♦️181の2『自然と人間の歴史・世界篇』マゼラン艦隊の世界一周(1519~1522)

2020-09-04 14:54:00 | Weblog
181の2『世界の歴史と世界市民』マゼラン艦隊の世界一周(1519~1522)

 
 2020.9.3のテレビ番組では、世界で様々な形で暮らしている「現地日本人」を取材し、その人を訪ねてインタビューする。その行程の途中の陸地から、かなり向こう、マゼラン海峡を見晴らす場面があり、観ていて感動した。


 この海峡は、スペイン語では「マガヤネス海峡」と呼ぶという。 世界地図を広げると、南アメリカ大陸南端部、パタゴニア地方の一角に見つかる。そこは、南米大陸とその沖のフエゴ島(面積は約4万8000平方キロメートル)を分ける細長い海峡にして、水路で太平洋と大西洋を結ぶ。


 思い起こせば、この海峡の東北に少し行った先の1980代のフォークランド紛争で、イギリスが南米大陸の東側現地(アルゼンチン南部の東沖にあるフォークランド(マルビナス)諸島において、英国空軍と「英雄的なゴムルカ兵」を先頭に仕掛けた相手が、アルゼンチンであったのは、まだ記憶に旧くない。

 それでも、東の入口の北岸がアルゼンチン領であるほかは、水路並びに沿岸はチリに属するのだという。してみれば、全長は約 550キロメートル、幅たるや約3~30キロメートルというから、相当に入りくんでいるようだ。
 しかして水路ということでは、浅いV字形に大きく屈曲している。東へは、ビルヘネス岬を経て大西洋へつながる。また、西半分は北西へ延びていき、デセアド岬を経て太平洋へとつながる。

 それにしても、このような海峡名および航路名に自己の名前が刻まれる「栄誉」に浴している、マゼランの船団(軍備を兼ねているということでは艦隊と呼ぶべきか)は、どのようにしてその「偉業」を成し遂げたのだろうか。とっかかりの話として、同船員による次の話が、こう伝わる。

 「(前略)ところで、当時のポルトガロ(ポルトガル)国王はドン・マヌエル幸運王(在位1495~1521)だったが、提督(マゼランのこと、引用者)がご奉公の報酬として月額わずか1テストーネだけ給金を増してくれるよう願い出たのにたいして、これを拒絶した。そのため提督はスパーニャ(スペイン)へ移ってしまった。
 スパーニャ(スペイン)の皇帝陛下(カルロス1世、ローマ皇帝カール5世)はかれの求めるだけのものを与えられた。」(「ピガフェッタ著、長南実訳「最初の世界周航」岩波文庫より)



 それでは、マゼランの艦隊は、どのような航路をたどり、またそこそこの立ち寄り地でどんな行動に至ったのだろうか、そのごく大まかな行程は次のようであった、と伝わる。

 まずは、1519年8月に5隻にマゼランら237人が乗り込んで、スペインのセビリアを出帆した。掲げたのは、「モルッカ諸島到達計画」であった。いわゆる乗組員のほか、戦士や商人なども含めた大人数であったのは、想像に難くない。

 12月には、現在のリオデジャネイロに到着する。それから南下し、ラフラタ川を上るも、川だとわかり、河口に引き返す。
 さらに南下し、10月には、南米大陸とフェゴ島の間に海峡を見つける。海峡を西に向かい、太平洋に出る。

 1521年3月、フィリピンのセブ島に到着する。現地のセブ王に対して、キリスト教への改宗を迫り、従わせる。スペインとの友好条約も結ばせ、「意気揚々」といったところであったろうか。

 続いて、その東にあるマクタン島に上陸し、これまた改宗を迫るも、首長ブラプ(ラブラブとも)の逆襲にあい、マゼランは殺されてしまう。

 彼の死後、残っていた3隻のうち1隻を捨て、一説には47名が乗船し、2隻で当初予定の航海を続ける。指導者なき艦隊は、ボルネオ島などに立ち寄っていく。

 そして迎えた1521年11月、当初の目的地、モルッカ島のティドーレ島へ上陸し、現地の王に贈り物をし、代わりに香辛料を手に入れる。

 1522年2月には、ビクトリア号に、戦いや事故、疫病などを生き延びた人々が乗って、アフリカ大陸の南端、喜望峰を西に越え、母国へ向かう。

 そして同年9月、エルカーノ指揮下にて、18人を乗せたビクトリア号がスペインに帰還を果たす、都合約2年の、波乱に満ちた航海であった。

 このような世界一周の新航路の発見と相まって、以降、スペインの海外進出はますます勢いを増していく。とりわけ、メキシコからペルー、そしてチリ、それから太平洋に出て西インド諸島、フィリピンなどをつぎに植民地化し、ポルトガルをしのいで世界の強国となる。
 艦隊を整え、その覇権を軍事的に維持するとともに、商船隊により、鉱産物のほか、新しい産物として馬鈴薯、トマト、トウモロコシといった作物とともに、唐辛子やオールスパイスなどの広い意味での食料を、本国並びにヨーロッパにもたらす。

