◻️74『岡山の今昔』備前往来(岡山道)

2019-12-19 20:14:51 | Weblog

74『岡山の今昔』備前往来(岡山道)

 美作との往来の二つ目は、備前から美作へと旭川沿いを北上したり、その逆に南下したりする道である。江戸期までは、これを「岡山道」又は「津山道」と呼んでいた。『津山市史、第三巻、近世1(ローマ数字)森藩時代』には、「『岡山道』は、鉄砲町南土手(当時は小田中村新田の内)字広瀬で川を渡り、北村(今の津山口)から、一方・佐良(皿)・高尾・福田の諸村を経て弓削(ゆげ、久米南町)・福渡(当時久米郡、今御津郡建部町)の両駅を過ぎ、旭川を渡って備前に入り、金川(かながわ)の駅を経て岡山城下に達する」とある。現在の岡山県の南の方は温暖な気候である。ところが、北の方に行くに従い、多くは山が迫ってくる地形となっている。夏は涼しさ、冬には寒さが増していく。
 5世紀後半から7世紀半ばにかけては、備前の肥沃な平野を中心として、吉備氏が君臨していた。その領地は備中、美作、備後にも及んでいて、大和の勢力に対抗していた。その備前から美作へと向かう道の主流は、おおむね現在の津山線に置き換えたルートをたどっていったのではないか。
 この岡山から津山まで鉄道が通ったのは1898年(明治31年)12月21日の中国鉄道が最初であり、その時は一日四往復、52銭の汽車賃であった。このうち便数は翌年3月、一日七往復に増便された。ついでにいうと、1930年(昭和5年)には、作備線の津山~新見間が全面開通となる。続いて1932年(昭和7年)には、因美線の津山~鳥取間が開通する。さらに、1936年(昭和11年)には、姫津線の津山~姫路間が開業に漕ぎ着ける。

 さて、ここでは、岡山駅からJR西日本(1985年(昭和60年)までは国鉄))の鉄道に乗って北へと向かうとしよう。法界院(ほうかいいん)、玉柏(たまがし)、牧山(まきやま)から野々口(ののくち)を経て金山(かなやま、当時は御津郡御津町、現在は岡山市)へと至る。

 この辺りまでの津山線は、旭川と寄り添うように走る。今では2両建てのディーゼル列車であるが、両側のた時には急峻な山々を仰ぎ見つつ北上していく。その途中の景観は、私に歌心あれば必ず詠んでみたい、それはそれは美しい景観を見せている。金川を過ぎると直ぐ、旭川と別れて、その支流の字甘川(うかいがわ)と暫し寄り添うようにして北上する。それから、この川と別れ進路を北に取って山懐に分け入り、短いが、冷え冷えと濡れた岩肌が露わな箕地(みのち)トンネルをくぐり抜けた後、建部(たけべ、当時は御津郡建部町であったが、現在は岡山市)に近づいたところで、再び旭川と出会う。
 郷土の詩人、永瀬清子の、旭川を詠みこんだ詩に、こうある。
 「旭川のせせらぎは/知的な瞳の中の妹/二つのダムは白い城のようにそばだって、/湛えた湖のしずかさ重さ。」(『少年少女風土記 ふるさとを訪ねて[Ⅱ]岡山』(1959、泰光堂)
 さて、列車は、建部(たけべ)を過ぎてしばらく行き、旭川を渡ったところで福渡(ふくわたり、同)に着く。この辺りがちょうど岡山と津山の中間点に当たる。その福渡駅を過ぎて少し行ったところで、今度は旭川を左に見送る。今度は、その支流である誕生寺川に沿って北上していく。そこからまた津山への鉄路をたどり、神目(こうめ)から弓削(ゆげ)、さらに誕生寺(たんじょうじ)の駅へ着く。このうち弓削駅のプラットホームの標識は少し変わっていて、「川柳とエンゼルの里・弓削駅」とある。その標識を左右から対角線状に二人のカッパが座っている。どのような仕儀で想像上の生き物であるカッパがそこにいるのだろうか。
 その2人には水色の色付けがなされていて、それに陽の光が当たっているような気がしている。向かって左が子どもで、右側が母親のように見えるのだが、よくわからない。標識のてっぺんにいるのが、どうやら父親のようで、なにやらズボンのようなものを履いている。立っている筈なのに、紅葉状の足がこちらを向いているのは、愛嬌たっぷりだ。こちらの色付けは、赤銅色とまではゆかないが、なかなかに威風堂々としている。この家族の面々の表情は、3人ともやんわり笑っているようでもあり、静かに物思いにふけっているようでもある。この地になぜカッパが伝わっているのだろうかと考えを巡らしていると、やはり旭川の水と、地域の人々ののどかで、たおやかな心情が重なり合って伝説を形づくってきたのであろうか。
 弓削の次の誕生寺には、浄土宗の名刹(めいさつ)誕生寺がある。その立場所は、現在の久米郡久米南町である。法然上人・(幼名は勢至丸)が生まれた場所だ。彼は、ここで生まれてから浄土宗菩提寺(勝田郡奈義町)に修行に赴くまでの13年間を過ごしたらしい。彼の父・漆間時国(うるまときくに)はそのあたり(備関莊)の豪族であり、久米押領使を務めていた。
 法然の出生記録といっても、ちゃんとした当時の戸籍が残っている訳ではない。京都の知恩院に伝わる『法然上人行状絵巻』は全48巻から成ることから、『四十八巻伝』とも呼ばれる。それは単なる伝記のみではなく、長大な伝記絵巻となっている、今では京都の知恩院が所蔵する一大絵巻である。その中には、次のような、彼の父の漆間時国に至る、美作の漆間氏の由来についての記述が見られる。
 「かの時国は、先祖をたずぬるに、仁明天皇の御後、西三条右大臣光公の後胤(こういん)、式部太郎源の年(みのる)、陽明門にして蔵人兼高を殺す。その科(とが)によりて美作国に配流せらる。ここに当国久米の押領使神戸(かんべ)の大夫漆の元国がむすめに(年が)嫁して、男子をむましむ。元国男子がなかりければ、かの外孫をもちて子としてその跡をつがしむるとき、源の姓をあらためて漆の盛行と号し、盛行が子重俊が子国弘、国弘が子時国なり。」
 『津山市史、第二巻、中世』は、主にこの資料を使って、「漆間氏は平安末期から南北朝期にわたる数世紀の間、主として美作の南部で重きをなした豪族である」としている。
 さて、1141年(保延7年)、久米の稲岡荘(いなおか)を管理していた明石定明(あかしさだあき)が、その国からのお目付役である、その漆間時国を館に襲って殺してしまった。まだ9歳の彼の前で、この事件があったとされているので、まだ幼気の残る少年の身にとっては大変なショッキングなことであったに違いない。その父の旧宅跡に、1193年(建久元年)になって、法然の弟子である蓮生(れんせい)が主導して師の徳を慕い、伽藍が建立された。以来、八百年余の歳月が流れた。1873年(明治6年)、当時の北條県の命達により廃寺となるも、浄土宗知恩院派の運動があって1877年(明治10年)に管許を得て再興がなった。
 さて、津山線に戻ると、列車は、誕生寺を出た後、小原(おばら、久米郡中央町)へと向かう。小原を出ると、亀甲(かめのこう、現在の久米郡美咲町原田)にさしかかる。列車がホームに滑り込むと、そこには亀が出迎えてくれる。一つは、黄色をベースに、橙と青と緑と白の斑点が付いた大きな亀がいる。コンクリート製のようで、駅舎の上に突き出て見え、とにかく大きい。こちらに向けた目のところらに時計がはめ込まれている。口がぱっくり開いていて、なんとはなしにかわいい。もう一方の亀は、駅の改札に至る途中のホームの端にいる。こちらは岩に上に、実物を模したものといって良いだろう。おそらくは青銅製の亀が3匹這いつくばっている。いずれも首をもたげて、頭上を見上げているポーズのようだ。黒いし、背丈が低いので、視線を落とさないと乗降客はなかなかにして気が付かないのではないかとも考えられる。
 そしてこの地は、光後玉江の故郷でもある。1830年(天保元年)、久米北條郡錦織村(今の久米郡美咲町)に生まれた。父は津山藩医の箕作阮甫とも交流の深い医師であった。医者の子は医者にというべきか、玉江は15歳ながらも向学心に燃えていて、津山藩医の野上玄雄に入門するのだった。そこで医学と産科を学び、28歳で開業したことが伝わっているが、産科はどのようにして履修したのであろうか。以来47年にわたり、当時まだ数少ない女性の医師としての生涯を生き抜いたことで知られる。
 亀甲駅を出て小山に田んぼの入り交じった眺めの中をしばらく往くと、佐良山(さらやま)に出る。佐良山を出てからは、津山市に入って、津山口へ、そして津山線の終点である津山に着く。一方、その後の旭川はといえば、それから御津郡加茂川町(現在の岡山市加茂川)、ついで久米郡旭町へと遡り、そこからさらに真庭郡に入って落合町、久世町、勝山町を北へとたどり、その後さらに山間の地を北に遡って、源流とされる湯原湖に到達する。
 いまは、JR(旅客鉄道会社、1985年(昭和60年)の国鉄分割民営化決定により、国鉄から経営が変更されたことによる)による経営となっても、津山線のディーゼル機関車に乗って津山に向かっていると、自分が古代の舟を操って旭川を探検している姿が彷彿としてくるから不思議だ。列車が天空に輝く程の日差しを浴びた地点にさしかかると旅情によってはなぜか血がざわめき、胸がさわさわとときめくときがある。なお、これまで岡山から今日の津山までの鉄道路を古代の人々の行路に見立てて話をすすめてきたが、第二次大戦後からは中国鉄道津山線や宇野バス(林野から岡山の内山下までの乗合自動車)による方がむしろ一般的な行路だといっていいだろう。物資の運搬についても、馬車で陸路を運ぶほか、1930年代(昭和の初め頃)までは、旭川をいかだや高瀬舟が米や木炭などを積んで下っていたことがある。
 
