◻️169『岡山の今昔』岡山人(17~18世紀、森(関)衆利)

2019-12-13 21:00:02 | Weblog
169『岡山の今昔』岡山人(17~18世紀、森(関)衆利)

 森衆利(せきあつとし、1672~1705)をご存知だろうか。彼は、津山藩二代藩主、森長継の12男にして、どのような子供時代を過ごしたのであろうか。当初は、森家一門の関家を継いで(長継の実弟で家老職を務める一門の関衆之(せきあつゆき)の養子に入る)、やがて家老職となる。「若いのに、凄いなあ」という評判であったのかどうか。そればかりか、その彼が中心となって、江戸の中野村に広大な犬小屋を設置したのは、幕府の命令によるものであった。だから、凡庸というのではなく、優れた才覚を持っていたのは間違いなかろう。
 ところが、である。兄で四代藩主の長成が27歳で没する。英明と言われた長成には天が味方しなかったのであろうか。そこで急きょ、藩主候補として実績の深い、家老職を務める衆利に期待が集まったらしい。次の藩主に、ということになり、長成存命中に幕府への末期養子を願い出ていたことから、幕府老中から早急に参府するよう命じられた。
 そこで、挨拶かたがたの気分であったろうか、衆利一行は津山を発したが、急病のため途中桑名付近でとどまって、それから先へは行けなくなってしまう。一応は、衆行が乱心してしまったことになっているのだが、なぜそうなったのかが不明なのだ。
 ここに、その原因はよくわからない。それというのも、一説には、「衆利は前日から気分すぐれず、侍医延原竜庵が多量の朝鮮人参を加えた薬を与えると、たちまち総身に発汗し逆上したという」(宗森英之「森長成(美作津山藩)」、所収は高澤憲治外「江戸大名廃絶物語」新人物往来社、2009)とあるが、かかる史料の信頼性が明示されていない。
 さらに穿った見方によると、この乱心の裏には、「犬小屋普請に対する幕府への不信があった」とか、元々「藩主候補を嫌がっていたのではないか」ともいわれるのだが、これらとても決め手はないようだ。

  ともあれ、これにより津山藩十八万六千五百石は幕府に召し上げられてしまう。それからのことは、先々代の長継が存命だったことから、「御家存続」に奔走したのであろう、備中西江原に二万石を衆利の兄・長直に、分家の関長治に備中新見に一万八千石を、次いで森長俊に一万五千石の存続を許された。衆利自身は兄・長直への身柄お預けとなる。伝わるところでは、衆行は失意のまま33歳で力尽く。


(続く)

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◻️3の1『岡山の今昔』旧石器・縄文時代の吉備(遺跡から)

2019-12-12 23:00:35 | Weblog

3の1『岡山の今昔』旧石器・縄文時代の吉備(遺跡から)

 現在の行政区である岡山県は、それより前の地名でいうと、「備前」(びぜん)、「備中」(びっちゅう)そして「美作」(みまさか)という3つのエリアから成り立っている。さらに前の上代・律令国家時代の初め、この地域は、「吉備国」(きびのくに)と呼ばれ、この3つの地域と今は西隣の備後(びんご、現在の広島県西部)とを中核として、かなり強力な力を誇示していたのであった。それでは、この地のその前はどのようであったのだろうか。時代は、これらをあわせての4つの国(地域国家)の区割りのまだなかった弥生時代以前に遡ることになろう。
 ところが、当時のこの地域がどう呼ばれていたかは、未だにはっきりしていない。そもそも、当時この地域を支配していたであろう国が、かれらの連合体(さしあたり、古代のユナイテット・ステイツと呼びたい)である倭(「わ」もしくは「やまと」、後者の呼び名は例えば人事屋に奉納する「倭舞」(やまとまい)に見られる)の中に存在していたのかもしれない。

 ところが、その当該の国が、3世紀を知る中国の史書『魏志倭人伝』で挙げられる三十余国中のどの国であったのか、当時の「邪馬台国」という連合国家の一員であったのか、そのことを特定することがかなわないままなのだ(ただし、諸説は寄せられている)。

 とはいえ、弥生時代の中期(紀元前400年位~紀元前後)にかけては、現在の大阪湾から瀬戸内地方にかけての海岸地層からは、石鏃(せきぞく、鏃はやじり)などの石器が多数出土している。これととともに、わざわざ高地を選んでの集落形成跡が広く認められる。これらの備えや防衛手段なりに出ていたことからは、この時代に集団間の激しい争いが続いていたことが広く窺える。
 ついては仮に、この時代においてもこの地は、仮に「吉備」(きび)と言う名で呼ばれていたとして話を進めようと思うのだが、この名の由来がわかっていない。そこで思いつくのは、あの穀物の「黍」(きび)ではないか。ほかにも、「連合」を意味しているのではないか、等々の説があるが、いずれも決め手に欠ける。