(続く)

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♦️181の3『自然と人間の歴史・世界篇』ポルトガルによるマラッカの植民地化(1511) 

2020-09-04 09:52:54 | Weblog
181の3『自然と人間の歴史・世界篇』ポルトガルによるマラッカの植民地化(1511) 


 1509年ヨーロッパからの最初の交易船が、バスコ・ダ・ガマが拓いたインド航路(アフリカ喜望峰を回り、インドに至る)を経由してきたポルトガルの商戦隊があった。彼らには、例によって軍艦が付いてきていた。


 その彼らはマラッカに行く。それ以後は、狙いが定まっていく。連ねたポルトガルの商船隊が、手に入れていたのが、この地域に産する胡椒なのだ。この時、かかるルートに属する貿易港「マラッカ」に魅力を感じていたのが、ポルトガルに他ならない。

 そういうことだからして、ポルトガルとしては、アラブ商人経由の香辛料取引に甘んじていたのを、直接交易にして利益を独占したいと考えた。
 そして迎えた1511年、ポルトガル国王の命を受けたアルフォン・デ・アルバカーキ副王が、16隻の艦隊を率いてマラッカ王国を攻撃し、10日で占領した。これにて、「マラッカ王国」は崩壊し、この地はルトガルの植民地となる。なお、難を逃れたマラッカ国王は南下して「ジョホール王国」を興し、王朝の命脈を失わないで済んだという。

 ちなみに現在、かの地の辺りへは「マラッカ・シンガポール海峡」を通り、「マラッカ海峡」と「シンガポール海峡」の2つの海峡で構成されていることになっており、マラッカ海峡が長さ約970キロメートル、幅は西口が約396キロメートル、東口が約20キロメートルであり、シンガポール海峡については長さが約90キロメート、幅は西口が約20キロメートル、東口が約キロメートルだとされている。
 なお、同海峡には、「分離通航帯」が設けられていて、年間12万隻からの船舶が通航する、「世界で最も混雑している海峡」と言われている。

(続く)

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♦️923『自然と人間の歴史・世界篇』米・中政府はどちらが「独裁的」か(問題点の若干の整理を巡って)

2020-09-02 10:39:50 | Weblog
923『自然と人間の歴史・世界篇』米・中政府はどちらが「独裁的」か(問題点の若干の整理を巡って)



 さて、この項では、その話のとっかかりに、今回の新型コロナ問題にちなんての新刊本の一節から紹介しよう。
 それというのは、この本には数人の、各界の名だたる識者が登場されていて、その中での文化人類学者のダイアモンド氏による、項目名「二十一世紀は中国の時代か?」中での次の下りに目が止まった、その部分には、こうある。


 「21世紀は中国の時代だという声も聞きますが、ありえません。中国は壊滅的なディスアドバンテージを抱えています。中国は四千年に及ぶ歴史の中で、一度も民主主義国家になったことがないのです。(中略)


 中国は民主主義国家であったことがない。それが致命的な弱点なのです。中国が民主主義を取り入れない限り、二十一世紀が中国の世紀になることはないでしょう。」(ジャレド・ダイアモンド他著、大野和基編「コロナ後の世界」文春新書、2020)
 改めて文脈を確認して、「ため息」を漏らしてしまったのは、他でもない、ここでの論旨が短兵急というか、それに一本長所なところが気にかかる。さりとて、明快で説得力のある他の部分も大いに感じているので、はたして、どのように消化したらよいのだろうか。

 たぶん、このような大方論証抜きの、いきなりの断定になるのは、最近の香港での「一国二制度」の問題とか、著者にとっての我慢できないことも介在しているのかもしれない。もしその類いの事柄が「あたらずとも遠からず」の状況であるなら・・・。

 しかしながら、世界のために、とりあえず米中での和解を待ち望んでやまない立場からは、これでは同意なり、一定の理解の表明には、かなり足りないように思う。ついでにいうと、「著名人」(自称、他称の別はあるものの)におかれては、自らの言動にはくれぐれも留意してほしい。

 そこでまず、ここに不用意な形で持ち出されているかに見える、「民主主義」たる用語の歴史を少し振り返ってみたい。しかして、その馴れ初めは、遠く古代ギリシャにさかのぼろう。

