403『自然と人間の歴史・世界篇』第二次世界大戦(ヨーロッパ戦線・デンマーク)
1397年、マルグレーテ1世の下、北欧三国によるカルマル連合(~1523)が成立する。1660年、絶対王政の時代であった。1849年、憲法が発布され、二院制議会となる。
そして迎えた第二次世界大戦の時代。ドイツ占領軍へのデンマーク国民の非服従については、次のように語られている。
「政府が民衆の脆弱な抵抗しか期待しえないような場合、あるいは占領が被占領国の関与しない戦争との関連で行われ、侵略者が直ちに政府を転覆しようとはしないような場合には、「協力なき適応」という、より柔軟な政策が、犠牲を最小におさえて、時の経過とともに成功を収める可能性をもつかもしれない。
1940年から43年のあいだドイツ占領軍にたいしてデンマーク政府のとったコースがその適例である。なるほど、デンマーク政府は適応政府の枠内において、ドイツ側に外交や経済上の譲歩を行い、義勇軍(主としてデンマーク・ナチスからなる)の結成や反コミンテルン同盟への加入などを余儀なくされた。しかし、立法・司法・行政などの諸機構は占領軍の直接統制を免かれ、合法的政府の保護のもとに民衆全体の「ナチス化」を阻止し、ナチス協力者を孤立化させた。
こうしてドイツ軍の干渉から自由な分野を確保することによって、のちの全国民的な抵抗の拠点をつくりだすことが容易となった(U・ボッホ「1940年ー43年のデンマーク政府の政策ー「協力なき適応政策」のモデル・ケースとして」エーベルト編「市民的抵抗」所収、1970年)。
この段階のデンマークの事例は、むろん「市民的防衛」にとって模範的なものとはいえないかもしれない。しかし、特定の状況においては、協力と全面的抵抗とのあいだに受け入れられる中道がありうることを示すものであろう。」(宮田光雄「非武装国民抵抗の思想」岩波新書)
(続く)
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614『自然と人間の歴史・世界篇』ブラジル(1960年代)
1951年から1961年まではジュセリーノ・デ・オリベイラ・クビチェック大統領。1961年1月から1961年8月まではジャニオ・ダ・シルバ・クワドロス大統領。そして同大統領が辞任した後の1961年8月、民主選挙の先例を受けて副大統領職に就いていたジョアン・ベルチオル・マメケス・グラールが大統領に昇格する。こうした経緯については、歴史家により、次のように解説される。
「陸・海・空の三軍大臣は、彼を左翼的すぎるとみて大統領昇格に反対した。他方、各地でグラール支持の集会やデモがおこなわれた。グラールは、中国から直接郷里のリオ・グランデ・ド・スル州に戻り、義兄の州知事レオネル・ブリゾラとともに、同州駐屯の連邦三軍を動かし、内戦も辞さない構えを示した。
結局1961年9月1日、国会は46年憲法に修正条項を加え、大統領権限のかなりの部分をあらたに国会で選出される首相に委譲するするという条件をだし、軍首脳もグラールの大統領昇格に同意し、7日にグラールが大統領になった。グラールは大統領権限の全面回復に全力をあげ、63年1月に国民投票がおこなわれ、投票の8割がグラールの意図を支持した。」(増田義郎編「ラテン・アメリカ史Ⅱ」山川出版社、2000)
さて、1961年8月から1964年3月まではジョアン・ベルチオル・マメケス・グラール大統領であった。彼は、その在任期間中にブラジルをより豊かで、民主的な国にするべく、次のような政策を推し進めようとする。その1は、経済改革、その2は農地改革、その3は民主的権利の拡大、その4は共産党の合法化といった具合であった。1964年3月14日、彼はリオでの大衆集会において、総小作料の安定、共産党の合法化、投票権の文盲者への拡大を議会に要請することを発表する。
その後に、二つの法令に署名をおこなう。
その一として、連邦政府のハイウェイ、鉄道その他の公共事業に隣接する、6マイルの距離内にあるすべての遊閑地を没収すること。その二として、いまだ石油国有会社ペトロブラスの所有になっていないブラジル資本の石油精製所の国有化を行う。
1964年になると、ブラジル政府に対しアメリカは緊縮政策をとるよう要求したものの、ジョアン・ベルチオル・マメケス・グラール大統領が聞き入れなかったため、両国の関係は急速に冷えていく。
のみならず、同大統領は、農地改革と外国資本規制の計画を発表し、キューバ政府を承認し、さらにインフレの勢いが止まらなくなる中アメリカの資産の接収に向かうことで、アメリカの思惑と利益に対抗する動きを見せる。これらがアメリカを痛く刺激することとなり、アメリカ政府は3月27日、ついにコーン、ラスク、マクナマラを初めとする政府首脳部に、陸軍参謀長ウンベルト・カステロ・ブランコ将軍を支援して大統領を失脚させるべだと要求したのであった。
1964年4月1日、ウンベルト・カステロ・ブランコ将軍による軍事クーデターが起こり、ジョアン・ベルチオル・マメケス・グラール大統領は辞職に追い込まれる。4月11日、国会は将軍を大統領に選出し、アメリカがテコ入れをしたことで現実のものとなった軍事クーデターを追認するにいたる。歴史家によって、こう書かれる。
「1961年4月、軍の革命最高司令部は軍政令第一号を公布し、多くの公務員、軍人、民間人を解雇し、政治権を奪った。46年憲法を存続させつつ、66年1月31日まで有効の、多くの例外規定が定められた。」(増田義郎編「ラテン・アメリカ史Ⅱ」山川出版社、2000)
「1965年10月、同政権は軍政令第二号を公布し、大統領の間接選挙制、既存政党の解散と二大政党、すなわち与党の国家革新同盟党(ARENA)への再編成をおこなった。野党と言っても政府にとって危険な政治家はすでに政治権を剥奪されており、与党の優位は保証されていた。さらに66年2月の軍政令第三号は、州知事・同副州知事の間接選挙制を定め、連邦政府は州政府に介入する権限をえた。」(増田義郎編「ラテン・アメリカ史Ⅱ」山川出版社、2000)
1967年3月からコスタ・イ・シルバ元帥が大統領に就任しました。これは1969年8月まで続く。1968年、メキシコ五輪直前に学生暴動が起き、約500人が死亡するという惨事となる。その後は、エミリオ・ガラスタズ・メディシ(1969年ー74年)、エルネスト・ガイゼル(1974年3月発足-79年)と軍事政権が続く。エルネスト・ガイゼル政権は1978年、事前検閲と軍政令とを全廃する。
(続く)
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613『自然と人間の歴史・世界篇』中南米(1960年代)
1960年代の中南米の経済がどのようであったかについて、宮崎義一氏の論考から引用させてもらいたい。
「すでに150年前にスペイン、ポルトガルから政治的独立を終えたラテン・アメリカの現状はどのようなものか。コロンビアではわずか2.6%の裕福な人口が40%の所得を占め、プエルトリコでは10%の上層の人々が44%の所得を得ている。ヴェネズエラでは3%の大地主が74%の土地を有し、ブラジルとチリでは2%の地主が耕地の50%を占め、エクアドルでは0.2%の地主が33%の土地を所有する。「ラテン・アメリカ全体では15%の人口が耕地の65%を独占している。この寡頭特権層は、ユナイテッド・フルーツ、ベツレヘム・スティールら外国、とくにアメリカの巨大独占資本と結びついて権力の座を確保している」(四宮圭「第三世界の政治経済学」『エコノミスト』1966年2月15日号)。」(宮崎義一「現代の資本主義」岩波新書、1967)
