○251の2『自然と人間の歴史・日本篇』甲斐における天保の大騒動(1836)

2020-12-17 11:52:52 | Weblog
251の2『自然と人間の歴史・日本篇』甲斐における天保の大騒動(1836)

 まずは、この騒動の原因となった、当該地域での農民飢饉の実態については、「富士吉田市史・総説」と、「大月市通史編・近世」によると、それぞれ次のように記されている。  

 「甲斐国においても同じことで、国中方面における一揆は毎度のことであったが、郡内(甲斐の国は、山梨、巨摩、八代、郡内の四つの郡よりなっていた・引用者)のそれは、史上名高い天保の大騒動がこの間の消息を物語って余りあるものであった。  
 天保4年(1833)以来、連年の凶作で郡内地方の農民の疲弊は極度に達し、その上に疫病の流行が重なり、飢餓するもの知れず、再三再四の救い米払下げに対する代官所の無策と、国中方面の米穀商の買占めなどが輪をかけて農民の不満を一気に増幅させた。」(「富士吉田市史・総説」)  

 「下和田村仕立て屋惣兵衛」の報告を記した「凶年日記控」によると、天保4年から降り出した雨は、5年、6年、7年と続き、空の見えた日はほんの数えるほどしかなかった。  
 ことに、この時は天明の飢饉に次ぐといわれるほどの全国的な不作不凶で、富士山麓地方から桂川の流域一帯は、夏中も冷え込み、農作はもちろん、最後の頼みとする養蚕・機業は原料・原糸も乏しくなり、わずかに織り上げた絹、紬も売れなかった。  
 さらに耕地は狭く生産力に乏しいこの地域では、食料品の自給自足も出来なかったので、米穀をはじめ、食品原料の相場は暴騰し、多くの農民は木の実、草の根まで食い尽くし、病人、衰弱者、捨て子、自殺者、餓死人、及び村を捨てた欠落者が続出した。谷村の長安寺前の空き家には100人あまりの死人が積み重ねられ、また犬に食いちぎられた乳幼児の手足が街の中に散乱していた。  
 猿橋では橋の上から入水自殺する親子があり、家族連れまで甲府まで紬乞いに出かける者もあった、と伝えている。  
 こうして天保7年の春には、農民の苦しみは極限に達し、この4、5年で郡内の人口約6万人のうち、死亡者は1万8000人、30%にも及んだ。このような状態にもかかわらず代官所は何の手も打とうとしなかった。(「大月市通史編・近世」)  

 次には、前に引用した「再三再四の救い米払下げに対する代官所の無策と、国中方面の米穀商の買占めなどが輪をかけて農民の不満を一気に増幅させた」という状況について、いま少し記そう。

 おりしも、米価の高騰と郡内絹織物の暴落にも直面する中、この地の農民たちは、いよいよ「このまま座しては皆飢えて、命を失う」との悲壮感に包まれるのであった。
 そこで、黒野田、白野、中初狩、真木、花咲、大月、駒橋、猿橋、烏沢、犬目、その他22ヵ村の有志が中初狩に集まった。その有志らは下和田の治左衛門、犬目の兵助、黒野田の泰順らの意見を聞き、取決めを行う。
 それは、一村一名ずつ願書をもって、谷村及び石和の代官所に訴え出て、代官所の力で米穀商人に廻米してもらうこと、谷村の囲籾蔵の米を借りることなどを訴え出よう、との話になる。下和田村(現在の大月市)の治左衛門(森武七)、犬目宿(現在の上野原市)の兵助をはじめ22ヵ村の代表はみな、一通ずつ願書をしたため谷村の代官所に差し出した。
 ところが、谷村の代官所では、そんな農民の嘆願のことがうまくいかない。彼らは、あれこれ口実をつけて願書を受け付けなかった。それでいて代官所では、ことの次第を石和の代官所に報告したともいう。
 そこで有志の代表たちが編成され、国中の熊野堂村の米穀商、小川奥右衛門方などに掛け合いに出かけた。農民代表は、彼らに対し郡内の農民の窮状を伝え、米の融通なりを求めた模様だ。
 ところが、彼らは郡内の農民の申入れを断り、かねてからの米買占めにもかかわらず、農民たちの窮状を救おうとするところがまるでなかった。


 かくて、さらなる展開が現実味を帯びてくる。これはすなわち、当該の農民たちの思考のゆきつくところは、ただ一つしかなかったのであろう。かかる事件の発端は、1836年8月14日(天保7年8月14日)、都留郡上谷村(現在の都留市)の米屋など6軒が打ちこわしに遭ったのに始まる。
 同月8月20日には、武七と兵助を頭として、白野宿(現在の大月市)に、甲州街道22か村の農民2千人余りが集合の上、15か条にわたる行動綱領を定め、同日、星野宿(大月市)などでの米穀商から米の押し借りを要求して回る、ここまでは暴力を伴うほどではなかったようだ。

 そしての10月1日には、彼らが笹子峠を越え国中領に入る。そして、駒飼宿(現在の大和村)などで打ちこわしが始まる。彼らは、街道沿いの豪商、豪農を打ちこわし、あるいは接待をさせながら西へと進み、翌22日になると、郡内農民が主目的としていた山梨郡の豪商、桑右衛門屋敷を打ちこわし、この時の一揆勢は一説には1万人に達していたのではないかと見られている、そこで初期の目的を達した郡内勢はほとんどここから引き揚げたという。