 顧みれば、かの時代においては、支配的に振る舞う市民の間にも、「貴族」と「平民」の差別と選別の社会的な構造があった、しかも、抜きがたく、時として尖鋭な形で。なお、ここで誤解なきように、被統治の側にいる奴隷などの立場におかれていた人々については、これからの話での埒外に追いやられていた。

 そこで極くおおまかには、かたや前者は、社会の目標とするところを「善」におく、その上で、その理想の実現のためには能力に秀でた者が前面に立って社会を指導して然るべきだという。
 ちなみに、かの有名なソクラテスの愛弟子、プラトンは、「為政者が哲学者になるか、哲学者が為政者になるべき」と主張し、彼らの代弁者であり続けた。

 一方、一般市民の方向は、その逆であったという。ざっくばらんにいうと、そこでは権力による支配をできるだけ少なくし、社会の重要な決定は統治側の市民総体として担うべきだと主張し、これだと広く権力を市民一般に委ねるようにすべし、となろう。

 ところが、これで両方での調整が図られ、妥協点を見いだすべく、双方協力しての努力が進むと思いきや、そうはならないのが、この話での「味噌」といえるのではないだろうか。

 すなわち、後者に対しては、前者による攻撃がなされる展開になっていく。そこで貴族らは、いわく、「君たちの主張は、結局のところ、権力による支配を弱めたり、廃止することにはならず、善悪の判断において劣る市民大衆に権力をあたえることになろうと。

 そして、かかる「善悪の判断において劣る市民大衆に権力をあたえるもの」(ギリシャ語にて「デモス・クラシー」)との、後者に対して手厳しい反批判を加えたことになっている。しかしてこれが、そもそもの「民主主義」とは何かの定義にも、ある程度は関わろう。

 それから2000年近くを経ての16~17世紀の欧州では、カトリック(カソリック)とプロテスタントとの間に、神とどのように結びつくかを巡り宗教戦争が戦われた。

 その中では、前者の勢力が、後者の信仰を持つ人々を、策を弄して大量虐殺さえ行うこともあったのが、やがて双方の間で歩み寄りがあり、互いの信教の自由を認め、保障しようとの動きが始まる。異なった宗教をもつグループが同じ地域に散在あるいは同居するためには、互いに寛容の精神をもって接しなければならない、と考えるに至る。

 が、そうはいっても、両派の間には宗教生活上の問題が日常化していたのであって、それらの問題を解決するために集会し、意見を述べあって妥協点を探りあう、それでも折り合いがつかない場合は多数決原理が採用されていく、これはすなわち、「多数に理性が宿る」という価値観を形成していくのであった。

 その後、市民革命など、各地での「権利のための闘争」を重ねるうちには近代民主主義が確立への道を歩んでいく。それらでの最大の拠り所となるのが、次に紹介するような取り決めとしての宣言であった。
 「すべての主権の淵源は、本質的に国民に存する。いかなる団体も、いかなる個人も、国民に由来しない権力を行使できない。」(「人および市民の権力宣言(人権宣言)」1789.8.26、芝生瑞和(しぽうみつかず)編「図説、フランス革命」河出書房新社、1989での邦訳より引用)

 それでは、このような民主主義のメニューを大方実現するためには、社会、そして国家などはどのように心がけたらよいのだろうか。これを語るのは、思いのほか難しい。さりとて、先人たちが遺してくれたあまたの言葉の中には含蓄のある道しるべが多数あり、ここではリンカーンのゲティスバーグでの演説にある「人民の、人民による、人民のための政府(政治)」を手がかりに、某か紐解いてみたい。ちなみに、この地は、南北戦争の転回点となった激戦地である。


 そこで次には、かかる文言にどういう風な解釈が考えられるかというと、まずは、人民に属する範囲を公益として措定し、なおかつそれらを公(おおやけ)に明らかにして然るべきだろう。
 ちなみに、公益の反対は私益であって、後者の領域での収益、処分などは別扱いとなろう。具体的に、何が公益に属するのかは、時代・環境などによって歴史的に変遷してきた。例えば、「小さな政府」とか「市場原理主義」という立場からは、できるだけ公益の範囲を狭く解釈しようとしてきた。とはいうものの、現在ではどの国、地域でもかなりの分野が政府・政治の関わるものとして社会的に認められるに至っているのではないだろうか。