 おそらくは、縄文時代の初期位に、このあたり、笠岡・倉敷・岡山・児島、下津井辺りの平野までやって来た人々の中には、そのまま東へ向かわずにこの当たりに住み着くか、それとも高梁川(たかはしがわ)、旭川、吉井川の3本の河川を伝って北上したグループがいたとみられる。こちらへ進出した人々が定住し、そこで本格的な農耕を行うことでの弥生時代の特徴は、集団での農耕であるが、この地方においては、定住の拠り所となっていた遺跡は瀬戸内に面した平野を中心に散在していて、いずれも小規模なものの寄り合わせであったのであろうか。
 この岡山で縄文時代のものとおぼしき遺跡としては、貝殻山遺跡(かいがらやまいせき)が挙げられるのだろう。貝殻山は、今は岡山市内から南に位置する児島半島(当時は島であった)にある。市内からの手頃な山歩きコースの一つであって、その登山口は神武由来の高島の対岸宮浦地区になるのだと言われる。「貝殻山」という名称はいつ頃から使われているかは知らないものの、「縄文海進」(じょうもんかいしん)や「吉備穴海」(きびのあなうみ)の頃から、このあたりにいた人々は、浜辺や海水を含んだ沼などで豊富な貝や魚などを捕って、海岸で土器などを用いて茹(ゆ)でる、焼くなどして食べていたことに関係するのではないか。

 一方、関東では、横浜の夏島(なつしま)の貝殻遺跡のような案配なのかとも推察している。貝殻山遺跡の貝層を掘り下げた砂質土層からは、少数だが土器と石鏃が出土しているとのことであり、少量ながら縄文時代後期のものだと見られている。
 今度は、埋葬人骨に焦点を当てて考えてみよう。2019年、こんな新聞記事が載った。
 「倉敷市教委は10日、発掘調査している縄文時代の貝塚遺跡・中津貝塚(倉敷市玉島黒崎)で、縄文晩期(約3千年前)の土壙墓(どこうぼ)と埋葬人骨が見つかったと発表した。中津貝塚は戦前、縄文土器の一形式「中津式土器」が全国で初めて出土した重要な貝塚だ。

 倉敷市は船元、磯の森貝塚などもあり、西日本屈指の縄文貝塚の密集地。中津貝塚は縄文後期初頭を代表する「磨消(すりけし)縄文」文様の土器が確認されたことで知られる。

 今回の調査は貝塚の分布状況の把握を目的に、2018年度から3年計画で実施。18年度に設けた試掘溝の1カ所で、土壙墓2基とそれぞれから1人分の人骨を確認した1基からは肋骨(ろっこつ)、脊椎骨、鎖骨や手足の骨など、ほぼ全身の骨が出土。もう一方では頭蓋骨が見つかった。本年度は頭蓋骨の出た試掘溝の隣を発掘しており、上腕骨、大腿(だいたい)骨など体部の骨が残っているのを確認した。別の試掘溝では中津式の土器片も出土している。

 前年度見つかった人骨は、国立科学博物館(東京)に送り、年代や性別などを分析中。(以下、略)」(山陽新聞デジタル、2019年12月10日付け)。
 こうしてみると、選択と集中ということで、今後の発掘、研究次第では、わが郷土の縄文人の顔や骨格なりはどうなのがが語れるようになるのではないか。ちなみに、筆者は埼玉県秩父の長瀞(ながとろ)にある県立博物館にて二度ばかり、縄文人の標本(出土の骨格)を拝見して、痛く感動した。中国地方での縄文遺跡の分布は、どんなであろうか。


 それでは、縄文時代の吉備の社会はどのようであったのだろうか。2005年の岡山からの報告に、こうある。
 「縄文時代前期とされる岡山県灘崎町彦崎貝塚の約6000年前の地層から、稲の細胞化石「プラント・オパール」が出土したと、同町教委が18日、発表した。同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が初めて裏付けられる資料」としている。しかし、縄文時代晩期に大陸から伝わったとされる、わが国稲作の起源の定説を約3000年以上もさかのぼることになり、新たな起源論争が起こりそうだ。
 町教委が2003年9月から発掘調査。五つのトレンチから採取した土を別々に分析。地下2・5メートルの土壌から、土1グラム当たり稲のプラント・オパール約2000―3000個が見つかった。これは朝寝鼻貝塚の数千倍の量。主にジャポニカ米系統とみられ、イチョウの葉状の形で、大きさは約30―60マイクロ・メートル(1マイクロ・メートルは1000分の1ミリ)。
 調査した高橋護・元ノートルダム清心女子大教授(考古学)は「稲のプラント・オパールが見つかっただけでも稲の栽培は裏付けられるが、他の植物のものも確認され、栽培リスクを分散していたとみられる。縄文人が農耕に生活を委ねていた証拠」(2005年2月19日付け『読売オンライン』より引用)云々。
 ここにいうイネのプラントオパールは、イネ科植物の葉などの細胞成分ということで、これまで栽培が始まったとされている縄文時代後期(約4000年前)をさらに約3000年遡る可能性を示唆しているというのだが、この列島の稲の栽培に適した地域の所々において、あくまで数ある食料の一つとしてのイネの栽培が入ってきているということであろう。