これは、いわゆる「南北問題」とされた。その行方について、スウェーデンの経済学者ミルダール(K.G.Myrdal)が提出した命題(1957年)には、こう論点整理されている。
(1)現状は、世界にはきわめて豊かな国と、極端に貧しい国との、それぞれの集団が存在している。
(2)豊かな国の成長の道筋はきちんと示されているのに対し、貧しい国の経済発展は極めて緩慢である。
(3)最近数十年の間に先進国と低開発国との間の経済的不平等は増大の一途を辿っている。
(参考:K. Gunnar Myrdal,Economic Theory and Underdeveloped Regions.1957.小原敬士訳『経済理論と低開発地域』1959。
ちなみに、当時のこの地域の全債務返済額・投資収益支払額の輸出額に対する比率(1967年、1968年)は、次のようであった。
10%以下:エルサルバドル、タイ、韓国、台湾、セイロン、スーダン、タンザニア。
10~15%:ホンジュラス、パラグァイ、フィリピン、マレーシア、エチオピア、モロッコ、ウガンダ、象牙海岸。15~20%:ペルー、パキスタン、グァテマラ、ナイジェリア、ドミニカ、ケニア、ボリビア、マラウィ、ウルグァイ、ザンビア、ニカラグァ、コスタリカ。20~25%:インド、チュニジア。25%以上:ブラジル、メキシコ、アルゼンチン、ベネズェラ、チリ、イラン。
(注)1966年以降のデータが入手不可能の場合以外は1967年、1968年のデータにより分類。(2)イランについては、公的債務の元本償還額を除く。資料:Report of the commission,Ⅱー11
(梶谷善久「ベトナム戦争をめぐる国際関係」:大内兵衛・向坂逸郎編「体系 国家独占資本主義」第2巻、河出書房新社、1971に所収)
特に、ブラジル、メキシコ、アルゼンチン、ベネズェラ、チリ、イランについては、1967~68年には、輸出の25%以上を借金と利子の支払いにあてなければならなくなっている。
1960年、にラテン・アメリカ自由貿易連合設立条約 (モンテビデオ条約)が締結され、 それに基づきラテン・アメリカ自由貿易連合 (英語の略語 「LAFTA」 ) が創設された。 当初のLAFTA加盟国はアルゼンチン、ブラジル、メキシコ、 パラグアイ、ウルグアイ、ペルー、チリの7カ国であった。その後1967年までにコロンビア、エクアドル、ベネズエラ、ボリビアが順次加盟し、約3億人の人口を擁するまでになる。
これは後のことだが、1980年、LAFTAにかわりラテン・アメリカ統合連合条約 (1980年モンテビデオ条約)が締結され、ラテン・アメリカ統合連合 (スペイン語の公式略語では「ALADI」) が成立し、1981年3月に発足するにいたる。ALADIには、 アルゼンチン、 ボリビア、 ブラジル、 チリ、 コロンビア、 エクアドル、メキシコ、 パラグアイ、 ペルー、 ウルグアイ、ベネズエラ、 キューバの12か国が加盟するかたわら、 EU及びスペイン、ロシア等欧州の数カ国を含む14カ国がオブザーバーになる。
(続く)
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335『自然と人間の歴史・世界篇』パナマ独立とパナマ運河
1501年、スペイン人バスティーダ、パナマ地峡を発見した。1821年、パナマは、大コロンビアの一州としてスペインより独立を果たす。村上堅太郎氏による、当時の国際情勢の論考から、紹介しよう。
「1898年キューバの反乱を援助するこによってアメリカ合衆国はスペインと戦うに至った。戦闘は容易にアメリカの勝利に帰し、キューバの独立とフィリピン・グァムの米国領有が講和会議で定められた。フイリピンには英仏露等が野心を持っていたが、一方フィリピン内部にはアギナルド等の民族的独立運動があり、アメリカはこれと提携してスペインを破ったのであった。しかし国際的に孤立しつつあったイギリスはむしろドイツに対抗するためにアメリカのフィリピン併合を支持するに至り、ついにフィリピンはアメリカに帰属することとなった。この後に続いたアギナルドの反乱は1902年鎮定された。」(村上堅太郎「新訂 西洋史概要」秀英出版、1956)
1903年、今度は、独立国パナマとしてコロンビアより分離独立を果たす。
この建国後、有名なパナマ運河の建設が取り沙汰されるようになっていく。同氏は、こう説明される。
「このころからパナマ運河が重要な問題となってくる。このわずか幅37里のパナマ地峡は、当然19世紀中ごろから世界の注目を浴びていたが、かのスエズ運河建設者のレセップスも匙(さじ)を投げるほどの技術的困難のために容易に具体化しなかった。しかし米西戦争後はパナマ運河の建設はアメリカにとって最も緊要な問題となった。マッキンレーはイギリスと協定して開鑿(かいさく)権を得、さらに1903年反乱によってコロンビアから独立したパナマ共和国に交渉して運河地帯の永久使用権を得た。」(村上堅太郎「新訂 西洋史概要」秀英出版、1956)
1906年起工された運河は予想以上の悪条件を克服して、1914年にパナマ運河として完成、通行可能となり1920年に正式に完成した。
(続く)
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333『自然と人間の歴史・世界篇』メキシコの独立
1521年、エルナン・コルテスの率いるスペインの軍隊がアステカ王国を征服したことで、スペインによるメキシコの植民地支配が始まる。
1810年、独立戦争が始まる。
1821年、ゴルドバ条約によりメキシコは独立を達成するにいたる。政治体制としては、アグスチン・イトルビデ将軍が中心となって、帝政が敷かれる。
1824年、帝政から共和制への移行があった。
1862年に、フランスがメキシコを占領する。皇帝には、ナポレオン3世の親戚であるオーストリア大公マクミシリアンが就任する。そのときの軍事侵略の正当化の理由が奮っていた。いわく、「1821年のメキシコ独立以降の年月にたまりたまった未払いの債務が支払われていない」というのであった。
(続く)
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332『自然と人間の歴史・世界篇』ブラジルの独立
かつてのブラジルは、ポルトガルの植民地であった。大西洋岸のオリンダの街は、ポルトガルの植民地時代に築かれた「砂糖の街」でした。サトウキビの栽培がこの地で始まったのは17世紀であった。そればかりではない、アフリカの黒人奴隷がこの地にも連れてこられ、過酷な労働に従事させらていた。
ブラジルの独立には、ポルトガルは最後まで反対していた。しかし、1825年、イギリスの圧力により渋々承認するにいたる。アメリカは同年、ブラジルを承認する。おりしも、アメリカは、ヨーロッパ諸国と米国大陸の相互不干渉を唱える「モンロー宣言」を発表していた。これは、ウィーン会議後に成立した神聖同盟のアメリカ大陸への干渉を危惧して出されたものである。増田義郎氏の論考に、こうある。
「この宣言は南アメリカ諸国の独立維持に有利な条件をつくった反面、米国の膨張主義と関連をもっていたため、のちに汎アメリカ運動の名のもとにラテン・アメリカ諸国の国際関係を制約するひとつの要因となった。」((増田義郎編「ラテン・アメリカ史Ⅱ」山川出版社、2000)
1824年に制定された憲法は、1889年の共和革命まで効力を持ち続ける。その後、イギリスの調停により南部ウルグアイが分離独立していく。この1824年から1830年にかけては、「第一帝政期」と呼ばれる。この時期には、ポルトガル人の勢力がほぼ一掃され、ブラジルジンによる、全国的な視野に立つ同質的なエリートが形成される条件をつくったものと推察される。
