3の1『岡山の今昔』旧石器・縄文時代の吉備(遺跡から)
現在の行政区である岡山県は、それより前の地名でいうと、「備前」(びぜん)、「備中」(びっちゅう)そして「美作」(みまさか)という3つのエリアから成り立っている。さらに前の上代・律令国家時代の初め、この地域は、「吉備国」(きびのくに)と呼ばれ、この3つの地域と今は西隣の備後(びんご、現在の広島県西部)とを中核として、かなり強力な力を誇示していたのであった。それでは、この地のその前はどのようであったのだろうか。時代は、これらをあわせての4つの国(地域国家)の区割りのまだなかった弥生時代以前に遡ることになろう。
ところが、当時のこの地域がどう呼ばれていたかは、未だにはっきりしていない。そもそも、当時この地域を支配していたであろう国が、かれらの連合体(さしあたり、古代のユナイテット・ステイツと呼びたい)である倭(「わ」もしくは「やまと」、後者の呼び名は例えば人事屋に奉納する「倭舞」(やまとまい)に見られる)の中に存在していたのかもしれない。
ところが、その当該の国が、3世紀を知る中国の史書『魏志倭人伝』で挙げられる三十余国中のどの国であったのか、当時の「邪馬台国」という連合国家の一員であったのか、そのことを特定することがかなわないままなのだ(ただし、諸説は寄せられている)。
とはいえ、弥生時代の中期(紀元前400年位~紀元前後)にかけては、現在の大阪湾から瀬戸内地方にかけての海岸地層からは、石鏃(せきぞく、鏃はやじり)などの石器が多数出土している。これととともに、わざわざ高地を選んでの集落形成跡が広く認められる。これらの備えや防衛手段なりに出ていたことからは、この時代に集団間の激しい争いが続いていたことが広く窺える。
ついては仮に、この時代においてもこの地は、仮に「吉備」(きび)と言う名で呼ばれていたとして話を進めようと思うのだが、この名の由来がわかっていない。そこで思いつくのは、あの穀物の「黍」(きび)ではないか。ほかにも、「連合」を意味しているのではないか、等々の説があるが、いずれも決め手に欠ける。
おそらくは、縄文時代の初期位に、このあたり、笠岡・倉敷・岡山・児島、下津井辺りの平野までやって来た人々の中には、そのまま東へ向かわずにこの当たりに住み着くか、それとも高梁川(たかはしがわ)、旭川、吉井川の3本の河川を伝って北上したグループがいたとみられる。こちらへ進出した人々が定住し、そこで本格的な農耕を行うことでの弥生時代の特徴は、集団での農耕であるが、この地方においては、定住の拠り所となっていた遺跡は瀬戸内に面した平野を中心に散在していて、いずれも小規模なものの寄り合わせであったのであろうか。
この岡山で縄文時代のものとおぼしき遺跡としては、貝殻山遺跡(かいがらやまいせき)が挙げられるのだろう。貝殻山は、今は岡山市内から南に位置する児島半島(当時は島であった)にある。市内からの手頃な山歩きコースの一つであって、その登山口は神武由来の高島の対岸宮浦地区になるのだと言われる。「貝殻山」という名称はいつ頃から使われているかは知らないものの、「縄文海進」(じょうもんかいしん)や「吉備穴海」(きびのあなうみ)の頃から、このあたりにいた人々は、浜辺や海水を含んだ沼などで豊富な貝や魚などを捕って、海岸で土器などを用いて茹(ゆ)でる、焼くなどして食べていたことに関係するのではないか。
一方、関東では、横浜の夏島(なつしま)の貝殻遺跡のような案配なのかとも推察している。貝殻山遺跡の貝層を掘り下げた砂質土層からは、少数だが土器と石鏃が出土しているとのことであり、少量ながら縄文時代後期のものだと見られている。
今度は、埋葬人骨に焦点を当てて考えてみよう。2019年、こんな新聞記事が載った。
「倉敷市教委は10日、発掘調査している縄文時代の貝塚遺跡・中津貝塚(倉敷市玉島黒崎)で、縄文晩期(約3千年前)の土壙墓(どこうぼ)と埋葬人骨が見つかったと発表した。中津貝塚は戦前、縄文土器の一形式「中津式土器」が全国で初めて出土した重要な貝塚だ。
倉敷市は船元、磯の森貝塚などもあり、西日本屈指の縄文貝塚の密集地。中津貝塚は縄文後期初頭を代表する「磨消(すりけし)縄文」文様の土器が確認されたことで知られる。
今回の調査は貝塚の分布状況の把握を目的に、2018年度から3年計画で実施。18年度に設けた試掘溝の1カ所で、土壙墓2基とそれぞれから1人分の人骨を確認した1基からは肋骨(ろっこつ)、脊椎骨、鎖骨や手足の骨など、ほぼ全身の骨が出土。もう一方では頭蓋骨が見つかった。本年度は頭蓋骨の出た試掘溝の隣を発掘しており、上腕骨、大腿(だいたい)骨など体部の骨が残っているのを確認した。別の試掘溝では中津式の土器片も出土している。
前年度見つかった人骨は、国立科学博物館(東京)に送り、年代や性別などを分析中。(以下、略)」(山陽新聞デジタル、2019年12月10日付け)。
こうしてみると、選択と集中ということで、今後の発掘、研究次第では、わが郷土の縄文人の顔や骨格なりはどうなのがが語れるようになるのではないか。ちなみに、筆者は埼玉県秩父の長瀞(ながとろ)にある県立博物館にて二度ばかり、縄文人の標本(出土の骨格)を拝見して、痛く感動した。中国地方での縄文遺跡の分布は、どんなであろうか。
それでは、縄文時代の吉備の社会はどのようであったのだろうか。2005年の岡山からの報告に、こうある。
「縄文時代前期とされる岡山県灘崎町彦崎貝塚の約6000年前の地層から、稲の細胞化石「プラント・オパール」が出土したと、同町教委が18日、発表した。同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が初めて裏付けられる資料」としている。しかし、縄文時代晩期に大陸から伝わったとされる、わが国稲作の起源の定説を約3000年以上もさかのぼることになり、新たな起源論争が起こりそうだ。
町教委が2003年9月から発掘調査。五つのトレンチから採取した土を別々に分析。地下2・5メートルの土壌から、土1グラム当たり稲のプラント・オパール約2000―3000個が見つかった。これは朝寝鼻貝塚の数千倍の量。主にジャポニカ米系統とみられ、イチョウの葉状の形で、大きさは約30―60マイクロ・メートル(1マイクロ・メートルは1000分の1ミリ)。
調査した高橋護・元ノートルダム清心女子大教授(考古学)は「稲のプラント・オパールが見つかっただけでも稲の栽培は裏付けられるが、他の植物のものも確認され、栽培リスクを分散していたとみられる。縄文人が農耕に生活を委ねていた証拠」(2005年2月19日付け『読売オンライン』より引用)云々。
ここにいうイネのプラントオパールは、イネ科植物の葉などの細胞成分ということで、これまで栽培が始まったとされている縄文時代後期(約4000年前)をさらに約3000年遡る可能性を示唆しているというのだが、この列島の稲の栽培に適した地域の所々において、あくまで数ある食料の一つとしてのイネの栽培が入ってきているということであろう。
(続く)
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