♦️672『自然と人間の歴史・世界篇』ソ連と東欧の社会主義改革(~1987、ハンガリー)

2017-10-05 19:12:07 | Weblog

672『自然と人間の歴史・世界篇』ソ連と東欧の社会主義改革(~1987、ハンガリー)

 ハンガリー社会主義経済は、どのようにして発展していったのであろうか。ソ連の経済学者アベル・アガンベギャンは、当時を振り返ってこう述べる。
 「ちなみに、ハンガリー経済を壊滅させた1956年の反革命事件の後、ハンガリーの同士たちは経済的な管理方式を完全かつ一貫して活用した新制度を農業に導入した。あらゆる形の指令的な国家計画は廃止された。つまり、農産物の国家買い付け計画課題は一切なくなった。農業企業は何の種をまき、何を栽培するかを独自に決められるようになった。その場合、彼らは、価格制度および工場企業や調達機関、その他関係組織との契約に従って行動した。
 それから30年が過ぎたが、ハンガリー農業に関する限り、行政的方式が復活していないのは、そのためである。ハンガリーの農業投資額は、ソ連の場合に比べて数分の一にすぎないにもかかわらず、ハンガリー農業はさらに発展を続けており、例えば住民一人当たり穀物を1.3トン、食肉を150キログラムも生産して、欧州でも最も効率の高い農業の一つになっている。その農産物のかなりの部分が欧州の資本主義諸国とソ連に輸出されている。」(アベル・アガンベギャン著・大つき人一訳「ソ連経済開放への道」読売新聞社、1991)
 1980年7月1日、ワイン、タバコ、製糖業のトラストを解体した。1981年1月1日、菓子産業のトラストを廃止した。1981年8月28日、政府の重要な布告が出されました。1982年1月を期して消費物資の供給とサービスの向上をはかるため、新しい小規模経営形態の設立を許可するとの内容であった。(この点、詳しくは、左治木吾郎「ソ連の体制転換と経済発展」文眞堂、1992)。
 また、「私営セクターが、社会主義セクターの経営体から工場、設備をはじめ小売店やレストラン等までリースすることができることになる。さらに1982年末には、小企業設立資金への政府の融資が増額される。このような流れは、「社会主義型混合経済」(コルナイ)と称される。さらに1981年10月には、国営企業法を改正するにいたる。

(続く)

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♦️576『自然と人間の歴史・世界篇』ユーゴスラビアの自主管理社会主義(1946~1951)

2017-10-05 18:59:08 | Weblog

576『自然と人間の歴史・世界篇』ユーゴスラビアの自主管理社会主義(1946~1951)

 1946年「国家計画化法」が制定された。その約5年後の1951年12月30日には「国民経済の計画的管理に関する法律」(計画管理法)が公布され、「国家計画化法」に定める指令と報告という垂直的な個別制御のやり方から、「基本比例」による誘導的な全般的制御のやり方へと変更された。
 その場合、「基本比例」として計画当局が定めるのは次のとおりとなる。①連邦と共和国における産業毎の最小設備利用率(操業率)、②一般的投資ファンドからの投資元本の分配、③最低操業率(最低供給量)に対応する平均賃金あるいは賃金フォンド、④産業毎の蓄積率、⑤一般投資ファンド、連邦予算、その他諸予算への納付金の負担率、それから⑥連邦予算を通じて分配される諸フォンドの決定である。
 1946年1月制定のユーゴスラビア憲法(「46年憲法」)は、ソ連のいわゆるスターリン憲法に酷似している点が多々あった。この憲法下でユーゴ委ラビアの政権は、1946年末までに鉱業の約80%を国有化する計画が立てられ、1947年4月からは重工業育成のための5カ年計画を策定しようとしていた。1947年には、「収用に関する法律」が施行された。1947年12月、「私的企業の国有化に関する法律」が施行された。1948年4月、第二次の「国有化法」が発布されました。小売り商店や食堂などが国有化された。ユーゴスラビアでは、1950年6月、連邦人民議会で「労働集団による国家経済企業と上級経済連合の管理に関する基本法」(略称は労働者自主管理法)が成立しました。その第1条には、こうある。
「工場、鉱山、交通企業、輸送企業、商業企業、農業企業、林業企業、公共企業そして他の国家経済企業を全人民的財産として社会共同体の名前で労働集団が管理する(中略)。労働集団は、企業の労働者評議会と経営(管理)委員会、また多数の経済企業が連合している上級経済連合の労働者評議会と経営(管理)委員会を通してこの管理を実現する。」
 この1950年時点の労働者自主管理管理法では、企業長は労働集団によって指名、任命されることにはなっていなかった。企業長は、上級経済連合があるときは同連合の管理委員会が任命し、企業が連合していないときは管轄の国家機関が任命することになっていた。また、「上級経済連合のディレクターは、連邦人民議会の幹部会、共和国人民議会の幹部会または人民委員会が任命する」(第43条)ことになっていた。1951年12月には、国家計画化法が廃止された。