(続く)

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◻️46の2『岡山の今昔』地租改正(1873)

2019-12-19 09:44:49 | Weblog

46の2『岡山の今昔』地租改正(1873)

 さらに新政府は、秩禄処分と相俟って地租改正を行う。こちらは、従来の田畑貢納の法を廃止するものである。地券の元となる土地の調査を行い、土地の代価を決め、それに基づき地租を課すことになった。1871年(明治3年)から準備が始まる。1872年(明治5年)8月に田畑の貢米・雑税米について近接市町の平均価格をもって金納することを認める。同年9月、租税頭より「真価調方之順序各府へ達県」が出される。

 1873年(明治6年)6月になると、石高の称を廃止する。地租は従来の総額を反別に配賦して収入とすることに決まる。同年7月の「上諭」とともに、地租改正条例と地租改正規則が公布される。
 これらの諸法令の施行により、土地の所有権の根拠(いわゆる「お墨付き」)を与えるもので、その所有者には「地券」が新政府によって発行される仕組みだ。この地券には、地番と地籍とともに、その次に「地価」が書いてあって、これが江戸期までの検地でいう「石高」に相当する、課税の際の「土地の値段」となる。
 つまり、「この地券を持っている人は何割の税金を払うように」法令を発すると、この地価に税率を掛けた額が税金となって、これを支払うのが義務として課せられる。政府としては、これで安定的な税収が見込める。最初の税率は、地価の100分の3と見積もる。その上で、作物の出来不出来による増減をしないことにしている。地租の収納方法は物納を廃止し、一律に金納とした。この地価の水準は、当時の「収穫代価のおよそ3割4分」に相当するものとして算定されている。
 この政府の決定に基づき、美作の地でも地租改正の作業が進められていく。ところが、これがなかなか思うように進まなかった。その例として、『津山市史』に、北条県での事例が次のように記されている。
 「こうして地租が徴収されるのであるが、この調査の過程で問題が多かったのは、一筆ごとの面積と地価についてであった。言ってしまえば簡単であるが、測量にしても、「田畑の反別を知る法」が10月に示され、種々の形の面積の出し方が教えられた。
 『北条県地租改正懸日誌』の11月7日の項に、「人民は反別調査の方法も知らない。延び延びになるので測り方を示した。これが地租改正の始まりである」と書いている。11月になって、やっと地租改正の仕事が動き出したのである。
 それから2箇年後、8年(1875年)12月3日、北条県は地租改正業務を終了させた。山林の調査は多少遅れたけれども、地租改正事務局総裁大久保利通ら、「明治9年から旧税法を廃して、明治8年分から新税法によって徴収してよい。」との指令が到着したのは、同9年(1876年)1月4日であった。」(津山市史編さん委員会『津山市史』第六巻、「明治時代」1980)
 地租改正のその後であるが、1875年(明治8年)には、岡山県の地租改正作業(田畑と宅地)が一応完了したという。1878年(明治10年)に税率が100分の3であるのは高いということになり、100の2.5に変更されたり、追々の米価騰貴もあって金納地租の率が低減していったのである。

(続く)

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◻️78『岡山の今昔』山陽道(播磨から備前へ、山陽本線から山陽新幹線へ)

2019-12-19 09:20:28 | Weblog

78『岡山の今昔』山陽道(播磨から備前へ、山陽本線から山陽新幹線へ)

 古くからの天下の大道としての山陽道を播磨方面からやって来て、岡山に向けてさらに進んでいく。相生(あいおい)からの山陽本線は、赤穂線を分岐させる。後者は、瀬戸内海の沿岸沿いを南へ西へうねうね辿りながら、岡山へと繋げていく。 
 昔の山陽道からはずれるということで山陽脇街道というか、作家の井伏鱒二(いぶせますじ)は、持ち前の紀行文の中でこれを「備前街道」と呼んだ。赤穂は、いうまでもなく、南に塩田を抱えて江戸時代に商業で栄えた、千種川(ちぐさがわ)の三角州(デルタ)の遠浅の地に発展したところだ。そのこともさることながら、この地は「忠臣蔵」の赤穂浪士の町でもある。

 話を戻して、赤穂の西は寒河そして日生(ひなせ)だが、後者の有り余る日光を浴びているかのような土地名は、どこから来るのであろうか。その次に伊里、それから備前片上、西片上を経て伊部(いんべ)へと鉄路が続く。このうち伊里のすぐ南の海に面したところが穂波(ほなみ)といって、このあたりでは瀬戸内海が深い入り江をなし、平地にいるかぎりは水平線は見えないといわれる。
 さらに、岡山へ向かっての先に進もう。現在の岡山と相生を1時間20分ほどで結ぶJR赤穂線(あこうせん)のほぼ中程に伊部(いんべ)駅がある。この駅には、東西の大動脈としての国道2号線が駅前間近に通っているので、交通の便は鉄路、車道ともに良い。国道2号線を渡ると南北に「伊部通り」という名の大通りがあり、それを来た道へ向かって歩いてゆくうち約100メートルにて、T字形にて旧山陽道に出くわすことになっているとのこと。而(しか)して、この伊部という地域には、上代から脈々と伝えられし備前焼きの故郷がある。
 一方、山陽本線の方だが、山間部にしばらく分け入って進む。顧みれば、1891年には、それまで岡山までであった山陽鉄道の岡山から笠岡間が開通した。
1960年(昭和35年)には、宇野線とともに、山陽本線が電化される。ちなみに、宇野線は1910年に開通していた。
 とはいえ、1972年(昭和47年3月)に山陽新幹線が開通すると、それまでの旅のあり方のおおよそが変貌する。続いての1975年(昭和50年)には、新幹線の岡山から博多間が開通となる。

(続く)