 もちろん、一概に公益に属する人民の広い意味での生活部分が多ければ良いというものではなく、例えば安全保障や治安(戦前の内務省の如く)に政治が肩入れするのは、少ないに越したことはあるまい。そういえば、テレビなどに出てくる顔の中にはいつでも「国家の危機」なりを強調して止まない人が見受けられるのは、いかがなものだろうか、主権者である国民は、いつでもどこでも、しっかりとその辺の裏側も含め全体事情を見極める能力を身に付けるべきだろう。

 あわせて、このような道理を経済面から捉えると、どうなるだろうか。しかして、この分野での馴染みの表現を用いると、同じく市場にからんでのを話ながらも、私的資本と社会的共通資本を区別している。また、後者の中でも大気や河川、それに森林などの自然資本と、堤防、道路、港湾、公園、上下水道、電力、鉄道などの社会資本とを区別する立場(その代表格は宇沢弘文「経済学の考え方」)があり、かかる「社会的共通資本」の扱いを、こう提言している。

 いわく、「社会的共通資本は、私有が認められず、社会的に管理され、そこから生み出されるサービスは、市場機構を通じてではなく、社会的な基準にしたがって各構成員に供給、分配されるものである」(同)という。
 してみれば、この範疇に属する資本については、あたかも資本主義とは異なる原理により運営されるのが望ましいことにもなっていこう。さても、宇沢本人は、べつの文脈において自由の観点から社会主義とは距離をおく発言をしていて、はたしてどちらにウエイトが傾いているのかと、なかなかに興味深い。

 と、およそこのような区分けを携えて米、中を眺めると、どうだろう、アメリカが資本主義の牙城を任じる余りか、繰り返し公益を軽んじる傾向があるのに対して、それを守ろうとする向きの強く見受けられるのが、「社会主義市場経済」の体制を取っているからというよりも、発展途上国としての中国にほかならない。なにより中国は、いまだに貧困の撲滅を最優先の政策課題としているのが読み取れよう(2020年1月までの「人民日報」では、その関連ニュースが幾重にも出てくる)。



 リンカーンが掲げる二つ目のキーワードにおいては、どうだろうか。思うに、民主主義を実現する主体は人民であらねばならない、このことが一時たりともないがしろにされるようであってはならない。とはいえ、人民の総体が逐一というかどうかは別にしても、その時々の公益に関する案件に人々が一年を通して直接的に関わりうることがあれば、多様な理由から、選挙などで代表を選んで、選ばれた議員や行政首長などは、主権の範囲内でそれらについての政策を公明正大に実行していくこともあろう。
 論議の中心となる「選挙民主主義」については、一説には、「普通選挙権に基づき、定期的で競争的な、かつ複数政党による選挙を通じて、立法府と行政首長が選出される、文民による憲政のシステム」(ラリー・ダイアモンド)とされるものの、真に「人民による選挙」(被選挙権を含む)となるためには、さらに法の下での平等、それに選挙の公平性と公開性が各々のレベルにおいて確保されていることも、要件に加えるべきだろう。
 これらを含めて米中のおよその状況を見ると、中国では選挙法に基づき複数政党(ただし、実態は共産党が中心)の下での各級選挙が大方平穏に実施されるも、地区(市や自治州)から上では間接選挙となっており、公開性も満たされているとは言い難い(さしあたり、本間正道他「現代中国法入門」を推奨したい)。

 例えば、香港も今は中国国内であることに変わりはなく、参考までに顧みれば、1997年の中国返還後の香港は、「一国二制度」の下で50年間は「高度な自治」を保障された。行政長官の選出について、香港基本法は、「広範な代表性を持つ委員会が民主的手続きで指名した後、普通選挙で選ぶ」ことを最終目標としている。それでも、前回の選挙は「選挙委員会」の1200人が投票できたにとどまった。
 2014年8月、基本法の解釈権を持つ中国の全国人民代表大会常務委員会は、香港政府の報告に基づき、2017年選挙で18歳以上の市民が1人1票で投票する仕組みを決定した。同時に、中国側の決定では、香港の親中派が多数を占めるとみられる指名委員会が候補者を2〜3人に絞るため、同民主派は「民主派を排除するものだ」と反発し、決定の撤回などを求めて抗議を行った経緯がある。