(続く)

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◻️141の2『岡山の今昔』勝央町(勝田郡)

2019-12-12 09:42:09 | Weblog
141の2『岡山の今昔』勝央町(勝田郡)

 勝央町は岡山県の北東部、津山盆地の東部にあり、中国山脈の主峰、那岐山から西に向かって連なる山山の南、同じ勝田郡内の奈義町、津山市勝北(旧勝田郡勝北町)のほぼ南に広がる。北部は緩やかに傾斜する丘陵が起伏するも、中南部にかけては、町を南北に貫流する滝川に沿って概ね平地が続く。景観は、かなり開けた感じであろうか。
 町の中心地「勝間田」(かつまだ)は、古代の奈良時代から文書(木簡を含む)にもかなり出てくる。かつて出雲往来でにぎわった、津山への、津山からの距離は近く、江戸時代には美作7宿のひとつとして繁盛する。
 全国的にもよく引き合いに出される土地名にて、以下に中村勝男氏による説明をしばし引用させてもらおう。
 「同村は元来勝間田(かつまだ)村と称していたが奈良時代に諸国郡邑の名称は嘉字二字を用いることになり「勝間田」(かつまだ)を「勝田」(かつまだ)とした。近世には「勝間田村」に復した。明治二二年町村制施行に伴って、勝間田村外五か村が合併して「勝田村」(かつまだむら)と旧村名を継承した。
 ところが、隣郡勝北郡に「勝田村」(かつたむら)があり、郵送などにしばしば誤送等があり不便なので、明治二四年に再度「勝間田村」と改称、尋常小学校もこれに関連して校名を明治二七年に「勝間田」と改称した。村名・校名は共に読み方は終始「かつまだ」である。勝間田村は江戸時代慶長九年から慶安年間にかけて、出雲往来が改修されて宿駅が置かれ宿場町として栄えた。明治以後も郡役所、警察署、登記所、郵便局、銀行等が設置され、勝南郡諸般にわたっての中心地であった。」(中村勝男「阿部知二の父良平・母もりよが通った高等小学校」)

 次に、産業としては、何があるのだろうか。まずは、農業面にて、黒大豆からナシ、桃、それにブドウの栽培が有名だ。畜産も盛んだ。少し変わったところでは、農業交流体験施設おかやまファーマーズ・マーケット ノースヴィレッジがある。

 では、工業面ではどうなのであろうか。南部の中国自動車道の勝央サービスエリア近くに勝央町中核工業団地を誘致して久しい。業態としては、薬品や電機から機械など、かなり幅広い。津山口方面との工業立地や商業施設との連結もあって、かなり恵まれているのではないか。

(続く)

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◻️265の5『岡山の今昔』岡山人(20世紀、尾上柴舟)

2019-12-11 21:50:36 | Weblog
265の5『岡山の今昔』岡山人(20世紀、尾上柴舟)

 尾上柴舟(おのえさいしゅう、1876-1957)は、明治から大正にかけての歌人、国文学者、書家。本名は八郎という。津山市田町の旧津山藩士、北郷家の生れ。三男であり、家庭環境は学問に理解があったのではないか。上京して、東京府立一中学校に入る。在学中に、旧津山藩の尾上家を継ぐ。東大国文科を卒業する。
 東京女高の教師から学習院などの教授まで歴任していく。1895年には、落合直文のあさ香社に加わる。1902年には、金子薫園と結んで叙景詩運動をおこす。一説には、「明星」と対立する。1905年には、車前草社(しゃぜんそうしや)を結成する。
 作品は、歌集「銀鈴」(1904)、「静夜」(1907)をへて「永日」(1909)から、「日記の端より」(1913)へ。有名なものでは、「つけ捨てし野火の烟のあかあかと見えゆく頃ぞ山は悲しき」(伊藤城跡歌碑)、「生きぬくきにほひみたせて山ざくら咲き極まれば雨よぶらしも」(津山城跡歌碑)など、温雅にして古典的作風な句が含まれる。
 その作風としては、かなりの小さな字を連ねたりで、そのため、気概がいま一つ、との評価もあったらしい。ところが、1956年(昭和31年)に日展に出した作品(絶筆)、「道」では、「我みちは人のみちとしことならぬ我たどること人はたどらず」の大文字を披露し、実は変幻自在であることを演出して見せた。その生涯に、実に七千余りの歌をよんだといわれ、また書でも一家をなしたあたり、芸術への情熱は限りなく続いたのであろうか。