 残った者のうち2、3千人は、10月3日には、山梨、八代両郡から幕府代官所の本拠たる甲府城下に迫った。甲府勤番支配ではこの人数を防ぎきれず、一揆勢は町方に乱入し、13軒の富商を打ちこわす、そして物資を強奪するとともに、諸帳面、諸証文の類は焼き捨てられるという有り様にて、国中地方における貧富の差の拡大を裏付ける結果にもなっていった。こうした「乱暴狼藉」は10月4日朝になっても収まる気配を見せないことから、取締り側は信州諏訪藩、駿河の沼津藩などへの出兵要請に踏み切る。
 そしての10月6日、さしもの大一揆も鎮静化に向かう。巨摩郡の村々を打ちこわし、甲信境まで押しかけていった一揆勢については、諏訪藩兵と御岳山神主の出動によって鎮圧されることになるが、「この数日間における打ちこわしは甲府町方のほか106村、305軒に及んだ。」(前掲「富士吉田市史」)と伝わる。捕らえられた者のうち12人に死罪が言い渡され、そのうち12人が牢獄内で死亡、追放93人をはじめ、受刑者総数は562人を数えた。


(続く)

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♦️446の2『自然と人間の歴史・世界篇』トルーマンによるマッカーサー解任(1949)

2020-12-17 09:28:31 | Weblog
446の2『自然と人間の歴史・世界篇』トルーマンによるマッカーサー解任(1949)

 まずは、朝鮮戦争の時のアメリカ軍の司令官が解任されたのを思い返してほしい、マッカーサーは、本国に帰った後に、こう述べている。

 「私は、兵士たちから聞かれました。「なぜ戦場の敵に、軍事的な有利さを明け渡してしまうのですか」と。 私は答えられませんでした。
 今回の紛争が、中国との全面戦争にまで拡大するのを避けるためだとか、ソ連の介入を防ぐためだという人もありましょう。
 どちらの説明も、正当な根拠があるとは思えません。中国は、全兵力を投入してきています。ソ連は、必ずしも我々の動きに合わせてくれようとしません。新たな敵も現れるでしょう。彼らは、コブラのように、世界的な規模でみて、自分たちの力の方が優勢であると感じれば、攻撃を仕掛けてくるでしょう。
 朝鮮での状況てすが、現在の国境線の中に軍事行動が限定されていることによって、困難が高められています。我々が救うべきこの国が、海と空からの大規模爆撃による破壊に苦しんでいるのに、敵の聖域は、攻撃や破壊から守られているのです。
 世界中の国で、これまでのところすべてを賭して共産主義と戦ってきたのは韓国だけです。韓国人の勇気と不屈の精神は、筆舌に尽くせません。
 彼らは、奴隷になるよりも死の危険を選びました。彼らの私に対する最後の言葉は「見捨てないでほしい」でした。」(1941年4月19日、上下両院合同会議での退任演説から)

 これにあるのは、ある軍人の頭の中が、敵に対する憎悪に満たされているのではないかと見まがう。その敵とは、広く、「共産主義」を奉じる者ということになっている。
 このような頭脳からは、「北の勢力を助けようとする中国に対し核兵器を使うのも辞さない」という選択肢であって、マッカーサーはこれをあれやこれやの理由付けをして主張している。


 より詳しくは、どうやら、「旧満州には日本が建設した工業施設・軍事施設や武器弾薬が多く残されていて、それらが中国軍に利用されている、それを場合によっては核兵器を使ってたたき潰さなければ」ということであったらしい。
 しかし、その作戦は、中国との全面戦争に発展しかねないと、アメリカのトルーマン大統領は危惧(きぐ)したようだ。トルーマンは、マッカーサーに言い訳をさせずに解任通知を急ぎ、マッカーサーは気がつけば解任されていると知り、従うしかなかったのだろう。
 それでも、彼は不満だったにちがいなく、それを演説にぶつけたものであって、そのなかではまた、「Old soldiers never die,they just fade away (老兵は死なず、ただ消え去るのみ)」と述べた。

(続く)

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○14の2『自然と人間の歴史・日本篇』日本アルプスと富士山の形成

2020-12-16 19:40:32 | Weblog
14の2『自然と人間の歴史・日本篇』日本アルプスと富士山の形成

 さても、「富士は日本一の山」とうたわれる富士山は、標高3776メートルの成層火山にて、山梨、静岡の両県にまたがる。その誕生は、今から少なくとも数十万年前からの海底火山に始まるとされる。

 火山の寿命からいうと、富士山はまだ若い、それでいて、その生い立ちには不明な点が少なくないという。

 まずは、その前史から始めよう。富士山周辺の地殻、地層の形成から、海上に出てくるまでは、二つの時期に分かたれよう。新第三紀中新世(約2300万年前~約533万年前)の初期にできた地層は、御坂統(または御坂層)と呼ばれる。
 その次の中新世の中期~後期にできた地層は富士川統と呼ばれていて、この時代までは富士山の周辺地域には海が来ていたのではないかという。
 それが、新第三紀鮮新世さらに第四紀の初期になるにつれて、それらの地層が陸地として現れていくにつれ、侵食を受けていく。侵食を受けながらも隆起を続けるうちに、富士山が誕生したのではないかと考えられている。

 あえていうなら、富士山はよく「3階建て」と言われる。3世代が同居した山とも言う。第四紀更新世(約258万年前~約1万1700年前)の、一説には、約70万年から約20万年前に「小御岳(こみたけ)火山」が噴出、形成された。その模様だが、安山岩質で粘性が強く、高さ約2400メートル前後の火山を形成したのであろう。


 二つめの変化としては、現在私たちが仰ぎ見ている新富士の原型である「古富士」の形成があった。こちらの活動開始は、約10万年から約8万年前であったという説から、数万年前からというものまで、諸説あり。
 
 大方な見方としては、小御岳の中腹・南斜面から活動を始め、爆発的な噴火を繰り返して小御岳を覆ったのだろう。大量の火山灰が関東ローム層として堆積していく。約2万5000年前には山体が崩れて大規模な「古富士泥流」も発生するなど、噴火と、それに伴う山体崩壊を重ねる。