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◻️45『岡山の歴史と岡山人』幕末の攻防と封建体制の終焉(津山藩、岡山藩、備中松山藩)

2019-12-18 10:04:39 | Weblog

45『岡山の歴史と岡山人』幕末の攻防と封建体制の終焉(津山藩、岡山藩、備中松山藩)

 備前と備中そして美作の3藩は、幕府と新政府の間をさまよったものの、維新の最終段階では新政府に従った。これらのうち津山藩は、さきに将軍家斉の子斉民(なりたみ)を8代藩主として迎えた10年後の1827年(文政1年)、皮肉にも先代藩主の斉孝に慶倫(よしとも)が生まれた。そのため、斉民は隠居を余儀なくされ、家督は慶倫が継ぎ新しい藩主になった。これが契機となって藩内は分裂、斉民側は佐幕派、慶倫(よしとも)側は勤王派に分かれての抗争が始まった。
 津山藩主の松平慶倫は、1863年((文久3年)8月18日政変の後も長州藩への寛大な措置を求めた。とはいっても、それに先行して実施の陣夫役、そして政変後の長州征伐や鳥羽伏見の戦いにも幕府方として参戦した。

 ここで「陣夫役」とは、雇兵でもなければ、長州藩の奇兵隊の如き、当時の腐りきった世の中を突き崩すために志願しての兵でもない。具体的には、8月政変の5箇月前の3月、津山藩は摂津湊(せっつみなと、現在の兵庫県神戸市)の警備を請け負う、そのことで領地内の出役可能な18歳から60歳迄の男子の中から相当数を選んでこの賦役に動員した。出役者には、日程数に応じて一日当たり2升ずつの扶持米と若干の小遣いが支給されることになっていた。
 ところが、その扶持米支給は「大割入」(おおわりいり)といって、領主の出兵のための費用を、領内全体の農民の負担に割り振って拠出させるという、農民たちへはいわゆる「やらずぶったくり」のからくりなのだ。加えて、1868年(慶応4年)1月の「戊辰戦争」(ぼしんせんそう)時には、幕府の新たな命令を目して、領津山藩内で360人もの猟師を兵として動員する計画まで立てられていた。

 それによると、大庄屋たちに対し、彼らの管轄ごとの必要人員と集合場所まで指示していたという。そういうことだから、殿と大方の重役達は当時の時代の変化を観る目がまるでなかった酷評されても仕方がないのではないか。
 幕府の命に従っての津山藩の参戦は、しかし、惨めな失敗へと連なっていく。そのことごとくの敗戦後、備前の岡山藩などが新政府にとりなしてくれたのが効を奏したほか、勤王派の鞍縣寅次郎(くらかけとらじろう)らが奔走した。彼が公武合体と勤王両派の間をとりもって藩内を新政府に従うことにまとめたこともあって、かろうじて「朝敵の汚名」を免れることができた。もう片方の斉民は江戸にいて、鳥羽伏見で命からがら逃げ帰った将軍慶喜が江戸を退去する際、彼から田安慶頼(たやすよしのり)とともに徳川家門の後事を依頼された。
 また、同時期の岡山藩と備中松山藩の動静については、まず岡山藩が徐々に幕府から離れていった。もともと勤王色が濃かった岡山藩政が大きく勤王・倒幕側に傾いたのは、1868年(慶応4年)のことであった。これより先の1866年(慶応2年)師走に、一橋慶喜が15代目の将軍に就任した。その慶喜の実弟である岡山藩主池田茂政は、これにより微妙な位置に立たされたが、翌1867年(慶応3年)、西宮警備を命じられて家老以下約2150人が出役した。

 翌1868年(慶応4年)正月には、今度は朝廷側からの命令が下る。「朝敵」と見なされた備中松山藩の征討を命じられ、またも家老格の伊木若狭以下1千数百人が出役した。その内訳は、「本藩士および自分の手兵である勇戦・義戦・震雷の三隊」(谷口澄夫「岡山藩」、所収は児玉幸多、北島正元編「物語藩史6」人物往来社、1965)であったという。これにあっては、「御紋御旗二流」をもらい、伊木の知行地の農民などで編成されていた震雷隊に威風堂々持たせていたのかどうなのか。
 この間に大きく世の中が動いたのを見抜いたのは、近隣の津山藩などと大きく違うところである。ちなみに、1867年に岡山藩が出した「惣触」には、こうある。
 「徳川家三百余年来の信義といい、ことに前内府公(慶喜)は兄弟の間柄にあるので、まことに心苦しい立場にあるが、今日にいたっては情○をすてられて、一途の勤王の思召ですでに人数を東西にくりだされ、近国諸藩の向背去就をさだめ、勤王の実効を正されることになった。ついては、大義を明らかにし、名分を正し、忠節を立てるように心得るべきである。」(前期、谷口澄夫による現代訳か)

 この年の旧暦正月15日、藩主の池田茂政は急遽隠居をして、徳川氏とゆかりのない鴨方支藩の池田章政が本藩の藩主となり、かねてよしみを通じていた長州藩との連絡をも密にし、倒幕の旗印を鮮明にするに至るのである。
 これに対し、備中松山藩は、家柄の重さが大いに関係した。この藩の元々は、1617年(元和3年)、因幡鳥取の池田長幸(いけだながよし)が6万5千石で入封した。ところが、1641年(寛永18年)にその子長常が死んで無継嗣・改易となり、翌年備中成羽(びっちゅうなりわ)の水谷勝隆(みずのやかつたか)が5万石を与えられて入封した。しかし、これも1693年(元禄6年)、3代勝美(かつよし)の末期養子となった勝晴が、勝美の遺領を引き継ぐ前に没してしまった。ために、水谷氏は継嗣(けいし)がなくなり除封された。

 その後しばらくは安藤・石川両氏の所領となったものの、1744年(延享元年)、伊勢亀山より板倉勝澄(いちくらかつすみ)が5万石で入封し、譜代大名が領する。そして、7代藩主の板倉勝浄(いたくらかつきよ)が幕府老中に就任していたこともあり、結局は倒幕に抗する動きを示した。
 戊申戦争(ぼしんせんそう)においては、彼は奥羽越列藩同盟の公儀府総裁となって函館まで行って新政府軍に抵抗したものの、時流には逆らえず、1869年(明治2年)、明治政府によって禁固刑に処せられることになる。加えるに、鶴田藩(だづたはん)は、1866年(慶応2年)の第二次長州征伐で長州軍に所領を奪われた石見国浜田藩6万1千石の藩主松平武聡(まつだいらたけあきら、水戸藩主徳川斉昭の子)が、翌1867年(慶応3年)に幕府から久米北條郡内で2万石を与えられて立藩していた。 

 このため、1868年(慶応4年)1月の鳥羽伏見の戦いのおり、幕府側について敗れ、「お家存亡の危機」に立たされたが、家老尾関隼人の赦罪賜死での嘆願によってどうにか新政府側の許しを得たのであった。


(続く)

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◻️160の5『岡山の今昔』岡山人(17~18世紀、茅野和助、神崎与五郎、横川勘平、早水藤左衛門)

2019-12-18 08:57:58 | Weblog

160の5『岡山の今昔』岡山人(17~18世紀、茅野和助、神崎与五郎、横川勘平、早水藤左衛門)