(続く)

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♦️699『自然と人間の歴史・世界篇』新保守主義(イギリスの金融)

2017-10-05 10:08:26 | Weblog

699『自然と人間の歴史・世界篇』新保守主義(イギリスの金融)

 1986年10月27日、イギリス証券取引所で「ビッグバン」と評される大胆な金融改革が行われました。その柱としては、(1)売買手数料の自由化、(2)株式売買のコンピュータ化、(3)取引所の会員権を通じて守られていた市場を銀行にも解放、そして(4)株式仲買人(ジョバー)とお客の注文をとるブローカーの一体化(5)株式取引税を1.0%から0.5%に引き下げがありました。
 「同じようにロンドンは世界の投資銀行業務の中心になった。そこでイギリスの金融機関はプレイしていない。歴史を誇るマーチャント・バンクは資本力の差で姿を消し、大銀行ー例えばロイズ銀行は、はじめからこうしたリスクの多い分野には進出せず、ナットウェスト銀行はすでに手を引いており、バークレイ銀行は98年10月撤収を決定した。」(伊東光晴「「経済政策」はこれでよいか」岩波書店、1999)
 「最後の、ビッグバンと呼ばれる自由化第3弾は、1986年のロンドン
証券市場の大改革である。この改革は、①固定的な株式売買手数料の自由化、②「単一資格制度」の廃止、③これまで閉鎖的であった、外部資本による証券取引所会員権の取得条件の緩和、および④従来の取引所内の立会場が廃止されてスクリーン・ベースの株価自動気配システムのSEAQ(国内株式用)とSEAQインターナショナル(外国株式用)の導入が中心であった。」(太陽神戸三井総合研究所「世界の金融自由化ー先進7か国・ユーロ市場の比較」東洋経済新報社、1991)
 その効果としては、次の通り報じられています。
「この改革によって四大クリアリング・バンクなどのイギリス預金銀行、マーチャントメバンク、日米欧などの大手金融機関がイギリスの主要な証券業者をその系列下に置き、ユニバーサル・バンキング化を急速に推し進めた。さらに、1987年の「ブラック・マンデー」以後の証券市場不振のなかで総合証券会社への変身を急いだマーチャントメバンクが挫折し、外国の大銀行等の系列化に入るなど、多国籍金融グループのコングロマリット化も発生している。これらの金融コングロマリット化が前述の金融機関「同質化」の流れの一つである。」。」(太陽神戸三井総合研究所「世界の金融自由化ー先進7か国・ユーロ市場の比較」東洋経済新報社、1991)
 これにより国内の資金需給はつぎのように変化しました。
「1976-80年のイギリスの特異な点は、金融機関が資金不足になっていたことおよび海外借入れが大きかったことである。ところが、1985ー88年になって事態は変化した。資金余剰の個人部門は一転して資金不足になり、反対に資金不足であった法人企業、海外、金融機関、好況の四部門は資金余剰ないし資金不足の縮小を示した。個人貯蓄を最も多く吸収したのは銀行と保険・年金と住宅金融組合であった。この貯蓄増加は証券市場における金融機関の比重を高めたが、そのなかでも機関投資家の証券保有の増加が顕著である。」(太陽神戸三井総合研究所「世界の金融自由化ー先進7か国・ユーロ市場の比較」東洋経済新報社、1991)

(続く)

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♦️688『自然と人間の歴史・世界篇』新保守主義(イギリスの労働政策、1980~1985)

2017-10-05 10:06:36 | Weblog

688『自然と人間の歴史・世界篇』新保守主義(イギリスの労働政策、1980~1985)

