○152『自然と人間の歴史・日本篇』戦国大名の分国法

2020-09-21 15:51:23 | Weblog
152『自然と人間の歴史・日本篇』戦国大名の分国法


 分国法(ぶんこくほう)というのは、戦国大事たちが自分史たちの領国支配のためにつくって、統治の要とした定めであった。
 早い時期のものでは、「朝倉孝景条々」(認定は1471~1481)、「大内氏掟書」(認定者は大内持世(おおうちもちよ)、大内義隆(おおうちよしたか)、認定年は1495頃)が有名だ。

 ここでは、武田晴信(のちの武田信玄)が1547年(天文16年)に定めた「甲州法度之次第」(「信玄家法」、「甲州法度」、あるいは「甲州式目」とも呼ばれる)を、ごく簡単に紹介しよう。

 この年は、晴信が宿老の板垣らの要請があってか、父の武田信虎(たけだのぶとら)を追放した、それから十年目であり、そろそろ治世の本領発揮の時を迎えていたのだろう。

 この法令の構成は、57カ条の上巻と、99カ条の下巻に分かれており、上巻が法令集なのに対し、下巻は前者よりやや緩い形での、概ね「家訓」に近い。

 まずは、第1条において、「国中の地頭人」と「晴信被官」をはじめとする者らとの間柄を取り上げる。どのような関わりかというと、「田畠」のこと、「年貢・諸役等」、さらに「恩地」、「在家ならびに妻子資財の事」に至るまで、全般的に細かに説き起こすことを宣言する。

 しかしながら、それだけでは心許ないのか、終わりの部分に近い第55条には、こうある。

 「晴信、行儀其の外の法度以下に於て旨趣相違の事あらば、貴賤を撰ばず 目安を以て申すべし。時宜に依って、其の覚悟すべきものなり。 右五十五ヶ条は、天文十六丁末(年)六月定め置きおわんぬ。 追って二ヶ条は天文二十三甲寅五月之を定む。」

 かくして、施政者自ら「時宜に依って、其の覚悟すべきものなり」といい放ち、この法令を遵守すると誓う。そのことにより、一人の例外なく法令にたがわぬように仕向けている。すなわち、晴信が率先して模範を示すことでなければ、皆が納得してこの法令を遵守することにはなるまい、との熟慮が窺えよう。


 それからは、家臣が喧嘩した際の「両成敗」をはじめ色々あるも、やはり統治の根本としては、土地とそこからの収穫、したがって年貢などに関しての、領主と「百姓」の、前者による後者に対しての支配(後者からいうと、前者への従属関係)を論じていて、おもなる項目としては、次の三つであろうか。

 第6条

 「百姓、年貢を抑留するの事、罪科軽からず。 百姓に於いては、地頭の覚悟に任せ所務せしむべし。 若し非分の儀あらば検使を以って之を改むべし。」
 この規定は、農民が、地頭の年貢などを納入しないのを、あくまでも未然に防ぎたいのだろう。

 第7条

 「名田地、意趣なく取り放すの事、非法の至りなり。但し年貢等過分の無沙汰あり あまつさへ両年に至りては是非に及ばざるか。」

 第57条

 「百姓隠田あらば、数拾年を経ると雖も、地頭の見聞きに任せ、之を改むべし。 然うして百姓申す旨あらば、対決に及び猶以て分明ならずば、実検使を遣し 之を定べし。若し地頭非分あらば、其の過怠あるべし。」

 これらの規定の中には、要は、百姓はがんじがらめの状態にして、万事抜かりなく、その働き如何を監視していたのが窺えよう。

 なお参考までに、伊達氏の例にはさらなる下りがあって、「一、ひやくしやう、ちとうのねんくしよたう相つとめす、たりやうへまかりさる事、ぬす人のさいくはたるへし。」(153年の6「塵芥集」、伊達種宗(だてたねむね)、平易なかな混じり文でしるされているのは、「後成敗式も目」にならった、と伝わる)とあり、地頭の年貢などを納入することなく、他の領主の所領に逃げ込んだ場合には、「盗人」として追及することになっていた。


 その他の珍しい取り決めでは、例えば第22条には、「浄土宗、日蓮宗と、分国に於いて法論あるべからず 若し取り持つ人あらば、師檀共に罪科に処すべし。」といって、支配階層から見て世俗権威にさからう者には信教の自由を認めていない。

 なお、他の大名においても、領国の置かれている状況の違いを受けてだろうか、例えば、「今川仮名目録」(1526、今川氏親(いまがわうじちか))には、こうある。

 「駿遠両国の輩(ともがら)、或(あるいは)わたくしとして他国よりよめ(嫁)を取、或ハむこ(婿)に取、むすめ(娘)をつかはす事、自今(じこん)以後これを停止(ちようじ)し畢(おわ)んぬ。」

 と、いうことで、血統を重んじる家風を家臣に押し付けているのは、いかがなものか。


(続く)

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新◻️95『岡山の今昔』備中高梁(~戦国時代、領国支配をめぐって)

2020-09-20 22:38:17 | Weblog
新95『岡山の今昔』備中高梁(~戦国時代、領国支配をめぐって)
 
 ここに最初に居城していたのは、備中の有漢郷(現在の上房郡有漢町)の地頭であった秋庭重信(あきばしげのぶ)であった。この居城、秋庭氏(あきばし)が5代続いた後の元弘年間(1331~33)には、高橋氏にとって替わり、高橋九郎左衛門宗康が城主となる。
 
 折しも、南北朝の動乱期の只中で、宗康は松山城の城域を大松山から小松山まで拡大し、外敵の侵入に備えた。この九郎左衛門にちなむ逸話としては、自分の名前と地名が同じなのは気に入らなかったのか、高橋改め松山と号す。
 
 ところが、明治になってこの松山が伊予国の松山と紛らわしいという声が上がる。一悶着(ひともんちゃく)があったのかどうかはつまびらかでないものの、結局は、前々のものとは区別する意味も込めてか、橋梁もしくは中国王朝にあった「梁」(りょう、中国語名では「リアン」)にあやかってか、梁を採用することにし、高梁(たかはし)で落ち着いたらしい。

 ここで話を戻して、さらに戦国に入っての15世紀といえば、かの応仁の乱が終わる頃には、室町幕府の権威はあらかた失墜していた(その時の九代将軍の足利義尚(あしかがよしひさ)は足利義政の子。放蕩の末にか、1489年(延徳元年)に近江守護大名六角氏討伐の陣中で病死。)。

 その頃の備前、備中そして美作をふくめての次の記述たるや、そのことを生々しく、こう伝える。
 「文明九年十二月十日、・・・就中天下の事、更に以て目出度き子細これ無し。近国においては近江、三乃、尾帳、遠江、三川、飛騨、能登、加賀、越前、大和、河内、此等は悉く皆御下知に応ぜず、年貢等一向進上せざる国共なり。其の外は紀州、摂州、越中、和泉、此等は国中乱るるの間、年貢等の事、是非に及ばざる者なり。
 さて公方御下知の国々は幡摩、備前、美作、備中、備後、伊勢、伊賀、淡路、四国等なり。一切御下知に応ぜず。
 守護の体(てい)、別体(べったい)においては、御下知畏(かしこ)入るの由申入れ、遵行等これを成すといえども、守護代以下在国の物、中々承引に能(あた)はざる事共なり。よって日本国は悉く以て以て御下知に応ぜざるなり」(興福寺の大乗院の尋尊による「大乗院寺社雑事記」)
 
 
 これにあるのは、「就中天下の事、更に以て目出度き子細これ無し」(現代訳は、うまく政治が行われているといったことはまったくない)に始まり、「よって日本国は悉く以て以て御下知に応ぜざるなり」(現代訳は、日本国産中においてはことごとく幕府の命令を受け入れようとしない)で締めくくるという具合にて、致し方ないといったところか。
 
 さても、このように歴史の流れに身を置きつつも、1533年(天文2年)、備中の猿掛城主だった庄為資が尼子氏と組んで、備中松山の覇権を握っていた上野信孝を破り備中松山城を取り込んだ。同じ頃川上郡・鶴首城や国吉城を拠点とする三村氏もまた、備中への進出の機をうかがっていた。三村氏はまた、庄氏のバックである鳥取の尼子氏(あまこし)と敵対関係にあった。そこで西の毛利氏と連絡し、この力を借りて松山城へ侵攻しこれを奪取した。
 
 かくて、備中に拠点を得た三村氏は、その余勢をかりて1567年(永録10年)、備前藩宇喜多直家の沼城にまで足を運んでこれを攻め立てるのを繰り返していた。さらに三村家親が備前、宇喜多家攻めで美作方面に出陣中、刺客に襲われ、落命するという珍事が起こる。

 その後を継いだ子の三村元親は、よほど悔しかったのだろうか、1568年(永録11年)に弔(とむら)い合戦のため再び備前に攻め込む。一説には、総勢2万の軍勢を三手に分けて、5千を擁する宇喜多勢を撃破しようとしたのであったが、かえって地の利のある宇喜多勢に撃退されてしまう。この合戦を、「明禅寺崩れ」(みょうぜんじくずれ)と呼ぶ。
 
 この大敗によって敗走した三村氏であったが、その後の毛利氏の援助により、松山城を拠点とし何とか勢力をつないでいく。この同じ年、三村氏に率いられた備中の軍勢が毛利氏の九州進攻に参加していた隙をつき、宇喜多直家は備中に侵攻した。備中松山城を守る庄高資や斉田城主・植木秀長などは、この時に宇喜多側に寝返った。猿掛城も奪還されることとなり、ついに備中松山城を攻撃し庄氏を追い落とした。それからは城主であった三村元親が高梁に戻って奮戦、備中松山城をようやく奪還し、同城に大幅に手を加えて要塞化するのだった。

 そして迎えた1574年(天正2年)、毛利氏の山陽道守将で元就の三男の小早川隆景が、宇喜多直家と同盟を結んだ。このため、宇喜多氏に遺恨を持つ元親は毛利氏より離反するのを余儀なくされる。あえて孤立を選んだ当主の三村元親は、叔父の三村親成とその子・親宣などの反対を押し切り、中国地方に進出の機会をうかがう織田信長と連絡するに至る。戦いの火蓋が切られると、備中松山の城ばかりでなく、臥牛山全体が要塞化される。
 
 この城が毛利軍に包囲されて後は、内応する者が次々と現れる。明けて1575年(天正3年)には、最後まで残った家臣の説得により、元親はついに城を捨てることに決める。落ち延びていく途中で元親死んだことにより、備中松山城と三村氏の領地はついに毛利氏の支配下に編入された。この一連の戦いを、備中全体を揺るがしたという意味を込め「備中兵乱」(びっちゅうひょうらん)と呼ぶ。

(続く)

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○161の4『自然と人間の歴史・日本篇』厳島の戦い(1555)と川中島の戦い(1561)

2020-09-18 19:52:40 | Weblog
161の4『自然と人間の歴史・日本篇』厳島の戦い(1555)と川中島の戦い(1561)