1831年から1839年にかけては、「摂政期」と呼ばれる。そり後の1840年から1864年にかけては、「第二帝政期」と言われる。1850年の奴隷交易禁止令の結果、ブラジル国内ではしばらくのあいだ奴隷制問題への関心が薄らいだ。当時の奴隷人口は200万人から400万人と推定される。農園主層は労働力供給に不安を感じていなかった。しかし、奴隷制がブラジル社会に不可欠であるという認識が、1850年代までは一般的であった、とされる。
1864年から1872年にかけては、パラグアイ戦争があったが、1872年ブラジルは、パラグアイと講和条約を結ぶ。
1886年にキューバで奴隷制の全廃がおこなわれた。この影響もあって、翌年にはコーヒー農業の中心地サン・パウロ県の共和党は、奴隷制完全廃止要求決議を採択した。同県のコーヒー農園主たちは、移民を雇用する方が、労賃と生産性の観点から奴隷を使うよりも有利なことを認識するにいたる。
1888年5月13日皇帝の訪欧中に摂政にあたった王女イザベルの手で、奴隷制を即時無補償で廃止する解放令または「黄金法」が発布された。これにより、従来帝政の支持基盤だった農園主層は大損害を受けた。そして、「奴隷を担保にした有史は回収不能になり、また、窮地に陥った農園主を金融面で救済するため無制限に増刷された紙幣は、インフレーションや投機ブームを引き起こした。農業収入の不振を繁栄して、国際収支は88~90年にかけて赤字に転じた」((増田義郎編「ラテン・アメリカ史Ⅱ」山川出版社、2000)と言われる。
1889年には、立憲民主制が克服され、「共和制」宣言が行われる。
(続く)
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331『自然と人間の歴史・世界篇』帝国主義とベルリン会議など(1876~1900)
ベルリン会議(1884年11月15日~1885年2月26日)には、次の帝国主義列強が参加した。
①参加国は、植民地保有国のドイツ、イギリス、フランス、ベルギー、ポルトガル、スペイン、オランダ、イタリア、トルコ。これらに、アメリカ、ロシア、デンマーク、スウェーデン、オーストリア、ハンガリー帝国を加えた14か国であった。
次いで、そこでの決定事項は次のとおりであった。
その1は、「自由貿易地区では輸入品、通貨貨物にいかなる税も課さない」こと。その2は、コンゴ盆地からインド洋に至る地域を「国際貿易の自由地区にする」こと。その3として、「今後アフリカ大陸の沿岸部に新しく領土を得るすべての国は、この協定の調印諸国にその旨を通知し、必要ならそれらの国々に既得の権利と主張の機会を与える」ことが記されていた。
ヴェ・イ・レーニンの著作に、次の引用がある。
「地理学者A・ズーパンは「ヨーロッパ植民地の領土的発展」にかんする著書のなかで、19世紀の発展を次のように要約している(第14表を参照)。
「「したがって、この時期の特徴はアフリカとポリネシアの分割である」とズーパンは結論している。だが、アジアでもアフリカでも、占取されていない土地、すなわちどの国家にも属しない土地はないのだから、ズーパンの結論を拡張して、この時期の特徴は地球の最後的分割である、と言わなければならない。もっともここで最後的というのは、再分割が不可能だというのではなくーそれどころか、再分割は可能であり、不可避であるー、資本主義諸国の植民政策が、地球上の未占取の土地の占拠を完了したという意味である。世界は初めて分割されつくしたのである。だから、今後にきたるべきものは、再分割、すなわち、ある「所有者」から他の所有者への移転だけであって、無主の状態から「所有主」への移転ではない。
(第14表)
「地域・アフリカにおいて、1876年には10.8%、1900年には90.4%、増減はブラス79.6%。地域・ポリネシアにおいて、1876年には56.8%、1900年には98.9%、増減はブラス42.1%。地域・アジアにおいて、1876年には51.5%、1900年には56.6%、増減はブラス5.1%。地域・オーストラリアにおいて、1876年には100.0%、1900年には100.0%、増減はー
地域・アメリカにおいて、1876年には27.5%、1900年には27.2%、増減はマイナス0.3%」
(注)この文章と表「ヨーロッパの植民地列強(合衆国を含む)に属する土地のパーセント」とは、ヴェ・イ・レーニン「資本主義の最高段階としての帝国主義」大月書店、1957の「レーニン全集」第22巻より引用)
「セシル・ローズは、彼の親友でジャーナリストであるステッドの語るところによれば、1895年に、彼の帝国主義的思想についてステッドにつぎのように述べた。
「私はきのうロンドンのイースト・エンド(労働者街)にいき、失業者のある集会をたずねた。そして、そこでいくつかの荒っぽい演説をきき、ー演説と言っても、じつは、パンを、パンを、というたえまない叫びだけだったのだがー、家に帰る途中でその場の光景についてよく考えてみたとき、私は以前にもまして帝国主義の重要さを確信した。(中略)私の心からの理論は社会問題の解決である。
つまり、連合王国の400万の住民を血なまぐさい内乱から救うためには、われわれ植民政策家は、過剰人口の収容、工場や鉱山で生産される商品の新しい販売領域の獲得のために、新しい土地を領有しなければならない。私のつねづね言ってきたことだが、帝国とは胃の腑の問題である。諸君が内乱を欲しないなら、諸君は帝国主義者にならなければならない。」(ヴェ・イ・レーニン「資本主義の最高段階としての帝国主義」大月書店、1957の「レーニン全集」第22巻から引用)
これらを踏まえて、レーニンは帝国主義の歴史的地位の中の4つの種類との関係について、こういう。
「第四に、独占は植民政策から生じた。金融資本は、植民政策の数多くの「古い」動機に、原料資源のための、「資本輸出」のための、「勢力範囲」のための-すなわち有利な取引、利権、独占利潤、その他のためのー、さらに、経済的領土一般のための、闘争をつけくわえた。ヨーロッパの列強が、1876年にまだそうであったように、たとえば、アフリカの10分の1をその植民地として占取していたにすぎないときには、植民政策は、土地をいわば「早いもの勝ちに」占取するという形で、非独占的に発展することができた。
だが、アフリカの10分の9が奪取されてしまい(1900年ころ)、全世界が分割されてしまったときには、不可避的に、植民地の独占的領有の時代、したがってまた、世界の分割と再分割のための大きな闘争のとくに先鋭な時代が、到来したのである。
独占資本主義が資本主義のあらゆる矛盾をどれだけ激化させたかは、周知のところである。ここでは、物価騰貴とカルテルの圧迫とを指摘すれば十分である。矛盾のこの激化こそ、世界金融資本が最終的に勝利してからはじまった歴史的過渡期の、もっとも強力な推進力である。」
(注)この文章は、(ヴェ・イ・レーニン「資本主義の最高段階としての帝国主義」大月書店、1957の「レーニン全集」第22巻より引用)
(続く)
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102『自然と人間の歴史・日本篇』武士の登場
追捕使(ついぶし、ついぶくし)、押領使(おうりょうし)そして検非違使(けびいし、けんびいし)は、日本の律令制下の役職であって、平安時代における武士の台頭と大いに関係があった。