 約1万1000年前、その古富士の頂上が火を噴いた、その頃は、人間もいたであろうから、大層驚いたであろうことは、想像に難くあるまい。

 それが、いわゆる「新富士火山」の始まり。これを境に噴火のタイプが爆発型から溶岩流出に変わり、現在の新富士火山活動期に入った、とされる。

 その位置関係については、例えば、こう言われる。

 「小御岳が死火山となった後、その南西側、現在の富士山火口の真下辺りから起きた噴火により形成されたのが古富士火山である。この古富士火山の火山角礫層は富士吉田市付近でもその厚さや高度分布は一様ではなく、富士山の中心に向かって漸次高まるようで、現在の富士山の中心付近から噴出したものと見られている。したがって古富士火山は富士山本体の溶岩よりずっと古く、新期溶岩の噴出前に相当侵食され、断層によりかなり変形を受けたものと考えられる。」(「富士吉田市史、行政編・上巻」)

 以後は、縄文時代中期の約5000年前まで火山活動が活発化していく。そうして、火山砕屑物の噴出と玄武岩質の多量の溶岩流出が繰り返しあり、それらは山体の末端まで到達したのだという。


(続く)

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♦️421『自然と人間の歴史・世界篇』マーカシズム(1950~1954、アメリカ)

2020-12-15 22:02:48 | Weblog
421『自然と人間の歴史・世界篇』マーカシズム(1950~1954、アメリカ)

 マーカーシズムというのは、1950年から1954年にかけてアメリカ合衆国のウィスコンシン州選出上院議員ジョゼフ・R・マッカーシーの活動に代表される反共産主義のヒステリーとでもいおうか、事実に基づかないことを言うのに急な現象をいう。
 これには、下地として、第二次世界大戦後のアメリカが直面した、世界との関わりがあった。政府は、1947年3月、トルーマン・ドクトリンの発表と相前後して、連邦政府職員の忠誠審査令を出して思想統制を強化し、翌年の大統領選挙に進歩党から出馬した対ソ協力派のヘンリー・ウォーレス元副大統領を容共的であると非難していた。
 そして迎えた1949年の中国の人民民主主義革命(国民党の蒋介石政権は大陸を追われ、台湾を占領の上、その地で統治を始める)によって、アメリカのこの地域への関与の野望が潰えたのみならず、同年ソ連が原爆実験に成功した。アメリカとしては、戦後の主導権を握ろうとしていた矢先の出来事であったろう。時代は、「東西冷戦」に向かっている、とされていた。


 このような時、マッカーシーは、自らの所属する上院(彼が議席を得て3年目ら)を利用して、国民の危機感に訴える一大キャンペーンに打って出る。いわく、「それまでのマッカーシーは上院で影の薄い、とるにたらぬ人物のように見えた」(「R・H・ロービア著、宮地健次郎訳「マーカシズム」岩波文庫、1984)というのだが。

 これらの困難の源は、国内や政府のなかに国益を裏切った共産主義者がいるためだとし、1950年2月に行われた「国務省のなかに205人の共産党員がいる」という演説を行うなど、根拠のない話を、しかも針小棒大に広める。これが、アメリカ国民をらなる不安と混乱に陥れ、まもなくの1950年に勃発した朝鮮戦争によって勢いを増していく。

 続いての1952年の選挙演説で、彼は、「農民、労働者、経済人にとって真の問題は唯一つ、それは政府の中の共産主義の問題である」と、また朝鮮戦争に触れては「こうして、国内で共産主義と戦う気のない政府は、海外で共産主義と戦う意欲のあることを米国民に証明してのである」ともいう。

 ところが、このような、「大変だ、さあ、どうする」式の言動が、大衆受けする、その余勢をかって議会でも影響力を伸ばしていくのであった。特別の人脈はなかったものの、その受け手の類型としては、「第一は、マッカーシーの言っていることはでたらめだという理由で、無視することである」、「第二の考え方は証拠不十分とする見方であった」、さらに「第三の見方は、大体においてマッカーシーに疑わしい点は出来るだけ有利に解釈してやるのが妥当だとするものであった」(同訳書)、といったところだろうか。

 と、およそこのような流れで絶頂期を迎えた後には、さしもの彼の弁舌にも、陰りがやって来る。その極めつけとは、1954年に起きた変化であって、こう言われる。

 「その年はウィリアム・フルブライト唯一人しかマッカーシーに反対投票をする議員はいないという状況で明けたのに、年の終わりには67人、いいかえれば当時では3分の2をこす議員が非難決議に賛成票を投じた。それから6か月たって、マッカーシーがその名を冠する最後の決議案を投じた時(これはジュネーブ会議に衛星国の自由の問題を持ち出すよう要求して、大統領を困らせようとしたものであった)、それは77対4で否決された。(同訳書)」

 かくして、アメリカはマーカーシズムという流れをどうにか打ちきり、彼らの本来的な道を通じて、世界を自己に有利に動かしていこうと、あれこれ行うことになっていく。


(続く)

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♦️421『自然と人間の歴史・世界篇』マーカーシズム(1950~1954、アメリカ)

2020-12-15 22:02:48 | Weblog
421『自然と人間の歴史・世界篇』マーカーシズム(1950~1954、アメリカ)

 マーカーシズムというのは、1950年から1954年にかけてアメリカ合衆国のウィスコンシン州選出上院議員ジョゼフ・R・マッカーシーの活動に代表される反共産主義のヒステリーとでもいおうか、事実に基づかないことを言うのに急な現象をいう。
 これには、下地として、第二次世界大戦後のアメリカが直面した、世界との関わりがあった。政府は、1947年3月、トルーマン・ドクトリンの発表と相前後して、連邦政府職員の忠誠審査令を出して思想統制を強化し、翌年の大統領選挙に進歩党から出馬した対ソ協力派のヘンリー・ウォーレス元副大統領を容共的であると非難していた。
 そして迎えた1949年の中国の人民民主主義革命(国民党の蒋介石政権は大陸を追われ、台湾を占領の上、その地で統治を始める)によって、アメリカのこの地域への関与の野望が潰えたのみならず、同年ソ連が原爆実験に成功した。アメリカとしては、戦後の主導権を握ろうとしていた矢先の出来事であったろう。時代は、「東西冷戦」に向かっている、とされていた。