 世にも有名な「赤穂浪士」のうちには、岡山出身の武士が幾人かいる。茅野和助(かやのわすけ、1702)、神崎与五郎(かんざきよごろう、~1702)、横川勘平(よこがわかんぺい、~1702)は、美作出身だ。まず茅野は、森家の断絶により失業し、浪人を経て元禄10年から浅野家に仕える。
 次の神崎も頑張り屋にちがいないが、いつの頃からだろうか、俳諧にも通じていた。江戸入りからは、前原伊助の営む米屋と合流、小豆屋善兵衛と名乗り雑穀を売る。その傍らで俳人としての世渡りをしつつ、情報を集めていた。
 さらに横川は、江戸詰めであったのだが、率先して盟約に加わる。江戸に入ると、これまた偵察で才能を開花させ、大高源吾とは別のルートて吉良方の茶会の日取りを聞き出す。
 それから、早水藤左衛門(はやみとうざえもん、1702)は、備前西大寺の出身だ。藤左衛門は通称で、名は満尭(みつたか)という。こちらは、備前国岡山藩の池田家家臣の家の生まれ。家督を兄が継いだため、赤穂藩の浅野家家臣、早水家の婿養子に入る。弓術では海内無双と謳われた星野茂則に師事し、弓矢にかけては達人の域に達していたという。和歌や絵画もたしなむ。
    主君の浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)が江戸城内において刃傷事件を起こした時は江戸におり、萱野三平とともに急使となり、第一の早籠で江戸から赤穂まで155里(約620キロメートル)を4日半で第一報を赤穂に伝えた。その後では、大石内蔵助に従い、ひたすらに進んだ、根っからの熱血漢なのではないか。
 参考までに、彼らが浅野家の家臣であった時の部屋住み、石数及び年齢は、こうであったという。茅野和助は、横目、5両3人扶持、37歳。神崎与五郎は、足軽徒目付・郡目付にして5両3人扶持(役料5石)、38歳。横川勘平は、徒目付、5両3人扶持、37歳。そして早水藤左衛門は、馬廻、150石にして40歳であったという(進士慶幹「赤穂藩」、所収は児玉幸多、北島正元編「物語藩史5」人物往来社、1965)。

 そんな彼らの思いを乗せつつも、時代は移っていく。思い起こせば、1701年(元禄14年)の浅野家改易(かいえき)、4月19日の赤穂城明け渡し後に、赤穂城に入ったのは、下野(しもつけ、現在の栃木県あたり)にいた永井直敬であった。9月には、それまでは江戸城の城郭内、呉服橋門内(現在の千代田区八重洲)にあった吉良(きら)屋敷が取り上げられ、本所松坂町(現在の墨田区両国三丁目)に移らされた。さらに、その翌年の1702年(元禄15年)12月14日には、浅野家旧臣たちによる吉良邸討入りが起こる。
 一方、赤穂においては永井氏が4年ほどで信濃に移る。その後の1706年(宝永3年)には、備中の西江原藩2代目藩主の森長直が2万石で入府する。その前までの5万3500石からは大きく後退するも、塩田の専売経営などで持ち直していく面もある。それから明治維新になるまで、13代165年に渡って赤穂城の城主は森氏が代々受け継いでいく。


(続く)

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◻️173『岡山の今昔』岡山人(19世紀、鞍懸吉寅)

2019-12-18 08:20:07 | Weblog

173『岡山の今昔』岡山人(19世紀、鞍懸吉寅)

 鞍懸吉寅(くらかけよしとら、俗名は寅次郎、1834~1871)は、赤穂(あこう)の下級藩士、足軽の家に生まれた。長じては、儒学者の塩谷宕陰(しおのやとういん)や水戸藩の会沢正志斉らに学んだ。浪人するが、「富籤論」(とみくじろん)をあらわした。
 おりしも、赤穂藩の財政は逼迫し、保守派と革新派とが改革を巡りにらみ合いをしていた。24歳の若さにして、1857年(安政4年)に足軽の身分から勘定奉行に抜擢され、藩政改革に携わったものの、彼の登用を喜ばない保守派に活動を阻止され、追放の憂き目を見る。
 その後は、同藩に見切りをつけたものと見える。師匠の塩谷の推挙で津山藩領にて私塾を開き、人材育成に務めていた。
 ふとしたことから、旧縁のある津山へ来て、津山藩士の河井達左衛門を頼る。塾で、講義をするなどした。これを機縁に津山藩に出仕する道が開ける。7人扶持という。儒者として用いられることになった。就任直後の1864年(元治元年)夏には、津山藩領である小豆島(しょうどしま)である事件があった。
 この島には、イギリス軍艦が碇泊していた。これに商品を運ぶため小舟が近づくのを浜から島民が見物していた。この中の一人を、水兵が銃殺した。その水兵は、すぐさま船中へ逃げ込んだ。イギリス軍艦は、早々に去った。

 津山藩からその処理を命じられた鞍懸は、現地に赴き、この事件を詳細に調べた上で不当であるとし、幕府に訴え出た。しかし、幕府にイギリスを訴えようとする気はない。それでも、鞍掛は諦めなかった。働きかけを続け、1865年1月10日(元治元年12月13日)付けのイギリス公使の「賠償金をだすことは当然の義務と考えている」との書簡を引き出した。これに基づき、1867年に入ってようやくイギリスに賠償金の洋銀200枚を支払わせた。
 その後は、江戸屋敷に左遷されていたのが、呼び戻されたものの、藩政の要路からは外されていた。かれの「勤王」の立場が、「佐幕」(さばく)の念の強い藩の空気にそぐわなかったと見える。その後、しだいに実力を発揮するに至り、国事周旋掛となる。時の藩主は、9代松平慶倫(まつだいらよしとも、1827~1871)であり、蛤御門の変後、慶倫が幕府に提出した上言書には、鞍懸に攘夷の思想が反映されていた。その幕府からの長州追討の命に対しては、「征長延引に今一層尽力せられたい」という意見書をしたため、藩主に願い出ている。
 明治維新後の1869年には、一転して、小参事を経て権(ごんの)大参事に任命された。この時の辞令書は、知事が直接に渡したという。その後、民部省をもつとめる身の上(「民部省出仕」)となる。津山城下においては、1871年9月19日(明治4年8月5日)、津山県庁から士族および卒に対し、今後の処遇に関する通告があった。
 「海内一般郡県の制度になったので、県内の士族は追って文武の常識を解いて家禄を収め、「同一人民之族類」に帰するようになるから、その旨を心得て方向を定めるようにせよ。もっとも家禄を収めたうえは相応の米券を遣わし、生活の道がたつようにする。」(『布告控』:津山市史編纂委員会「津山市史」第五巻近世Ⅲ幕末維新、1974での現代語訳から引用) 
 1871年9月26日(明治4年8月12日)の夜、津山の椿高下の河瀬重男(友人)宅を出たところを短銃で狙撃され、翌日息を引き取った。犯人は逃げおおせたが、当時の城下士族のすさんだ空気がこの暗殺を呼び寄せたものと推察される。頭脳鋭敏な鞍懸としては、そんなこともあろうかと思っていたのかも知れぬが、かれを取り立ててくれた津山藩最後の藩主・慶倫の恩顧に報いようとする気もあって、わざわざ津山を訪れていたのかもしれない。

(続く)

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◻️59の2『岡山の今昔』金融の発展(大正から昭和時代へ)

2019-12-17 11:08:51 | Weblog

59の1『岡山の今昔』金融の発展(大正から昭和時代へ)

 かえりみれば、1872年(明治5年)には、国立銀行条令が公布される。これにより、一般への預金と貸付から、為替、割引などの一般事務にとどまることなく、国立銀行券としての紙幣が発行できるようになる。
 そして、これを受けての国立銀行が全国的に設立されていく中、岡山においても設立の機運が高まっていく。
 1877年(明治10年)には、岡山市に第22銀行が、高梁に第86銀行が開設となる。
 一方、倉敷においては、それがなかなか進まなかった。そのため、1888年(明治21年)に設立の倉敷紡績などは、大阪などの遠隔地との取引においては、岡山に出たりして行う。

 続いての1914年(大正14年)、知事に就任した笠井伸一は、県下で乱立ぎみの銀行の合同を説く。これを契機に、倉敷銀行、茶屋町銀行、倉敷商業銀行、天満屋銀行、鴨方銀行、日笠銀行及び玉島銀行が話し合いにはいり、玉島銀行を除いた六銀行が合同を決め、1919年(大正8年)に第一合同銀行が岡山市で開業にいたる。