932年(承平2 年)に摂政の藤原忠平が追捕海賊使のことを定めたのに始まる。令外官(りょうげのかん)の一つとして設けられたもので、主として、兵を率いて戦いに赴いたり、治安の維持にあたる。臨時の地方官であり、国司や郡司の子弟で武芸に秀でた者を中心に任じられていた。940年(天慶3年)に平将門の乱が勃発すると、東海・東山・山陽の3道にこの職がおかれた。代表的な追捕使に、「承平天慶の乱」で藤原純友の鎮圧に当たった小野好古(おののよしふる)がいた。世情が定まらぬ中、国司の管内にも設置されて次第に常置の官となっていく。常設されてからは、国司が追捕使を兼任したり、地方の豪族が任命されたりすることが多かった。12世紀末ごろになると、惣追捕使(総追捕使)として、一国の警察・軍事的役割を担う官職があらわれ、追捕使の職務は引き継がれた。さらに、1190年に源頼朝が日本国惣追捕使に任命され、惣追捕使の任免権が鎌倉殿に移り、守護に発展していった。
また、押領使というのは、朝廷の「領」を安んじる意味あいからの命名であろうか。当初は、令外官(りょうげのかん)として、国司・郡司・土豪などから臨時に任命したが、天暦年間(947~957)の頃から常置の官となる。令外官の一つで、警察・軍事的官職なのだが、元は795年、防人の移動に携わる。とはいっても、当初の職務は兵を率いたのみで、実際の戦闘には関わっていなかったという。やがて職務内容が、移動させる兵の戦闘等の指揮官へと変化していく。押領使は、基本的には国司や郡司の中でも武芸に長けた者が任命されていく。そういう成り行きで、地方の暴徒の鎮圧から盗賊の逮捕まで迄幅広くこなすようになっていく。
三善為康編『朝野群載』には、武士の起源の一つとなる、追捕使(ついぶし)、押領使(おうりょうし)について、それぞれにこうある。
「従五位下総守(しもうさのかみ)藤原朝臣有行誠に○れ、誠に恐謹んで言す。
特に天恩を蒙(こうむ)り、先例に因准(いんじゅん)し、押領使を兼ね行ひ、ならびに随兵三十人を給せられんことを請ふの状。右謹みて案内を検ずるに、当国隣国の司等、押領使を帯び、ならびに随兵を給はりて、公事を勤行(ごんぎょう)すること、その例尤も多し。近きは則ち前司従五位下菅原朝臣名明、天慶九年八月六日の符(ふ)に依りて、押領使を兼ね、ならびに随兵三十人を給はる。凡そ板東諸国の不善の輩(ともがら)、所部(しょぶ)に横行し、道路の間、物を取り、人を害す。かくの如き仏○(ぶっそう)日夜絶えず。・・・・・若(も)し凶党の輩有らば、且は以て追捕(ついぶ)し、且以て言上(ごんじょう)せん。有行誠に○れ、誠に恐謹んで言す。天暦四年(950年)二月二十日」(三善為康編『朝野群載』は平安時代後期の成立で、同時代の宣旨・官符・詩文などを含む)
吉田兼好は、鎌倉時代末期(14世紀前半)に世に出した随筆集の中で、「なにがしの押領使」に言及している。
「筑紫に、なにがしの押領使などいふやうなる者のありけるが、土大根(つちおおね)を万にいみじき薬とて、朝ごとに二つづつ焼きて食ひける事、年久しくなりぬ。
ある時、館の内に人もなかりける隙をはかりて、敵襲ひ来たりて、囲み攻めけるに、館の内に兵二人出で来て、命を惜しまず戦ひて、皆追い返してげり。いと不思議に覚えて、「日ひごろここにものし給ふとも見ぬ人々の、かく戦ひし給ふは、いかなる人ぞ。」と問ひければ、「年ごろ頼みて、朝な朝な召しつる土大根らに候う。」と言ひて、失せにけり。
深く信を致しぬれば、かかる徳もありけるにこそ。」(吉田兼好『徒然草』六十八段)
この奇妙な寓話(作り話)をわざわざ披瀝している真意については、わからない。最後の「深く信を致しぬれば、かかる徳もありけるにこそ」からは、その人物は、大根も加勢にする程の長年にわたり武力を誇示していたのだろうか。
さらに検非違使であるが、こちらは「非違(非法・違法))を検察する天皇の使者」の意で設けられている検非違使庁の令外官の役職である。京都の治安維持と民政を所管する要職であったが、平安時代後期には令制国にも置かれるようになっていく。
「院人・家人の闘乱」につき、『小右記』(平安時代の公卿藤原実資の日記であり、「小右」というのは、小野宮右大臣(実資本人)のものという意味)にはこうある。
「長徳三年四月条
十六日己酉、右衛門督示し送りて云く。宰相中将と同車し左府より退出するの間、華山院の近衛面数十人、兵仗を具して出で来たり、乍ちに□を持たしむる牛童を捕え篭む。また雑人ら走り来たりて飛礫す。その間の濫行云うべからず、者り。驚奇極りなし。
十七日庚戌、(中略)或者云く。検非違使ら、勅によりて華山院を囲み、去夕濫行の下手人を申すと云々。この間慥かな説を得がたし。院の奉為に太だ面目なし。積悪の致し奉るなりと云々。或いは云く。下手人らもし遂に出さしめ給わずば、院内を捜検すべきの由綸旨あり。この事左衛門尉則光(検非違使。また彼の院の御乳母子なり)。彼の院に通ずと云々。嗷々の説記すべからず。」
(続く)
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391『自然と人間の歴史・世界篇』ファシズムへの道(ドイツ、1919~1931)
はじめに、ファシズムの語源は大層古い。もともとは、古代ローマに先立つエトルリア時代の「ファスケス」を発祥とし、斧の周りに木の棒を束ねたものを指していた。
しかして、古代ローマの共和制政治下では、護衛官はこれを担いで独裁官や執政官といった権力者の後ろを歩く習慣があったのだと。これからすると、まさに「威を借る」の類であり、「俺はこれだけの権力を手にしているのだ」ということを人民大衆に知らしめていたのであろうか。
1919年1月には、ドイツ労働者党が結成される。アドルフ・ヒトラーは、同年9月に、この小政党の内情を探るよう軍から派遣されて入党する。
1921年2月には、ヒトラーがこの政党の党首となり、1920年2月に党名変更していた国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス党)の舵取りを引き継ぐのであった。
同年、ワシントン軍縮会議が開かれる。1922年4月、イタリアのラッパロでドイツ共和国とロシア・ソヴィエト連邦社会主義共和国(ソヴィエト・ロシア)との条約、通称「ラッパロ条約」が結ばれた。この条約は、革命後のソヴィエト政権を外国が承認した最初の条約であり、またドイツも国際的孤立から脱出する狙いを込めた。
1922年10月24日、ナポリでムッソリーニの率いるファシスト党大会が開催され、4万人のファシストたちが ローマへの進軍を行い。かれらの狙いは、国王により強力な政府を樹立することであった。
1923年1月、フランスとベルギーが語らって、ドイツ領ルール地方へ進駐する。ドイツによる、ヴェルサイユ条約による賠償金の支払いが滞っていることをもって、占領を正当化しようと目論んだもの。
ドイツでは、経済混乱があった。1923年11月15日を期して、ドイツのレンテン銀行が不換紙幣を発行した。第一次世界大戦中から始ったドイツのインフレーションの最中であった。当時は、金準備が不足していた。そこで、土地を担保とした不換紙幣としてレンテン銀行から発行し、従来の1兆マルクを1レンテンマルクと引き換えた。これによってインフレが鎮静に向かうと、1924年からは金準備に基づくライヒスマルクに切り替えられた(詳しくは、例えば、塚本健「ナチス経済」東京大学出版会)。
ドイツでは、1923年11月、ヒトラーが、ミュンヘン一揆をおこす。かれらは、賠償金そのものの支払いに反対する。
1924年、ロンドン会議でドイツの賠償金軽減を内容とするドーズ案が承認される。
1925年には、陸軍元帥であるヒンデンブルクが右翼政党の帝国大統領統一候補になり、次いで大統領(~1934)に就任する。この時の彼は、一応、憲法への忠誠を誓った。1925年12月、ロカルノ条約が締結される。これで、西部国境の不変更と中欧の安全保障体制を目指す。
