃金費用、π(パイ)を利潤とすれば、その利潤πとは売り上げ金額、pqと総費用(v+uq+wl)との差で求められます。
π=pqと総費用(v+uq+wl)・・・・・・(1)
 ここで(1)式からは、p(価格)とu(製品当たりの原材料費)とv(固定費)が一定とされます。また(2)の仮定からは、技術が変化しないのですから、(1)式中にて、生産量q(単位は何個とか、何キログラムとか、何トンとか)と労働量lとの間には一義的な関係があります。だから、生産量が決まればそのために要する労働量も決まります。また逆に、労働量が決まると生産量も決まるという関係が成り立っているわけです。
 これを式で表すと、(1)を労働量lについて微分すると、次のようになるでしょう。
π=pdq/dlーu(/dq/dl)ーw=0
これから、(Pーu)dq/dl)=w・・・・・・(2)となり、貨幣賃金率w(ダブリュー)が労働の限界生産物の純価値(Pーu)dq/dl)に等しいとき、その時の雇用量がその企業にとっての利潤極大であることを示唆しており、これは(4)と関係しています。
 しかも、5.の収穫逓減の法則が働いているとの仮定から、その労働量と生産量の間には収穫逓減の関係、つまり労働量の増加につれて生産量の増加が低減していくことになるでしょう。
 また同じことですが、ここに図1を書いて、前提5.を確かめてみましょう。横軸に投下労働量、縦軸に限界生産物の大きさ(追加的労働1単位あたりの生産量の大きさ=dq/dl)、すなわち労働の限界生産力の純価値で表される)をとってみると、その限界生産物の大きさ(追加的労働1単位あたりの生産量の大きさ=dq/dl)、すなわち労働の限界生産力の純価値は、投下労働量の増加につれて逓減(段々と減っていく)ことになるでしょう(その労働の限界生産物とは追加的労働1単位あたりの生産量のことで、では生産関数上の各点における接線の傾き(Δq/Δl)として表されます。)。
 そこでは、労働量をわずかに増やして増える費用といえば、uqとwlとなってvは増えない。あるいは(pqーuq)とwlの増加を比べて、(pqーuq)の方が大きいのであれば、労働需要の側にいる人としては労働者をさらに雇った方が利潤が増えることとなり、もう雇わないということであれば、それはその両者の差がなくなった時だということになるでしょう。
 次に、図2を書いて、式(2)の様子を確かめてみることにしましょう。すなわち、横軸に労働量l(エル)をとり、また縦軸にはw1(賃金1)とw2(賃金2)をとり、横軸の目盛りは左から0、l1(エルイチ)、l2(エルニ)とし、縦軸は0から出発してw、w1の点を設けましょう。その上で、w1とl2(エルニ)との交点をd、次いでw1とl1(エルイチ)との交点をcとする。すると、左上のlの投入ゼロの点での賃金の水準w3をaとおき、労働の限界生産物の純価値(Pーu)dq/dl)の曲線を引くと、0に対応するのはa、l1に対応するのはb、l2に対応するのはcということになります。
 この図において、l1(エルイチ)の労働量によりつくりだされた純価値生産物総量とはabl10である一方、これだけの付加価値を得るために支払われた賃金額ははというと、総額では単位当たりのw1(ダブリユーイチ)になるとして、w×l1(ダブリュー×エルイチ)、図では0w1dl1(ゼロ・ダブリユーイチ・デイ・エルイチ)となり、この場合の企業の利潤はw1abd(ダブリューイチ・エイ・ビー・デイ)となるでしょう。
 ところが今度は、賃金の水準がw1からw2へと上昇するとどうなるのでしょうか。企業は利潤の極大を追求しつづけるわけですから、労働量をl1(エルイチ)からl2(エルニ)へと減少させることで、利潤極大点がcからbへと移動することに備えようとするわけですね。
 まとめると、企業者は労働需要量を決定する際、プラス面での労働者が作り出した価値と、マイナス面での貨幣(名目)賃金費用とを比較考慮しつつ、市場の競争に向うことになります。ここで労働者が作り出した価値は、その労働の限界生産物の大きさ(追加的労働1単位あたりの生産量の大きさ)、すなわち労働の限界生産力の純価値で表される。その結果、利潤極大を追究する企業と資本家にとっては、貨幣賃金の水準が労働の限界生産力の純価値に等しいような水準に雇用量を決定することになるでしょう。
 以上考察してきたことは個別企業についてのものですが、ケインズのいう「古典派」は社会全体の労働需要は個別企業のそれを単純に合計したらよろしいので、曲線の形は同じになります。
 ここに<注>として、貨幣賃金率とは、労働者の賃金をある単位(年、時間、日など)で表した賃金指標。実質賃金率とは、貨幣賃金率を物価水準で割ることによって求められた、実際の購買力を示す賃金指標のことをいいます。
これの評価については、宇沢弘文が「第一公準すら現代の法人資本主義体制のもとでは成立しない」(宇沢弘文「経済と人間の旅」日本経済新聞社、2014)と述べているところです。 