 サッチャー政権の下での労働法制の改変は、過激なものでした。まず1980年雇用法では新たにクローズド・ショップ協定を結ぶ場合、適用労働者の80%の賛成投票を要求することを必要とした。同様にピケッティングも平和的に設置されたものでかつ、範囲を仕事場付近に限定するなどその活動を制限されました。続く1982年雇用法では、5年ごとにクローズド・ショップ協定を定期的に点検することが定められました。これには雇用者の80%以上、投票者の85%以上の賛成投票を要することになりました。また、合法的争議の範囲を主として賃金、労働条件等の紛争に限定しました。
 1984年労働組合法では、組合がストライキを決行するための要件が厳しくなりました。ストライキの決行のためには、全組合員による秘密投票により多数を占めねばならないことが明文化されました。労働組合執行委員選挙における秘密投票制や、争議行為開始についての秘密投票が必要となったため、執行部の統制力は弱体化しました。1988年雇用法では、クローズド・ショップ協定の締結又は維持を目的とする争議行為を禁止されました。また、「正当な手続き」によって支持されない争議行為への参加を拒否することと組合員の権利の保護も強化されました。
 1990年雇用法では、入職前クローズド・ショップを禁止し、非公認争議行為に対する免責条項を撤廃し、非公認争議行為に参加した者の解雇を容認しました。この一連の労使関係法の制定により、労組側の既得権も大きく制約し、またその行動を制約されることとなりました。そして、1980年代以降の労組の組合員数の減少及び組織率の低下を促進する要因となったことは否めません。
 全国炭鉱労働組合(NUM)の闘いについては、次の経過を辿ります。1984年3月から85年3月、全国石炭庁(NCB)の合理化計画に対し、全国炭鉱労働組合(NUM)のが抵抗の闘いを繰り広げました。アーサー・スカーギル委員長をはじめ執行部が、規約にある全国投票は55%の賛成が得られない見込みであったため行うことなく、ストライキに入れるところからストライキを指令し、ヨークシャー、スコットランド、ダーラム、ケントの支部が次次とストライキに入りました。ノッティンガムシャーなど効率のよい炭鉱を抱える支部はストライキを批判、やがてNUMからの脱退、第二組合の結成に動いていきました。
 1980年と82年の雇用法制定により、セコンダリー・ピケッティングと同条ストライキは禁止されていました。1984年秋の労働組合法の制定により、組合員の秘密投票の義務化が施行され、NUMの秘密投票によらないストライキに批判的な反主流派は、訴訟に持ち込みました。裁判所によるストライキ中止命令が出され、NUMがこれを無視したとして、法廷侮辱罪に問われ、20万ポンドの罰金を課されました。しかし、NUMはこの支払いを拒否したことから、組合資産890万ポンドを差し押さえられました。
 ここにいたり、NCBは一定期間ストライキをやめて職場復帰してた者に向けたクリスマス・ボーナス支給作戦を敢行しました。NUM代表者会議は1985年3月はじめには全面敗北を認めざるを得なくなり、ストライキを中止し、職場復帰をしたことで、さしもの一大闘争も終結しました。

(続く)

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♦️832『自然と人間の歴史・世界篇』ドイツ再統一

2017-10-05 09:43:08 | Weblog

832『自然と人間の歴史・世界篇』ドイツ再統一

 ドイツでは1980年代末から90年代初めにかけて東西の統一というドラマが進行しました。1989年1月9日、ベルリンの壁が崩壊しました。5月には、ハンガリーがオーストリアとの国境を開放したことで、東ドイツから西ドイツへの入国の道が通じました。
1989年10月23日、ライプチヒで “Wir sind das Volk”「われわれこそ国民だ」のスローガンをかかげた「30万人デモ」が行われました。11月4日には、東ベルリンで東独史上最大の「百万人デモ」があり、人々は国政改革を要求しました。クレンツ政権は11月9日に西ドイツへの通行を認めざるをえなくなりました。
 1990年3月18日、東ドイツの人民議会選挙があり、東西ドイツの即時統一を掲げた西ドイツ首相ヘルムート・コー ルが 支 援する東ドイツのキリスト教民主同盟(Christlich-Demokratische Union)が勝利しました。1990年2月13日、両ドイツ首脳がボンで会談し、通貨同盟の創設で一致しました。1990年3月18日、東ドイツで人民議会の自由選挙が行われ、東西の統一を掲げた保守派のドイツ連合が勝利しました。同年3月31日、ブンデスバンクが東西の通貨交換の比率を「1対2」にすることを提言しました。同年5月5日、第1回の「2+4」外相会議(ボン)が開催されました。
 1990年5月18日、東西ドイツの通貨統合条約「通貨・経済。社会同盟の創設に関する条約」の調印が行われ、7月11日に交換比率1対1で統合が実施されました。これより先、公定レートでは東独マルク対西独マルクの交換比率1対1でした。ところが、1990年初頭では商取引上の交換比率は4.5対1、自由為替市場での交換比率に至っては7-10対1もの開きがありました。同年6月21日、東ドイツ人民議会と西ドイツ連邦議会が通貨同盟条約を批准しました。その翌日、6月22日には西ドイツ連邦参議院が 両国の間で通貨同盟条約を批准しました。同年7月1日、通貨同盟条約が発効し、通貨統合が行われました。同年7月17日、第3回の「2+4」外相会議(パリ)。同年8月31日、「ドイツ統一に関する条約」に調印と続きます。同年9月12日、第4回の「2+4」外相会議(モスクワ)において、「ドイツに関する最終規定条約」に調印が行われました。9月20日、東ドイツ人民議会と西ドイツ連邦議会が統一条約を批准しました。
1990年7月、西ドイツのコール首相とソ連のゴルバチョフ大統領が、ドイツ軍の兵力削減と東ドイツに駐留するソ連軍の本国への撤退を合意しました。7月17日、ドイツとポーランド間の国境問題がひとまず決着しました。
 1990年9月12日、東西ドイツ統一条約の調印式が行われました。1990年10月3日、東西のドイツが国家統一(統一条約の発効、東ドイツが西ドイツへの併合を宣言)にこぎ着けました。11月9日、「独・ソ善隣友好条約」の調印が行われました。1990年12月2日、統一ドイツ初の連邦議会総選挙が実施され、連立与党であるCDU、CSU、FDPの連合が多数を占めました。1991年6月には独・ポーランド善隣友好条約に調印。6月20日、統一政府が連邦議会のベルリンへの移転を決定しました。1998年9月、ドイツで9月に総選挙がありました。結果は社会民主党(SPD)と緑の党(Die Grünnen)の連立の勝利で、それまで与党のキリスト教民主同盟(CDU)らの勢力は野に下りました。