 続いての1923年(大正12年)には、北部の六つの銀行が合同しての作備銀行が津山町に設立されるも、その翌年には津山銀行と合わさって山陽銀行が設立される。

 1927年(昭和2年)には、銀行法が公布される。こちらは、預金者の保護や、銀行経営に最低限の資本金を確保させようたするものであった。銀行側としても、自己資本の積み増しは地盤強化のため某かの必要性を感じていたのではないか。

 おりしも同年4月には、全国大手としての鈴木商店の経営破綻や、台湾銀行の経営危機と、それらにつられての株式相場の暴落が起こる。4月22日になると、緊急勅令たる「金銭債務の支払延期および手形の保存行為の期間延長に関する件」が発布される。そしての3週間にわたっての支払猶予命(モラトリアム)が出された。

 この時には、大原孫三郎が取締役を務めていた近江銀行も休業に追い込まれ、追って整理されていく(1928年に昭和銀行に吸収合併される)、という慌ただしさてあった。

 それからだが、1929年(昭和4年)の世界大恐慌の年になると、日本経済そのものが深刻な不況になる中、倉敷紡績を始め県内企業の経営も厳しさを増した。倉敷紡績は日本興業銀行から緊急融資を受けたりしていく。県内の銀行も、1930年(昭和5年)12月には最大手の第一銀行と山陽銀行が合併し、中国銀行(本店は岡山市)となる。

(続く)

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新○○260『自然と人間の歴史・日本篇』秩禄処分(1876)

2019-12-16 18:57:48 | Weblog

260『自然と人間の歴史・日本篇』秩禄処分(1876)

 樹立されたばかりの明治政府の最大の弱点は、財政がまるで足りないことであった。政府の歳入は極めて限られていたのに対し、旧体制から引き継いだ借金(内外)の返済や秩禄の整理と処分、新たな軍事、治安や鉄道などのインフラ建設を始めとして、膨大な歳出を行うことが迫られていた。この困難の打開を目指し、まずは、後の地租改正へと通じていく、秩禄処分(ちつろくしよぶん)という名の改革を行っていく。

 いうなれば、この地租改正に対応するものとして、必要となったのが秩禄処分である。これは、地租改正によって、旧来の貢租が廃止されるのを踏まえた次の措置して、貢租の取得権ともいうべき旧領主やその家臣の家禄を処分することである。時は、1873年12月、明治政府は、陸海軍の費用を賄うためと称して、家禄税という新税を創設した。

 それと同時に、政府は旧領主やその家臣の家禄を国家に奉還させる制度を発足させた。そこで家禄の奉還を希望する者には、生計を建ててもらうため家禄の6年分を現金と秩禄公債で一時的に希望者に与えるというものであった。続いて1875年9月には、、それまで米(こめ)の石高で表示されていた家禄を、貨幣表示の公債に改め、割り当て支給することにした。

 その詳細だが、上の方から金禄元高が1000円以上のクラスは、公債交付額基準を5年分から7.5年分とし、公債利率を5%とする。これの対象となる公債受取人数は519人で、全体人数の0.2%に相当し、公債発行総額は31414(千円)で全体の18.0%を占めることから、一人当たりの公債発行額は6万527円となる。次の金禄元高が100円以上1000円未満のクラスは、公債交付額基準を7.75年分から11年分とし、公債利率を6%とする。これの対象となる公債受取人数は1万5377人で、全体人数の4.9%に相当し、公債発行総額は25039(千円)で全体の14.3%を占めることから、一人当たりの公債発行額は1628円となる。
 3番目の金禄元高が100円未満のクラスは、公債交付額基準を11.5年分から14年分とし、公債利率を7%とする。これの対象となる公債受取人数は26万2317人で、全体人数の83.7%に相当し、公債発行総額は108838(千円)で全体の62.3%を占めることから、一人当たりの公債発行額は415円となる。最後の「売買家禄」の場合は、公債交付額基準を10年分とし、公債利率を10%とする。

 これの対象となる公債受取人数は3万5304人で、全体人数の11.3%に相当し、公債発行総額は9348(千円)で全体の5.4%を占めることから、一人当たりの公債発行額は265円となる。これら4つのクラスの合計では、これらの対象となる公債受取人数は31万3517人で、全体での公債発行総額は174638(千円)で、これから一人当たりの公債発行額を計算すると557円となる。
 これらを見ると、公債交付基準は、一握りの数の高禄者に集中している。それでいて、一人当たり平均交付金額の方は上層に行くに従ってうなぎのぼりになっていく、つまり格差が実に大きい。例えば、下級士族の一人当たり公債発行額の415円に利率の0.07を掛けて29.05、つまり29円5銭の利子収入を産むに過ぎない。これを365日で割った一日当たりの受け取りの金額は約8銭に過ぎない。この水準は、東京に限ると、当時の東京の土方人足が日給24銭の約3分の1ということであり、これだけでは生活を維持できないほどであったことだろう。
 新しい世の中となって、実に長い間、人々を縛ってきた封建的身分制に多くの終止符が打たれたことは事実だといえる。これは、明治維新が不十分ながらも「ブルジョア革命」の本質を持っていたことから来るもので、士族は身分特権を失った。女性も、社会的及び家庭内での身分解放にはほど遠かったものの、1873年(明治6年)5月15日、妻からの離婚訴訟が条件付で認められることになったのも、その流れといえよう。
 美作では、この廃藩置県によって津山藩(10万石、親藩)と鶴田藩(6万1千石、親藩)、勝山藩(2万3千石、譜代)がなくなり、幕府天領や多数の大名、旗本の飛び地も含めて、津山県、鶴田県、真島県など10県に再編成された。その後(同年)、これらの県が統合される形で、北條県(城下町のあった西北條郡の郡名をとっての名称)が発足した。こういう次第にて、禄を明治政府に返上した旧藩主たちは、平均して大いなる恩寵金と以後の爵位を約束されて東京などへ移り住み、かくして武士による領国支配に金銭面での大いなる終止符が打たれた。

(続く)

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◻️8『岡山の今昔』倭の時代の吉備(吉備の大古墳、概観)

2019-12-16 15:51:33 | Weblog

8『岡山の今昔』倭の時代の吉備(吉備の大古墳、概観)

 いずれにせよ、当時の首長達が一般住民・大衆を動員して造ったものだ。畿内を中心に列島各地の有力な首長層が競って、またこぞって採用したのは、疑いのない歴史的事実である。その数は、実に多い。分布も広範囲にわたっている。

 これらのうち初期のものは、2世紀後半から3世紀前半の弥生時代晩期、「楯築墳丘墓」が知られるものの、その築造年代の確かな証拠は見つかっていない。被葬者が誰なのかも、はっきりしていない。

 その後の、いわゆる古墳時代に入ってからの前方後円墳の中では、浦間茶臼山古墳と備前車塚古墳は最も古い時期(古墳時代1・2期)の建造とみられている。
 やがては、吉備地方の古墳の中でも、後期の造立と考えられるものに入ってくる。ざっと西の方から当時の海沿いに来て、高梁川、足守川、笹ヶ瀬川、旭川、砂川、そして吉井川が海に流れ込む、瀬戸内の名だたる沖積平野に、実に十数基もの古墳が築造された。

 すなわち、西の方から東にいくと、高梁川河口部には作山(古墳時代5・6期)と小造山、足守川河口部には造山(つくりやま、古墳時代5・6期)、佐古田及び小盛山、笹ヶ瀬川の河口には丸山と尾上、旭川の河口部には神宮寺山と金蔵山、砂川の河口部には雨宮山、西もり山、及び浦間茶臼山(岡山市浦間)、備前車塚古墳(岡山市中区湯迫・四御神)、そして吉井川河口には新庄天神山と花光寺山の古墳がそれぞれ発掘されている。