(続く)

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♦️316『自然と人間の歴史・世界篇』マルクスの基本定理

2017-10-21 19:13:03 | Weblog

316『自然と人間の歴史・世界篇』マルクスの基本定理

 この定理は、資本主義社会においては、「正の利潤が存在するための必要条件は、剰余労働の搾取があること」を証明するものであり、「マルクスの基本定理」と呼ばれる。これをめぐっては、経済学を学ぶ者の中でも、無関心な人、正しいかどうかの議論を避けようとする人、否定する人、疑問視する人、そしてに賛成する人などが入り乱れて存在している。ここでは、その是非は別として、その内容を紹介する。
 いまある最も簡単なモデルとしての資本主義社会を想定し、次の仮定を置く。
①この社会には資本家と労働者の2つの階級のみが存在し、所得は賃金と利潤に限定されるとしよう。したがって、この社会の含意として優等地に制限がなく地代は発生しない。
②労働は同質性をもち、賃金格差はないものとする。
④労働者は賃金所得をすべて消費にまわす。いわば「裸一貫」の状態に晒されている。労働者の消費パターンも同一性をもっているとしよう。
⑤資本の回転速度は全産業で同一とおく。
⑥固定資本の不在、全部が流動資本であること。
⑦規模に関する収穫不変の法則が働いている。
⑧結合生産の不在、つまり同じ原料を用いて複数の生産物が生まれることはない。
⑨対象は基礎部門としての生産財と消費財の2部門の商品生産を考える。
⑩個別資本の利潤率格差はないものとする。
⑪単純再生産で、資本家も利潤所得をすべて消費にまわすことになっている状態を想定する。
⑫貨幣は価値尺度、流通手段としてのみ機能すること。
 これだけの仮定をおいた上で、次に記号の説明をさせてもらう。いま、生産財を1単位生産するには、生産財をa1単位と労働τ1(タウイチ)単位が必要である。また、消費財を1単位生産するには、生産財をa2単位と労働τ2(タウニ)単位が必要である。
 このき、生産財、消費財をそれぞれ1単位 生産するために直接・間接に投下(投入)しなければならない労働量(投下労働量または投入労働量と呼ぶ)をl1()エルイチ、l2(エル二)とすると、次の式が成り立つ。
l1=a1l1+τ1:(1の1)
l2=a2l2+τ2 :(1の2)
この連立方程式を解くと、
l1(エルイチ)=τ1/(1-a1):(2の1)
l1(エルニ)=τ2+a2τ2/(1-a1):(2の2)
一方、この社会での生産財1単位の価格をp1、消費財1単位の価格をp2、それから労働者が1日の労働力を資本家に雇用されて、つまり販売して受け取る賃金で購入できる消費財の量をBとしよう。そして1日の労働時間の長さをT、時間当たりの貨幣賃金率をwとおくと、次式が導かれる。
wT=Bp2:(3の1)
生産財と消費財の生産部門のそれぞれにおいて利潤が存在するためには、次式が必要だ。
p1>a1p1+τ1w:(3の2)
p2>a2p1+τ2w:(3の3)
ここで諸商品の価格がその価値(その商品の生産のために直接・間接に投下された労働量)に比例し、等価交換が実現しているとすると、次の均衡式が成立する。
p1/p2=l1(エルイチ)/l2(エルニ):(3の4)
(3の2)式と(3の3)式に、(3の1)式と(3の4)式を代入して整理し、次式を導く。
l1(エルイチ)>a1l1(エルイチ)+τ1Bl2(エルニ)/T:(3の5)
l2(エルニ)>a1l1(エルニ)+τ2Bl2(エルニ)/T:(3の6)
ここで(1の1)式と(1の2)とを、それぞれ(3の5)式と(3の6)式に代入して整理すると、次式を得る。
τ1(1-Bl2(エルニ)/T)>0:(3の7)
τ1(1-Bl2(エルニ)/T)>0:(3の8)
したがって、利潤が存在するには、次のような関係とならねばならない。
T>Bl2(エルニ):(3の9)
この式は、労働者が自らの労働力の再生産分(家族の養育費も含める)以上に労働時間を延長して働くことで、剰余労働を搾取されていることを示す。
生産財と消費財の両方の生産部門で利潤が存在するためには、
p1>0、p2>0、w>0(:(3の10)式)の下で、
(3の1)、(3の2)、(3の3)の各式が成立していなくてはならない。
 一方、(3の2)式と(3の10)式から、次式とならねばならない。
1>a1:(3の11)
 それから、(3の1)式に(3の2)式を代入し、(3の10)式と(3の11)式を考慮すると、次式が成り立つ。
p1/p2>τ1B/T(1-a1):(3の12)
 さらに(3の1)式を(3の3)式に代入して、(3の10)式を参照することで次式が導かれる。
p1/p2<(T-τ2B)/Ta2:(3の13)
(3の12)式と(3の13)式がともに成立するためには、
(T-τ2B)>a2τ1B/(1-a1)
これを整理すると、次式が導かれる。
T>B(τ2+a2τ1/(1-a1):(3の14)
ここで(2の2)式を考えると、(3の14)式は(3の9)式の意味するところに等しい。よって、マルクスのような等価交換を前提することなくして、利潤の源泉が労働者が働いて作り出した価値の剰余価値部分であることが証明された。これを導出したのは日本の経済学者の置塩信雄であり、今日では「マルクスの基本定理」と呼ばれ、資本主義がどのような基本構造を持つ階級社会であるかを、平易な形で教えている。