 このような時、マッカーシーは、自らの所属する上院(彼が議席を得て3年目ら)を利用して、国民の危機感に訴える一大キャンペーンに打って出る。いわく、「それまでのマッカーシーは上院で影の薄い、とるにたらぬ人物のように見えた」(「R・H・ロービア著、宮地健次郎訳「マーカシズム」岩波文庫、1984)というのだが。

 これらの困難の源は、国内や政府のなかに国益を裏切った共産主義者がいるためだとし、1950年2月に行われた「国務省のなかに205人の共産党員がいる」という演説を行うなど、根拠のない話を、しかも針小棒大に広める。これが、アメリカ国民をさらなる不安と混乱に陥れ、まもなくの1950年に勃発した朝鮮戦争によって勢いを増していく。

 続いての1952年の選挙演説で、彼は、「農民、労働者、経済人にとって真の問題は唯一つ、それは政府の中の共産主義の問題である」と、また朝鮮戦争に触れては「こうして、国内で共産主義と戦う気のない政府は、海外で共産主義と戦う意欲のあることを米国民に証明しているのである」ともいう。

 ところが、このような、「大変だ、さあ、どうする」式の言動が、大衆受けする、その余勢をかって議会でも影響力を伸ばしていくのであった。特別の人脈はなかったものの、その受け手の類型としては、「第一は、マッカーシーの言っていることはでたらめだという理由で、無視することである」、「第二の考え方は証拠不十分とする見方であった」、さらに「第三の見方は、大体においてマッカーシーに疑わしい点は出来るだけ有利に解釈してやるのが妥当だとするものであった」(同訳書)、といったところだろうか。

 その被害については、なおつまびらかには明かされていない。マッカーシーの影響下での非米活動調査委員会の聴聞会では、欺瞞と偏見に満ちた運営がなされ、合衆国憲法の人権条項もなんのその、思想信条を厳しく問う話となった。槍玉に挙げられた分野、業界なりでは、個人があぶり出されていく。 
 文化の殿堂、映画界も例外でななく、共産主義の主張に関係していると目される映画人だけでなく、共産党員を友人に持つ者など、疑わしいと思われた人物が呼び出された。その中で共産主義に染まっているとみなされた者、もしくは証言を拒否した者は、ブラックリストに載せられていく。ハーバート・ビーバーマン(映画監督。代表作「地の塩」(1953年)など、「赤狩り」の犠牲となり、それぞれの職業的地位を追われた代表的な映画人のことは、「ハリウッド・テン」と呼ばれた。

 と、およそこのような流れで絶頂期を迎えた後には、さしもの彼の弁舌にも、陰りがやって来る。その極めつけとは、1954年に起きた変化であって、こう言われる。

 「その年はウィリアム・フルブライト唯一人しかマッカーシーに反対投票をする議員はいないという状況で明けたのに、年の終わりには67人、いいかえれば当時では3分の2をこす議員が非難決議に賛成票を投じた。それから6か月たって、マッカーシーがその名を冠する最後の決議案を投じた時(これはジュネーブ会議に衛星国の自由の問題を持ち出すよう要求して、大統領を困らせようとしたものであった)、それは77対4で否決された。(同訳書)」

 かくして、アメリカはマーカーシズムという流れをどうにか打ちきり、彼らの本来的な道を通じて、世界を自己に有利に動かしていこうと、あれこれ行うことになっていく。


(続く)

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○234の2『自然と人間の歴史・日本篇』江戸期の大衆文化(文学1、俳句、和歌)

2020-12-15 10:08:55 | Weblog
234の2『自然と人間の歴史・日本篇』江戸期の大衆文化(文学1、俳句、和歌)

 松尾芭蕉(まつおばしょう、1644~1694)は、日本における江戸期の俳句の最高峰ともされる人物であろう。その人生は、何かしらベールにまとわれているように感じられよう。
 死後に編纂されたか、「奥の細道」は、あまりに有名だ。その彼がすべてを俳句づくりにかけてきた姿勢が窺えるものに、「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」がある。
 また、律儀な性格を伝えるものに、「名月や池をめぐりて夜もすがら」とある。旅の途中、出没する至る所において、誠に臨機応変、自己表現の「達人」というべきか。


 小林一茶は(こばやしいっさ、1763~1828)は、信濃北部の農家の長男に生まれた。幼名を小林弥太郎という。3歳で生母を亡くし、その後父が迎えた継母とは折合いが悪かったらしい。それまで何かと守ってくれていた祖母を亡くすと、江戸へ奉公に出される。

 俳諧(はいかい)との馴れ初めは、25歳の頃だったのではないかという。その辺りの詳しいことはわかっていないようだ。39歳のときに、病に倒れた父の看病で故郷に戻るも、父はまもなく亡くなる。遺産相続問題で継母や異母兄弟との間で争いが起こり、和解まで12年を要する。

 52歳で初めて結婚し、生涯三度結婚して、子どもは5人。暮らし向きがそこそこになり、やや安定してきたのだろうか。

 生涯に詠んだ俳句は、2万句とも言われる。それらの大半は、生活の中から、自然な感じで産まれてきたのだろうか。それとも、あれこれ気張っての作品なのだろうか。「おらが春」や「一茶発句集」という俳句文集も出す。
 作風は、どんなであろうか。正義の味方というよりは、弱者の味方ともとれそうな句を沢山つくった。例えば、「やせ蛙負けるな一茶是にあり」とあり、なんだか大きな蛙に小さな蛙がけとばされながらも、相手をにらんでいる、一種剽軽(ひょうきん)な様が窺える。
 そんな負けず嫌いの彼にしても、いつか道に迷ったとき、心の苦しい時も多くあったらしく、「露の世は露の世ながらさりながら」とい愛児の死に浸る句がある。そのかたわら「ともかくもあなたまかせの年の暮れ」ともあり、阿弥陀如来にはからいに任そうとという神妙な心境もうたっているところだ。