1926年9月、ドイツが国際連盟に加入する。1927年には、失業保険法がつくられる。
1928年6月、ミュラー(社会民主党)の主導下による大連合内閣が成立する。久しく野党であった社会民主党から人民党までの幅広の政権が生まれたことで、24年からの相対的安定期が続くかに思われていた。同じ1928年、パリ不戦条約が締結される。1929年6月、ヤング案の調印が行われ、先のドーズ案が修正され、ドイツの賠償支払いが新たに規定された。7月には、ヤング案に対する反対闘争にナチスが合流する。
1929年10月には、世界大恐慌が起こる。この時は、へルマン・ミュラー保革連合内閣の時代だった。
そのヨーロッパのドイツでも、生産の急落と大量失業が現実化していく。ドイツの支払う賠償金の重要な出元がアメリカからの借款(しゃっかん)であったことから、これにより経済復興に精を出し、イギリスとフランスに賠償金を支払い、それを元手にこれら2国がアメリカに借金を支払うとのサイクルがやせ細っていく。
ドイツでは、1930年3月、そのへルマン・ミュラー大連合内閣が崩壊する。同年9月の.総選挙で国家社会主義ドイツ労働者党(NSDAP、ナチス党、)が帝国議会選挙で躍進し、第2党となる。当時は、ブューニング内閣の時代。
また、この年には、ドイツの賠償支払いにつき、ヤング案が発効となる。1930年になると、ロンドン軍縮会議が開催される。1931年10月、ナチスを含めた右翼が国民戦線を結成する。
(続く)
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157『自然と人間の歴史・世界篇』モンゴル系4国の盛衰
モンゴルの国家は、初代のチンギス・ハン((?~1227)の死後、様々な変貌を遂げていく。その中心となるのが中国を支配する、クビライ・ハーンを宗主(そうしゅ)とするモンゴル帝国・元(げん、中国読みでユアン、1206~1368)であったが、それ以外にも、大まかに四つのモンゴル系国家を形成していく。その一つは、イル・ハン(イル・ハーン)国(ウルスともいう、以下同じ)で、1258年にアッバース朝の首都ダマスクスを破壊してからは、当地の現状に馴染んでいく道をたどり、やがてティグリス、ユーフラテスの二つの川流域とイランの山岳地帯を支配するにいたる。都はタブリーズ(イラン西部)と定める。二つは、モンゴルのチャガタイ家がたてたチャガタイハン(チャガタイハーン)国(1227~1370)で、シリダリアとアムダリアの川流域を支配する。三つは、オルダ・ハン(オルダ・ハーン)国で、イルティシ川流域を版図とする。四つめは、キプチャク(ジョチ)・ハン(キプチャク(ジョチ)・ハーン)国(1226~1502)で、ヴォルガ川周辺を統治するにいたる。
これらのうちイル・ハン国(1255または1260~1335)は、西アジアに進出したフラグ(在位は1255~65)が建国する。本国宗家(そうけ)のモンケ・ハンが急死し、1260年にフビライとアルクブケがともにハン位についたことで、カラコルム帰還をあきらめて西アジアにウルス(国家)を建設することを決意したものといわれる。ここに「イル・ハン」の「イル」とは、トルコ語で国のこと、これに「ハン」(「大ハン(ハーン)の代理人」)をくっつけている。チンギス・ハン以来のモンゴルの正式な血統を標榜することで、この名を権威の象徴としていた訳である。
その統治の形としては、なかなかの知恵者であったろう。他の三つのアラブ以西に進出した国家と同様に、ここでもモンゴル人たちは自分たちの宗教を持ち込まなかった。それどころか、他の三家とともどもイスラム(イスラーム)教に改宗し、イスラム世界での主要なムスリム勢力として、いわば社会の上部構造を占めるにいたる。こうして「モンゴル人第一主義」を掲げながらも、統治の基本としては現地の慣例なりを重視するとともに、現地の人間力を使っていくというやり方を編み出していく。
フラグが死ぬと、その子アバガが第2代ハンとなる。1270年にチャガタイ・ハン国のバラクがホラーサーン地方に侵攻したのを撃退する。つまり、この代になると、モンゴル人同士が戦うことも出て来る訳だ。アバカは、イランを中心に、イラク、シリアを支配しても飽きたらず、エジプトを本拠とするマムルーク朝(1250~1517)と対立する。1278年には小アジア(現在のトルコの一部)のルーム・セルジューク朝を属国とした。北方のキプチャク・ハン国とも、アゼルバイジャンやコーカサス地方の領有をめぐって対立したのが伝わる。さらに東に向かっては、デリー・スルタン朝があったが、特段の動きはなかった。
その後は、だんだんにイスラーム化していき、その過程で国力もだんだんに化向いていく。1335年、第9代のアブー・サイードが宮廷内で皇后に殺害されるという事件が起きる。ここでフラグの血統が絶え、イル・ハン国はなくなったと見るのが一般的だ。それからは、王朝を支えていた諸侯はそれぞれ継承権を主張して争い、留まることがなかった。1353年にはトルコ・モンゴル系やイラン系の地方政権が各地に割拠抗争するようになって、国家としての一体性が失われていく。15世紀にはティムール朝(ティムール帝国. 1370~1405、中央アジアから西アジアを支配したイスラーム教国家でティムールが一代で築いたものの、彼の死後ほどなく崩壊)に吸収される。
(続く)
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150『自然と人間の歴史・世界篇』7~13世紀のアラブ世界(アッバース朝)
アッバース朝(750~1258)は、イスラム教の開祖ムハンマドの叔父アッバース・イブン・アブドゥルムッタリブの子孫を世襲のカリフとする、アラブ国家である。その支配は、西はイベリア半島から東は中央アジアまで、北アフリカの一部も支配に入れていく。ウマイヤ朝に続く、このアッバース朝の血統だが、ウマイヤ家に対抗したイスラームの有力一族だといえる。ムハンマドと同じハーシム家の一族に属し、ムハンマドの叔父のアル・アッバースの血統だといわれる。ウマイヤ家に対する反発が強くなる中、ムハンマドの血統につながる家系としてアッバース家が台頭して来るのである。
ともあれ、イスラーム世界を統治するカリフの地位をアッバース家が奪い、今度は自分の家の中で世襲していくのである。ウマイヤ朝の血統は根絶されたらしい。新王朝の都は、第2代マンスールからバグダッドに定める。顧みれば、ウマイヤ朝のは「アラブ至上主義」であった。それが、アラブ人以外のイスラーム教徒の反発を強め、また彼らの中に反体制派のシーア派が生まれ、不満が高まった。そのことを梃子として、アッバース家のクーデターが成功した、その意味を込めて、この変革を「アッバース革命」ということもある。
アッバース朝からは、内政にも工夫が見られる。アラブ人だけに依存しない国造りを目指していく。官僚制度や法律を整備し、また税制を改革してゆく。アラブと非アラブの平等化を図り、多民族共同体国家としてのイスラーム帝国の維持に努める。こうして、イラン人など非アラブ人の官僚が進出し、「アラブ帝国」ではない、真の「イスラーム帝国」の段階に入っていく。
アッバース朝の最盛期においては、中央アジアでは中国の唐帝国と接することとなり、751年にはタラス河畔の戦いでその軍隊を破った。しかし、その一方でウマイヤ朝の残存勢力が遠く西方のイベリア半島に自立し、756年にその地で「後ウマイヤ朝」を建国する。8世紀後半から9世紀にかけて、アッバース朝のカリフは「ムハンマドの後継者」よりも「神の代理人」と考えられるようになり、ハールーン=アッラシードのころ全盛期を迎えた。しかし、9世紀以降のイスラーム世界は分裂の傾向を強くしていく。バグダッドでの実権は諸侯へと流れ、カリフ支配は形骸化していく。イベリア半島の後ウマイヤ朝に続き、エジプトのファーティマ朝が10世紀初めにカリフを称するに及んで、3人のカリフがならび立つことになる。