 これらのうち、最も大きいものとしては、5世紀初めの造立だと推定される造山古墳だが、全国第4位の規模だというから驚きだ。その被葬者が誰なのかは皆目見当がつかないようなのだが、盗掘か破壊された可能性が高いという。ある一説には、雄略大王との関係を取りざたする向きもあるものの、憶測の域を出ないのではないか。

 ここでは参考までに、当時を振り返り書かれたという「日本書記」吉備に関わる、当該の部分を、しばし紹介するにとどめよう。

 「八月庚午朔丙子、天皇疾彌甚、與百寮辭訣並握手歔欷、崩于大殿。遺詔於大伴室屋大連與東漢掬直曰「方今、區宇一家、煙火萬里、百姓乂安、四夷賓服。此又天意、欲寧區夏。所以、小心勵己・日愼一日、蓋爲百姓故也、臣・連・伴造毎日朝參、國司・郡司隨時朝集、何不罄竭心府・誡勅慇懃。義乃君臣、情兼父子、庶藉臣連智力、內外歡心、欲令普天之下永保安樂。不謂、遘疾彌留至於大漸。此乃人生常分、何足言及、但朝野衣冠、未得鮮麗、教化政刑、猶未盡善、興言念此、唯以留恨。今年踰若干、不復稱夭、筋力精神、一時勞竭、如此之事、本非爲身、止欲安養百姓、所以致此、人生子孫、誰不屬念。

 既爲天下、事須割情、今星川王、心懷悖惡、行闕友于。古人有言『知臣莫若君、知子莫若父。』縱使星川得志、共治國家、必當戮辱、遍於臣連、酷毒流於民庶。夫惡子孫、已爲百姓所憚、好子孫、足堪負荷大業、此雖朕家事、理不容隱、大連等、民部廣大、充盈於國。皇太子、地居儲君上嗣、仁孝著聞、以其行業、堪成朕志。以此、共治天下、朕雖瞑目、何所復恨。」一本云「星川王、腹惡心麁、天下著聞。不幸朕崩之後、當害皇太子。汝等民部甚多、努力相助、勿令侮慢也。」

 是時、征新羅將軍吉備臣尾代、行至吉備國過家、後所率五百蝦夷等聞天皇崩、乃相謂之曰「領制吾國天皇、既崩。時不可失也。」乃相聚結、侵冦傍郡。於是尾代、從家來、會蝦夷於娑婆水門、合戰而射、蝦夷等或踊或伏、能避脱箭、終不可射。是以、尾代、空彈弓弦、於海濱上、射死踊伏者二隊、二櫜之箭既盡、卽喚船人索箭、船人恐而自退。尾代、乃立弓執末而歌曰、(以下、略)

 要は、雄略大王の死後直ぐこと、星川皇子(ほしかわのみこ)が母である吉備稚媛(きびわかひめ)の言によりそそのかされて反乱を起こす。そして、これに吉備上道臣(きびかみつみちのおみ)が加勢しようとの動きがあった、というのだが。

 また、備前茶臼山古墳(びぜんちゃうすやまこふん)は、備前平野の東の端(旧上道郡)、吉井川を少しさかのぼったところの西岸、砂川の西岸にあって、その規模は全長138メートルというから、これらの川の中州から眺めるとさぞかし壮観だったのではないか。4世紀前半に築造されたといわれるのがもし本当なら、当時の個の列島、倭国レベルでもかなり大きかったのではないか。
 それらのほかにも、旧山陽町においては、古墳時代に入って穂崎(ほさき)地区に両宮山古墳(りょうぐうざんこふん)が見つかっており、5世紀後半の築造ではないかと推測されている。古墳の形式は、前方後円墳で、丘の周囲には水をたたえた内濠が二重にめぐらしてある。この種のものではめずらしく優美さを湛えつつも、それでいてやはり当時の首長権力の象徴といおうか、堅固な守りを感じさせる。
 全長192mの墳丘をもつこの古墳は、吉備地方では造山古墳(つくりやまこふん)、作山古墳に次ぐ巨大古墳である。これまでの発掘では、大した発見はなかったもののようだが、いつの頃か盗掘もあったのかもしれない。適切な保存とならなかったのは、あるいは、大和朝廷にとっては邪魔で、目障りな遺跡であったからなのかもしれない。もし適切に保存で現在に明らかになっていれば、古代日本史に吉備国(はびのくに)ありと知らしめることになったのではないか。
 備前地域においてはもちろん最大の前方後円墳で、国指定史跡となっているとのこと。付近には廻山(まわりやま)、森山、茶臼山(ちゃうすやま)の各古墳が点在していて、さながら吉備国の古代を臨むものとなっているのではないか。この国が律令時代に入ってからは、この地(現在の赤磐市馬屋あたりか)に備前国分寺(びぜんこくぶんじ)が建立される。国分寺の南側には、東西に延びる古代山陽道を挟んで備前国分尼寺も建立されたのではないか。

 それにしても、この弥生時代に続くのがどのような社会であったのかは、今日どのくらいまで明らかになっているのだろうか。事実というのは、その時々もしくは後代の政権(権力者)によってその内容が惑わされて述べられるものであってはなるまい。

 事実とされるのは、事実でないことを事実とするような権力の所産であってはならないのである。解き明かすべきは、その国家なり共同体の上部構造のみでない、下部構造の基本的理解が肝要となろう。
 5世紀になると、高梁川の支流小田川の形成した沖積平野を眼下に、天狗山古墳が造営された。こちらは、岡山大学によって発掘がなされ、その調査報告書がまとめられているという。

 6世紀末ないしは7世紀初頭になると、日本列島の首長たちは前方後円墳に一斉に決別し、方墳や円墳を築くようになる。きっかけは、有力豪族の蘇我氏が中国から方墳を持ち込んだともいわれるが、確かなところはわかっていない。政治的な背景として、蘇我氏が大層のさばって来て、大王家にたてつこうとしてきたことを挙げる向きもあるが、果たしてどこまでが本当なのだろうか。

(続く)

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◻️46の1『岡山の今昔』廃藩置県(1871)

2019-12-15 20:32:52 | Weblog

46の1『岡山の今昔』廃藩置県(1871)

 そして迎えた1871年8月29日(旧暦7月14日)、まずは長州、薩摩、肥前、土佐の知藩事四人(土佐は代理の板垣退助)に対し天皇から廃藩置県が伝えらる。ついでかねてから廃藩を建白していた名古屋、熊本、鳥取及び徳島の四藩の知藩事が呼び出される。同様に天皇から通達があった。午後2時には、在京知藩事の島津忠義・毛利定広ら五六名が皇居大広間に集められ、明治天皇の前で右大臣三条実美(直後に太政大臣)が廃藩置県の詔書を読み上げる。それには、こうあった。
 「廃藩置県の詔
 朕(ちん)惟(おも)うに、更始の時に際し、内以て億兆を保安し、外以て万国と対峙(たいじ=交際)せんと欲せば、よろしく名実相副(そ)い、政令一に帰せしむべし。朕曩(さき)に諸藩版籍奉還の議を聴納(ちょうのう)し、新に知藩事を命じ、おのおのその職を奉ぜしむ、しかるに数百年因襲の久き、あるいはその名ありてその実挙(あが)らざる者あり。何を以って億兆を保安し万国と対峙するを得んや。朕深く之を慨す。よりて今更に藩を廃し県となす(以下、略)。」
 この措置により、備中美作、備前及び備中の諸藩などは、次に掲げる段階をたどり、編成換えされていく。まずは、1871年(明治4年)7月の廃藩置県(はいはんちけん)から述べよう。美作においては、津山藩(10万石)は津山県へ。鶴田藩(6.1万石)は鶴田県へ移行するのだが、この藩のそもそもは、浜田藩(旧石見)であったものが、1867年5月に美作に移り、7月にはその名前になっていた。真嶋藩(2.3万石)は真島県へ。こちらも、勝山藩であったものが、1868年(明治2年)5月に真島藩に名称変更されていた。
 また、備前を領する岡山藩(31.5万石)は岡山県へ。それから、備中についていうと、鴨方藩(2.5万石)は鴨方年県へと移る。こちらは、この前の1867年7月に新田藩から鴨方藩となっていた。生坂藩(1.5万石)は生坂県へと移る。こちらも、この前の1867年7月に新田藩から生坂藩になり変わっていた。庭瀬藩(2万石)は庭瀬県へ、足守藩(25万石)は足守県へ、浅尾藩(1万石)は浅尾県へ、岡田藩(1.03万石)は岡田県へと移る。
 それから備中松山藩(2万石)については、1868年8月の高梁藩を経て松山県へ移る。それから成羽藩(1.27万石)は、成羽県へ、新見藩(1.8万石)は新見県へと変わる。幕府直轄であったの倉敷だけは、以上の1871年4月ということではなく、早々と1867年1月に倉敷県へと変更されていた。