(続く)

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◻️204の4『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、黒住章堂)

2019-12-08 21:42:41 | Weblog
204の4『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、黒住章堂)

 黒住章堂(くろずみしょうどう、1877~1943)は岡山県御津郡一宮村(現在の岡山市北区)の生まれ。早くから画家を志したらしい。
 岡山や京都で画を学ぶ。のちに、京都画壇の巨匠・竹内栖鳳に師事する。25歳のときに父が亡くなる。これを機に帰郷し、吉備津彦神社の御用絵師なども務める。
 この頃より、寺社再興の資金集めとして始めた観音図制作に取り組む。50代になると、出家する。神奈川県葉山の慶増院(寺名はのちに高養寺、現在は逗子市へ移築)の住職を務める。
 そのかたわら、仏画頒布をおこなう。そんな活動を通じて資金をあつめ、廃寺の危機を救う事業を行う。つまり、彼は自身のためではなく、社会事業のために描いた。その絵の数は、万を超えるというから、驚きだ。
  代表作に、和歌山市の寂光院襖絵がある。かかる寂光院は檀家を持たず、江戸時代には紀州藩の支援があったものの、明治以降はこれに「廃仏毀釈」という政府の施策もあり、資金難から衰退していく。
 
 ここに、1868年(明治2年)の神仏分離令とは、天皇家を神に祭り上げようとする試みの一つであった。それからは、東照宮を含む日光山内の仏教建築物を輪王寺と総称する。それに対し、東照宮以外の日光山内に点在する神道建築を総称して二荒山神社と呼ぶ。そのおりの日光宮寺側の抵抗の要となったのは、神と仏が時とところにより入れ替わるという「神仏習合」であった。また、1870年(明治3年)の鶴岡八幡宮寺においては、かかる分離令になびく。寺からの届け出では薬師堂、護摩堂、大塔、経堂、仁王門を取り壊したという。これを行ったの者は、僧侶から神主に衣替えした上に、門に架かる「鶴岡八幡宮寺」の「寺」の字を削り、その痕跡ばかりとした。
 
 およそそういう次第にて、跡を継ぐ者もないという有り様にて、これらに直面したのが、松江の出身で、寂光院で得度した伊藤尋流であって、1924年に再興に着手し、1935年には庫裏の再建が成ったらしい。
 こうなると、不思議なもので、一連の修復作業の中から、ふすま絵は竹虎図や松鶴図、孔雀牡丹図など44点の襖絵が見つかる。落款などから、黒住章堂の作と分かったという。この様ないきさつから窺えるのは、黒住はおそらく、これらを次々に描いて、寺の再建に寄したと考えられていて、なんとも清々しい話ではないか。

(続く)

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◻️15の2『岡山の今昔』奴隷制社会は実在したか

2019-12-08 10:13:53 | Weblog

15の2『岡山の今昔』奴隷制社会は実在したか

 これまでの倭及び日本の社会中、少なくとも奈良時代までにあっては、生産関係及び全社会構造において奴隷を最末端とする人民圧政の社会であった。このことは、この国のこれまでの歴史学の上では、特段の異論は認められないようである。 
 とはいうものの、多くの歴史家は意識的にか(その幾らかは、天皇制の起源を議論するのとほぼ同様な、いわゆる「タブー視」によるものなのかもしれない)、無意識的にか、このような問いかけによる究明自体を避けてきたことが大いに覗えるのである。ここでは、まず瀧川政次郎氏の大著『「日本奴隷経済史」』からしばらく紹介させていただこう。