946年には、首都バクダッドにおいて、イラン系の軍事政権であるブワイフ朝(932~1062)が成立する。そのことで、アッバース朝のカリフの地位さえもが名目的な存在となってしまう。1055年には、セルジューク族がバグダッドに入城してカリフを救出する。それからは、セルジューク朝のスルタンがカリフから政治権力を貰い受ける形となり、カリフは宗教的権威に限定されることになっていく。
11世紀末の十字軍時代には、アッバース朝のカリフはバクダードの周辺を治めるだけになっていた。セルジューク朝とファーティマ朝が対立していた。それらのため、イスラム勢力は、一致して十字軍と戦うことができなかった。キリスト教勢力がパレスティナにエルサレム王国を建てることを許すにいたる。イスラーム勢力の反撃を実現したサラーフ・アッディーン(サラディン)が、アイユーブ朝を建てたものの、その彼の死後は、カリフを保護する力はなくなる。13世紀に入ると、西の方からモンゴルの勢力が攻めてくる。1220~31年、モンゴル軍による最初の大規模攻撃が行われる。帝国内のいくつもの都市が破壊されていく。
1256年、モンゴル系のイル・ハン朝が、現在のイランとイラクの地を支配するにいたる、そして迎えた1258年、モンゴル軍は首都バグダッドを攻撃する。40日間の攻防の後、首都は陥落し、破壊された。アッバース朝カリフのムスターシムは投降したものの、「皮の袋に封じ込まれ、バクダッドの大通りを疾駆する馬に引かれて、袋の中で息絶えた。」(牟田口義郎『物語中東の歴史』中公新書)とも、「一般にもっとも信じられているのは、カリフはカーペットに巻かれ、足蹴にされ踏みにじられて殺されたという説である」(D.ゴードン著、杉山正明・大島淳子訳『モンゴル帝国の歴史』1986)ともいわれる。
(続く)
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149『自然と人間の歴史・世界篇』7~13世紀のアラブ世界(ウマイア朝)
アラブ世界の正統カリフ時代(632~661)に続くのが、イスラム勢力のウマイア朝(661~750)である。これに至る前段の630年代には、彼らはチグリス・ユーフラテス河畔一体を支配する。642年になると、ササン朝ペルシアを、イラン高原からカスピ海南方に追いつめ、撃滅する。一方、東ローマ(ビザンツ)帝国に対しても、攻撃を行う。エルサレムからシリア方面、またエジプトのナイル川下流を攻撃して手に入れる。
4代にわたる「正統カリフの時代(632~661)」を過ごして、その領域は、東はインドと接し、西はアフリカ北岸をカルタゴにまで到達するという、驚くべき勢いであった。
その数年前の656年から661年にかけて第一次の内乱をくぐり抜けるのだが、この間アリーなる人物がイスラム教団の正統カリフ時代第4代のカリフの座にあった。ムハンマドと同じくメッカのハーシム家の出で、ムハンマドの娘ファーティマの夫となっており、内乱の初年にカリフ・ウスマーンが暗殺された後、ムハンマドに最も近いということでカリフに選出される。
そもそも、この王朝の初期のカリフたちは、まだ専制君主というにはふさわしくなく、族長の集合、その共同体の代表者としての色あいも兼ね備えていた。最初の礼拝の方向であったのは、エルサレムであり、ムハンマドの教えを忠実に継承していくのを心得ていた。曰く、「前ムスリムは兄弟であり、互いに争ってはならぬ」と。アラブ世界は、この頃から、この地域で覇を唱えるには、ムハンマドの創始したイスラム教抜きには考えられなくなっていく。
そんな訳で、正統カリフ時代のカリフは信者の互選で選出されていた。それが、657年には、シリア統治の任に当たってのし上がってきたムアーウィヤが、4代目アリーをカリフから退位させて、エリサレムに陣取って自らカリフを名乗るにいたる。661年には第4代カリフのアリーが、ハワーリジュ派の過激派に殺害されてしまう。
この一連の出来事により、カリフの地位はこの一派に移って、都はマディーナからシリアのダマスクスに移され、ウマイア(ウマイヤ朝)が成立する。この新王朝の下で、カリフの地位は世襲とされ、初代のムアーウィヤ1世以後、ウマイア家が代々世襲していく。しだいにカリフの地位を巡って、ウマイア家のカリフを認めるスンニ(スンナ)派と、第4代カリフの子孫のみをカリフと見なすシーア派の対立が激しくなっていく。
680~692年にかけて、ウマイア朝に第二次の内乱が起こる。きっかけは、ムアーウィヤが死去しカリフの地位をその子ヤズィードが跡を継ぐ。すると、アリーの次子で後継者のフサインが、クーファなどのシーア派の支援をとりつけ、ウマイア朝に反旗を翻す。しかし、カルバラーの戦いの戦いでウマイア朝軍に敗れイラクへ落ち延びる途中で、フサインは従者と共に殺害された。これは「カルバラーの殉教(悲劇)」と呼ぶ。ムハンマドの血統をひくアリーとその子フサインの死によってシーア派は少数派(「シーア・アリー(アリー党)」と名乗る)としてイラクなどに追いやられる。
フサインの死後、ウマイア朝のカリフが相次いで若死にしたためにその支配はしばらく不安定な状態が続く。683年からメッカを拠点としたイブン・アッズバイルがカリフを称し、ウマイア朝に反旗を翻す。これを正統カリフ時代末期の第一次内乱(656~661)に次いで、第2次内乱(683~692年)ともいう。しかし、ダマスクスのウマイア朝で第5代カリフとなったアブド・アルマリクがメッカに討伐軍を派遣し、さしもの内乱も終束に向かう、そして各地のアラブ族長に対し服従を求めることでウマイア朝の力が行き渡っていく。その流れで、専制君主制が確率していくのであった。その時期からのウマイア朝は外征を展開し、大帝国を作り上げていった。その結果、西は中央アジアからイラン、インダス流域に至る領土拡張を実現するにいたる。
その後も、ウマイア朝の領土拡大の意欲は失われなかった。まず北方では中央アジアのソグディアナに進出、さらにイスラムの勢力は西方征服を進め、アフリカ北岸のビザンツ勢力を駆逐してチュニジアなどを獲得し、ついにはジブラルタルを越えてイベリア半島に侵入した。また、東はインダス川流域に進出してインドのイスラム化の端緒となる。さらに、彼らは東ローマ帝国(東ヨーロッパ)やフランク王国(西ヨーロッパ)、ローマ教皇などのキリスト教世界にも矛先を向ける。732年にはピレネーを越えてフランク王国内に侵入したが、トゥール・ポワティエ間の戦いではカール・マルテル(後のカール大帝)の率いるフランク軍に敗れた。また東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルを覗うが、激戦の中での東ローマ軍の抵抗により、失敗に終わる。
ウマイア朝時代の経済については、なかなかの興隆となっていく。貨幣経済が発展したということは、それを必要とする交換経済が成立していたことを物語る。アター制によって国家機構が整備されていく。その下では、アラブ人のみならず、多くの異民族、異教徒を含むこととなり、アラブ人とそれ以外のイスラム教徒(イラン人、トルコ人など)との関係が問題となり始める時期でもあった。そのような中でウマイア朝では征服活動の先兵となったアラブ人戦士が貴族として支配階級を構成した、これを「アラブ至上主義」の先駆けと見なす向きがある。また、アラビア語を公用語として定められたことで、この時代を「アラブ帝国」の最初と見る向きもある。