 与謝蕪村(よさぶそん、1716~1784)は、俳諧のみならず、画業でも有名だ。大阪市都島区毛馬町(当時の摂津国(せっつのくに)東成郡(ごおり)毛馬村、現在の大阪市都島区毛馬町)の生まれ。
 生前自らの出身地について語ったものとして、「馬堤は毛馬塘也則(つつみなりすなわち)余が故園也(なり)」とあり、これは、1777年(安永6年)2月23日付け、伏見の柳女(りゅうじょ)と賀瑞(がずい)という門人の母子に宛てた手紙にあるという。 
 本人は、なかなかに、無骨、口数も少なめといったところであったろうか。27歳の時、師匠の巴人と死別すると、同門の結城俳人砂(いさ)岡雁とうを頼る。その後、北関東を転々とし、1751年秋には上洛(じょうらく)。その頃には、各地に弟子や援助者もできていたのではないか。
 生涯に作った俳句の全容については、例えば、こう言われる。 「今日、蕪村の句として知られる総数は、約2千8百句。その中から、晩年に至り、蕪村自身精選して世に残そうと努めたものが、蕪村自筆句集である。」(尾形つとむ「蕪村俳句集」岩波文庫、1989) 

 お馴染みの句としては、例えば、「なの花や月は東に日は西に」「春の海終日(ひねもす)のたりのたりかな」などがあろう。 
 俳句仲間との会合ということでは、例えば、「連歌してもどる夜鳥羽(とば)の蛙哉」や、「床涼み笠着(かさぎ)連歌のもどり哉」が見られて、その場がなんとなく脳裏に浮かんでくるではないか。

☆☆☆☆☆

 平賀元義(ひらがもとよし)は、1800年(寛政12年)、岡山城下富田町で生まれた。岡山藩士平尾長春の嫡男だった。1832年(天保3年)、33歳の時脱藩したのは、そのままでは世に出られないと考えたのか。平賀左衛門太郎源元義と名乗って、備前、備中、美作などへ、放浪を始める。
 多くの万葉調の歌を作った。また、書を能くした。性格は、奔放純情ながら、潔癖などの奇行も多かったとか。生涯不遇の人で、仕官の話があった矢先、岡山市長利の路傍で卒中のため急死した。
 66年の生涯におよそ700首を詠んだ。ここに数例を挙げれば、「放たれし野辺のくだかけ岡山の大城恋しく朝夕に啼く」、「春来れば桜咲くなり。いにしへのすめらみことのいでましどころ」、「神さぶる大ささ山をよぢくれば春の未にぞ有紀は零りける」(大佐々神社(おおささじんじゃ、現在の津山市大篠)にて)、「見渡せば美作くぬちきりはれて津山の城に旭直刺」(同)等々。
 正岡子規の『墨汁一滴』には、歌人としての平賀元義を褒めちぎる一節がある。
 「徳川時代のありとある歌人を一堂に集め試みにこの歌人に向ひて、昔より伝へられたる数十百の歌集の中にて最善き歌を多く集めたるは何の集ぞ、と問はん時、そは『万葉集』なり、と答へん者賀茂真淵を始め三、四人もあるべきか。その三、四人の中には余り世人に知られぬ平賀元義といふ人も必ず加はり居るなり。
 次にこれら歌人に向ひて、しからば我々の歌を作る手本として学ぶべきは何の集ぞ、と問はん時、そは『万葉集』なり、と躊躇なく答へん者は平賀元義一人なるべし。
 万葉以後一千年の久しき間に万葉の真価を認めて万葉を模倣し万葉調の歌を世に残したる者実に備前の歌人平賀元義一人のみ。真淵の如きはただ万葉の皮相を見たるに過ぎざるなり。世に羲之を尊敬せざる書家なく、杜甫を尊敬せざる詩家なく、芭蕉を尊敬せざる俳家なし。しかも羲之に似たる書、杜甫に似たる詩、芭蕉に似たる俳句に至りては幾百千年の間絶無にして稀有なり。
 歌人の万葉におけるはこれに似てこれよりも更に甚だしき者あり。彼らは万葉を尊敬し人丸を歌聖とする事において全く一致しながらも毫も万葉調の歌を作らんとはせざりしなり。この間においてただ一人の平賀元義なる者出でて万葉調の歌を作りしはむしろ不思議には非るか。
 彼に万葉調の歌を作れと教へし先輩あるに非ず、彼の万葉調の歌を歓迎したる後進あるに非ず、しかも彼は卓然として世俗の外に立ち独り喜んで万葉調の歌を作り少しも他を顧ざりしはけだし心に大に信ずる所なくんばあらざるなり。(2月14日)」

(続く)

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♦️204の2『自然と人間の歴史・世界篇』資本主義はなぜ西欧で始まったのか

2020-12-14 10:42:50 | Weblog
204の2『自然と人間の歴史・世界篇』資本主義はなぜ西欧で始まったのか


 資本主義という社会システムをささえているものの他に、どのような背景がそれに力したのかを巡っては、色々な流れがあろう。
 その一つは、西洋諸国がそれ例外の地域社会なり国家に対して収奪を行うことにより富を得、それをもって資本主義の発展が可能になったのだという。


 二つ目は、西洋においては、そもそも多神教ではあっても、やがて一神教が現れた。そして、そのことが物質的な生産に人間が精出すのを引っ張り、あるいは後押したのだという。例えば、こういう。
 「少々むずかしくいえば、一神教からは「主体」(人間)と「客体」(自然)を分離するような精神が生まれる。物質はしょせん物質なのだから、草や木や虫を客観的に分析することになんのタブーも感じない。そんな合理的な精神が科学を生み、その科学は数々の発明・発見を可能にした。それがひいては生産性の大幅な上昇を可能にした。」(中谷巌(なかたにいわお)「資本主義以後の世界」徳間書店、2012)