(続く)

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♦️590『自然と人間の歴史・世界篇』1960年代社会主義国の経済改革の実際

2017-10-04 21:22:22 | Weblog

590『自然と人間の歴史・世界篇』1960年代社会主義国の経済改革の実際

 1961~65年からのソ連を初め、1960年代からソ連・東欧の社会主義国で、経済改革が取り組まれる。その前提と、改革の評価については、さまざまな観点から批評が寄せられてきたところだ。ここではまず。あまたある、それらの中から幾つかを紹介したい。
○社会主義経済論が専門の野々村一雄の見解から
 「1966年1月から実施しました経済改革は、これまで上からの命令指標が三Oもあったものを八つに減らしました。真の分権化とは、中央から企業におろすあらゆる指標をなくすことであると考えますと、八つに限定したことは、いわば腰だめ式に分権化を実施したものと考えていいと思います。
 一九六六年に三〇ぐらいから八つにへらされた指標は、一九七六年までにじりじりと八つから一三になっています。こうなりますと現在のソ連経済は完全に集権型の経済です。企業長は常に上を向いて歩けです。上のいう通りに生産するのが企業長で、そうすれば出世も致します。そこから政治的腐敗も起こってくると思います。」(野々村一雄「ソ連社会主義経済の問題点」:国際労働運動研究協会「国際労働運動」1984年8月号、No.157)
○ソ連の経済学者イェ・リーベルマンの見解から
 「生産品の中央集権的計画化と計算価格の体系が、企業の収益性による刺激および褒賞といかに結合されるか。」(イェ・リーベルマン他著、園部四郎訳「ソ連経済政策ー利潤論争と工場管理」合同出版、1966)
 「要約すれば、各種企業が「手を出す」必要がないときには、計画経済の最高のタイプへの移行がきずかれている。企業に道がしめされ、照らされる時には、企業はこの道にそって「市場の錯乱」につまづかないで、大胆に進めばよいので。(中略)ある程度、われわれの中央集権的計画経済は戦略であり、われわれの独立採算制は社会主義経済学の先述である。」(同)
○チェコスロバキアの経済学者W・ブルスの見解から。
 「最も発達した社会主義諸国で発展の動態がもっとも強く阻害されたのも、偶然とは思われない。チェコスロバキアでは1961年~65年の年平均成長率は先行する5年間の7%に対し2%であり、ドイツ民主共和国では同様に、8%に対し3%であった。より高度な経済水準およびそれと関連するより複雑な構造のため、集権モデルの批判で通常あげられるあらゆる欠陥がとくに強くあらわれたのである。すなわち、企業において技術進歩をたえず促進するメカニズムが欠如していること、需要構造に対する生産構造の適応面での弾力性が不十分なこと、生きた労働と対象化された労働の支出の減少、質の向上に対する感応があまりにも少ないこと、などがそれである。」(W・ブルス著・佐藤経明訳「社会主義における政治と経済」岩波現代選書、1978)
○ハンガリーの経済学者コルナイの見解の紹介から
 「ソビエト時代の経済を見ればわかります。財政は事実上赤字で通貨は増発され、物価は公定であるために、過剰需要が一般化しました。それが物不足、行列という形をとっていたことは、今ではよく知られています。ハンガリーの経済学者コルナイはこれを「不足の経済」とよびました。ソビエト崩壊のはるか以前です。計画経済のいう名のもとで、政治の恣意的経済支配は、おうおうにして大きな財政赤字をひきおこし、通貨膨張をひきおこがちです。」(伊東光晴「日本経済の変容ー論理の喪失を超えてー」岩波書店)   
○丸尾泰司の見解から
 「スターリン時代の計画経済では、生産物の一切が中央国営市場を通じて、公定価格で販売されていました。価格が改訂されないと、需給の均衡点への収束が起こらず、供給過剰(需要過少)のときは、資本移動がスムーズにいかないものです。また、供給が不足していても、価格が変化しないので供給意欲がそがれてしまいます。
 これらは非効率は国民にとって耐え難いたえがたいものだったでしょうか。生産物を隠匿して値上がりを待ち受けたり、ヤミ市場に横流しして利益を貪ったりする者は重罰に処せられたので、こうした不正は少なかったのではないでしょうか。この非効率と、インフレや失業からくる非効率を天秤にかければ、価格の硬直性による非効率により国民経済が被る不利益は耐え難いものではなかったのではないでしょうか。
 それと、当時はまだ生産物の差別化が進んでいない、少品種大量生産の下では消費者の嗜好によってそれほど売れ残るということはありませんでした。広大な国で資源も豊富であるため、社会主義共同体の中以外では、国際経済関係との調整をさほどに考えなくてもよかったのです。」(丸尾泰司「ソ連・ロシアの政治経済社会の歩み」ブログ)