 「全国奴隷人口の実数は、全国総人口の実数に、前節に検出せる全人口と奴隷人口との比を乗じて、これを求めるより外に適当なる方法とてはない。故に奴隷人口の実数如何の問題は、簡単に全国総人口の問題に置き換へられる。而してこの問題に就いては、先輩学者の研究が二三あるが、澤田吾一氏の『奈良朝時代民政経済の数的研究』は、それらの中で最も傑出したものであらうと思ふ。故に私は、この問題に就いては、氏の研究を紹介するに止める。
 即ち氏は、まづ前紀の著書の第一篇に於いて、正倉院所伝の帳面を材料として、年齢別と男女別及び男口課別の比例を求め、各その百分比例を作成して居られる。今その百分比例の要領を転載すれば、即ち次の如くである。
 次に氏は、第二篇に於いて、続日本紀、天平十九年五月戊寅の條に見える「・・・・・」なる官奏によって知られる」としているが、以下『続日本書紀』からの引用は、漢文のまま記されているので、ここでは別の同著注釈書により書き下し文を挿入させていただくと、こうある。
 「戌寅(いぬとら)、太政官、奏して曰さく、「封戸の人数の多き少き有るに縁りて、輸(いだ)せる雑物、その数等しからず。是を以(もち)て、官(つかさ)・位同等しきに、給(たま)ふ所は殊に差(たが)へり。法(のり)に准(なずら)へ量(はか)るに、理実(ことわりまことに)に○(かなはず。請(こ)はくは、一戸毎に正丁(しょうちょう)五六人、中男(ちゅうなん)一人を以て率(のり)として、郷別(ごうごと)に課口(くわく)二百八十、中男五十を用(もち)て、擬(なずら)へて定まれる数とし、その田租(でんそ)は一戸毎に○束を限として、加減すべからざらむことを」とまうす。奏するに可としたまふ。」」(青木・稲岡・篠山・白藤校注『続日本書記』(三)岩波書店、1992、43~44ページ)
 ここに「郷」とあるのは、「霊亀元年以後の郡の下の地方行政単位」(同著注)をいう。そこで再度、瀧川氏の論考から引用を続けさせていただく。
 「封戸の郷の課口三百三十人に、前期の課口男口の比を乗じて、この郷の男口六百三十七人を得、更にこれに男口女口の比を乗じて、この郷の女口七百三十七人を得、両者を併せて当時の一郷の平均人口を一千三百九十九人と見積もり、これに和名抄記載の郷数四千四十一を乗じて、全国の総人口を五百六十余万人と計算して居られる。又氏は別に弘仁延喜の主税式に見える諸国の出挙稲額が、その国々の人口と比例的関係にあることに着眼し、弘仁六年八月甘三日の官符に見える陸奥国解に、この国の課丁三万三二九十人、外に勲八等以上の健士一千五百人とあることによって、陸奥国の課口を三万四千七百九十人と算定し、弘仁主税式の陸奥国の出挙稲百二十八万万五千二百束によって、出挙稲一千束に対する課口数二十七人〇七厘を得、これを弘仁延喜の諸国出挙稲に乗じて、諸国の課口数と人口数とを得、これを合計することによって、全国の人口を五百五十八万六千二百人と計算して居られる。」(瀧川政次郎「日本奴隷経済史」刀江書院、1972再発行)
 続いて奴隷の地方的分布を見る場合においても、澤田氏の研究をそのまま引用する形で、次のように述べておられる。
 「即ち澤田氏は、前述の如く、弘仁六年八月二三日の官符に見える陸奥国の課口数と弘仁主税式の陸奥国の出挙稲額とによって、出挙稲一千束に対する課口数を算出し、これを弘仁延喜式の主税式に見える諸国の出挙稲数を乗じて、諸国の課口数とを次表の如く計算して居られる。」
 掲げられる表中の「美作」は、「弘仁苗」では7400、その課丁が2003、それに見合うであろう「人口」が1071人となる。また「延喜苗」が1万2210もしくは7640、その課丁が(2684)もしくは1679、それに見合うであろう「人口」が()1435人)もしくは898人となる。続いて「備前」は、「弘仁苗」が8033、その「課丁」が2175、それに見合うであろ「人口」が1163人となる。また「延喜苗」が9566、その課丁が2103、それに見合うであろう「人口」が1124人となっている。さらに「備中」としてあるのは、「弘仁苗」が6400、その課丁が1732、そに見合うであろう「人口」が926人となる。また「延喜苗」が7430、その課丁が1633、それに見合うであろう「人口」が873人ということになる。ただし、畿内諸国は「調」が半減されたり、「出挙稲」の配分額も半分に減額があることから、半減の表も掲げておられる)
 その上で瀧川氏は、澤田氏の業績をこうまとめておられる。
 「依って諸国の奴隷人口は、右の諸国全人口に一割乃至一割五分を乗ずることによって容易にこれを算出することができる。而してそのこれを算出した結果は、奴隷人口は東海、東山の二道に最も多く、西海、山陽の二道これに次ぎ、南海、北陸、畿内は最も少ないと云ふことになっているが、その面積によって奴隷分布の密度を計れば、畿内諸国は第一位を占め、西海、山陽の二道これに次ぎ、東海、東山の諸道は第三位以下に落ちる。」(同著) 
 翻ってみれば、このような制度が成り立たつには、それなりの社会的な生産が実現されていることがあり、例えば、文化人類学者によりこういわれる。
 「奴隷制度は、初期の国家の大半が、首長社会よりも大規模に取り入れていた。これは、首長社会のほうが倒した敵を情け深く取り扱ったからではない。国家のほうが、労働の分化が進んでいて、奴隷にさせる仕事がたくさんあったからである。食料生産や公共事業がより大規模におこなわれるようになっていたからであり、国家間の戦闘のほうが、首長社会同士の戦いよりも大規模で、多くの敵国人を捕虜にできたからである。」(ジャレド・ダイヤモンド著、楡井浩一(にれいこういち)訳「文明崩壊ー滅亡と存続の命運を分けるもの」草思社、2005)
    もっとも、古代日本において、海外に戦闘に繁く出て行き、かつ捕虜を連れかえった話という話は、ほとんど聞かない。だから、上の指摘があるのは、一般的なレベルて念頭に置いておけばよいのではなかろうか。