 アメリカも、わけても大統領選挙で選挙人を選ぶ間接選挙にて、しかも州毎の最終集計に当たっては有利な側に全数を与える仕組みなので、死票が沢山出るのを免れない。
 がしかし、これらの扱いは両国とも建国以来の伝統であることに留意されたい。また、アメリカではロビー活動や選挙上での人種差別化戦略が半ばまかり通っている感があり、中国についても、候補者が立候補の前に正当とは言い難い、ある種の調整(詳しくは別項)に直面する場合も見受けられる。
 そればかりか、アメリカについては、これらに関連して、前述のダイアモンド氏による、こんな憂慮も表明されているところだ。
 「日本やイギリス、ドイツでは選挙の前になると、この日に選挙がありますよ、という通知表が郵便で届きますが、アメリカは違います。投票するにはまず自分で有権者登録をしなければなりません。登録には免許証やパスポートなどのIDが必要で、どちらも持っていない多くのアフリカ系アメリカ人は登録できません。つまり彼らは投票できないのです。
 アメリカは建前上、表面上は民主主義ですが、実際に投票できるアメリカ人はどんどん減少しています。」(前掲、「コロナ後の世界」)

 
 そして三つ目は、それらの行為が広く人民のため(利益)となるように実行、実践されているかどうかが、これまた透明性なり公開の原則に則って、ここの人民にまで届くように明らかにされなければならないことをいう。
 この道理を言い換えるなら、正当な理由なく、ある特定のグループに有利なように、彼らに対して正レント(特権)を生じさせるがごときは、民主主義ではない。逆に言えば、民主主義というのは、特定のグループに特権的な利益をもたらすことで、彼らの範囲での一握りでの「幸せ」を実現しようとする行動には、くみしない。
 いみじくも、経済学者のクルーグマン氏からは、こんな「ため息」とも受け止められかねない声が寄せられている。
 「毎日、衰退を示す新たな指標がもたらされているようです。やればできるはずの国家がパンデミックに対処できない国になり、自由世界のリーダーが国際機関の破壊者となり、近代デモクラシー生誕の地が独裁主義を志向する者に支配されています。なぜ、すべてがこんなにも早く、間違った方向へ行くのでしようか。」(前掲、「コロナ後の世界」)
 かたや中国については、建国以来の「人民民主主義独裁」が国是(こくぜ)である以上、「独裁」一般をもって「どうだ、こうだ」と非難なりを加えるのは、正しい批評とは言えまい。かの国で人民のための政府(政治)が現実のものとなるのか、どうか、これからが正念場となるに違いあるまい。その辺りの探求に当たっては、中国人民の暮らしと意識の変化、現代におけるその方向性を、中華民族の再興の精神・願望までも踏まえつつ、謎解きをしていくべきだろう。あわせて、国際社会においては、彼らがこの間苦難の道を歩んできたことへの一定の配慮があって然るべきであり、それでこそ全体としての話が一層うまく行く話ではあるまいか。




(続く)

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♦️933『自然と人間の歴史・世界篇』ゴルバチョフの社会主義思想(1996)

2020-09-01 16:11:06 | Weblog
933『自然と人間の歴史・世界篇』ゴルバチョフの社会主義思想(1996)

 まずは、次の主張をご覧いただこう。

 「こうしたことから、私の思考は社会主義思想の理解という点に集中した。社会主義思想とは何か。私は次のように考える。(中略)

 第一に、「人類の普遍的価値をある一つの階級の利益ではなく、社会全体の利益、全社会層の利益であると理解し、全体の利益を最重視しなければならないと私は考える。マルクス=レーニン主義の教えによれば、このアプローチは否定されてはいないものの、調和への道はプロレタリア独裁と階級的暴力の段階を通過しなければならないとされている。(中略)

 第2に、グローバルな人類の普遍的価値は個々の国家利益よりも優位に位置すると私は考える。付言すれば、この主張は社会主義運動の国際活動に関するマルクス主義の基本思想と少しも矛盾しない。」(ミハイル・ゴルバチョフ著、工藤精一郎・鈴木康雄訳「ゴルバチョフ回想録」・下巻、新潮社、1996)

 さても、ここにある社会主義思想というのは、マルクスとエンゲルスによって発見された科学的社会主義をいい、かつまた、その理論的発展としてデーゼ化され、ソ連の同体制崩壊前の体制側理念であったのが「マルクス・レーニン主義」であることも、それなりに踏まえての言葉なのだろう。
 今の彼は、ソ連時代の指導的立場を離れて、その是非なり現代的意義を忌憚なく述べることができる、なにがしかの自由を行使することができるようになった、だから、ここの引用部分は、「回想」の体裁でかくもわかりやすい言葉使いで語られていて、かつてなく親しみやすい。
 ここには、もはや社会主義というのは、かつてのような「鉄の規律」ととなり合わせで語ったり、人々に威圧感を与えつつ、あるいは説得しようとするなどして相手に向けられるものではない、そのことを、今の彼は自分自身の言葉で述べているのであって、その分、これに賛同するかどうかは別の話ながら、読み手としては概ねすがすがしい気持ちがするのである。


(続く)
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