 戦国時代最大規模の戦いということでは、何があるのだろうか。やはり、それには、後への影響も含めて広い視野に立った検討が求められるのではないだろうか。

 まずは、安芸国(あきのくに)厳島(いつくしま)の戦いをかいつまんで紹介しよう。そのきっかけとしては、1553年、毛利元就は、主君の大内義隆(おおうちよしたか)を下克上で討った陶晴賢(すえはるたか)に対し、兵を挙げる。やがて、毛利軍は、宮島に宮ノ尾に城を築く。その頃、すでに、数に勝る陶軍をおびき寄せて叩きたいと考えていたのかもしれない


 そして迎えた1555年10月1日の未明、陶軍の約2万人の軍勢に対し、毛利軍の約4千人の兵は港を出て、包ヶ浦に上陸を果たす。
 この航海においては、暴風雨の中、先頭の船だけに灯りをともす。味方には、兵の数に怯(ひる)まないだけの士気が上がっていたようだ。


 それからの毛利軍は、博打尾根を超え、敵の本陣のある塔の岡をつく。そうはいっても、陶軍は、軍備を完全にほどいていた訳ではあるまい。それとも、何かに気をとられていて気がつくのが遅れたのだろうか。そこらあたりのところは謎に包まれているような気がしてならない。

 ともあれ、一説には、陶軍は不意を衝かれて抗戦するも、四方八方に敗走し、晴賢は大江浦(おおえのうら)まで逃げむも、自刃したという。

 その実、元就の1557年(弘治3年)の自筆書状においては、「さては、厳島において、いよいよ大利を得る寄端にて候や。藻となり罷り渡り候時、かくの如きの仕候間、大明神御加護も候と、心中安堵候つ。然る間、厳島を皆々御信仰肝要本望たるべく候」と記されている(小和田哲男「戦国武将の手紙を読むー浮かびあがる人間模様」中公新書、2010)。


 ともあれ、この一戦で毛利氏の中国地方での躍進が始まったことはいうまでもなく、毛利氏の勢力拡張にかける夢は西へ、播磨や摂津そして畿内、さらに都のある京都の方へと伸びていく。


 二つ目に移ろう。そこで本州を東に向かっていくと、北信濃(きたしなの)が見えてこよう。1561年(永禄4年)9月10日(多数説では、その前に3回、その後に1回の対陣があったという、1553年からの約12年間の長きにわたる)は、すなわち武田信玄と上杉謙信との四度目の両軍対陣にして、これを「川中島の戦い」と言い慣わしている。なお、ここで川中島というのは、信濃更級郡の犀川(さいがわ)と千曲川(ちくまがわ)との合流地点を、その中洲(なかす)辺りをいう。

 はじめに、なぜこの戦いに至ったのかは、よくわかっていないものの、信濃のかなりを領していた村上義清が信玄に追われて謙信に助けを求めたこと、奥信濃の高梨氏や井上氏らが不安を感じ、これまた謙信の庇護を求めたという。

 一方の信玄の動機としては、当時相模の北条氏康、駿河の今川義元と甲相駿3国同盟を締結していたことで、北や西にじわりじわりと進出したい話ではなかったか。とりわけ、川中島地方の穀倉地帯、ひいては海のある越後への足掛かりを求めたのではないかとも。いずれにしても、それらしき史料は見つかっておらず、推測の域を出ない。

 そこで戦いの模様だが、一説には、軍師の山本勘助の提案で、兵を2手に分けて、信玄の率いる本隊の約8千人は八幡原(はちまんばら)に布陣し、別働隊の約1万2千人が妻女山(さいじょざん)の裏手へ向かう。後ろから山にいる上杉軍を平野に追いおとす。そこを謙信軍を待ち伏せて「挟み撃ち」にするとの作戦であったという。


 ところが、事は思惑通りにゆかない。誰が気がついたのか、海津城(かいづしょう)からの炊煙の量が増えているではないかと。謙信が武田方の作戦を見抜いたのは、流石だ。

 つまるところ、謙信の上杉軍は、夜の間に妻女山を降り、八幡原に布陣する。そして深い霧が晴れると、向こうに謙信の軍が現れたのだろう。

 そのうちに上杉の攻撃が始まると、驚いた側の武田軍は柵を設けていなかったのであろうか、あれもこれもが響いて味方は劣勢となる。突き進んでくる敵は武田軍の陣営深くに達し、信玄の弟で副将の武田信繁(たけだのぶしげ)、軍師の山本勘助(やまもとかんすけ)などの名だたる武将が討ち死にしてしまう。


 さても、この戦いの後半では、武田軍の別働隊が、攻め込んだ妻女山がもぬけの殻なのに気付き、八幡原に引き返してくる。やがて、上杉軍はそれ以上の突撃を諦め、引き返してゆくのであった。


 そこで真に驚くべきは、その死者は約4千人を超え、死傷者が約8千人にも及ぶ、そこまでなる前にどちらも撤退しなかったのは、濃霧で大混戦になり、いたずらに死傷者を増やしたためもあったのではないか、と言われている。


(続く)


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○162の2『自然と人間の歴史・日本篇』豊臣政権の宗教政策

2020-09-17 21:15:51 | Weblog
162の2『自然と人間の歴史・日本篇』豊臣政権の宗教政策


 豊臣秀吉の政権は、キリシタン大名の統制を決め、1587年6月18日付けで、次の命令、「天正十五年六月十八日付覚」を出す。おりしも、秀吉は九州に滞陣していた。現地で、キリシタンの情報を得たり、かれらを呼んで問い質したことで、かかる大方緩めの禁令を発することになったものと見える。

 「一(第1条)、伴天連門徒之儀は、其者之可為心次第事、


 一(第2条)、国郡在所を御扶持に被遣候を、其知行中之寺庵百姓已下を心ざしも無之所、押而給人伴天連門徒可成由申、理不尽成候段曲事候事。

 一(第3条)、其国郡知行之義、給人被下候事は当座之義に候、給人はかはり候といへ共、百姓は不替ものに候條、理不尽之義何かに付て於有之は、給人を曲事可被仰出候間、可成其意候事。

一(第4条)、弐百町ニ三千貫より上之者(貫高に直すと、2000~3000貫より上の所領を持っ者をいう・引用者)、伴天連に成候に於いては、奉得公儀御意次第に成可申候事。

一(第5条)、右の知行より下を取候者は、八宗九宗之義候條、其主一人宛は心次第可成事。

一(第6条)、伴天連門徒之儀は一向宗よりも外ニ申合候由、被聞召候、一向宗其国郡に寺内をして給人へ年貢を不成並加賀一国門徒ニ成候而国主之富樫を追出、一向衆之坊主もとへ令知行、其上越前迄取候而、天下之さはりに成候儀、無其隠候事。

一(第7条)、本願寺門徒其坊主、天満に寺を立させ、雖免置候、寺内に如前々には不被仰付事。 

一(第8条)、国郡又は在所を持候大名、其家中之者共を伴天連門徒押付成候事は、本願寺門徒之寺内を立て候よりも不可然義候間、天下之さわり可成候條、其分別無之者は可被加御成敗候事、

一(第9条)、伴天連門徒心ざし次第ニ下々成候義は、八宗九宗之儀候間不苦事。

一(第10条)、大唐、南蛮、高麗江日本仁を売遣侯事曲事、付、日本におゐて人の売買停止の事。

一(第11条)、牛馬を売買、ころし食事、是又可為曲事事。

右條々堅被停止畢、若違犯之族有之は忽可被処厳科者也。

天正十五年六月」秀吉朱印」(「神宮文庫文書」)

 これにて、なかなかに興味深いのは、(第4条)に、「弐百町ニ三千貫より上之者(貫高に直すと、2000~3000貫より上の所領を持っ者をいう・引用者)、伴天連に成候に於いては、奉得公儀御意次第に成可申候事」ということで、大名や上級武士がキリスト教に入信するためには、秀吉の許可がいることにし、彼らには信仰の自由を認めていない。

 それも「つかの間」ということになろうか、翌1587年6月19日付けでは、次のような、延暦寺や本願寺といった伝統的な勢力と対抗させようとした感がある信長とは異なり、ややこわもての文書、俗にいう「吉利支丹伴天連追放令」または「バテレン追放令」が出される。


「定

 一、日本は神國たる處、きりしたん國より邪法を授候儀、太以不可然候事。

 一、其國郡之者を近附、門徒になし、神社佛閣を打破らせ、前代未聞候。國郡在所知行等給人に被下候儀者、當座之事候。天下よりの御法度を相守諸事可得其意處、下々として猥義曲事事。

 一、伴天連其智恵之法を以、心さし次第に檀那を持候と被思召候ヘば、如右日域之佛法を相破事前事候條、伴天連儀日本之地にはおかせられ間敷候間、今日より廿日之間に用意仕可歸國候。其中に下々伴天連儀に不謂族申懸もの在之は、曲事たるへき事。

 一、黑船之儀は商買之事候間、各別に候之條、年月を經諸事賣買いたすへき事。

一、自今以後佛法のさまたけを不成輩は、商人之儀は不及申、いつれにてもきりしたん國より往還くるしからす候條、可成其意事。

已上(いじょう)
天正十五年六月十九日 」(「松浦家文書」)


 ついては、これの3番目にある「伴天連儀日本之地にはおかせられ間敷候間、今日より廿日之間に用意仕可歸國候。其中に下々伴天連儀に不謂族申懸もの在之は、曲事たるへき事」というのは、今日から20以内に、このような次第となっているバテレンたちを日本の外に無事導くことにした。

 それでも、「黑船之儀は商買之事候間、各別に候之條、年月を經諸事賣買いたすへき事」とあるように、ポルトガル商人との交易はこれからも長く続けていくように命令している。

 秀吉がこれを決めたのは、九州征伐の時とされ、キリシタンへの改宗によって、一説には、神社仏閣の破却が行われ、また教会が日本で領地を所有するようになっている、との情報を得たのが決め手になったという。
 とはいうものの、最後に「自今以後佛法のさまたけを不成輩ハ、商人之儀は不及申、いつれにてもきりしたん國より往還くるしからす候條、可成其意事」とあり、今後仏法を邪魔しないようなら、キリシタンの国から日本にやって来てよいことにしている。

(続く)


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○162の1『自然と人間の歴史・日本篇』織田政権の宗教政策

2020-09-17 18:30:23 | Weblog
162の1『自然と人間の歴史・日本篇』織田政権の宗教政策

 信長は、他にも、和泉の槇尾寺(まきおじ)や甲斐(かい)の惠林寺(けいりんじ)と焼いているから、一時の振舞いであろう筈がない。彼が武力をもって臨んだ相手は、武器を持った僧兵ばかりではなかった。
 それというのも、よく知られているのは、比叡山焼討による大量虐殺のみではない。すなわち、1574年(天正2年)伊勢の長島、その2年後の1576年(天正年)の越前での一向一揆の際、相手にまわしたのは浄土真宗信徒たる農民などであった。