 三つ目としては、キリスト教でいうところの宗教改革と絡めつつ、「勤勉の精神」と、禁欲に根差しての「節約精神」を醸成したのだという。この説の代表格は、次のようにいう。
 
 「ベンジャミン・フランクリンの例に見たような、正当な利潤を「天職」として組繊的かつ合理的に追求するという心情を、われわれがここで暫定的に「(近代)資本主義の精神」と名づけるのは、近代資本主義的企業がこの心情のもっとも適合的な形態として現われ、また逆にこの心情が資本主義的企業のもっとも適合的な精神的推進力となったという歴史的理由によるものだ。」(マックス・ウェーバー「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」)

 なお、当該のフランクリン(1706~1790)による自伝には、こうある。

 「この物語を書いている数え年で七十九歳になる今日まで私がたえず幸福にして来られたのは、神のみ恵みのほかに、このささやかな工夫をなしたためであるが、私の子孫たる者はよくこのことをわきまえてほしい。(中略)
 若くして窮乏を免れ、財産を作り、さまざまの知識をえて有用な市民となり、学識ある人々の間にある程度知られるようになったのは、勤勉と倹約の徳のおかげである。(中略)
 それで私は、子孫の中から私の例に倣(なら)って利益を収めようとする者が出てくることを希望するのである。」(・フランクリン著、松本慎一・西川正身訳「フランクリン自伝」岩波文庫、1957)


 四つ目としては、科学の発展を宗教との兼ね合いでいうのではなくて、哲学を含め、自然観の変化がある段階に達したことを指摘している。例えば、哲学者のデューイは、こういう。

  「大筋において、ベーコンはその後の発展のほうこを予言した。けれども、彼は、進歩を「予想した」にすぎない。彼は、新たな科学が長期にわたって人間搾取という古い目的のために使用される運命にあることに気がつかなかったのである。(中略)
 科学は、他の階級を犠牲にして自らが強大化するという昔からの目的を達成するための手段を、一階級の自由に委ねたのである。
 彼が予見したように、科学の方法の革命の後に産業革命が続いて起こった。だが、この革命が新たな精神を生み出すにはまだまだ多くの世紀がかかる。封建制度は、新たな科学の応用によって、土地貴族から工業の中心へと権力が移ったからである。しかるに、社会的人道主義より、むしろ資本主義が封建主義に代わったのである。
 あたかも新たな科学は、いかなる道徳的教訓も含んでおらず、ただ、生産と利用における私利の蓄積という経済に関する技術的教訓しか含んでいないかのように、生産や商業が営まれたのである。当然、このような科学の応用は(もっとも顕著にあらわれたものだったので)、自称人道主義者たちの、科学は唯物主義的傾向を有する、という主張を強化した。」(デューイ著、松野安男訳「民主主義と教育(下)」岩波文庫、1975)


 次に移ろう。その後の資本主義の展開については、だんだんにというか、あるいは経済変動に直面するうちに変化が起きていく。そちらへの橋渡しがどのようになされていったのかについては、例えば、こう評される。

 19世紀の「50年代には、ドイツ人やフランス系カナダ人の流入が起った。かれらは、賃金や労働時間がいかなるものであっても、工場で働く以外に生きる手段を持たないものてあった。ここに至って、資本家・経営者と労働者との間の、人種的および宗教的同一性は消滅し、前者は労働者に極悪の労働条件をしいるのに、さして痛痒(つうよう)も、良心の呵責(かしゃく)も感じなくなったのである。
 こうして、産業資本形成期に(19世紀初め=1830年代初めまで)、アメリカの企業家も利己心や営利欲に駆り立てられなかったとは言えないとしても、かれらの精神を、単に利己心あるいは営利欲として特色づけることは困難である。まして、かれらが剰余価値の追及に全力を尽くしていた、かれらの行動はすべてその意図から出たものである、と断言することは困難である。」(尾上一雄「増補、アメリカ経済歴史研究1」杉山書店、1969)



(続く)

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♦️238『自然と人間の歴史・日本篇』海外の目に晒されて(1862~1867、高杉晋作の場合)

2020-12-14 08:55:31 | Weblog
238『自然と人間の歴史・日本篇』海外の目に晒されて(1862~1867、高杉晋作の場合)

 1862年(文久2年)4月27日、長州藩の高杉晋作は、幕府小人目付の犬塚鑅三郎の従者として幕船千歳丸に乗り込んだ。彼の家柄は、藩の重臣であることから、船内での立場はかなり恵まれていたのではなかろうか。

 5月6日には、上海に降り立ち、彼の地で滞在中、かなりの程度歩き回り、見聞を広めたという。幕府からの海外視察であることから、現地通訳もいたりであったのであろうか、ともかく精力的であったらしい。

 帰国後の彼は、その時の模様を日記風の『遊清五録』」として公表した。この日記は、「航海日誌」「上海掩留日録」という二編と、「内情探索録」「外情探索録」「崎陽雑録」という三篇の情報記録書から成る。まずは「航海日誌」に、初めてみる上海の景色を、こう伝える。

 「鞍山々々去上海四拾餘里、諸子大踴躍爲入生地之思、五月五月天晴風順船馳如矢、忽至呉淞江々々々乃洋子江中小名也、觀望两岸相隔三四里計、四面茫々草野、更不見山、外國船皆碇泊檣花如林、本船亦碇泊于此、待明朝川蒸気船來而上海去此纔七里。
 五月六日早朝川蒸気船來到本船左折溯江两岸民家風景殆與我那無異、右岸有米利堅商館嘗長髪賊與支那人戰于此地云、午前漸到上海港此支那第一盛津港、欧羅波諸那商船軍艦數千艘碇泊檣花林森欲埋津口、陸上則諸邦商館紛壁千尺、殆如城郭其廣大嚴烈不可以筆紙盡也。
 午後官吏上陸至和蘭館予亦陪従官吏登樓上、従臣待樓下、予與清人三两名筆話、官吏與蘭人應接了、乃以清人爲介者、徘徊街市、土人如土檣圍我輩其形異故也、毎街門懸街名、酒店茶肆與我邦大同小異唯恐臭氣甚而已黄昏歸本船甲板上、極目四方舟子欸乃聲與軍艦發砲之音相應實一愉快之地也、入夜两岸燈影泳水波光景如晝。」(「航海日誌」)