(続く)

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♦️530『自然と人間の歴史・世界篇』戦後ヨーロッパの出発(チェコスロバキア)

2017-10-20 22:44:42 | Weblog

530『自然と人間の歴史・世界篇』戦後ヨーロッパの出発(チェコスロバキア)

 9世紀、チェコとスロバキアの両民族による大モラビア帝国が成立しました。10世紀になると、ハンガリーがスロバキアに侵入しその支配下に入ったため大モラビア帝国が滅亡し、残ったチェコ地方はボヘミア王国という名の封建国家として構成されました。チェコ地方の国家は14世紀にはカレル4世が当時の神聖ローマ帝国の皇帝の座につき絶頂期を迎えました。
 1620年、 勢力の伸張著しいハプスブルク家のオーストリア帝国の支配下に入るのを余儀なくされました。1918年の第一次世界大戦後、チェコスロバキア共和国として両地方は再び統一国家となりました。これは、同大戦中のマサリク博士らの独立運動が実った結果でした。
 1938年、ミュンヘン協定により、ナチス・ドイツがチェコスロバキアに対し、「スデーデン地方を明け渡せ」と迫ったことで、チェコスロバキア共和国が危うくなりました。英仏がこれをのんだためにナチスは増長していくことになりました。1939年3月15日、ヒトラーのドイツ軍はチェコスロバキアの首都プラハに進軍させ、ボヘミア・モラヴィア地方をドイツの保護領にしてしまいました。
 1940年、ドイツが、スロバキアを「独立」させ、ルテニア地方をハンガリーに与えてしまいました。それはミュンヘン協定の蹂躙にほかなりませんでした。ここに、チェコスロバキアは解体されてしまいました。1941年、共産党の提唱により、労働者、農民、手工業者、インテリゲンチャ、一部の反ファッショ的ブルジョア階級の人々を含めた反ファッショの統一戦線組織である「中央革命委員会」が結成されました。
 1945年5月にはソ連軍に解放され、チェコとスロバキアの両民族地域の統合が成り、独立を回復しました。1948年5月9日、チェコスロバキア憲法が可決されました。しかし、ベネシコ大統領が署名を拒んだことにより、6月9日彼は大統領職を辞任しました。ゴトヴァルトが大統領職に就き、共産党のザーボトツキを首班とする新内閣が発足し、社会主義にもとづく国づくりをめざすことになりました。

(続く)

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♦️528『自然と人間の歴史・世界篇』戦後ヨーロッパの出発(ノルウェー)

2017-10-20 21:48:40 | Weblog

528『自然と人間の歴史・世界篇』戦後ヨーロッパの出発(ノルウェー)