このように一世を風靡したウマイア朝であったが、8世紀からは非アラブのイスラム教徒であるマワーリーやシーア派の反発が強まり、それらを背景に台頭したアッバース家によって、ウマイア朝は750年に滅ぼされ、アッバース朝が成立する。
(続く)
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670『自然と人間の歴史・世界篇』ソ連と東欧の社会主義改革(ソ連の産軍複合体~1987)
ソ連のブレジネフが共産党書記長であった1960年代半ばから1970年代にかけては、何分、信頼するに足る経済データが不足している。その理由については、いろんな観点から取り上げられてきたのであるが、その一つ、『ドブルイニン回顧録』に、こんな述懐が載せられている。
「ソ連の軍産複合体の影響力が強まり、次第にデタントを毀す主な障害となった。ソ連の議会や世論が軍事政策と国防計画をコントロールできない主な理由は、西側では想像できないことだが、安全保障面での全ての活動がトップシークレットだったからだ。
政治局の多くのメンバーたちも知らされなかった。国防省と国防産業省は、司令官であり国防委員会議長である党書記長だけに説明する責任があるのだ。ブレジネフは軍産複合体と長い間密接な関係にあった。(中略)党と政府においてブレジネフの忠実な支持者だった軍幹部と軍事産業のボスたちは自分たちの計画を持って彼に自由に近づくことができた。しかし、彼らは外交に関する知識は乏しく責任もなかった。そうした軍事計画は世論や党書記長直属の部局以外のシビリアン・コントロールによるいかなる真剣な吟味もなされなかった。最高会議、政府や、最高決定機関である政治局でも、時々知らされるだけで、協議の対象とならなかった。」(アナトーリー・F・ドブルイニン「ドブルイニン回顧録」)(中澤孝之「当時の非公式な「秘密のチャンネル」(上)、デタントもたせした一因、ドブルイニン回顧録を読む」メディア展望2017年7月1日にて、著者の中澤孝之氏が英文回想録(In Confidence)から訳出されたものを引用)
これによると、ブレジネフ一流のデタント、「平和的共存政策」についても、その内実としては、一様でなかったことが読み取れるのである。何よりも、最高権力者のブレジネフの回りを軍産複合体の面々で固めているのであるから、軍事にかかわる問題については彼らの同意なしに事がなしえないことになっていたのが窺える。
(続く)
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64『自然と人間の歴史・日本篇』律令制の成立(689~701)
689年(持統天皇3年、同天皇は天武天皇の皇后であった)、天武天皇の時から準備されていた「飛鳥浄御原令」(あすかきよみがはられい)が正式に制定・発布される。ここに飛鳥浄御原宮とあるのは、645年の難波(長柄豊崎)宮から667年の近江大津宮、それから672年の遷都で同宮となっていた。これを受けての690年(持統天皇4年)、最初の全国戸籍となる庚寅年籍(こういんねんじゃく)が作成される。これで当時の全国の人民を掌握し、かれらを日常普段に統治するための行政組織が定められる。
さらに694年(持統天皇4年)には、飛鳥(あすか)の北方、東、そして西を三つの山(いわゆる「大和三山」)に囲まれた盆地に、「藤原京」(ふじわらきょう)(現在の奈良県橿原(かしはら)市)が造られ、遷都がなされる。新都は、それより前の690年から4年をかけて着工されていた。この国での最初の本格的な都城であった。遷都から10年後の704年に完成している。この藤原京は、中央に宮殿を持っていた。都の地理的構造は、中国の都城にならって条坊制と呼ばれる。これは、碁盤の目状に整然と街路が設けられ、これが街割りとなっている。いわゆる「唐風」である。夜、上空からの写真はもちろんある由もないが、現代の画家・平山郁夫の大作「高○(ひか)る藤原京」(縦166.2センチメートル、横363.0センチメートル)に古代の光り輝く区割りが再現されているのが、何故か懐かしく感じられる。
それでは、飛鳥時代の身分制はどうなっていたのであろうか。これを覗うものとして、令制に於ける良賎制と、戸籍制度(こだいにほんのこせきせいど)があった。良賎制というのは、民を領民ととに分けた。良民(良人)として、公民、雑色人があった。後者は、品部と雑戸に分かたれていた。また五色の賎としては、、、(官)、家人及びの区別があった。かかる良賎制に基づいて、朝廷が律令による人民把握のためのに戸籍が撰定・編纂された。戸籍の主なものに天武天皇の時の庚午年籍(こうごのねんじゃく)や、持統天皇の時の庚寅年籍(こういんのねんじゃく)があげられる。いずれも、現存していないし、詳細な内容も伝わっていない。
『日本書紀』巻第三十、「高天原広野姫(たかあまのはらひろのひめの)」にある、691年(持統天皇5年)の項の「三月壬申朔甲戌」以下の末尾に、領民との区別と人身売買に関する詔が紹介されている。
「五年春正月癸酉朔、賜親王・諸臣・?新王・女王・?命婦等位。己卯、賜公卿飲食衣裳、優賜正廣肆百濟王餘禪廣・直大肆遠寶・良虞與南典、各有差。乙酉、増封、皇子高市二千戸通前三千戸、淨廣貳皇子穗積五百戸、淨大參皇子川嶋百戸通前五百戸、正廣參右大臣丹比嶋眞人三百戸通前五百戸、正廣肆百濟王禪廣百戸通前二百戸、直大壹布勢御主人朝臣與大伴御行宿禰八十戸通前三百戸、其餘増封各有差。
丙戌、詔曰「直廣肆筑紫史益、拜筑紫大宰府典以來於今廿九年矣。以淸白忠誠、不敢怠惰。是故、賜食封五十戸・?十五匹・綿廿五屯・布五十端・稻五千束。」戊子、天皇幸吉野宮。乙未、天皇至自吉野宮。
二月壬寅朔、天皇詔公卿等曰「卿等於天皇世作佛殿經藏・行月六齋、天皇時々遺大舍人問訊。朕世亦如之、故當勤心奉佛法也。」是日、授宮人位記。三月壬申朔甲戌、宴公卿於西廳。丙子、天皇觀公私馬於御苑。癸巳、詔曰「若有百姓弟爲兄見賣者、從良。若子爲父母見賣者、從賤。若准貸倍沒賤者、從良。其子雖配所生、亦皆從良。」
この部分の書き下し文は、つぎの通りである。
「持統五年・・・・・三月壬申(みずのえさる)朔・・・・・癸巳(みずのとみ。22日)若し百姓の弟、兄の為めに売らるる者有らば良(おおみたから)に従え。若し子、父母の為めに売らるる者は賎(やつこ)に従え。若し貸倍(かりもののこ)に准(いれ)られて、賎に没(い)れらば、良に従え。其の子に配(たぐ)えりと雖も、生める所は亦皆良に従え。」
もし百姓が兄のために売られている場合は、解放して良民、つまり公民として扱う。父母によって売られている場合はそのまま賤、つまり奴隷に据え置きとする。さらに借金を返済できないことで賤、つまり奴隷になった者は解放して良民、つまり公民として扱う。賤、つまり奴隷の子供はすべて良民、つまり公民として扱うべきことになっている。
持統天皇の跡を継いだのが文武天皇で、その治世の701年(大宝元年)、日本に中国の唐に習った本格的な政治を敷くべく、『大宝律令』が定められた。647年(大化3年)の正月の「改新の詔」において律令を定めることになっていたのを踏まえた措置であった。この律令は、新たに刑罰法令を加え、古代日本の律と令の根幹を網羅した初めての基本法だと言える。この法体系の中で、すべての土地は耕地として、国家の所有の建前であり、人民はその国家に従属する立場にあることとされた。「班田収授法」が制定された。この制度は、旧くは中国の魏の曹操(そうそう、中国読みはツァオツァオ)が考案したとされ、後の王朝である隋、唐により「均田制」として導入されたものである。それが、倭に伝わって、「これは良い」となり、この国に採り入れられた。