 これに「午前漸到上海港此支那第一盛津港、欧羅波諸那商船軍艦數千艘碇泊檣花林森欲埋津口、陸上則諸邦商館紛壁千尺、殆如城郭其廣大嚴烈不可以筆紙盡也」と述べてある通り、現地の状況たるや、なかなかに鮮烈な印象であったに違いあるまい。当時の清国は、列強にさまざまな権利を蹂躙(じゅうりん)されていた。

 続いて、本編の「上海掩留日録」に入って、上陸してから目の当たりにした事柄を、こう伝える。

 「上海実上海之地雖属支那、謂英仏属地、又可也。」(「上海掩留日録」)
 「支那人はことごとく外国人の便役のため、英法の人(英仏人)市(まち)を歩行すれば、清人(清国人)皆避けて傍らに道を譲る。実に上海の地は支那に属すると雖も、英仏の属地と謂ふも、又可なり。」(「上海掩留日録」書き下し文)

 「貴邦尭舜以来堂々正気之国、而至近世区々西洋夷蛮夷之所猖獗則何乎。」(「上海掩留日録」)
 「貴邦は尭舜以来堂々正気の国なり。而るに近世に至りて、区々たる西洋夷蛮夷の猖獗する所は、則ち何ぞや。」(「上海掩留日録」書き下し文)

 「貴邦国運陵替、君臣之不得其道故也、君臣得其道、何有国運陵替、清近世之衰微、自為災而已矣豈謂之天命乎。」((「上海掩留日録」)
 「貴邦は国運の陵替するは、、君臣の其の道を得ざるが故なり。君臣其の道を得れば、何ぞ国運の陵替あらんや。清の近世の衰微は、自ら災ひを為すのみ、豈に之を天命と謂はんや。」(「上海掩留日録」書き下し文)

(続く)

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♦️608の3『自然と人間の歴史・世界篇』「GNP(国民総生産)」は何を教えるか(ロバート・ケネディ演説と今、1968~2020)

2020-12-13 09:53:38 | Weblog
608の3『自然と人間の歴史・世界篇』「GNP(国民総生産)」は何を教えるか(ロバート・ケネディ演説と今、1968~2020)

 顧みると、政治家が経済の基本的事柄、しかもそれにまつわる根本問題について、大胆な意見を口にするのは珍しいのではないか。例えば、ロバート・ケネディの演説の中には、こうある。


「Too much and for too long, we seemed to have surrendered personal excellence and community values in the mere accumulation of material things.  

Our Gross National Product, now, is over $800 billion dollars a year, but that Gross National Product - if we judge the United States of America by that - that Gross National Product counts air pollution and cigarette advertising, and ambulances to clear our highways of carnage.

It counts special locks for our doors and the jails for the people who break them. It counts the destruction of the redwood and the loss of our natural wonder in chaotic sprawl. It counts napalm and counts nuclear warheads and armored cars for the police to fight the riots in our cities. It counts Whitman's rifle and Speck's knife, and the television programs which glorify violence in order to sell toys to our children.

Yet the gross national product does not allow for the health of our children, the quality of their education or the joy of their play. It does not include the beauty of our poetry or the strength of our marriages, the intelligence of our public debate or the integrity of our public officials. It measures neither our wit nor our courage, neither our wisdom nor our learning, neither our compassion nor our devotion to our country, it measures everything in short, except that which makes life worthwhile. And it can tell us everything about America except why we are proud that we are Americans.」


 「私たちは、あまりにも長い間、私たちは人格や共同体の重要さよりも、物質的な富を蓄積することをはるかに優先させてきた。

 今や、この国のGNP(国民総生産)は、8千億ドルを超えた。その中には、空気汚染や、タバコの広告や、ハイウェイでの多数の事故死者を運ぶ救急車が含まれている。


 家を守るための特殊な鍵や、それを破って侵入する犯罪者たちを収容するための牢屋もGNPに含まれる。
 巨木の立ち並ぶレッドウッド原生林の破壊、美しい自然を呑み込んでゆく都市化の波も、GNPを押しあげる。
 戦争で使われるナパーム弾も、 核弾頭も、街頭のデモ隊を蹴散らす警察の装甲車も、然りだ。
 ウィットマン社製のライフルもスペック社製のナイフも、子どもたちにおもちゃを売るために暴力を礼賛するテレビ番組も、その類いだといえる。


 しかし、そのGNPの中には、子どもたちの健康も、教育の質も、遊びの楽しさも含まれていない。そこには詩の美しさも、夫婦の絆の強さも、政治における知的な議論も、役人たちの誠実さも、勘定されない。
 私たちの機知も勇気も、知識も、学びも、そうなのだ。そして、私たち一人ひとりの慈悲深さも、アメリカという国への献身的な態度も含まれていないのだ。」

 これにあるような単純化により何かしら当時の世の中が見えてくるものがありそうで、かかる指摘のそれぞれに分け入ってみてはどうだろうか。
 それにしても、随分と大胆なことを言ってのけたものである。大統領選挙に立候補を表明した、その一環なのかもしれない。とりわけ、「戦争で使われるナパーム弾も、 核弾頭も、街頭のデモ隊を蹴散らす警察の装甲車も、然りだ」という下りは、かれの政敵からは反発が集中したのではあるまいか。
 2020年も押し詰まりつつある今、アメリカでも中国、ロシア、はたまた日本においても然り、世界中で軍備の拡張が止まらない。アメリカでは、前日、新たな国防権限法が議会で可決された。新政権になっても、その流れは変わらないのであろうか。日本では、ミサイル迎撃をどうしようとか、戦闘機を国産しようとの話がもちきりで、政府と軍需企業とが結託してそのことを堂々と話し、かつ国の政策として進めようとしている。