 ざっと、ノルウェーの歴史を振り返ってみよう。ノルマン人は、9世紀末に統一国家への歩みを始め、11世紀初めにキリスト教を受容して、この地域での国家をつくるにいたる。11世紀後半からは、デンマークのクヌート王の支配を受ける。そんな中でも、13世紀に自治が進み、首都オスロを建設するにいたる。おりからのハンザ同盟の一員となり、大西洋側のベルゲンは商業都市として栄え、ハンザ同盟の在外商館が置かれた。1380年からは、デンマークと「同君連合」を保っていく。
 1397年~1523年は、北欧三カ国によるカルマル同盟を形成していく。とはいえ、実質的にはデンマークのマルグレーテの支配を受ける立場であった。そのカルマル同盟が1523年にスウェーデンが分離して実質的に解体した後だが、引き続いて宗主権をもつデンマークに頭が上がらず、ノルマン人の入植地で会ったグリーンランドもデンマーク領となっていく。1814年、デンマークがノルウェーをスウェーデンに割譲する。1905年には、スウェーデンとの同君連合を解消し、ノルウェーとして独立しました。政体は立憲君主制をとっていく。
 1939年から第二次大戦中は、ナチス・ドイツに占領される。1940年6月7日、ノルウェー政府と国王ホーコン7世は国外脱出し、ノルウェー全土がナチス・ドイツ軍によって制圧される。ノルウェー国王と閣僚達は、イギリスの首都ロンドンに亡命政権を樹立し、あくまで抵抗姿勢をとり続ける。
 第二次世界大戦での連合国の勝利により、ナチス・ドイツの占領下から解放される。1949年、伝統的な中立政策から転じ、NATO(北大西洋条約機構)に加盟する。

(続く)

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♦️527『自然と人間の歴史・世界篇』東西冷戦への道

2017-10-20 21:05:52 | Weblog

527『自然と人間の歴史・世界篇』東西冷戦への道

 1947年6月のアメリカによるマーシャル・プランの発表がありました。マーシャルとは、当時の国務長官の名前です。これを基に、1949年には同プランの受け入れ機関として欧州経済協力機構(OEEC)が設立されました。これに参加したのは、イギリス、フランスなど16か国でした。
 この同じ1947年10月、米国のヨーロッパ復興計画マーシャル・プランに対し、社会主義陣営の側はコミンフォルムを結成して対抗しました。1939年からソ連共産党の政治局員であったジュダーノフは、その結成に際し、「ヨーロッパの多数の国をアメリカ資本主義の利益に従属させようとする意図を秘めている」としてマーシャル・プランを非難したのでした。
 ここで強調しておくべきは、他の発展途上国や「低開発国」への資金散布的かつ紐付きの経済援助とは違って、ヨーロッパに対しては、被援助国へ計画へのイニシアチブを与えたことです。まず最初にヨーロッパ各国が復興に向けた計画を策定し、米国がこれを審査して承認の上、資金の割り当てが行われたことで、単に経済の安定だけでなく、経済成長への道が敷かれたといっていいでしょう。
 米国のヨーロッパ復興優先の考え方は、1947年6月5日、マーシャルのハーバード大学での講演にも現れています。
 「対ヨーロッパ援助問題に専念している間に、世界の他の地域でも恐るべき深刻な問題に悩まされていることを看過してはならない。しかし全体としての世界問題の規模が大であれば大であるほど、アメリカの援助を、最も速やかに効果を生ずるような危険をはらんだ地域に重点的に周到に振り向けることが必要となる。」
 マーシャル・プランによる資金投下は4年間で約125億ドルを計上しましたが、その大部分が商品形態の贈与であり、返済義務の明確なクレジットは10%程度にすぎなかったこともヨーロッパの経済の復興と発展に貢献した、ということができるでしょう。
 一方、社会主義陣営ではなかなかに一枚岩とはなっていきませんでした。1948年6月、コミンフォルムの「ユーゴスラヴィア共産党の内部事情に関する決議」中にでは、「ユーゴスラヴィアの指導者が「自国内における資本主義的諸要素の増大およびそれと結びついた農村における階級闘争の激化の事実を否定している」とあるのも、そんな一つのあらわれともいえるでしょう。
 ソ連は、アメリカを中心とする資本主義国に対抗して1949年に経済相互援助会議(コメコン)を設立し、東ヨーロッパに影響力を及ぼそうとしました。これに対するに西側は、1950年11月、対社会主義国への戦略物資の輸出制限を旨とするココムがつくられました。1955年5月、当時の西ドイツのNATO加盟に脅威を覚えたソ連が主導する形で、それまでの2国間条約を超えた多国間条約を東ヨーロッパで取り結ぼうと考え、ポーランドののワルシャワに集まり、ワルシャワ条約機構を結成しました。この政治・軍事同盟に加盟したのはソ連、アルバニア、ブルガリア、チェコスロバキア、東ドイツ、ハンガリー、ポーランド、ルーマニアの8か国とオブザーバーの中国でした。
 1956年のソ連共産党第20回党大会におれるフルシチョフの演説に、こんなくだりがあります。
 「社会主義の原則にもとづいて社会を改造する形態には、ソヴェト形態とならんで、人民民主主義の形態がある。この形態はポーランド、ブルガリア、チェコスロバキア、アルバニアその他ヨーロッパの人民民主主義諸国でうまれ、これらの国のそれぞれの具体的な、歴史的、社会・経済的諸条件と特殊性とに応じて活用されている。この形態は、10年にわたってあらゆる面からためされ、完全にその価値を実証した。」