その骨子としては、国家が認める人民には口分田として「班田」が「収受」される。一人一人に分け与えられた土地はその本人一代限りのものであり、世襲されるものではない。その土地毎に全国の戸籍、人民の土地利用などが定まる。これには、賦役や軍事に至る一連の人民の義務あれこれが組み入れられている。それらは、645年(大化元年)の大化改新の後直ぐには間に合わず、その本格的成立は701年の大宝律令を待たねばならなかった。その後の『令義解』は、同律令の解説書として編さんされた。その戸令、田令、賦役令及び軍防令について言うと、我が国の古代律令政治の基本が、こう伝えられる。
「(戸令)
凡そ戸は五十戸を以て里と為せ。里毎に長一人を置け。
凡そ計帳を造らむことは、年毎に・・・・・
凡そ戸籍は六年に一たび造れ。
凡そ戸籍は恒に五比を留めよ。其遠き者は次に依りて除け。(近江の大津宮の庚午の年の籍は除かざれ)
(田令)
凡そ田は長さ卅歩、広さ十二歩を段と為よ。十段を町と為よ。段の租稲二束二把、町の租稲廿二束。
凡そ口分田を給はむこと、男に二段。女は三分の一を減ぜよ。五年以下には給はざれ。
凡そ田は六年に一たび班へ。神田・寺田は此の限りに在らず。・・・・・
凡そ諸国の公田は、皆国司郷土の估価に随ひて賃租せよ。
(賦役令)
凡そ調の絹・あしぎぬ・糸・綿・布は,並びに郷土の出す所に随え。
凡そ正丁の歳役は十日。若し庸を取るべくんば、布二丈六尺。・・・・・
凡そ令条の外の雑徭は、人毎に均しく使へ。総て六十日を過ぐることを得ざれ。
軍防令
凡そ兵士の上番せむは、京に向はむは一年、防に向はむは三年、行程を計へず。
凡そ兵士の京に向ふをば、衛士と名づく。
・・・・・辺守るをば、防人と名づく。」
ここ大要が述べられている新法制の骨子としては、公地公民制をとって、貴族や豪族の私有していた「田荘」と呼ばれていた土地、そして「部曲」(かきべ)と呼ばれていた人民を朝廷の直接支配下に置くものであった。このため、地方を国、郡、里に分割するとともに、これまでの地方豪族の中から「郡司」や「里長」という下級官僚に任命する、あわせてそれぞれの国には中央から国司を派遣して治めさせることにした。更には、戸籍と計帳を作成するとともに、6歳以上の男子に田2段(2反、約24アール)、同女子にはその三分の二の1段120歩(約16アール)の土地を、「口分田」(くぶんでん)として一代に限り貸し、耕作させる。
この新法制では、統一税制が採用される。具体的には、人民には租、庸、調、雑徭などの義務を課す。「租」は口分田1段からの収穫を百束と見積もり、このうち稲2束2把、収穫高の約3%を朝廷に上納させることに定めた。「庸」は、成人男子一人につき麻布2丈5尺を納入させること(本来は都で年に10日間の労役に服させる)にある。さらに「調」は人頭税であり、絹、糸、綿、麻布の中から一つを選んで朝廷に物納させる。
さらに労働税があった。その中の「雑徭」として、国司の下で年間15~60日間の労役に就くことが求められる。『養老の賦役令』によると、公民は一年に一回都に出て、食料を自前で労力を提供、つまり無償労働する義務を負っていた。瀧川政次郎氏は、これを次のように説明している。
「この一年十日の徭役を正役と云い、正役畢つて尚徴せられる徭役を留役と云った。正役は蓋し正則の徭役の意であり、留役は正役畢つて放環すべき徭丁を尚留めて役する徭役の意味である。この正役を負担したものは、庸を徴せられることなく、この正役を免れたものは、庸を徴せられるのである。ゆえに庸として化せられる物品は、実に当時の十日間の法定賃金の額より成っている。即ち当時の国家は、宮殿の造営、新都の経営等の国家に労力を必要とすることの有る年には、人民より正役を徴し、正役を以て足らざるときには、更に人民をして留役せしめ、国家に労力を要せざる年には庸を徴したのである。而して奈良時代以後に於いては、徭役を徴する場合に於いても、自ら労働を提供することを欲しない人民からは、徭分銭又は徭分稲なるものを徴し、これを資源として人民を雇ひ、これを
して所要の労務につかしめた。」(瀧川政次郎「日本奴隷経済史」刀江書院、1972再発行)
公民の男子には、「兵役」もあった。成人男子三人に一人の割合で徴兵される。その場合、軍団「兵士」として10番交代で10日間を勤務しなければならない。その他にも、「仕丁」といって都を守る中央官庁の「衛士」として労役が1年間課せられたり、九州防備の「防人」として3年間任地に赴く義務も課せられる。
(続く)
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399『自然と人間の歴史・世界篇』反ファシズム統一戦線へ
まずは、反ファシズムの国際的な流れから、紹介しよう。
「ファシズムは凶暴ではあるが、不安定な権力である」(共産主義インタナショナル第七回大会における報告 1935年8月2日)に、こうある。
「ブルジョアジーのファシスト独裁は、凶暴ではあるが、不安定な権力である。
ファシスト独裁が不安定である主たる原因はどこにあるか?
ブルジョアジーの陣営のなかの意見の食いちがいと矛盾を克服しようとしたファシズムは、かえってその矛盾を激化させている。ファシズムは、他の政党を暴力的に破壊して、自己の政治的独占をうちたてようと努力する。しかし、現に資本主義体制があり、諸階級が存在し、階級的矛盾が激化する結果として、ファシズムの政治的独占は必然的に動揺をきたし、瓦壊することとなる。そこはソヴェトの国とはちがっている。ソヴェトの国では、プロレタリアートの独裁がやはり独占的な党によって実現されているが、しかしその政治的独占は、幾百万勤労者の利益にこたえており、時とともにますます階級のない社会の建設をよりどころとしている。ファシズムの国では、ファシストの党は長くその独占を維持することができない。なぜなら、ファシストの党は階級と階級的矛盾の絶滅を自己の任務とすることができないからである。ファシストの党は、ブルジョア諸党の合法的存在をなくしてしまうが、しかしそのうちのいくつかは非合法の存在をたもちつづける。また、共産党は非合法状態のもとでも前進し、鍛練され、ファシスト独裁にたいするプロレタリアートの闘争を指導する。こうして、ファシズムの政治的独占は、階級的矛盾の打撃をうけて瓦壊せざるをえない。
ファシスト独裁の不安定性のもうひとつの原因は、ファシズムの資本主義反対のデマゴギーときわめて略奪的な方法で独占ブルジョアジーを富ませる政策とのきわだった対照が、ファシズムの階級的本質を暴露することを容易にし、ファシズムの大衆的基盤を動揺させ狭隘にするという点にある。
さらに、ファシズムの勝利は、大衆のふかい憎悪と憤激をよびおこし、大衆の革命化をうながし、プロレタリアートの反ファシズム統一戦線につよい刺激をあたえる。
経済的民族主義(アウタルキー)の政策をおこない、国民所得の大きな部分を戦争準備のために奪いさることによって、ファシズムは国の全経済の基礎をぐらつかせ、資本主義諸国家間の経済戦争を激化させる。ファシズムは、ブルジョアジーの内部に発生する紛争に、激烈な、しばしば流血の衝突という性格を付与し、そのことが人民をしてファシスト国家権力の強固さに疑いをいだかせることになる。昨年六月三十日〔17〕ドイツで起こったように、自分らの味方を殺す権力、ファシスト的ブルジョアジーの他の一部が銃を手にして立ちむかうようなファシスト権力(オーストリアのナチ暴動〔18〕、ポーランド、ブルガリア、フィンランド、その他の諸国のファシスト政府にたいする個々のファシスト・グループのはげしい反対行動)――そうした権力は、広範な小ブルジョア大衆の目に長く威信をたもつことはできない。」
(続く)
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