(続く)

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◻️140『岡山の今昔』高野、勝北、日本原、奈義から鳥取へ

2019-12-07 18:43:57 | Weblog

140『岡山の今昔』高野、勝北、日本原、奈義から鳥取へ

 さて、私の故郷は、この鳥取へ向かう道の途中にある。中国山地の麓にほど近い、美作の北東部(作北・横仙)にある。中世から現在の岡山県は備前、備中、美作の3つに区分されている。故郷はその中央から北東部の美作と呼ばれる地帯にある。生家のあるところは勝田郡(かつたぐん)の十四郷の一つで新野郷(にいのごう)と呼ばれていた。この名は奈良期から平安期に見える地名であって、平城京出土の木簡18号には、「美作国勝田郡新野郷傭米六斗」と墨書されている。美作の地名の由来は、これも朝鮮半島と因縁が深いことで知られている。

 「勝田(かつた)郡の「勝田」の訓は、「延喜式」民部省に、「カツタ」とあり、「和名鞘抄に加豆万多(かつまた)とある。勝田郡勝田郷の「勝田」の訓は、高山寺本「和名抄」に「加豆万多(かつまた)」、刊本に「加都多(かつた)とある。『美作風土記』逸文に勝間田(かつまた)池がみえるので、カツタ(勝田)は、カスカラ(大東加羅〈百〉がカスカラ→カツクラ→カツウラ→カツラ(桂)→カツタ(勝田)と変わった地名で、勝間田(かつまた)はカスカラ(大東加羅〈百〉)がカツマタに転訛した地名とみられる」(石波)との説がある。
 そこで、津山から因幡往来へ通じるための道のりであるが、江戸期までの人々は、川崎の玉琳(ぎょくりん)のところで、出雲街道と袂(たもと)を分かつ。しづな坂を越して、下押入へ進んでいく。下押入地区に入った因幡往来・因幡道(いなばおうらい・いなばみち)は、大別するに加茂道と、勝北へと通っていく道とに分かれる。今で言うと、県兼田上横野線の山西地区との境のところに、元禄年間(1688年~1704年)に造られた、花崗岩の道標が立っていて、東は因幡道、西は加茂道と教えてくれている。
 ここに加茂道とは、加茂谷に通じる道である。ここで土地の人にやや詳しく解説してもらうと、「下押入のところから鹿の子に入り、西高下を通って、夏目池の下を通り、現在の美作の丘の北を揚舟(あげふね)に抜けてて、綾部(あやべ)を通って、加茂谷に入」(津山市高野小学校編「むかし高野」1998年刊)るまでをいっていた。
 それから勝北方面へ向かう因幡道については、1970年(昭和45年)頃、中国縦貫自動車道の開通とともに従来の因幡往来が大きく路線変更になった。それまでの因幡往来・因幡道は、兼田橋から加茂川に沿って国立療養所(現在の津山中央病院のあたり)の南を北上していた。そのルートが、河辺地区を通り、加茂川を渡り、下押入から押入、高野へと抜けている。さらに野村、楢と北上したところで、同じ加茂川を今度は西から東へと渡って、勝北方面へと進んでくのである。その間、ゆるやかながらも500メートル位はありそうな奈良坂を上りきると、そこは勝北(現在は津山市)であり、この歩いての道こそは因幡道の本道にして、この後で紹介する、国道53号線を路線バスに乗って行く道とほぼ同じものと言って良いのではないか。
 勝北からの因幡往来の進路であるが、奈義へと北東への道を通り抜けていく。国道53号線を行方のバス停留所から関本へと進んでいくのには、幼い頃母と兄そして私の三人でこの道を何度も歩いた。
 奈義トンネルが見える頃には、どっぷりと日が暮れていた。さて、話を戻して、そのまま進んで奈義トンネルを抜けると、上り勾配がきつくなる。そのうちに赤く塗装されたループ橋をくぐり抜けたかに見える。しばらく行くと、ゆっくりしたうねりに差し掛かるではないか。車は、高度を稼いでいく。なんとなれば、これこそがさっき見たループ橋なのだと気がつく。
 そこで、若干の説明をさせてもらうと、このあたりは旧黒尾峠からかなり低い。そこで、この峠を越えるには、かなりの高低差をクリアするすべを持たねばならない。そこで1970年(昭和45年)に造られたのが、45~60メートル位の高度をなす空間において、半径が100メートル位の曲線を描いて峠を跨ぐようにして架かる、この「馬桑ループ橋」なのだという。
 もっというと、この鳥取との県境に、1971年(昭和46年)9月24日、「孤」を描くループ橋は延長180メートルという、「西日本一のループ橋」が完成し、国道53号線が全線(135キロメートル)開通した。建設省が、その2年前から約40億円をかけて進めてきた。両県を結ぶトンネルは延長843メートル、深さ32メートルの谷間に架かっている橋を下から見上げると、壮観である。
 それからも、両脇が山林の中を進む。やがて、鳥取県との境の黒尾峠をトンネルで抜ける。その長さはというと、果たしてそこはもう鳥取県にして、県境は、トンネルの中であったのだ。今度は下り坂となって山の中ながらだんだんに視界が開けつつ進んでいく。そこからさらに、因幡(いなば、今の鳥取県全域)の智頭町(ちずちょう、鳥取県八頭郡)、用瀬(もちがせちょう、同郡)から鳥取城下(今の鳥取市)へと向かう。