(続く)

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♦️420『自然と人間の歴史・世界篇』平和を夢み命をつないだ人びと

2017-10-20 20:04:31 | Weblog

420『自然と人間の歴史・世界篇』平和を夢み命をつないだ人びと

 2012年10月23日、ポーランドからの報道によると、ナチス・ドイツによるホロコーストの舞台となったアウシュビッツ強制収容所で、「人体実験」の記録写真や収容者の顔写真の撮影を強要された元写真家ウィルヘルム・ブラッセ氏が23日、南部シビエツで死去(94歳)でした。彼は、オーストリア人の父とポーランド人の母を持ち、写真業を営んでいた。ナチスへの忠誠を拒み、ポーランド軍に入隊。1940年に捕まり、アウシュビッツに送られました。収容所では「死の天使」と呼ばれた医師ヨーゼフ・メンゲレによる人体実験の様子を撮影しました。1945年初めにオーストリアの収容所に移送され、同年5月に解放された、とのことです。
 2012年10月22日のポーランドのからの報道によると、ナチス・ドイツによるホロコースト(ユダヤ人大虐殺)の舞台となったポーランドのアウシュビッツ強制収容所の元収容者のうち、生存者としては最高齢とみられていたアントニ・ドブロボルスキ氏が21日、同国北西部デンブノで死去(108歳)しました。小学校教師だった同氏は、1939年にポーランドに侵攻したナチスが教育を制限した後も隠れて授業を継続。42年にゲシュタポ(秘密警察)に逮捕され、アウシュビッツに送られました。その後、別の収容所2カ所に移送された同氏は45年、終戦に伴い解放されました。
 1944年8月1日のポーランドでは、ワルシャワ市民が市街各地で武器を手に一斉蜂起 しました。最初優勢だったのは蜂起軍の方でしたが、時間が経つにつれ蜂起軍は次第に力を失っていき、1944年10月10月12日、クラシンスキ広場にて、蜂起軍は武器を捨て降伏 しました。ワルシャワ蜂起でポーランド軍の敗戦が決定的となり、それまでの隠れ家生活も食料が底をついて、シュピルマンはぎりぎりの生活を送っていましたが、いつまでも隠れていられるわけではありませんでした。やがてふらりと現れたドイツ軍の将校にみつかってしまい、あわやこれで最後かというときに、ピアノの演奏をしたことで九死に一生を得たのでした。彼のことは、戦後、映画「戦場のピアニスト」として紹介されるに至りました。実際にそんなことがあったかどうかは証明ではていないのかもしれませんが、なかったともいえないような物語です。
 オーストリア出身の心理学者ヴィクトール・フランクルの「夜と霧ードイツ強制収用所の記録」に、こうあります。
 「囚人に対するあらゆる心理治療的あるいは精神衛生的努力が従うべき標語としては、おそらくニーチェの「何故生きるかを知っている者は、殆んどあらゆる如何に生きるか、に耐えるのだ。」という言葉が最も適切であろう。」
 「すなわち囚人が現在の生活の恐ろしい「如何に」(状態)に、つまり収容所生活のすさまじさに、内的に抵抗に身を維持するためには何らかの機会がある限り囚人にその生きるための「何故」をすなわち生活目的を意識せしめねばならないのである。」(八 絶望との闘い)
 「ここで必要なのは生命の意味についての問いの観点変更なのである。すなわち人生から何をわれわれはまだ期待できるかが問題なのではなくて、むしろ人生が何をわれわれから期待しているかが問題なのである。」(八 絶望との闘い)
 「われわれが人生の意味を問うのではなくて、われわれ自身が問われた者として体験されるのである。」(八 絶望との闘い)
 「人生というのは結局、人生の意味の問題に正しく答えること、人生が各人に課する使命を果すこと、日々の務めを行うことに対する責任を担うことに他ならないのである。」(八 絶望との闘い)〔以上、すべて霜山徳爾訳〕

(続く)

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