 その辺り、例えば、「一向一揆文字瓦」といって、越前国小丸城遺跡から出土した文書(1576年(天正4年)にその城に籠城していた一揆勢の誰かにより記された、現在は越前市指定文化財 味真野史跡保存会蔵)には、こうある。
 
(原文) 
 「此書物、後世に御らんしられ/御物かたり可有候、然者(しかれば)五月廿四日/いき(一揆)おこり、其まゝ前田又左衛門尉殿、いき千人はかり/いけとりさせられ候也/御せいはいは、はつつけ/かまにいられ、あふられ候哉/如此候、一ふて書とゝめ候。」

(書き下し文)
 「この書き物、後世に御覧じられ、御物語りあるべく候。然れば5月24日、一揆起こり、其のまま前田又左衛門尉(利家)殿、一揆千人ばかり生け捕りさせられ候。御成敗は磔(はりつけ)、釜に入られ、炙(あぶ)られ候やかくの如く候。一筆書き留め候。」
 それらの一向宗徒による一揆鎮圧の仕上げが1580年(天正8年)に集結した本願寺・石山合戦であった。この合戦で織田軍は苦戦を強いられるのだが、正親町天皇に間に入ってもらって調停を取り付けることに成功する。そして、頭目であった顕如(けんにょ)を石山本願寺から退去させるのに成功した。

 それでは、なぜ信長はこのような一連の挙に出たのだろうか。信長の宗教観は、本人からは述べられていない。
 それでも、1569年に記されたルイス・フロイスの書簡にも「此の尾張の王は、年齢三十七歳なるべく、(中略)善き理解力と明晰なる判断力を有し、神仏そ其他偶像を軽蔑し、異教一切のトを信ぜず、名義は法華人なれども、宇宙の造主なく、霊魂不滅なることなく、死後何物も存せざるべからざることを明らかに説けり」(訳文、出所は吉田小五郎『キリシタン史』慶応義塾大学通信教育部編集、1987発行から引用)とあって、仏教だけを、その信仰内容に目をつけ毛嫌いしていたのではあるまい。

 そこで残る動機としては、仏徒が他の政治勢力と結んで信長の政策妨げたからであるというのが、どうやら本当のことらしい。それが窺えるのが彼のキリスト教への寛容な態度であって、外国からやってきた布教者たち、主にバードレなどが彼の政策に逆らうことなく、高度の新知識を提供し、同時に彼の自負心を満足するように振る舞った。



 さても、その頭脳明晰な筈の信長が、どうしたものか、近臣の者を目的達成のための手段として冷酷に使うところがあった。おそらくは、そのために相手の恐怖や怒りをかうところがあって、妹婿の浅井長政(あざいながまさ)の反発の時は冷や汗をかく。

 ついには家臣の明智光秀に対しても冷たい仕打ちを重ねて止まなかったのに、「このままでは滅亡させられる」と、「反逆」の決意を固めるに至ったのだろうか。光秀の奇襲によって、その信長は志半ばにして本能寺の露と消える。彼の死の前後における、日本のキリスト教布教の状勢を伝えたものに、コエーリョの報告があって、こう書かれている。

 「本年日本に住むキリシタンの数は、ビジタドール(ヴァリニヤノのこと)の得た報告によれば、十五万人内外で、其中には豊後、有馬及び土佐のキリシタンの王(大友宗鱗、有馬晴信、一條兼定)の外にも、高貴な人で親戚及び家臣と共にキリシタンとなった者が多数ある。(中略)キリシタンの在る諸国に大小合せて二百の聖堂がある」(訳文、出所は吉田小五郎氏の『キリシタン史』慶応義塾大学通信教育部編集、1987発行、などから引用)

 翻って、この国にキリスト教が伝わったのが1549年(天文18年)であって、そのときのキリシタンたちは、次のような成り行きであった。いわく、「1549年8月の聖母の祝日、デウスは、我らがこれまでにして到着を望んでいた当地方、日本に我らを導き給うた」(「1549年11月5日、鹿児島よりゴアの聖パウロ学院の修道士らに宛て書き送った書簡」、出所は「16~17世紀イエズス会日本報告書」)と。

 それから約30年を経ての、彼の死の前後における、日本のキリスト教布教の状勢を伝えたものに、コエーリョの報告があって、こう書かれている。

 「本年(1581年)日本に住むキリシタンの数は、ビジタドール(ヴァリニヤノのこと)の得た報告によれば、十五万人内外で、其中には豊後、有馬及び土佐のキリシタンの王(大友宗鱗、有馬晴信、一條兼定)の外にも、高貴な人で親戚及び家臣と共にキリシタンとなった者が多数ある。
 キリシタンの大部分は下(しも)の地方、有馬、大村、平戸、天草たさなどに居り、また五島列、壱岐(いき)の地にもキリシタンが在って、その数は十一万五千人に上り、豊後国には一万人、都地方に二万五千人ある。(中略)
 キリシタンの在る諸国に大小合せて二百の聖堂がある」(訳文、出所は吉田小五郎氏の『キリシタン史』慶応義塾大学通信教育部編集、1987発行から引用)



 ちなみに、当時の日本の総人口は、1500万人くらいとされている。この資料からも、信長は、誠は、彼の後の秀吉や家康よりもずっと開明的な君主(彼の脳裏に、「日本国王」としてか、天皇を差し置いての「皇帝」のいずれがあったのかは、判然としない)として振る舞っていく用意というか、度量があった、当時としては珍しい人格識見の持ち主であったことが窺える。

 その最中の1582年6月21日(天正10年旧暦6月2日)、その主君の織田信長が家臣の明智光秀に殺された。これを「本能寺の変」と呼ぶ。これを巡っては、老獪な光秀自身の権力欲によるものか、信長によって追放された前将軍の足利義明の命であるとか、信長が日本国王を目指したことへの反発なのか、イエズス会のフロイスによる述懐などにある家康暗殺説もあって、定説はない。これらの最後の説には、例えば次の如き外国人の見方も加わっている。

 「そして都に入る前に兵士たちに対し、彼(光秀)はいかに立派な軍勢を率いて毛利との戦争に出陣するかを信長に一目見せたいからとて、全軍に火縄銃に銃弾を装填し火縄をセルベに置いたまま待機しているように命じた。(中略)
 兵士たちはかような動きがいったい何のためであるか訝り始め、おそらく明智は信長の命に基づいて、その義弟である三河の国主(家康)を殺すつもりであろうと考えた。このようにして、信長が都に来るといつも宿舎としており、すでに同所から仏僧を放逐して相当な邸宅となっていた本能寺と称する法華宗の一大寺院に到達すると、明智は天明前に三千の兵をもって同寺を完全に包囲してしまった。(中公文庫「完訳フロイス日本史3」より)

 続いて、豊臣秀吉が毛利氏と備前の高梁城を囲んで相対峙する。その最中の1582年6月21日(天正10年旧暦6月2日)、その主君の織田信長が家臣の明智光秀に殺されたという知らせが入った。その時の秀吉は、高梁城を高さ7メートル、長さ3キロメートルの土塁をたった12日間で築くという離れ業をやってのける。

 それで城主の清水宗治に対し水攻めを行っている最中で、ようやく勝機をつかみつつあった。そこで、毛利方と急遽和議を取り結んで、備中高梁から決戦の地である山崎まで10日ばかりで「中国大返し」を行って、明智光秀を滅ぼした。秀吉は、その後、宿老の柴田勝家を滅ぼして織田の跡目を継ぎ、さらに徳川家康も陣営に引き入れる形で、九州、そして小田原を平らげ、1590年(天正18年)に天下統一を果たした。

(続く)

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○160『自然と人間の歴史・日本篇』織田「政権」の政治経済

2020-09-17 10:28:56 | Weblog
160『自然と人間の歴史・日本篇』織田「政権」の政治経済

 織田・豊臣の両政権の時代を指して、日本の「近世」と呼んでいる。手元にある国語辞典をみると、中世とは古代と近世との間の時代、「日本では通常近古を指す。
 また、時に中古をも含める」(金田一京助他「新明解国語辞典」三省堂)とし、その近古(中古の後)と中古(上古と近古の間)はそれぞれ「日本史では鎌倉・室町時代を指す」と「主として平安時代を指し、特に鎌倉時代を含む」のだという。一方、経済史で封建時代とは、普通は奴隷制が崩れてゆく過程もしくはその後に来る社会経済体制のことをいう。
 その封建社会の特徴(メルクマール)は、主な生産手段が封建領主の手に属し、そこで労役を担う者が農奴と呼ばれる。農奴とは、同じ国語辞典をめくると「(中世ヨーロッパなどで)領主から貸与された土地を耕作し、領主に賦役・地代その他の税を納めた人たち。(移動・転業などの自由が奪われていたが、奴隷と異なり人格は認められていた)」とされている。

 そこで、これを基本に日本史の出来事を追ってゆくと、どうなるであろうか。まず奴隷制から封建制への移行の時期には、大別して2説があって、史学の上では未だすっきりとした形では決着がついていないように見受けられる。この見解の違いは、経済史家の土屋喬雄においても、すでにこう述べられる。

 「また多かれ少なかれ奴隷を農耕その他に使役した時代が、我が国の古代にもあった。それは古墳時代・奈良朝時代から平安朝の初期を中心とする時代であったとするのが、従来の定説であった。しかし、ギリシャ・ローマなどのように、自由民の数倍というような多くの奴隷が使役されたことはなかったと考えられている。
 もっとも、十数年前、ある若い歴史学者は、この問題に関する新説を発表し、史学界において論争も行われた。新説とは、日本の歴史上奴隷使役の時代をはなはだ長く見るもので、古代から桃山時代の文禄年間の太閤の検地までをそうした時代とする説である。
 すなわち古代から桃山時代まで家内奴隷として多くの奴隷が農耕にも使役されていたので、桃山時代までが奴隷制の支配的な時代であり、太閤検地を活期として、奴隷から農奴への転換が行われ、したがってそれ以来はじめて日本に封建社会が形成された、という趣旨である。」(土屋喬雄「日本経済史概説」東京大学出版会、1968)

 この当時の新説については、平安時代の中期以降になると荘園の拡大が起こってくるところから、その新たな担い手としての武士の台頭と相俟って、ここに封建社会の萌芽が発生したというのと、大きな矛盾は認められないのではないか。

 時代が鎌倉時代に下っていくうち、「新補地頭」が幕府の認めるところとなっていった経緯にも見られるように、我が国封建社会は従前からの朝廷を中心とする領地経営に風穴を開けるまでに成長していく。この時代から室町時代(その上半期は「南北朝時代」とも言われる)の中期にもなると、守護大名も台頭して、かれらの領した土地の大きさたるや、もはや荘園すなわち朝廷や貴族や社寺などの領地の大きさの比ではない。
 これら大名たちの間ではしばしば両道拡張のための戦争が行われ、弱小な者が兄弟な者にしだいに併呑されていく過程において、大名領地を基礎とするこの国の封建時代の原型が出来上がったと言えるのではないか。大方の解説書において、守護大名から転じた「戦国大名」たちによる「戦国時代」が、「我が国封建時代の一大転換期であった」(土屋前掲書)とされるのも、この文脈によるのであり、この点、新説には同意しかねる。