(続く)

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◻️232の15『岡山の今昔』岡山人(20世紀、本田實と小槙孝二郎)

2019-12-01 20:17:00 | Weblog

232の15『岡山の今昔』岡山人(20世紀、本田實と小槙孝二郎)

 本田實(ほんだみのる、1913年~)は、天文家。鳥取県八頭郡八東村(現在の八頭町)の農家の長男の生まれ。1927年頃に、直径28ミリメートルのレンズを購入し、望遠鏡を自作したというから、既にやる気満々であったのではなかろうか。比較的作りやすいとされる「ニュートン式反射望遠鏡」でいうと、「「主鏡」とも呼ばれる凹面鏡が、筒のおしり、つまり底の部分にあって、そこで反射した光が、筒先の平面鏡「斜鏡」で折り曲げられ、筒の側面の外側に導き出されてくるようになっています」(藤井旭「天体望遠鏡の使い方がわかる本」誠文堂新光社わ2007)とのこと。それにしても、もしそうであったなら、あの時代に肝心の凹面鏡をどうやって手に入れたのだろうか。

 それからは、神田茂著『彗星の話』を読み、彗星探しを決意したらしい。1932年(昭和7年)頃でのことながら、自作望遠鏡で見つけた光を彗星と誤って「京都帝国大学附属花山天文台(かざんてんもんだい)」に知らせるも、その光は実は、レンズの反射光だったことを指摘される。これが転機となり、天文学を学ぶため、花山天文台長・山本一清の指導を受ける。精進のかいあって、山本が開設した「黄道光観測所」(広島県沼隈郡瀬戸村、現在は福山市)の観測員となる。

 1941年(昭和16年)4月には、民間の「倉敷天文台」台員に着任する。この天文台は、「広く一般に天文知識を普及するため」ということで、1926年(大正15年)、元倉敷町長の原澄治によって設立された日本最初の民間天文台だ。そのあたりは、倉敷市中央にありながら、静かな住宅地だという。

 ところが、同年8月には、召集され、中国東北部へ、さらにシンガポールへとやらされる。敗戦により復員。1947年、34歳の時には元の職場にあって、戦後としては日本人初の新彗星を見つけ、これが認められ、「本田彗星」と命名される。1952年(昭和27年)には、「財団法人倉敷天文台」主事に着任する。そこでの主な観測機材としては、31.5センチメートルカセグレン式反射望遠鏡と15センチメートル対空型双眼望遠鏡(本田實が彗星捜査に使用していた望遠鏡)だという。前者は、イギリスより購入した望遠鏡(鏡はカルバー研磨)であるという。

 1967年(昭和42年)になると、今度は「若竹の園保育園」園長になる。それからも、天文観測を続け、多くの新星や彗星を発言していく、アマチュア天文界のパイオニアの一人として活躍をしていく。生涯に彗星12個、新星11個を発見したと伝わる。
 ちなみに、この天文台だが、
現在でも地域の人々に天文一般知識普及活動を無料で行い、月に一回の天体観望会を実施している。