(続く)

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♦️17『世界と人間の歴史・世界篇』生物たちの発展(カンブリア大爆発からの古生代)

2017-10-02 18:02:48 | Weblog

17『世界と人間の歴史・世界篇』生物たちの発展(カンブリア大爆発からの古生代)

 いま振り返って、この地球上に生物たちが本格的に出現したのが、古生代のカンブリア紀である。多様な生物種が一挙に出現したことで、「カンブリア爆発」とも呼ばれる。これには、すでにその前から生物の遺伝子が多様化していたことがあるのではないか。この時代は、5億4200万年前~4億8830万年前といわれる(なおここでの推定年代は地質学上のもので、「絶対年代」と命名される、以下同じ)。このなますの由来だが、イギリスのカンブリア地方(現在のウェールズ地方)にちなんだ地層として名付けられた。この時代の地層だが、今のところ日本列島にある最古の地層は茨城県日立市で発見されており、5億610万年前と推定される。だから、カンブリア紀にはわずかに届かない。ちなみに地質学者の宇都宮聡・川崎悟司によれば、「当時の日本は中国やオーストラレア、南極などとつながったゴンドワナ大陸の周辺にあり、この日本最古の地層は当時、火山島であったのではないかと言われている」(宇都宮聡・川崎悟司『日本の絶滅古生物図鑑』築地書館、2013)。
 それは、20世紀初頭の1909年のことであった。アメリカの古生物学者のチャールズ・ウォルコットがカナディアン・ロッキーで「バージェス頁岩(けつがん)動物群」と呼ばれる化石を発見した。ここの頁岩は、カンブリア期の中期の地層が地層に現れているものだ。このバージェス頁岩中からは、今日の生物分類に当てはまらない多様な動物群が見つかっている。かの有名な三葉虫も、この紀の初期に出現した。これを「カンブリア大爆発」と呼ぶ。この爆発的進化によって登場したと見られる、「100種類以上、数万点にのぼる化石」を含んでいるこの地層は、その後の生物学研究発展の大きな足掛かりを与えたのであった。
 さらに古生代のオルドビス紀(4億8830万~4億4370万年前)に入る。この紀の地球の北半球の半分か、ほとんどは海に覆われていた。一方、南半球にゴンドワナ大陸があって、現在のオーストラリア、中国、南極、アフリカ、南アメリカも含まれていたらしい。このオルドビス紀の地球寒冷化により、当時の「動物の科の半分ほど、種の八〇%」(池田清彦『38億年、生物進化の旅』新潮社、2010)が絶滅したとも言われる。この絶滅については、池田清彦氏が複合的な原因を指摘しておられる。
 「オルドビス紀の終わり頃になってなぜ氷河が発達したかのか、実のところはよくわかっていないのだけれども、地球の寒冷化によって海面は五〇メートルも下がったのだった。海面が下がるとどういうことが起こるかといえば、浅瀬にいる動物(たとえば貝の仲間とか)が干上がってしまうわけである。もちろん、それまで温かい海にいた動物は、寒冷化に耐えられずに死滅してしまう。
 寒冷化が進むと多くの氷河ができるわけだが、その後にまた温暖化すると、今度は氷河が溶け、氷に閉じ込められていた様々な栄養物が一気に海に流れ込む。そのため急に海が富栄養化する。そこでプランクトンが大量に発生し、そのプランクトンたちが酸素を摂ってしまうので、酸素不足が起こる。酸素不足になると高等な多細胞生物は死滅してしまうーーーと、たとえばそういうプロセスも、動物の大量絶滅の原因ではないかと考えられている。一気に絶滅したといっても、ほんの一瞬のうちに多くの生物種が絶滅しているわけではないからーーー大絶滅は数百万年というタイムスケールで起きているわけだがらーーーその原因は複合的であろう。」(同)
 このオルドビス紀とその前のカンブリア紀を境する「国際模式露頭」が、現在のカナダ東岸にある大きな島・ニューファンドランド島グロス・モーン国立公園内に見つかっている。それは、「西海岸グリーンポイントのカンブリア紀/オルドビス紀境界」と通称される。白尾元理氏の著作「地球全史の歩き方」岩波書店刊(2013)に、写真と共に紹介されている。この古生代オルドビス紀においては、魚類が発生し、分岐していったと考えられている。カンブリア紀とともに栄え、オルドビス紀の地球寒冷化で種類半減までに追い詰められた三葉虫も再び多様性を回復しつつあった。
 さらに、シルル紀(4億4370万~4億1600万年前)に入る。この紀には、生物たちの海からの上陸が始まる。それでも、オルドビス紀からデボン紀にかけて、空気中の二酸化炭素が現在の10倍以上とも言われる程、大量に存在していたとみられる中でのことであった。4億2000万年前の古生代シルル期の地層からは、高さ1センチメートルほどのシダ植物である、クックソニアの化石が発見された。それには、葉もなく根もなく、茎の集まりに過ぎなかったものの、水を吸い上げる維管と、茎の先端に繁殖のための胞子を入れる袋(胞子のう)が備わっていた。
 続いて、デボン紀(4億1600万~3億5920万年前)に入る。植物たちが上陸してから約3000万年後の、今からおよそ3億9000~8000万年前の中期には、木が出現した。水辺においては、ヒカゲノカズラ類やトクサ、それに最大2メートルを超えるようなシダ類までもが育っていた。これらの陸上で大型植物の群生が始まったのには、地球上に初めて森林が形成された環境が預かっていたことがあった。その具体像としては、前被子植物を中心とした森林が大陸の各地に広がる。