 さて、そうした戦国大名の中から頭角を現してきた織田信長は、封建領主でありながら、商工業者が自分の領地で活動するのに便宜を与えることに長けていた。
 1567年(永禄10年)には、岐阜城の城下である美濃の加納地域において、そして1577年(天正5年)には安土(あづち)城下を対象として、織田信長は『楽市楽座令』を出している。この政策には、他の地方で前例があったのだけれども、それに目をつけたのは慧眼であった。
 後者の『楽市楽座令』には、こうある。この措置により、信長の支配地域内での、それまでの「座」による特権商工業者の地位は失われた。

 「定、安土山下町中
一、当所中楽市として仰せ付けられるるの上は、諸座、諸役、諸公事等、悉く免許の事。一、往還の商人、上海道は之を相留め、上下共(のぼりくだりとも)当町に至り寄宿すべし。
一、伝馬(でんま)免許の事。
一、分国中徳政(ぶんこくちゅうとくせい)、之を行ふと雖も、当所中は免除の事。
一、他国ならびに他所の族(やから)当所に罷越し、有付(ありつく)の者、先々より居住の者同前、誰々家来たりと雖も、異議有るべからず。若しくは給人と号し、臨時課役停止(りんじかえきちょうじ)の事。
天正五年六月日」

 なお、これにより「楽市場」での座は廃止されたものの、その他の地域・空間での座の存在、そして関係者の特権が否定されたのではないことに留意されたい。  

 信長は、美濃攻略が成ると本拠地を美濃の岐阜城(稲葉山城から改名)を造り、そのうちに天下を望もうとしたのであろう、あれやこれやの文書などに「天下布武」の朱印を用いる。
 ただし、その「天下」とは、当面は畿内(山城、大和、摂津、和泉、河内など)もしくは京だけを指す場合に限られていた。

 そんな中でも、「関所の撤廃」については、1568年(永祿11年)に自らの領国内の関所を廃止した。

 「永禄十一年十月、(中略)且は天下の往還の旅人御憐愍の儀を思しめされ御分国中に数多ある諸関諸役上(あげ)させられ、都鄙(とひ)の貴賎一同に忝(かたじけな)しと拝し奉り、満足仕り候ひおわんぬ。」(「信長公記」)
 
 これの最大の狙いは、領内の、足利幕府や荘園領主らが商人らに課していた通行料の徴収を廃することで、かれらの独自財源を奪うとともに、自らの領国の専制支配、掌握、それに経済の発展を計るためのものであったろう。


 次には、信長が行った「指定検地」というのは、どんなものであったのだろうか。僧侶の英俊の記した「多聞院日記」には、こうある。

 「天正八年九月廿六日、当国中寺社・本所・諸寺・諸山・国衆悉く以て一円に指出す可きの旨、悉く以て相触れられおはんぬ。沈思沈思。申出さる一書の趣、これを写す。
  敬白 霊社起請文前書の事。
一、当寺領并びに私領買得分皆一職。何町何段の事。
一、諸談義唐院・新坊何町何段の事。
一、名主拘分、何町何段の事。
一、百姓得分、何町何段の事。
一、当寺老若・衆中・被官・家来私領并びに買得分、扶持分、何町何段の事。
 右、五ケ条の書付以て申入れ、田畠・屋敷・山林聊も隠置き申す儀これ無く候。その為、何れも本帳御目に懸け候。若し此の旨御不審に於ては、急度百姓前直ちに御糺明なさるべく候。
 その上多少に寄らず出来分これあるに到らば、曲事たり。惣寺領悉く以て御勘落あるべし。安土、上聞に達せらるべし。証文として、宝印を飜し、血判を据え申上ぐる者なり。仍て前書件の如し。
  九月 日 興福寺衆徒中
 滝川左近殿
 惟任日向守殿
 此の如く申したる。前代未聞是非なき次第。日月地におちず、神慮頼み奉る計りなり。(中略)。
 十一月二日。(中略)滝川・惟任今暁七つ時分より帰了と。三十八日ばかり滞留か。その間の国中上下の物思ひ・煩ひ、造作苦痛迷惑、既果たる衆地獄の苦しみも同じならん」(英俊「多門院日記」)

 しかして、これに「指出」と、いうのは、新たな領内の旧領主たちが信長に差し出す土地についての書類にて、当該地域の所領内容の目録とその基準となる帳簿の提出を求める、そしてこれを吟味し、承認することにしていた。あわせて、必要と認める場合は、越前などのように、現地に人を派遣して実地調査を行う。
 ちなみに、本史料の出元は、1580年(天正8年)の大和国の案件につき、興福寺の僧侶、英俊が紹介したものであり、これより前に信長は、大和一国支配権利を松永久英や原田直政に与えたことで、興福寺の当該地への支配は弱体化もしくは有名無実化していたのが推察されよう。

(続く)


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(続く)


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○161『自然と人間の歴史・日本篇』豊臣政権の政治経済(太閤検地、刀狩、身分統制令、人掃令、対外政策)

2020-09-16 20:59:52 | Weblog
161『自然と人間の歴史・日本篇』豊臣政権の政治経済(太閤検地、刀狩、身分統制令、人掃令、対外政策)

 豊臣秀吉が日本統一を果たすと、それまでの封建制の「たが」を締め直す諸種の改革を次々と打ち出していく。まずは1588年(天正16年)、兵農分離・身分固定政策の一環として、次のような刀狩令を発布する。

「条々
 一、諸国百姓、刀、脇指、弓、やり、てっはう其外武具のたぐい、所持候事、堅く御停止候。其子細者 不入道具をあひたくはへ、年貢所当を難渋せしめ、自然一揆を企て、給人に対し非儀の動をなすやから、勿論御成敗有るべし。然者、其所の田畠不作せしめ、知行ついえになり候の間、其国主、給人、代官として、右武具悉く取あつめ、進上致すべき事。

 一、右取をかるべき刀、脇指、ついえにさせらるべき儀にあらず候の間、今度 大仏建立の釘かすがいひに仰せ付けらるべし。然者、今生の儀者申すに及ばず、来世までも百姓たすかる儀に候事。

 一、百姓は農具さへもち、耕作専に仕る候へば、子々孫々まで長久に候。百姓 御あはれみをもって、此の如く仰せ出され候。誠に国土安全万民快楽の基也。
 異国にては唐尭のそのかみ、天下を鎮撫せしめ、宝剣利刀を農器にもちひる と也。本朝にてはためしあるべからず。此旨を守り、其趣を存知し、百姓は 農桑に精を入べき事。

 右道具急度取集め、進上あるべく候也。
 天正十六年七月八日秀吉朱印」(『小早川文書』より)

 これの文中には、「百姓は農具さへもち、耕作専に仕る候へば、子々孫々まで長久に候。百姓 御あはれみをもって、此の如く仰せ出され候。誠に国土安全万民快楽の基也」などと、百姓出身説のある秀吉にしては随分と自分勝手な言い回しとなっている。


 それから、後段においては、「百姓は 農桑に精を入べき事」と下した後には、百姓統制の細々したことについて、沙汰をおこなう。ちなみに、秀吉の命令につき従う、「浅野長政掟書」には、くどくどと、こうしたためてある。 

 「条々
 一、隣国より年貢取うせこし候者、相かかへまじき事。
 一、盗賊人、またはたよりもなく一切しれざるもの、かかへ置くまじき事。
 一、給人・代官、百姓にたいし謂われざるやから申かけ、人夫等むざとつかい候事。手引仕るまじく候。かうぎに仕るにをいては、直訴すべき事。
 一、ありやうの年貢、相さだめ候枡をもって、はかりわたすべく候。

 一、前々より走り候百姓よびかへし、田地あれざるやうに申し付くべく候。あれ地は半納、年々荒(あれ)は来年の御百姓にとらせ候。立かへり候百姓、来年の夫役を用捨せしむべく候。あれ地をひらき、またぬしなしの旧地、作毛付き候を、末代さいはんすべき事。

 一、おとな百姓として下作に申し付け、作(つくり)あいを取り候儀、無用に候。今まで作仕り候百姓、直納に仕るべき事。

 一、地下(じげ)のおとな百姓、またはしやうくわんなどに、一時もひらの百姓つかわれまじき事。

 右、定め置くところ件の如し。
 天正十五年十月二十日弾正少弼(花押)」(「浅野長政掟書」:「渡辺家文書」『越前若狭古文書撰』、岸峰純夫編「古文書の語る日本史5戦国・織豊編」筑摩書房、1989)

 この文書中、とりわけ最後の二か条は、惣村内での請負小作の禁止で豪農らによる中間搾取を封じること方針、ならびに「しやうくわん」(荘官)などに「ひらの百姓 を使役するのを禁じることとしていて、平たく謂うと、その土地を耕作している本人が年貢の義務を負うのであって、その他の権利関係はこれに従うものとなった。


 果たして、その頃のある僧侶は、この刀狩についての世評というこどだろうか、次のように指摘している。

 「一、天下の百姓の刀を悉く取る。大仏の釘に遣すべし。現には刀故闘争に及 び身命相果つるを助けしめ、後生は釘に遣し、万民の利益理当の方便と仰せ付けられ了と云々。内証(本当には)は一揆停止止と為なりと沙汰あり。種々の計 略なり」(奈良興福寺の子院である多門院の住職、英俊による「多門院日記」より)

 これに見抜かれているように、秀次の刀狩の真の目的というのは、彼が表向きの理由に持ち出した京都の方広寺の鐘の鋳造するためでな毛頭なく、兵農分離、自分たちの独裁的な権力を保持するための、必要にして不可欠な手段以外の何ものでもなかった。
 
 それでは、世にいう「太閤検地」は、どのようなものだったのだろうか。1590年(天正18年)に出された文書には、こうある。

 「一、其許検地の儀、一昨日仰せ出され候如く、斗代等の儀は御朱印の旨に任せて、 何も所々、いかにも念を入れ申し付くべく候。もしさそうに仕り候ハヾ各越 度たるべく候事」

 一、仰せ出され候趣、国人並百姓共に合点行き候様ニ能々申聞かすべく候。自 然相届かざる覚悟の輩之れあるに於ては、城主にて候わば、其もの城へ追入 れ、各相談、一人も残置かずなでぎりに申し付くべく候。
 百姓以下にいたるまで相届かざるに付ては、一郷も二郷も悉くなでぎり仕るべく候。
 六十余 州堅く仰せ付けられ、出羽、奥州迄そさうにはさせらる間敷候(まじくそうろう)。たとへ亡所 に成り候ても苦しからず候間、其意を得べく候。山のおく、海はろかいのつ ゞき候迄、念を入るべき事専一に候。
 自然各退屈するに於ては、関白殿(豊臣秀吉)御自身御座成され候ても、仰せつけらるべく候。急度(きっと)此返事然るべく候也。

 八月十二日、(秀吉朱印)
 浅野弾正少弼殿へ」(「浅野家文書」)
 