 これが、そのあとの同年11月の第一次統合においては、前段の美作地区の津山、鶴田、真島の3県が北条県へなり変わる。また、後段の備中の10県が、備後の一部と統合して深津県となっていたのが、翌1872年(明治5年)6月に小田県と改称する。
 さらに、1875年(明治8年)には、小田県を岡山県に合併、翌年北条県も廃止して岡山県と合併することにより新生の岡山県が成るのであるが、このとき旧備後国6郡を広島県に編入されることで、県域が確定する。

(続く)

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◻️216『岡山の今昔』岡山人(20世紀、片山潜)

2019-12-15 09:29:50 | Weblog

216『岡山の今昔』岡山人(20世紀、片山潜)

  片山潜(かたやません、本名は薮木菅太郎1859~1933)は、作州の久米南条郡羽根木(現在の岡山県久米郡久米南町羽根木)の藪木家に生まれた。家は、当時のこの辺りではやや貧しかったのだろうか。
 それというのも、当時を思い出し、こういう。
 「私の家は昔から農民だった。いつのころからか知らないが、代々庄屋を世襲していたことは、長い間保存されていた古い記録からも明らかである。私の祖父は国造、母は吉よといった。父はこの村から二里のところにある越尾村の生まれで、15歳のとき養子として私の家にきて、やはり15歳だった母と結婚した。二人のあいだに子供が生まれ、私は弟の方である。兄は三つ年上だった。」(片山潜「歩いてきた道」日本図書センター、2000)
 13歳で、初めてできた誕生寺の成立小学校に入学する。ところが、わずか4か月足らずでやめてしまう。

 以後は、家業を手伝う傍ら、副業として炭焼きに精を出す。それでできた炭を背負って約6キロメートル離れた大戸下まで運搬し、売っていたと、後の「自伝」に記している。その大戸下には、山田方谷のつくった知本学舎があった。教塲から洩れてくる生徒の声を聞いて、学問をしたいとの気持ちを抱く。

 やがて1877年(明治10年)には片山家の養子となり、いよいよ学問をしたいとの気持ちが高じていく。1880年(明治13年)、岡山師範学校(現在の岡山大学)に1年通学するのだが、これにも満足できない。そして歳の青年は、上京する。それからは、実に多様な事柄について、首を突っ込んで、学んでいく。

 1884年(明治17年)には、さらに大志を抱いて、アメリカに行く。その心持ちを駆り立てたのは何であったのだろうか。ともあり、いったん思い立ったら、引かないのが彼の特色であった。かの地の大学では、大学予科で勉強しなければならず、苦労したそうだ。コックをして働いて、学費を稼ぐ。日曜日は、教会のミサに参加するといった生活。洗礼を受けて、キリスト教徒になる。

 1889年(明治22年)には、アイオワ大学、現在のグリンネル大学に入学を果たす。大学院に進み、修士論文は「ドイツ統一史」であった。1894年(明治27年)には、友人とイギリスに行き、社会勉強の中で、神学士の称号を得た。また、アメリカに戻って、エール大学の1年の在学を終え、日本の横浜港に着いたのが、1895年(明治28年)1月のことであった。

 1911年(明治44年齢)12月には、東京市電従業員のストライキの応援にうごき、翌12年1月に検挙され、禁固5か月の刑の判決を受ける。出獄後の家族5人での生活は厳しいものであった、そこで一家は、1914年(大正3年)に日本より自由と考えられるアメリカに渡る、これが4度目の渡米であった。そのアメリカでも社会主義者への風当たりが増してくると、1921年(大正10年)7月、今度はソ連のモスクワに新天地を求めた。1922年(大正11年)7月15日の日本共産党の結成には、モスクワの地から賛成の意を送ったらしい。

 その後もモスクワにとどまり、ソ連側の論客に加わる。1940年(昭和15年)には、アムステルダムで開催の第二インターナショナルの大会に出席し、日露戦争(1904~1905)への反対を世界に向けて訴えた。その後、ソ連の地で平和なうちに生涯を終えたとはいえ、その心は日本の地を振り返り、また振り返りの晩年であったのではないか。当代の中でも最も大いなる旅路を踏破した日本人として有名だ。

(続く)

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◻️58の2『岡山の今昔』医療改革と県民

2019-12-14 21:55:35 | Weblog

58の2『岡山の今昔』医療改革と県民

 1870年(明治3年)末には、岡山藩は現在の岡山市中区門田屋敷に「岡山藩医学館大病院」を開く。それからは、1871年(明治4年)の廃藩置県をはじめ幾多の変遷を経ながら存続していく。1922(大正11年)には岡山医科大学となり、第二次世界大戦まで過ごす。第二次世界大戦後の学制改革で、岡山医科大学は岡山大学医学部に改組され、病院は医学部附属病院となり、その後歯学部も併設となる。

 では、倉敷での近代医療の始めは、どんなであったのだろうか。倉敷総合病院は、当時の倉敷紡績の経営者である、大原孫三郎の肝いり、構想で創られ、1913年(大正10年)に開院した。彼が病院建設を決心したのは、主に、一万人近くなった従業員、特に「紡績職工」に十分な健康管理・診療を行うことであったろう。次なるは、大原の人権や未来社会に関する思想がうかがえる言葉であろうか。
 「将来工場を社会化させるという意味もあり、殊に紡績職工といえば社会からまだ異様な目で見られている現在において、わが社が職工を人として平等の人格を認めて待遇していることを示す一事実と致しまして、ここに開放された病院において一般人と同じく平等な取扱いを為すことは、可成り意義あることであると信じます」(早川良夫「勤務管理十ヶ年」健文社、1944)
 ほかにも、当時西日本一帯に流行したスペイン風邪に際し、地域医療が後手に回ったのを何とかしたかったからだという。
 

 優秀な人材と最先端の施設・設備を整えた総合病院ということで、 その後、一般にも開放された。 それからは、1927年(昭和2年)に「倉敷中央病院」と改名、2013年(平成25年)からは公益財団法人となっている。


(続く)

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◻️58の1『岡山の今昔』明治時代の岡山(学制と就学)

2019-12-14 19:00:48 | Weblog

58の1『岡山の今昔』明治時代の岡山(学制と就学)