 こうして陸上で繁栄をはじめた植物たちによって、陸上の生態系は急速に豊かに、活気づいていった。これらを得てから、すなわち、動物たちの上陸が始まった。これには、大気の変化も重要である。動物たちの上陸には、地球植物が上陸した頃から二酸化炭素は急速に減っていく。動物のうち最初の上陸を果たしたのは、何であったのだろうか。まず4億1000万年前の古生代デボン期初期、原始的なクモや昆虫、それから貝類が上陸したと考えられている。クモや昆虫などの節足動物は、防水層で覆われた外部骨格を持ち、水分を保ち、また重力にたえうる体の構造を持つに至っていた。この時期にはまた、魚が大挙して陸を目指し始める。魚類の中から四足動物が現れたのである。それら新種の生物の代表的な名前としては、水陸両用の魚・ユーステノプテロンとも言われている。海から湿地帯へと生活圏を広げた古代の魚たちは、さらに肉びれで陸を歩くようになり、脚へと進化させていったと言われる。
 そして約3億6000年前のデボン期の終わり頃、昆虫たちからは約5000万年遅れて、ようやく両生類としての体に変化し始めていた彼らの上陸が始まった。すなわち、脊椎動物の上陸である。最初のそれは、東グリーンランドの岩山から発見された。イクチオステガと名付けられた化石で、肺魚やシーラカンスの仲間(肉き類)のユーステノプテノンから進化したもので、最初の両生類であり、海が間近の熱帯の湿地帯で生活していた。それらの過程は、例えば次のように想像されている。
 「最初に上陸を果たした脊椎(せきつい)動物は手足(四肢)をもつため四肢動物(テトラポッド)と呼ばれている。四肢動物はやがて地上を歩き回る動物へと進化し、ついには陸上を支配するにいたる。現在の両生類(りょうせいるい)や爬虫類(はちゅうるい)、哺乳類(ほにゅうるい)もこのとき上陸を果たした四肢動物の子孫なのである。一見四肢動物には見えないヘビやクジラなどもいったんは四肢をもち、その後進化を続けて現在のような姿になった。言うまでもないが私たち人間も四肢動物に含まれる。その四肢動物が残した最古の足跡がバレンシア島(アイルランド)にあるというのだ。」(NHK製作・編集「NHKスペシャル、地球大進化、46億年・人類への旅」の第3巻「大海からの離脱」の第1章「母なる海との決別」)
 ここで興味深いのは、「デボン期の湿地帯で生き残る戦略は三つあります。牙を磨くか、鎧を身にまとうか、あるいはその場からゲルかです」(アメリカのテッド・デシュラー博士、:「NHKスペシャル、地球大進化、46億年・人類への旅」NHK出版、2004の第3巻「大海からの離脱」)ともいわれる。ここからは、地上に上がった当時から生き物たちによる生存競争が苛烈に始まっていたことが読み取れる。
 ところが、それからもさらに古生代石炭紀(3億5920万~2億9900万年前)に入ると、地球上の二酸化炭素は一転して減少に向かった。こうなっていったからくりについては、生きている植物の光合成(CO2→O2+C)という活動(化学反応)により大気中の二酸化炭素(CO2)から酸素(O2)がつくられるのだが、この植物が死んで分解(O2+C→CO2)されてしまうと元の形の二酸化炭素(CO2)に戻ってしまうだろう。つまり、元の木阿弥(もくあみ)になって酸素はいつまでたっても増えていかない。そこで、この連鎖を避けて地上に酸素が増えていくようにするためには、植物が死んだ後にも分解されずに残るようにすればよい。そこで自然に生み出されたのが、炭素(C)が二酸化炭素(CO2)から分離されたままの状態でやがて植物に死が訪れ、その後は枯れて湿原に埋もれることで石炭(C)となって固定されればよい。こうなると大気中の酸素は放出されたままとなり、大気中の酸素はどんどんと増えていったのではないか。
 おりしも、古生代の終わりのこの頃からは、地球のプレート大陸と大陸とがぶつかり合って、超大陸の「パンゲア」が形成されつつあったのではないか。湿潤な気候に後押しされて、すでに陸上に進出していた生物が陸上のそこかしこへと広がっていったことであろう。その陸上では、シダ類などの大規模な植物が生育領域を拡大し、そのために地中に埋もれた植物たちが変質して、後の石炭層を形成していく。約3億4000万年前のこの紀の初期の地上において、両生類から有羊膜類への進化が始まる。有羊膜類は、産み落とした卵の中に羊膜(ようまく)があって、胎児と羊水を包んでいる。そのことによって卵は乾燥しにくくなり、彼らは水中や湿地帯からさらに乾いた大地に這い上がっていくことができたのだと考えられている。その有羊膜類からは、約3億2000年前、単弓類が現れる。単弓類とは、有羊膜類の頭蓋骨の形の違いから分類であって、もう一つは竜弓類である。単弓類の彼らは、体温調節能力を持っていて、ほ乳類の祖先といえる。そして有羊膜類のもう一つで類型である両弓類からは、およそ3億年前になって爬虫類が現れる。これが後に恐竜や鳥類の祖先になっていく。
 次の古生代ペルム紀(2億9900万~2億5100万年前)頃には、全大陸が再び集合して、再度のパンゲア超大陸が出現する。この紀では、乾燥した気候が広がる。植物界ではシダ類中心による大森林がしだいに少なくなっていき、代わりに趣旨で繁殖する裸子植物が栄えていく。この紀の中頃までは、豊かな生態系が存在したと考えられている。とりわけ脊椎動物では単弓類(続的には、哺乳類型爬虫類と呼ばれる)が繁栄を迎える。ペルム紀末には生物の史上最大規模での大絶滅があった。その原因は、大規模な火山噴火がシベリアに起きためであるというのが多数説ながら、確証は見つかっていない。巨大噴火が現実のものであったなら、大気中に水蒸気や塵灰が大量に拡散して、太陽光を遮り、温度か急落したことだろう。また、太陽からの電磁波エネルギーのうち、波長の短い紫外線は地表に届きにくくなっていたことだろう。ここまでが古生代に区分される。