 これに見えるのは、織田信長が命じた指出検地をさらに推し進めての、それそれの土地の所有者と様子とを確定することによって、農民を直接的に把握するとともに、かつての、一つの土地に何重もの権利関係が存在するという、中世の途中からの複雑な土地の所有関係を完全に否定する、そのことで、領主と農民という近世土地制度の基礎を作り上げるのであった。


 さらに、秀吉は晩年、対外戦争を企てる。一説にこれは、彼の主君の織田信長から受け継いだ構想であった。秀吉が、九州征伐頃からそのことを腹づもりにしていたのは、ほぼ間違いない。

 そういう次第にて、いよいよその時への準備にとりかかろうと頭を巡らせたようだ。朝鮮への出兵に絡んでは、1591年の身分統制令には、こうある。

 「定 
 一、奉公人、侍、中間(ちゅうげん)、小者、あらし子に至る迄、去(さる)七月、奥州之御出勢(1590年(天正18年)7月)より以後、新儀に 町人百姓に成候者これあらば、其町中地下人(じげにん)として相改、一切をくべからず。若(も)しかくし置くに付いては、其一町一在所、御成敗を加へらるべき事。

 一、在々百姓等、田畠を打捨て、或はあきない、或は賃仕事に罷出る輩(ともがら)有らば、そのものの事は申すひ及ばず、地下中御成敗たるべし。並に奉公をも仕(つかまつ)、田畠もつくらざるもの、代官、給人としてかたく相改め、をくべからず。

 天正十九年八月廿一日 秀吉朱印」(「小早川家文書」)

 これの冒頭に「奉公人侍中間小者あらし子に至迄」とあるのは、奉公人、侍は若党(わかとう)、中間(武家の召使いの男)、あらし子(武家奉公人であるが、主に戦場での雑役に従う者)などをほかの武家が召抱えることなどを禁じたもので、これらに違反した場合は成敗するという。
 しかして、これの主旨としては、当時の武家奉公人などが兵役(さしあたり、「朝鮮侵略」が念頭にあったと考えられる)を逃れるため一時的に農民などに成り変わるのを認めない、それゆえ、農民などが武家奉公人になることは禁じていない。
 また、農民が商売に手を繋出したり、賃仕事につくことを禁止する、こちらは兵糧米に充当する年貢米を確保しようとの思惑からであったろう。要するに、百姓には、しっかり戦の兵糧を供給するようにとの督励と、そうしないと命はないぞということなのだろう。


 あわせて、同じく1591の人掃令(ひとばらいれい)、別名としては人別改め令)には、こうある。

 「急度申し候
 一、当関白様(豊臣秀次のこと・引用者)従(よ)り六十六国へ人掃(ひとばらい)の儀仰せ出され候の事。

 一、家数、人数、男女、老若共に一村切に書付けらるべき事。
   付(つけたり)、奉公人ハ奉公人、町人ハ町人、百姓は百姓、一所に書出だすべき事。(以下、略)

 天正十九年三月六日」(吉川(きつかわ)家文書)

 これに「人掃」というのは、「一村」ごとに調べる人口調査のことであり、身分ごとの人数を書き出すべきとしている。こちらも、来る朝鮮出兵に動員可能な人員を把握すること、あわせて、年貢や夫役(ふえき)の負担能力を見る役割があったから。

 これだけの前準備をしてから、1592年(文禄元年)、秀吉は朝鮮への出兵の事業にとりかかる。
 ちなみに、太閤秀吉から関白・豊臣秀次へ宛てた二十五箇条の覚書・『古蹟文徴』には、こうある。

 「覚
 一、殿下(関白秀次)、陣用意(出陣の用意)油断あるべからず候。来年正二月ごろ、進発(出陣)たるべき事。

 一、高麗都(首都の漢城)、去る二日落去(落城)候。然る間いよいよきっと御渡海なされ、このたび大明国までも残らず仰せ付けられ、大唐(明)の関白職御渡しなさるべく候事。(明を支配下において秀次を中国の関白職につけるつもりである。)

 一、大唐の都(ペキン)へ叡慮(後陽成天皇)うつし申すべく候、その御用意あるべく候。明後年行幸(ぎょうこう、天皇が外出すること。ここでは明へ行くこと)たるべく候。しかれば、都廻(みやこまわり)の国十か国これを進上すべく候。その内にて諸公家衆何も知行仰せ付らるべく候。(以下、略)。

 一、大唐関白、右仰せられ候如く、秀次へ譲らせらるべく候。(中略)
日本関白は大和中納言(秀吉の甥・羽柴秀保)、備前宰相(宇喜田秀家)両人の内覚悟次第、仰せ出さるべき事。

 一、日本帝位(天皇の位)の儀、若宮、八条殿何にても相究めらるべき事。

 一、高麗の儀は岐阜宰相(織田信長の嫡孫・秀信)か、しからざれば備前宰相相置かるべく候。

 一、高麗国、大明までも御手間入らず仰せ付けられ候。上下迷惑の儀、少も之無く候間、下々逃走の事も有まじく候条、諸国へ遣はし候奉行共召返し、陣用意申付くべき事。
 天正弐十五年(1592年)五月十八日、秀吉(朱印)」(前田尊経閣文庫蔵『古蹟分徴』)

 これに紹介した文中に「高麗国、大明までも御手間入らず仰せ付けられ候。上下迷惑の儀、少も之無く候間、下々逃走の事も有まじく候条」とあるのは、当時の秀吉の誇大妄想ぶりを伝える。
 そればかりではない、この文面からは、朝鮮半島を手中に収め、最終的な侵略目標は明(みん)であったことが読み取れる。いうなれざ、国内ではもはや満たせなくなった領土拡張の欲求を果たそうとしたのであった。


 戦況は、初めは日本軍の大勝続きであり、朝鮮の王・宣祖(センジョ)は首都の漢陽(ハニャン)を出て撤退して追求を逃れた。その後、朝鮮の軍も頑強に抵抗するにいたり、戦況はだんだんに膠着状態に傾いていく。翌1593年(文禄2年)には休戦する。これを文禄の役と呼ぶ。
 まだあって、1597年(慶長2年)の講和交渉決裂によって、秀吉は侵略の試みを再開させる。1598年(慶長3年・万暦26年、朝鮮側は宣祖31年の太閤豊臣秀吉の死をもって、この戦争は終結する。 


 それから、秀吉の経済政策のめずらしいところでは、全国の金山・銀山の収益を独占するに至った1587年から、通貨単位の統一を図るとともに金貨・銀貨の鋳造をはじめたことがある。
 最も大きいのが「天正長大判」(てんしょうながおおばん)」である。これは、重さは約165グラム、大きさは縦17センチメートル×横10センチメートル程度の大きさで、表面に品質を保証する刻印や、「花押(かおう)」と呼ばれるサインが墨書きされている。もっとも、これらの大半は本来貨幣として用いられたというよりは、報償や贈答などに配られたという。

(続く)

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○171の1の1の2『自然と人間の歴史・日本篇』豊臣政権の成立(1586~1590)

2020-09-16 09:30:23 | Weblog
171の1の1の2『自然と人間の歴史・日本篇』豊臣政権の成立(1586~1590)


 1570年代後半からの島津氏は、九州を北上して日向(現在の宮崎県)、肥後(現在の熊本県)、肥前(現在の佐賀県、長崎県本土)などを下していく。その余勢をかって、豊後(大分)の大友宗麟が領する筑後(現在の福岡県南部)の国人衆も傘下に収め、戦いを有利に導く。
 こうなると、大友氏にとっては存亡の危機にて、一刻を争う。急ぎ、四国、中国を平定して勢いの乗る羽柴秀吉に助けを求める。おりしもの1585(天正13年)に、秀吉は関白(かんぱく)となっていて、島津氏と大友氏の双方に停戦を求める。
 しかし、島津は、この調停を無視して、北九州まで攻め入る。1586年(天正14年)になると、宗麟は大坂に行き、羽柴秀吉に助けを乞う。
 秀吉は、この要請を受け入れ、九州征伐軍の先遣隊として毛利氏に加えて、黒田官兵衛を軍監として派遣する、加えるに、四国勢として長宗我部氏、十河氏らに豊後水道を渡らせて送り込む。
 その後、朝廷から豊臣姓を受けての秀吉は、自分に従う40か国に近い諸国に九州平定のための出兵を促すとともに、1587年(天正15年)には、秀吉自ら出陣して九州攻めに向う。

 なかでも、黒田官兵衛は、1586年(天正14年)、兵約4千人を率いて海を渡り、毛利、吉川、小早川軍とともに、豊前小倉城(現在の北九州市小倉北区)を攻略する。

 それからの秀吉軍の大攻勢になると、戦局は大きく島津側に不利に働いていく。1587年(天正15年)4月17日の、「高城の戦い」と「根白坂の戦い」で秀吉軍が勝利すると、戦局はほぼ決まり、4月21日には当主の島津義久は、豊臣秀長に和睦を申し入れる。彼の脳裏には、もうこれ以上戦うと島津氏の存続自体が難しいとの認識であったろう。
 その義久は、薩摩に戻り、5月6日に寺で頭をまるめて出家する、5月8日には、泰平寺という寺に滞留していた秀吉のもとを訪れて降伏したことで、秀吉はこれで面目躍如、一件落着という頭の中にで上機嫌ではなかったか。
 これにより、島津氏は元の領地を安堵されての降伏をし、もはや、九州に秀吉に刃向かう勢力は存在しなくなった。それも、戦闘力のみでねじ伏せたというよりは、権威という得体の知れないものが被さっての、相手に正当性の上での、秀吉に従わないことでの恐怖を与える「合わせ技」のような成り行きであったろう。


 秀吉にとっては、この九州平定で、もはや日本の天下は我が物、との心境てあったのではないだろうか。残るは関東、その中核としての小田原征伐は、北条氏と真田氏への「沼田領裁定」に北条氏が違反した名胡桃(なぐるみ)城(現在の群馬県みなかみ町)奪取が契機となった。

 これより前の1589年(天正17年)に秀吉が下したく沼田裁定の内容とは、いわゆる沼田領の帰属につき、「3分の2を北条氏が、3分の1は真田氏が所領とする」というもの。しかも秀吉は、氏政、氏直親子のどちらかが上洛するという一筆を提出したら、上使を派遣して当該の沼田領を北条氏に渡すといい、北条氏への一定の配慮を匂わせる。


 おりしも、天下をほぼ手中にしつつある秀吉とすれば、こうなったら北条氏を征伐するより仕方がない、ということであったのだろうか。1590年(天正18年)、秀吉は京都の聚楽第(じゅらくだい))を出発する。
 その軍勢の数は、14万人以上もいて、東海道を行き、まずは山中城(三島市)を陥落させる。やがて、先鋒の徳川家康らと合流し、小田原城の包囲網を敷く。

 一方、迎え撃つ側の北条氏政、氏直父子は、秀吉がかくも迅速、積極果敢に小田原目指して攻めてくるとは考えていなかったのではなかろうか。

 結局、小田原城からうって出るのではなく、小田原城への籠城を中心として態勢を整えようとする。城域だけでなく、城下町全体を大規模な障子堀と土塁で包みこむ総構え、総延長9キロメートルに及ぶ外郭を設けて、守りを固める。