   近代国家としての学制が動き出したのは、1873年(6年)か1874年(明治7年)くらいになってからのことで、この時期に全国で学校の開設が相次ぐようになっていく。新設というよりは、従来の寺院や町の名士か庄屋などの家屋を借用してのものが多かったのではないか。そして1887年(明治19年)には、小学校令が出され、尋常小学校と高等小学校の2種類となり、尋常小学校については義務教育となる。
 明治30年代初頭からは、義務教育費の国庫補助制度が確立されていく。また、1900年(明治33年)の小学校令により、義務教育4年制が決まる。さらに、1891
年(明治33年)になると、尋常小学校の授業料が廃止される。1899年(明治41年)に又学制改革があり、義務教育が6年に延長され、尋常小学校に高等科の併設が決定される。
 これら一連の措置により、家庭や地域が貧乏をしていても、子どもたちを学校に送ることができるようになって、就学率が飛躍的に向上してくる。具体的には、
これらにより、1875年(明治8年)に約35%であった就学率は、1905年(明治38年)には約96%に達す。
 それから、1907年(明治40年)になると、就学率の上昇と尋常小学校に併設された高等小学校の普及を背景に、義務教育が6年に延長される。ちなみに、かかる改革の初期における県内の状況は、こう言われる。
 「ところで『文部省年報』(明治二十年)によると、岡山県の学令人員は17万5132人、小学校生徒総数10万1195人、そのうち高等科は6871人で学齢人員の3.9%、高等小学校数は、小学校総数の6.8%であった。そして高等科卒業者数は男子393人、女子23人、小学校生徒総数のわずかに0.4
%、学齢人員に対しては0.2%に過ぎなかった。」(中村勝男「阿部知二の父良平・母もりよが通った高等小学校」)
 さらに、こうある。
 「岡山県で高等科より上の学生は尋常中学生222人、尋常師範学校生男子146人、同女子12人、専門学校生男子349人合計729人であった。これらに進学するためには高等科二年修業以上、あるいは卒業していなければ入学資格がなく、当時高等科は上級学校進学の第一段階、すなわちエリートへの第一歩だったのである。因みに、『週刊朝日百科日本の歴史』の「生年別にみた学歴構成比の移り変わり」(「学歴構成比図」と略称)によると、1874年(明治7年)生まれで高等小学校を卒業したものは、ごく大まかな計算であるが約1~2%少々だったようである。」(同)

 ついでに後のことに触れると、1941年(昭和41年)になってから、各尋常小学校は国民学校と改称され、日本の初当教育全般が「皇国史観」に染められることになっていく。


(続く)

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◻️128の3『岡山の今昔』備前市

2019-12-13 23:06:11 | Weblog
128の3『岡山の今昔』備前市

 備前市は、南東部の瀬戸内海に沿ってある、歴史ある町だ。そもそもの市制は、1955年(昭和30年)、当時の備前町、伊里町、香登町、鶴山村(和気郡)、それに鶴山村(邑久郡)が合併して備前町、ついでの1971年(昭和46年)4月にその備前町と三石町とが合わさって備前市となっていた。 
 さらに、2005年3月22日の備前市、吉永町との合併により、旧日生町は新たに備前市となっている。
 その位置だが、北から時計回りに美作市、和気町(和気郡)、東部は兵庫県に隣接する。南には瀬戸内市、そして西部は赤磐市に接する。
 新幹線にのって東から岡山県内にやってくると、そこは日生(ひなせ)地区だ。旧日生町での町役場は備前市役所日生総合支所となっている。それからは、ほどなく停車駅の岡山に到着しよう。
 市の中心部は片上地区で、ここに市役所など中枢部がある。エリア別で有名なのは、やはり伊部地区であろう、ここには備前焼の工房・陶芸店が集中している。 
 産業としては、おおまかに備前焼と耐火煉瓦と農漁業の町だ。これらのうち、焼物については、そもそもが、これまでに数多くの須恵器の窯跡が知られており、なかでも、備前市・邑久郡長船町・牛窓町など吉井川左岸一帯の丘陵地に集中。このあたりは、「邑久古窯群」と呼ばれ、今までにおよそ90基の窯跡が確認されている。

 その史料としては、10世紀のはじめころに編纂された「延喜式」中の「主計」と言う部分に、全国各地から都へ運ばれた貢納品の種類や数量が詳しく記されている。これによると、備前国から都へ納められることになっていた須恵器の量は、河内国(かわちのくに)のそれを凌ぐ全国一位という。
 ところが、平安時代末期に興った備前焼の産地は、そことは山一つ隔てた備前市伊部に発達していく。もう少しいうと、伊部集落周辺の山麓から、南北の谷筋沿いに標高400メートルを越えるような高地まで、5キロメートル四方にわたる。このように須恵器が備前焼へと発展しながらひと山越えた、そのメリットが何であったかは、一説には、次のように言われる。

 こうみてくると、かなり前からの産業構成みたいなのだが、そこは「一工夫、二工夫」が行われてきたようで、これまでの焼き物の歴史を生かすべく、培ってきた技術を使ってセラミックなどへの展開や、北部地区での林業や、海岸エリアでの蠣(かき)養殖も盛んだという。
 それから、最近の当市を眺めると、県南東部ということではあるものの、人口の減少や高齢化はかなり進んでいるという。そうなれば、医療や福祉の面でも、個々の自治体を跨がる形での調整の必要も出てくることを、例えば、次の記事が伝えている。
 「岡山、玉野、備前市など5市2町の将来的な医療体制について医療関係者が協議する「岡山県南東部地域医療構想調整会議」が8日、岡山市北区南方のきらめきプラザで開かれ、国が9月に再編・統合の検討が必要として公表した医療機関について意見を交わした。(中略)
 出席者からは、判断の基になったデータが古く実情を踏まえていないことを指摘する声が相次ぎ「住民の不安をあおっている」「再編・統合は地域の実情に照らし合わせて考えるべきだ」といった意見も出た」(2019年11月8日付け山陽新聞電子版)とのこと。
 ここに参加したのは、福渡病院(岡山市)、玉野市民病院、備前病院、吉永病院(備前市)、瀬戸内市民病院、吉備高原医療リハビリテーションセンター(吉備中央町)、赤磐医師会病院(赤磐市)の8病院であり、互いによる意見交換がなされたようだ。

(続く)

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◻️96『岡山の今昔』備中高梁(江戸時代、領国支配)

2019-12-13 22:44:28 | Weblog

96『岡山の今昔』備中高梁(江戸時代、領国支配)

 やがて江戸時代に入ると、領国支配は大きく変わる。毛利氏の勢力が削減されたのが最大眼目であったことは、いうまでもない。1617年(元和三年)、池田長幸(いけだながゆき)が鳥取城主から移封されて、石高6万5000石の松山城主となったのが江戸期の最初の大名入りであった。同年には、山崎家治が川上郡成羽藩3万石に封ぜられる。1639年(寛永16年)、その山崎氏の移封により、水谷勝隆(みずたにかつたか)が成羽藩5万石の主になるも、1642年(寛永19年)に松山藩の池田氏が断絶すると、それまで成羽藩主であった水谷勝隆がこの備中松山の城主になるというめまぐるしさであった。

 さて、同藩は、この勝隆の時の1651年(慶安4年)以来たびたび内検を行って以来、たびたびこれを行っていく。1693年(元禄6年)の頃のそれは、朱印高が5万石であったのに比べ、内検高は8万6000石にも膨らんだという。1657年(明暦3年)に彼が近くの奥万田町から移築した松連寺(しょうれんじ)は、珍しく石垣の上に立つ寺院であり、他の寺とともに、城および城下町の防衛戦の一つの役割を担っていた。
 1681年(天和元年)になると、二代目藩主の水谷勝宗(みずたにかつむね)が近世城郭に大改修し、城構えを整備した。ところが、1693年(元禄6年)、3代目水谷勝美(かつよし)が31歳で死去、その末期養子となった勝晴が、勝美の遺領を引き継ぐ(幕府から相続が許される)前に没してしまった。このために、水谷氏は継嗣(けいし)がなくなり断絶・除封された。1695年(同8年)に、姫路藩主の本多中務大輔が幕府の命令で検地を実施した。なお、勝美の弟、勝時に改めて2千石が与えられ相続が許され、旗本として存続していく。

 その際には、「過去5年間の年貢収納高および石高を基礎に、幕府の内示高11万619石余に合致するように検地を実施した」(『角川地名大辞典・岡山県』)とあって、いかにも抜け目がない仕置きとなっている。その後しばらくは安藤・石川両氏の所領であったものの、1744年(延享元年)、伊勢亀山より板倉勝澄が5万石で入封し、譜代大名が領する。そして江戸中期から明治維新までは、徳川譜代の板倉氏の城下町としてあった。

(続く)

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