(続く)

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♦️213の6『自然と人間の歴史・世界篇』民族主義の変遷~2017)

2017-10-01 09:33:53 | Weblog
213の6『自然と人間の歴史・世界篇』民族主義の変遷~2017)

 民族主義というものは、それを高く掲げれば掲げるほどに、他者を排除する力が増えていくものではないでしょうか。
ここに「民族自決」のスローガンがこれらの国の独立に大きく貢献したのはいうまでもありません。半植民地の立場から世界史の歯車を大きく前に前進させた意義には大変大きいものがあると思います。同時に、行き過ぎた民族主義、愛国心の鼓舞は、他者への差別を主内容とする排外主義への傾向を色濃くもっていることも注意喚起されているところです。

(続く)

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♦️826『自然と人間の歴史・世界篇』アメリカのイラク戦費

2017-10-01 09:19:45 | Weblog

826『自然と人間の歴史・世界篇』アメリカのイラク戦費

 積算が大変難しいのは、国対国の戦争にかかる費用であり、論者により積算に開きがある。ここでは、ジョセフ・E・スティグリッツとリンダ・ビルムズが2008年にまとめた報告「世界を不幸にするアメリカの戦争犯罪」を紹介したい。同書による戦費(2001年度から2007年12月25日のアメリカ一国の戦争コスト)は約3兆ドルと見積もられている。彼ら二人は、その作業を次のように振り返っている。
 「わたしたちは、緊急資金、二重帳簿、戦争に要する資源の常習的な過小評価などが健全に入り混じる中から、政府がこれまでいくら支出したのか、そして最終的にはいくら支出しなければならないのかを確認しようと努めた。
 そしてたどり着いたのが、3兆ドル以上という数字だ。私たちの計算は、控えめな想定に基づいている。技術的に複雑な部分があるとしても、コセプトとしては単純だ。すべての見積もりとは、政府の情報源である議会予算局(CBO)、政府説明責任局(GAO)、国防総省、国務省、退役軍人省(VA)、と、その他の既刊の政府報告書をもとにしている。
 さらに、アメリカ医学研究所「ニューイングランド医学報」、アメリカ脳外傷協会、退役軍人傷害補償委員会、アメリカの帰還負傷兵の医療に関する大統領委員会(ドールーシャララ委員会)など信頼性の高い情報源のデータや、情報公開法にしたがって退役軍人組織から得たデータも使用した。計算の詳細に入る前に、その枠組みを理解しておくとよいだろう。わたしたちはそれを10のステップにわけた」(楡井浩一訳、徳間書店)のだという。そこでいま、その各ステップの見出しのみ引用する。
 「ステップ1 今日までの軍事活動に関連する予算割り当て/支出。これはもっとも簡単なステップで、戦争に充てられたさまざまな支出をすべて合計するものだ。2001年度から2007年12月25日までの、25種類の戦争関連の歳出をすべて計算した。(ステップ4で、2008年度の補正予算案の残りが成立すると想定した)。これには、国防総省、国務省、国際開発庁の補正予算と通常予算両方の資金と、退役軍人省の医療費が含まれる。
 これらの資金は、国防総省がイラクとアフガニスタン周辺の活動に対して名付けた世界的な「対テロ戦争(GWOT)を構成する三つの活動について、軍事活動、基地の安全確保、復興、対外援助、大使館のコスト、退役軍人の医療コスを賄っている。三つの活動とは、イラク自由作戦(OIF)、不朽の自由作戦(OEFーアフガニスタン)、高貴な鷲作戦(ONE)であり、そこには基地建設や大使館の安全確保なども含まれている。
ステップ2 国防予算の別の場所に隠されている運用費と節約の加算
ステップ3 インフレーションの貨幣の時間的価値の調整
ステップ4 将来の運用費(直接支出と予算の別の場所に隠されている支出の両方)の加算 
ステップ5 退役軍人の障害補償と医療にかかる将来及び現在のコストの加算