 だが、この戦略たるや、それ以外の諸城との連携をもって敵と戦う道は閉ざされていく。しかも、籠城により負けることのない代わりに、友軍の城や拠点が次々と落とされていくのを阻止し、支援することもできない。持久戦略にしては適当であったのかどうか。

 かくして、秀吉軍は、その支軍を関東各地の北条方に送り、個別に撃破というか、鉢形城などでは徹底抗戦が見られたものの、やすやすと小田原の城を丸裸にしていく。

 秀吉軍としては、小田原城は難攻不落にして、長期戦を予測し、どうすれば向こうの戦意を挫けるかを考えた。それに、小田原城内での氏政、氏直父子の間で、氏直が籠城をやめ秀吉に折れるべきと主張するなど、今後を巡り「小田原評定」の有り様となっていたのを、もちろん知っていたのだろう。
 あわせるに、秀吉軍は市箱根山中に道を開き、小田原城の西4キロメートル地点に石垣山城」を築いて本陣とした。その完成には、80日間ほどかかった。

 それからの黒田官兵衛らによる調略の結果、さしもの「名家」の北条氏も、城門を開き、秀吉に事実上の降伏をするに至る。だが、秀吉はすでにその後を決めていたようで、氏政に責任をとらせるとともに、氏直は許して、北条氏の家紋だけは残す形にて、関東の雄たる北条氏を幕引きにするのであった。



(続く)

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○169『自然と人間の歴史・日本篇』「自由都市」堺

2020-09-14 22:01:58 | Weblog
169『自然と人間の歴史・日本篇』「自由都市」堺


 現在の堺市は、かなり広い範囲をしめ、臨海部に工業地帯を抱える。そもそも北西部は、小さな海辺の集落に過ぎなかったという。後背地としては、和泉(いづみ)、河内(かわち)があり、長尾と竹内の両街道で大和盆地(やまとぼんち)と繋がる。

 遡ること南北朝内乱期には、軍事物資の集散地として名前を馳せる。1467年に勃発の応仁の乱においては、瀬戸内海の航行と兵庫津は大内政弘の勢力下に入る。ついては、これを避けるべく、対明貿易船は、四国の南を迂回して堺に発着する海路を開いたという。そのことで堺は、兵庫津に代る貿易船の発着地として、栄える。

 勢い、勘合貿易の利益の某かが堺にもたらされていく。日本有数の商人町へと成長を始める。当時の「南蛮船」は、九州の平戸(ひらど)や長崎に来航したため、堺の商人は船団を組んで九州よりの輸送を担う。そういえば、対馬氏からの鉄砲に関する人や技術の一端も、このルートで堺に運ばれていったのではないだろうか。

 1419年(応永26年)までには、「納屋貸十人衆」と呼ばれる富裕な商人が合議をなしての自治を始める、16世紀になると、「会合衆(えごうしゅう)三六人衆」として力を振るう、かかる強力な自治組織と環濠を備え、雇われ武士が治安を担う自衛都市、堺がだんだんに出来上がっていく。


 ちなみに、16世紀中頃に堺を訪れていたのだろうか、ポルトガル人宣教師のガスパル・ビレラは、こう書き送っている。

 「堺の町は甚だ広大にして大なる商人多数あり。此町はベニス市の如く執政官に依りて治めらる。」(1561年(永禄4)年8月17日付け、「耶蘇会士日本通信」所収の、インドのイエズス会修道士ら宛のガスパル・ビレラによる書簡)
 「日本全国当堺の町より安全なる所なく、他の諸国に於て動乱あるも、此町には嘗て無く、敗者も勝者も、此町に来住すれば皆平和に生活し、諸人相和し、他人に害を加ふる者なし。市街に於ては嘗て紛擾起ることなく、敵味方の差別なく皆大なる愛情と礼儀を以て応対せり。」(1562年(永禄5年)付け、「耶蘇会士日本通信」所収の同書簡)


 しかしながら、彼らの栄華には、やがて陰りが射してくる、やがて、信長がその力を伸ばしてくるのに対し、抵抗する堺という構図となっていく。
 それというのも、かねてから頼みの綱とした「三好三人衆が、1568年(永禄11年)、信長との戦いに破れ四国に敗走したため、状況が大きく変わる。ちなみに、「続応仁記」には、こうある。

 「扨又畿内繁昌の地、在々所々寺社等迄、公方家再興の御軍用、今度大切の御事なれば、各々金銀を差上げ然る可き由相触れられける程に、皆人是を献上す。中にも大坂本願寺は一向宗門の惣本寺大富裕なれば迚、五千貫を課せられしに、住持光佐上人難渋に及ばず五千貫を献上す。

 信長此金銀を上納させて諸軍勢の兵粮軍用、且又公方家御在京御官位等の御入用に、各是を相行はる。寔に余儀なき政道也。扨泉州ノ堺津ハ大富有ノ商家共集居タル所ナレバ、三万貫ヲ差上グベキ事子細有ラジト申付ラル。

 然ル処堺ノ津ハ皆三好家ノ味方ニテ庄官三十六人ノ長者共、中々御請申スコトナク、同心セザルノ由ヲ申ス。然ラバ早速ニ堺ノ津ヲ攻破ラント有ケレバ、三十六人ノ者ドモ弥以テ怒ヲ含ミ、能登屋、臙脂屋ノ両庄官ヲ大将トシ堺津一庄ノ諸人多勢一味シ、溢レ者諸浪人等相集テ、北口ニ菱ヲ蒔キ堀ヲ深クシ、櫓ヲ揚ゲ専ラ合戦ノ用意シテ信長勢ヲ防ガントス。

 信長是を聞て何とか思案致されけん。今度公方家の御共して、和泉・河内・摂津・山城四箇国、不日に退治して京都へ凱旋有べき事、武功天下に隠れ無し。堺の庄の町人共をば只其まゝに左置べしとて、更に取かけ攻伐の事無く、 和州は未だ帰服せず。松永父子に加勢して連々和州を退治すべしと、隠便に沙汰せらる。」(「続応仁記」、著者は不明)

 そして迎えた1569年(永禄12年)に、堺はついに「万策尽きる」形であったろうか、織田信長の軍門に降る、すなわち信長は堺を支配下に収める。


(続く)

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○169『自然と人間の歴史・日本篇』鉄砲伝来(1543)

2020-09-13 21:28:42 | Weblog
169『自然と人間の歴史・日本篇』鉄砲伝来(1543)

 
 日本の戦国時代に鉄砲がもたらされたのには、諸説がある。それらの大元の話としては、1543年(天文12年)での種子島伝来説が有名で、これにあるのは、種子島の門倉岬西村の小浦に漂着したポルトガル人により、島の領主たる種子島時堯が、二挺の鉄砲をポルトガル人から買い取ったという訳だ。

 その模様について、禅僧の南浦文之(なんぽぶんし)が1606年(慶長11年)に著した「鉄砲記」に、こうある。

 「是より先、天文癸卯秋八月二十五丁酉、我が西村の小浦に一大船有り。何れの国より来るかを知らず、船客百余人、其の形類せず、其の語通ぜず、見る者以て奇怪となす。其の中に大明の儒生一人あり、五峰と名づくる者なり、今その姓字を詳にせず。

 時に西村の主宰に織部丞なる者あり、頗る文字を解す。偶五峰にあい、杖を以て沙上に書して云く、『船中の客、何れの国の人なるやを知らず、何ぞ其の形の異なるや』と。五峯即ち書して云く、『此れはこれ西南蛮種の賈胡あり、粗君臣の義を知ると雖も、未だそお礼貌の其の中に在るを知らず、(中略)、所謂賈胡は一処に到りて轍つ止むとは、これ其の種なり、其の有る所を以て其の無き所に易えんのみ、怪しむべき者には非ず』と。(中略)

 賈胡の長二人有り、一を牟良叔舎と日い、一を喜利志多佗太と日う。手に一物を携う。長さ二、三尺。其の体たるや、中通り外は直く、しかも重きを以て質となす。其の中常に通ると雖も、其の底密塞を要す。其の傍に一穴有り、火を通すの路なり。形象物の比倫すべきなきなり。

 其の用たるや、妙薬を其の中に入れ、添ふるに小団鉛を以てす。先ず一小白を岸畔に置き、親ら一物を手にして其の身を修め、其の目を眇にして、其の一穴より火を放てば、則ち立ち所に中らざるはなし。其発するや掣電光の如く、其鳴るや驚雷の轟の如く、聞く者其耳を掩わざるはなし。(中略)時尭其の価の高くして及び難きを言はずして、蛮種の二鉄炮を求め、以て家珍となす。」(南浦文之「鉄砲記」)


 これの作者の南浦文之は、中国の朱子学に精通し、薩摩の島津義久、島津義弘、島津家久の3代に仕え、藩の外交、内政に尽力した人物にして、種子島でのやり取りを、誰かに聞いたのであろうか。


 要は、こうしてポルトガル人により種子島に伝来したもの2丁のうち1丁が、島津氏の島津義久に渡り、そこから将軍足利義晴へと伝わり、義晴は近江国の国・国友村(現在の滋賀県長浜市国友町)の刀工にして国友鍛冶、善兵衛に対し種子島銃の模造を命じ、善兵衛は苦心の末に種子島銃の複製に成功したという。


 それでは、日本にもたらされた、もう一丁の種子島銃は行方はどうなったのだろうか。興味深いことに、こちらは種子島氏が手元に所有し、家臣に模造するように命じ、一説には、完成段階とはいえないにしても、なんとかして模造品をつくる技術が開発されたのであろう。

 そこから流れとしては、次の二つに別れて伝わっていく。まずは、当時、琉球との貿易に従事していた堺の貿易商・橘屋又三郎が種子島に立ち寄り、対馬氏からの製造技術を持ち帰る、そして堺の桜之町に鉄砲を作らせる。それというのも、堺の職人たちは、新技術に対応できる鍛冶屋の技能を持っていて、試行錯誤のうちにやがて目的のものをつくることができたという。

 そればかりか、紀州の根来寺(現在の和歌山県岩出市根来)にも、同様の技術が伝えられ、こちらは堺の刀工、芝辻清右衛門が依頼を受けて、苦心の末に種子島銃の複製に漕ぎ着けたという。
 

 それからは、戦国大名たちが、このできたばかりの種子島銃をこぞって手に入れようと働きかける。中でも織田信長は、1553年、舅である美濃の斎藤道三と初対面する際には、兵士に500挺もの新兵器の鉄砲を持たせた、と伝わる程に、大量の注文をするとともに、その生産地を支配下におくべく、精力を傾けていく。


(続く)

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○171の1『自然と人間の歴史・日本篇』山崎の戦い(1582)、清洲会議(1582)、賤ヶ岳の戦い(1583)、小牧長久手の戦い(1584)