 小槙孝二郎(こまきこうじろう、1903~ 1969)は、アマチュア天文家。津山市上之町の山本家に生まれる。1921年には、天文同好会(後の東亜天文学会)に入り、京都大学の山本一清に師事する。同会の流星課長として月刊誌「天界」に寄稿していく。
 1925年には、和歌山県有田郡(現・有田川町)に転居し、小槙姓を名乗る。以後、教職との「二足のわらじ」ながら流星観測を続ける。1943年(昭和18年)には、紀伊天文同好会の設立に参加する。戦後になると、これが「日本流星研究会」に発展していく。これにて全国的な流星観測のネットワークが発展していくことになる。このかいあって、47年間にわたる同会の流星観測数は2万数千個に及んだというから、驚きだ。

(続く)

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◻️221『岡山の今昔』岡山人(20世紀、山内善男、大森熊太郎、小山益太、大久保重五郎、西岡仲一)

2019-12-01 18:24:49 | Weblog

221『岡山の今昔』岡山人(20世紀、山内善男、大森熊太郎、小山益太、大久保重五郎、西岡仲一)

 我が国における果樹栽培の発端とは、どんなであったろうか。山内善男(やまうちよしお、1844~1920)は、当時の津高郡(現在の岡山市北区)に生まれる。岡山藩に登用される。明治維新の後は、郷里に戻り、多種の商売を志す。そんな中で、このあと紹介する大森熊太郎(おおもりくまたろう、)とともに、ぶどう栽培を手掛ける。
 それは、切磋琢磨の時期だったのであろうか、1888年(明治21年)、マスカットオブアレクサンドリアの栽培にこぎ着ける。これより前の1875年(明治8年)には、中国から上海水蜜、天津水蜜などが中国から日本にもたらされる。1915年(大正4年)には、ぶどう栽培の温室化と販売促進を目的とする祖山会を中心となって立ち上げる。そればかりか、害虫の駆除を研究し、袋かけ法を考案する。

 大森は、山内と同じ村の出身で、1875年(明治8年)に、それまでの郵便御用取り扱いの仕事をやめて、山内らと園芸で身を立てようとする。友人からフランスの事情を聞き、ぶどう栽培を志す。1878年には、岡山県にはじめてアメリカ産ぶどうを入れる。1883年(明治16年)には、今度はヨーロッパから新種を入れる。

 そして迎えた1886年(明治19年)、大森は、山内とともに前述のぶどう栽培の温室化を手掛けるのであった。1902年には、実績をかわれて兵庫県明石農事試験場に招かれる。

 大久保重五郎(おおくぼじゅうごろう、1867~1941)は現在の岡山県瀬戸町の生まれ。小学校を卒業すると直ぐに、岡山で「果樹栽培の祖」と呼ばれる小山益太(1861~1924、現在の岡山県熊山町)に入門し、漢学と果樹栽培(桃、ブドウ、梨など)を学ぶ。

 これらのうち桃については、師匠の小山益太(こやまえきた、1861~1924)が桃の新品種「金桃」(1895)を生み出すほどの大家であったことを、まず言わなければならぬだろう。その小山は、現在の熊山町の豪農の家に生まれる。長じては、広大な果樹園を使い、桃やブドウ、梨などを育てる。他にも桃の新品種「六水」を生み、果樹の袋かけ法の改善、それにボルドー液を試したり、殺虫剤の創案にも関与した(その情熱の概要は、三宅忠一「岡山の果物、果実の百年史」日本文教出版の岡山文庫、1968に詳しい)。

 その開拓者精神を高く評価した大原孫三郎は、1914年(大正3年)の大原農業研究所の開設時に小山を園芸部の指導者として招き、こやまは約10年間にわたりその役割を果たす。

 さて、話を戻しての、それからの大久保は、そこで交配や剪定、病害虫への対処方法など、いろいろと精出すのであった。中でも、明治期に中国から持ち込まれた上海水蜜、天津水蜜などを品種改良してより美味しい、市場価値の高い桃を栽培できないか、研究を重ねるようになる。ちなみに、一説には、中国の黄河流域あたりの原産だと伝わる桃が、どんな人に運ばれてか、はるばる日本列島に伝わったのは、弥生時代の頃ではないかという。

 そして迎えた1901年(明治34年)に、大久保は、上海水蜜系とされる新品種「白桃」の開発に成功する。その味の特徴だが、強い甘みとねっとりした食感だとから注目される。近隣の農家に、やがて県南部へと栽培が広まっていく。そればかりか、現在、日本の産地で中心となっている桃の相当部分も、そのルーツは「白桃」だともいわれる。
 この品種が元となってか、1932年(昭和7年)に西岡仲一(現在の岡山市芳賀)が「新品種の「清水白桃」を育て上げ、公表にいたる。やわらかな食感が人気を起こし、現在の日本に極めて広く伝わる。これは、現在も高品質の白桃の代名詞となっているとのこと。

(続く)

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