ステップ6 開戦前の軍事力を回復し、消耗した軍備を補充し、メンテナンスを先送りされた装備品を修理する将来のコストの加算
ステップ7 政府の他部門にかかる財政コストの加算。それらのコストの一部は、退役軍人に支払われる恩給に関連している。重傷を負った退役軍人は、住宅供給、社会復帰のためのリハビリテーション、家族扶助、奨励金付きローン、その他の恩給など、さまざまな追加プログラムを受ける資格がある。
ステップ8 利息の加算
ステップ9 経済に対するコストの見積もり
ステップ10 マクロ経済への影響の見積もり」
 「現在高:マクロ経済的コストの追加ーイラクとアフガニスタン
現実寄りの保守的シナリオ、単位は10億ドル
マクロ経済的コスト
原油高の影響800 
支出転換の影響1100
マクロ経済的コスト小計1900
財政コスト及び社会経済的コストの追加
今日までの総運用費(今日までの支出)646
将来の運用費(将来の運用費のみ)913
将来の退役軍人のコスト(医療+障害補償+社会保障)717
その他の軍事費/調整(隠された国防費+将来の国防リセット費+解   隊、飛行禁止空域削減による節約の差引)404
財政的コスト合計2680
社会的コスト合計415
財政的コスト+社会的コスト総計3095
財政的コスト+社会的コスト総計+マクロ経済的コスト総計(利息なし)4995」(166ページの表10より抜粋して引用)
 これほどの詳しさで戦争の戦費を解析した、その原動力は一体何であったのだろうか。

(続く)

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♦️889『自然と人間の歴史・世界篇』アフリカで帝国主義は生き延びているか(2012年)

2017-10-01 08:52:55 | Weblog

889『自然と人間の歴史・世界篇』アフリカで帝国主義は生き延びているか(2012年)

 2012年現在、アフリカ諸国の産業には、それぞれの国における基幹産業となりうるものとしては何があるのだろうか。ここでは、資源開発に関係するところに限って取り上げたい。なお、以下しばらくは、2013年1月18日付け朝日新聞等などの記事を中心に取りまとめている。
 さて、アフリカ地域には、フランスとイギリスが今なお大きな権益を持っている。まずは、フランスについて、大まかに現状を掴みたい。
 最近の新聞記事には、図や表がふんだんに用いられていて、ありがたい。アフリカに展開するフランス軍、フランス企業が権益を持っているウラン鉱山、油田開発、天然ガス資源の分布(2012年末時点)が、図示されている。これによると、マリの隣国ニジェールに原子力大手のアレバ社がウラン鉱山を保有している。ナミビア西部にTrekkopje鉱山を保有している。この鉱山は2007年、原子力大手アレバ社が南アフリカのUramin社から買収したものだ。コートジボワールの油田開発では石油大手トタルが権益を握っている。セネガルの油田開発でも石油大手トタルが権益を保有している。アルジェリアでは、電気大手GDFスエズがアルジエリア産天然ガスの採掘の権益を保有している。さらにマリでの金採掘事業の開発を巡っては、フランス企業約50社が展開中だとのこと。
 こうしたアフリカでの関係国には、経済利益と利権を確保するため、フランス軍が駐屯しています。これら諸国に展開しているフランス軍兵士の数は、セネガル(基地あり)に350人、コートジボワールに450人、チャドに950人、中央アフリカに600人、ガボン(基地あり)に900人、ジプチ(基地あり)に1900人、計5000人以上もの兵士が西アフリカを中心にアフリカ全土に散らばっていて、フランス人とその企業、彼らが持つ権益を守っていることになります。(中略)
 これらをざっと見ると、今でもアフリカは、「帝国主義」そして「新植民地主義」の呪縛(じゅばく)からから、完全に自由となっている訳ではないように見受けられる。

(続く)

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