2020-09-12 21:08:31 | Weblog
171の1『自然と人間の歴史・日本篇』山崎の戦い(1582)、清洲会議(1582)、賤ヶ岳の戦い(1583)、小牧長久手の戦い(1584)


 山崎の戦い(やまざきのたたかい)は、1582年7月1日(天正10年6月2日)の本能寺の変を受け、7月12日(6月13日)に摂津国と山城国の境に位置する山崎(現在の京都府乙訓郡大山崎町にある、大山崎IC一帯をいう)で、明智光秀の軍と羽柴秀吉を中心とする軍とが対峙する。


 秀吉の軍は、織田軍最大の規模であり、中国地方の毛利の勢力と対峙していたのを、信長の落命を知り、「中国大返し」の迅速移動をして、当地に来ていた。
 戦闘は、午後に始まり、人数に勝る秀吉軍が優勢に推移するうちに、光秀が陣を退き坂本城に立ち返って態勢を整えようとするも、秀吉軍が追撃する。光秀はその途中の山中にて、落武者狩りにかかり命を落とす。


 秀吉軍が勝った理由としては、ほかにも、現地を見下ろす天王山を先取したのもさる事ながら、光秀側の事前の多数派工作が上手くいかなかった。
 それらのことには、光秀が本能寺の変を十分な準備なしに挙兵したのと、大いなる関係があろう。それに、「下剋上(げこくじょう)」により主君を討つのなら、それなりの大義名分のいる世の移り変わりがあったのではないだろうか、さらに信長の死体を味方へと頼む諸将に見せられなかったこともあろう。


 さて、光秀討伐後の、世にいう『清洲会議』では、信長親子の跡目相続が議論された。信長の子供のうち男子は10人以上いて、勢力でいうと、二男の織田信雄(おだのぶかつ)、三男の織田信孝(おだのぶたか)と、四男の羽柴秀勝であった。彼らのうち信孝は山崎の戦いで名目とはいうもの総大将をつとめ、本人もやる気満々であった。だがしかし、秀吉の方が何枚も上手だった。結局、死んだ長男の信忠の長男である三法師(さんぼうし)が後継者となり、近江国の坂田郡に3万石をもらう。

 そうはいっても、幼い三法師が成人になるまでの間は信雄と信孝が共同の後見人となり、もり役には掘秀政、執権には織田家筆頭の家臣としての柴田勝家に、羽柴秀吉と池田恒興(いけだつねおき)が補佐する。また、信雄は尾張と伊勢、信孝は美濃、秀勝は光秀の旧領である丹波(たんば)を相続する。さらに、秀吉に河内と山城に新たな所領が与えられるなど、家臣団の満面にも各々某かの所領が与えられる。

 と、まずは相当幅な財産分けを含めての裁定があったのだが、会議後にはさっそく不一致やら反目なりが顕在化していく。中でも、会議の決定を受けて、三法師は安土城に移る予定であった。だが、信孝は幼い彼を自身の岐阜城に留め置き、掘秀政と丹羽長英(にわながひで)、池田恒興を懐柔して織田家の実権を握った秀吉に対抗して、柴田勝家と連携するようになる。

 秀吉も負けてはいない、秀吉はそれならと清洲会議の決議を守らない信孝を、同会議の決定事項を守らない謀反をたくらんでいるとして、三法師に代えて信雄に織田家の家督を継がせる。

 収まらないのは信孝で、それからの信孝は、先の会議で羽柴秀吉の案に反対していた柴田勝家と語らい、秀吉と対立し、1583年(天正11年)には「賤ヶ岳の戦い」(しずがたけは、現在の滋賀県長浜市にある)が勃発する。その結果は、双方にらみ合いの中、先に軍勢を動かした勝家らの軍が、隙と見せかけて引き返してきた秀吉の主力軍に打ち負かされる。
 秀吉は、この戦いに勝利したことで、織田信長の後継者の最有力候補にのし上がる。さらに、秀吉には次の筋書きがあり、コンドは信雄を安土城から追放する。

 そこで信雄は、徳川家康に訴えて同盟を結ぶ作戦に出る。徳川家康は、「反秀吉派」を集める。家康という強敵の出現に、これに負けじと秀吉は、信雄を排除するために、信雄の三家老の津川義冬、岡田重孝、浅井長時()田宮丸)を懐柔するのだが、これを知った信雄は、「羽柴秀吉派」へと翻った三家老を処刑してしまう。


 怒った秀吉は、信雄とその後ろ楯の家康に対抗し、家康も受けて立つことで、1584年3月に小牧・長久手(こまき・ながくて)の戦いが起こる。
 この戦いは、東西の両雄の戦いにて、戦場となったエリア(小牧山(現在の愛知県小牧市)には、織田信長が1563年(永禄6年)に築城した「小牧山城」があった。また長久手古戦場は現在の愛知県長久手市)がかなり広く、両軍が多くの陣や砦を構築した。家康の本陣は小牧にいて、また秀吉軍の本隊は始めは到着しておらず、甥の秀次が率いる別動隊とが対峙していたという。
 
 ところが、途中で、秀吉軍の「深追い」を徳川軍が叩く形にて長久手でやや大きな戦闘があったとか。その戦況について歴代のテレビなどでは、野戦が得意の徳川方への肩入れが顕著なようなのだが、ちなみに、山本博文氏は、こんな見方をしておられる。

 「掘秀政は、榊原隊を追撃していましたが、家康の金扇の馬印を見て、兵を撤収し、秀次の警護のため戦列を離れます。そして、秀次の救済要請に応えて岩崎城を出て長久手方面に引き返してきた池田恒興、森長可らの軍と家康本隊が長久手で衝突し、恒興父子と長可が討死(うちじに)するわけです。
 この両人が討死しているので、全体が家康の勝利のように見えますが、勝利は紙一重のもので、家康とすれば秀吉本隊と戦うことになれば敗北必至というものでした。」(山本博文「日曜日の歴史学」東京堂出版、2011)

 その後の大方は、互いを見合う状態が続くうちに迎えた11月、双方が陣を引く。その訳とは、秀吉は蒲生氏郷(がもううじさと)に信雄の本拠である伊賀・伊勢方面を攻めさせる、そして領地の大半を占拠させ、臆した信雄と秀吉は単独で講和を結んでしまう。

 これは、双方にとって、なかなかに「賢明であった」と解釈できるのではないだろうか。というのは、秀吉としては味方の結束に不安があり迂闊に決戦に持ち込めないし、政治的にはもう織田家の跡目を継いだことになり、相手が「痛み分け」で降りてくれるならそれに越したことはない。家康としても、もうこれで信長との連合相手として大義名分が立った訳で、互いににらみ合っての消耗戦で本領がおろそかになるのは避けたかったのではないか。
 

(続く)

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♦️180の1『自然と人間の歴史・世界篇』大航海時代(スペイン、1096~1489)

2020-09-11 22:46:50 | Weblog
180の1『自然と人間の歴史・世界篇』大航海時代(スペイン、1096~1489)


 かたやカスティーリャ王国は、14世紀中頃、サラードの戦いに勝利して、半島よりマリーン朝を追い出す。イスラム勢力のナスル朝を孤立化させていく。1469年には、もうひとつのキリスト教勢力である、バルセロナを拠点とし、ナポリにも進出していたアラゴン王国の王子との組み合わせにて、カスティーリャ王女の結婚に漕ぎ着ける。


 これを機に、その後両王の即位で1479年、同君連合が成立して、スペイン(イスパニア)王国が誕生する。1482年には、ナスル朝への攻撃を再開する。やがての1492年には、グラナダの無血開城に成功し、およそ250年続いたイベリア半島最後のイスラム王朝ナスル朝を滅ぼして、キリスト教国家のレコンキスタ(再征服運動)を果たす。

 それからは、国家統一の実をあげるべく、王権の教科書に突き進んでいく。ますは、宗教的に、地域のおいて色々あるの問題視し、一体性を目指し統制を強めていく。大胆にも、王国の高位聖職者推挙権を国王の手中におさめる。これにより、各地の司教たちは、国王に従属するほかなるよう仕向けていく。あわせて、三大宗教騎士団を王権の管轄下に組み入れるとともに、修道院改革を行う。

 それら以外にも、とりわけユダヤ教からの改宗を詮索し、「隠ユダヤ教徒」の取り締まりでは、死刑を多用しての恐怖政治を行う。その中には、「学問論」などで知られるエラスムスなどの文化人も含まれていた。

 宗教以外にも、統治機構の整備への努力は多方面に及んだものの、成果には結びつきにくい。アラゴン、カタルーニャ、バレンシアにはそれぞれ統治契約主義の伝統がある中では、都市参事官の選出に「くじ引き」が取り入れられるなどの小規模改革に留まる。

 また、官僚機構を整えて貴族勢力を押さえようとすると、有力貴族たちは、議決権のない国王諮問会議に徐々に参加しなくなっていく。それでも、1480年のトレードのコルテス(王国議会)では、王室財政の強化の一環として、1464年以降に国王が与えた「恩寵」を取り消し、それらでの世襲年金や租税徴収権、王領地などでの国家の権益を強めたり、取り戻していく。

(続く)

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♦️180の2『自然と人間の歴史・世界篇』大航海時代(ポルトガル、1096~1489)

2020-09-11 10:07:02 | Weblog
180の2『自然と人間の歴史・世界篇』大航海時代(ポルトガル、1096~1489)

 1096年、カスティーリア・レオン連合王国 (スペイン) 国王は、イスラム勢力との戦いで勲功があったということで、フランスのブルゴーニュからやってきた騎士エンリケ・ド・ボルゴーニュ(アンリ・ド・ブルゴーニュとも)に、伯爵の称号と共に土地を与える。そこはドウロ川の流域で、ローマ時代には、その一帯をコンダドゥス・ポルトカレンシスと呼ばれていた。

 その息子・アルフォンソ・エンリケスは、 ポルトガル王国を建国し、 アフォンソ1世と号する。その後、サンタレンの戦いに勝利して、テンプル騎士団にトマールの地を与え、続いて、リスボンを奪取し、ここを首都に定める。

 13世紀後半、ポルトガルの王位に継承問題が発生し、カスティーリャ王フアン1世がポルトガルに侵攻してきた。そんなカスティーリャの軍に対する戦いで勝利を得て、ポルトガルの独立を確保し、アヴィス朝の初代ポルトガル王となったのが、好奇心旺盛なジョアン1世であった。1409年、ヤコブス・アンゲリクスにがプトレマイオスの著「地理学」をラテン語に訳出する。1411年、カスティーリャ王国とポルトガル王国との間で和議が成立した。

 1415年から、ジョアン1世は大いなる富を得ようと海外進出を始めた。ジョアン1世(~1433)の息子のエンリケ航海王子(1394~1460)やコインブラ公ペドロも、モロッコ遠征に同行し。ポルトガル軍は、北西アフリカのセウタ(モロッコの港町、物資集散の要衝の地ではなかったものの)を攻略する。

 ここにエンリケについては、「航海王子」の通称で呼ばれる。探検家であるとともに、ポルトガル内外の他の競争者とともに、ポルトガルを海洋王国へと引き上げていく先駆的役割を担う。ポルトガル南端のサン・ヴィンセント岬を根拠地にして、船団を組んではアフリカ遠征の探検隊を送り込む。
 当時の地理学では、まだインド洋と大西洋とはつながっておらず、アフリカ西海岸のポハドル岬あたりが大西洋の南の果てと考えられていたという。その意図するところとしては、王権の拡大やアフリカ奥地の金銀のみか、一説にはイスラム勢力の挟撃もなどが目当てとなっていたという。
 エンリケは1460年に「大いなる探検の成果と借財」を残して死ぬが、その後も、ポルトガルはその海洋熱を持続し、1492年には世界で最初の地球儀を作成するのを含め、強大な海軍国となっていく。

 とはいえ、当時のスペイン朝廷を動かしていたのは新興ブルジョアジー(ブルジョワジー)というよりも、一説には「ブルジョワジーの利害は後者にあったが、80年ころまで遠征事業の重心は、土地貴族の利害を強く反映して、モロッコにおける軍拡路線にあった」(合田昌史「ポルトガルの歴史的歩み」、立石博高編「スペイン・ポルトガル史」山川出版社、2000)という。

 それからだが、ジョアン1世から王位を継承したのはドゥアルテ1世だったのだが、その5年後に死ぬ。後を継いだのは、6歳のアフォンソ5世だった。コインブラ公ペドロが幼王の摂政として選ばれた。ペドロはジョアン1世の息子にしてドゥアルテ1世の弟(つまりアフォンソ5世の叔父)、そしてエンリケ航海王子の兄にあたる。摂政としてのペドロは、エンリケ航海王子が唱える大西洋の探検航海を支援する。

 1434年、ポルトガル人の航海士であり探検家ジル・エアネスが、ボアドール岬を回航する。エンリケ航海王子の命であったともいわれる。1477年、プトレマイオスの地図がイタリアで印刷される。1479年には、ポルトガルとスペインとの間でアルカソヴァス条約が結ばれる。仲介の労をとったのはローマ教皇であり、ポルトガルがアフリカ沿岸、マデイラ諸島、アソーレス諸島、カボヴェルデ諸島を、そしてスペインがカナリア諸島をそれぞれ領有することに決めた。

 1455年から1456 年にかけては、ポルトガル国王アフォンソ5世が、ローマ教皇から勅書を引き出す。その中では、キリスト教の布教を最大目に、すでに「発見」され、さらに「発見」されるであろう非キリスト教世界における征服と貿易を独占する権利、それに聖職叙任権をポルトガル国王に「贈与」することがうたわれた。


 1482~1485年、探検家ディオゴ カウンが、アフリカ大陸探検のためリスボンを出航した。ジョアン2世の命を受けていた。カウンの船団は、アフリカ西岸を南下中、偶然、コンゴ川河口を発見する。そのまま上流まですすむと、未知の王国があった。現在のコンゴとアンゴラの地域に当たる。

 1487年、この年の暮れから翌年初めにかけて、ポルトガル国王の命により、ポルトガルの航海者であるバルトロメウ・ディアスが出航した。アフリカ大陸を周回してインドへの航路を見出すためであった。彼の船団は、アフリカ大陸南端の喜望峰の回航に成功し、そこから折り返してポルトガルに帰港を果たす。

 それに同年、ペドロ・デ・クビリャン(Pedro de Covilh)が陸路で東方旅行に出発する。アデン経由でインド半島西岸の香料取引地に達した。またペルシア湾岸オルムスから紅海に出て、アフリカ大陸の東岸にとりつき、そこからザンベジ川河口付近まで南下した。

(続く)
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○171の2『自然と人間の歴史・日本篇』文禄の役(1592~1596)、慶長の役(1597~1598)

2020-09-09 21:48:31 | Weblog
171の2『自然と人間の歴史・日本篇』文禄の役(1592~1596)、慶長の役(1597~1598)


 この時期での朝鮮への出兵の狙いとしては、日本による大陸への領土拡張、侵略であり、秀吉にとっての、日本統一の前からの野望であった。そういえば、信長も生前、大陸への侵略を口にしていた。

 朝鮮はおろか、明国まで攻め入ろうとして、九州の名護屋に諸候を集め、準備を整えていく。

 そして迎えた文禄(ぶんろく)の役、日本からの遠征軍は、9つに編成されていた。その内訳は、次の通り。

 第一軍は、小西行長、宗義智ら1万8700人。第二軍は、加藤清正、鍋島直茂ら2万2800人。第三軍は、黒田長政、大友義統らで1万1000人。第四軍は、島津義弘、毛利吉成らの1万4000人。
 第五軍は、福島正則、蜂須賀家政らで2万5000人。第六軍は、小早川隆景、立花宗茂らで1万5700人。第七軍は、毛利輝元の3万人。第八軍は、宇喜多秀家の1万人。そして第九軍は、豊臣秀勝らの1万5500人。それらの総計は、15万8700人どされる(以上は、「毛利家文書・秀吉朱印状」)。

 最初に上陸したのは、釜山浦(現在のプサン)であった。それから20日位で都の漢城(ハニャン、現在のソウル)を占領する。まさに、破竹の勢いであった。

 その後は、もたついていく。第一軍については、平安道(ピョンアンド現在の北朝鮮西部)を平壌(現在のピョンヤン)までいく。

 第二軍は、咸鏡道(現在の北朝鮮東部)を行き、そのうち現在の北朝鮮・中国・ロシア国境付近まで攻めていく。

 その間は、概ね連戦連勝ながらも、明からの援軍到来、李舜臣率いる朝鮮水軍の奇襲、義兵の蜂起により、戦局は傾いていく。

 それからは、敵味方で入り乱れてもあり、一進一退の攻防を繰り広げる。日本は攻めあぐねるようになり、明との講和交渉が始まる。

 その一方で、戦局は日本にとりうまくなくなっていく。朝鮮半島南部の支配、日本本土との補給連絡線の確保に難渋していく。また、李舜臣の率いる朝鮮水軍の奇襲にあう。それにも備えるべく、朝鮮半島南岸に多くの城を築く。

 1597年(慶長2年)、日本と明との間で行われていた講和交渉は決裂してしまう。日本軍は、再び朝鮮半島へ。数ヶ所で城を築き、朝鮮半島南部を拠点に北上を狙う。

 ところが、秀吉の突然の死により、再度の侵略は頓挫が決定付けられたようだ。やむなくというか、「もう疲れた」というか、しかし、多くの武将がかれの死により遠征は早晩終わると、確信したのではなかったか。徳川家康らが中心となり撤退方針をまとめ、現地に命令を下し、全軍は朝鮮半島を撤退していく。

 それでは、これら二つの「役(えき)」が国内にもたらしたものとは、何であったのだろうか。まずは、豊臣政権の弱体化が進んでいった。この道理なき戦いに主に動員されたのは西国の大名で、秀吉恩顧の面々の中には、しだいに政権の中枢から遠ざけられ、重用されないままに重い負担を強いられた分、人によっては複雑な心境になるのを強いられたのかもしれない。

 別に、黒田官兵衛については、晩年の頭がまともに働かなくなり、羅針盤を失いつつあった秀吉にとっては頼みの綱であったろうに、官兵衛もまた側近政治に疎まれていく。そう言えば、かの伝説を作ったと評判の「中国大返し」も、天下統一の決め手となったであろう「九州平定」についても、官兵衛の働きがあってこそのことであろうし、自身が衰えつつあることを自覚していたであろう秀吉は、政権内の実力者となりうる官兵衛を警戒してしていたのではなかろうか。


 しかしながら、水というものは、つっかえがなくなれば、高きから低きへと流れていくものだ、世の中もまた然り。秀吉への忠誠心から彼の存命中は持ちこたえでいたのであろう。けれども、かかる主君がいなくなると、今度は石田三成ら内務官僚の顔を持つ者などへの反感が増していくは自然の成り行きであったろう。

(続く)

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♦️257『自然と人間の歴史・世界篇 』イギリスの19世紀文学(ディケンズ) 

2020-09-05 09:42:30 | Weblog
257『自然と人間の歴史・世界篇 』イギリスの19世紀文学(ディケンズ) 

 チャールズ・ディケンズ(1812~1870)は、イギリス南部のポースマス近郊に生まれた。一家がロンドンに移転後には、父が借財不払いで投獄される。そのため、ディケンズは、幼くして靴墨工場ではたらき、家計を支えたという。
 そんな彼が成長して新聞記者になってからは、あちらこちらで見聞した風俗をスケッチ風にして発行したところ、これが当たって、めきめき頭角を表していく。
 その中での出世作の一つ、「クリスマス・キャロル」の筋は、ロンドンに住む、ケチで無慈悲、それに人間嫌いのスクルージ老人が、クリスマス・イブの夜、相棒だった老マーレイの亡霊と対面し、翌日からは彼の予言どおりに第一、第二、第三の幽霊精霊に伴われて知人の家を訪問していく。
 そこそこで、炉辺でクリスマスを祝う、貧しいけれど心暖かい人々に出会うのであったが、自分の将来の姿を見せられる思いもしてきて、さすがのスクルージも心を入れかえざるを得なくなる。そして迎えた「大団円」(第五章)、晩年を迎えた老人の姿を、こうまとめている。
 「(前略)好い古い都なる倫敦ロンドンにもかつてなかったような、あるいはこの好い古い世界の中の、その他のいかなる好い古い都にも、町にも、村にもかつてなかったような善い友達ともなれば、善い主人ともなった、また善い人間ともなった、ある人々は彼がかく一変したのを見て笑った。
 が、彼はその人々の笑うに任せて、少しも心に留めなかった。彼はこの世の中では、どんな事でも善い事と云うものは、その起り始めにはきっと誰かが腹を抱えて笑うものだ、笑われぬような事柄は一つもないと云うことをちゃんと承知していたからである。
 そして、そんな人間はどうせ盲目だと知っていたので、彼等がその盲目を一層醜いものとするように、他人ひとを笑って眼に皺を寄せると云うことは、それも誠に結構なことだと知っていたからである。彼自身の心は晴れやかに笑っていた。そして、かれに取ってはそれでもう十分であったのである。」(森田草平訳「クリスマス・カロル」岩波文庫を、青空文庫で現代仮名遣いにしたものから引用)
 このように、拝金主義にまみれた状態からの脱出でしめくくる作品が見られる一方、晩年にさしかかるにつれ、後期の作品群には複雑な人間心理が見てとれるようになっていく。
 たとえば「大いなる遺産」は、主人公ピップの人生遍歴を通して、莫大な財産が転がりこんでくる夢に翻弄される若者を、これでもか、と描いている。
 そもそもが、幼いピップが、遊びにくるように言ってくれた老婆ミス・ハヴィシャムの家を訪れた時、その彼女から「さあ、私を見なさい。お前の生まれた頃からこの方、一度も日の光を見ていない女がお前は怖いのかね」(神山妙子編著「はじめて学ぶイギリス文学史」ミネルヴァ書房、1989)というのであった。
(続く)
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