(続く)


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新○153『自然と人間の歴史・日本篇』能と連歌と足利学校

2020-12-11 09:25:13 | Weblog
153『自然と人間の歴史・日本篇』能と連歌と足利学校
 
 「能」というのは、現代において一般の場で観賞する機会は、かなり限られているのではないたろうか。元の呼び名は「猿楽」、それに「田楽」といい、さらに遡ること、中国の王公貴族あたりがその源流なのではないだろうか。
 しかして、その特色とは、次のように。かなりの特異性をもって語られている。

 「諸道諸事におうて幽玄なるをもて上果とせり。ことさら当芸において、幽玄の風体(ふうてい)第一とせり。(中略)

 そもそも幽玄の堺(さかひ)とは、まことにはいかなる所にてあるべきやらん。(中略)

 ただ美しく柔和(にゅうわ)なる体(てい)、幽玄の本体なり。(中略)

 言葉の幽玄ならんためには、歌道を習(なら)ひ、姿の幽玄ならんためには、尋常なる為立(したて)の風体をならひ、一切ことごとく物まねは変るとも、美しく見ゆる一(ひと)かかりをもつ事、幽玄の種(たね)と知るべし」(世阿弥元清(ぜあみもときよ)「花鏡(かきょう)」、1424)

 さても、「言葉の幽玄ならんためには、歌道を習(なら)ひ、姿の幽玄ならんためには、尋常なる為立(したて)の風体をならひ」との脚色が施されている。そのためには、相応の人と舞台がしつらえてなければ、何事もうまくいかない話のようだ。

 これを編み出したのは、観阿弥・世阿弥の親子であって、当時民間の演芸であった猿楽と田楽からヒントを得たのだという。
 その際は、「支配階級から民衆にいたるあらゆる階層に享受されるところの民族的な文化にまで高めることに成功したのであった」(家永三郎「日本文化史(第二版)」岩波新書、1982)というから、もしそれを意識しての新芸術誕生なら、その時代、世界にも誇れる話なのではないだろうか。

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 ついで、連歌を取り上げよう。元は、上句と下句とを問答の形にて、隣り合う二人でよみ出すものであった。具体的には、和歌が5・7・5・7・7の計31文字でその時々の思いを表現するのをベースにして、連歌は複数人で行うものであり、一人目が5・7・5、次の歌い手が7・7と句をつないでいく。いうなれば、雅の世界でいう、和歌の変形なのでであった。

 それが、14世紀頃から、より多くの人がよみ連ねていくのに変わっていく。平安時代の院政期から、公家の間で行われていたものが、そこから徐々に武士や商人などに広まっていく。前者を「堂上連歌」といい、後者を「地下連歌(ちげれんが)」と言い慣わす。

 そんな連歌の集大成として、現代に伝わるのが、「新撰莵玖波集(しんせんつくぼしゅう)」なのであって、次なる解説が付いている。
 
 「それ連歌はやまとうたの一体として、そのかみよりつたはりて人の世にさかりなり。(中略)

 しかはあれど代々をかさねてことにあつめえらばれたる事は 其跡なかりしを、なにがしのおとゞ 外にはまつり事をたすくる契をわすれず、うちには道をもてあそぶ心ざしのあさからざりしゆへにひろくまなび、とをくもとめて、いにしへ今の連歌をあつめて、莵玖波集となづけしめ、おほやけごとになずらふるみことのりを下されしより、此みちいよいよひろまりて、さかりにとゝのほりける。あるは本式新式のむねをろんじ、賦物嫌物の法をさだめしまでも、すべてかしこき心ばへにあらずといふ事なんなかりける。(中略)

 かゝるにいま宗祇をいへる世すて人あり、このみちにたづさひて、やそぢにちかきよわひにもをよべり。

 此たびかれらがちからを合て、もはらえらびとゝのへしむる事は、かの莵玖波を救済等におほせあはせんあとをおもへる者ならし。(中略)

 いまりん命をうけたまはれる事は、ひとへに道にふけるおほん心ざしのいたりなるべし。これまことに、君も臣も身をあはせたるといふにあらずや。時に明応四年六月廿日になんしるしをはりぬる。」(飯尾宗祇ほかの編集「新撰莵玖波集(しんせんつくばしゅう)」1495)

 なにしろ、互いの顔がわかるであろう、集団的な席上、その参加者の間につながれ、かつ相呼応のうちに連作されていくものだから、平たくいえば、個々人の作品というのことにはならないのではないか。

 そんな文人の中でも代表的な、室町時代に活躍した連歌師の宗祇(そうぎ)などは、地方の有力な武士や町人、寺社のところに出掛けては、会を催してもらい、その道を彼らに伝えて余りあったのだろう。
 
 「「河越千句」は、河越城などを築城した太田道灌(おおたどうかん)の主催で行われた連歌会での作品です。文明2(1470)年正月10日から3日かけて行われました。「何人第二」では、宗祇が発句です。
何人第二
🌕遠く見て行けば霞まぬ春野かな、宗祇。🌕明くる梢ののどかなる色、義藤。🌕月薄く嶺に移ろひそ、道真。🌕ほの暗き江に水落つる山、心敬。🌕浪寒く火を焚く村の夕間暮れ、満助。🌕立つや千鳥の微かなる声、中雅。🌕踏む跡の真砂や風に扉くらむ、長畝。🌕身に染む朝の袖の初霜、修茂。✳️適宜校訂を施した」(埼玉新聞、2020年12月2日付けの記事「東国武士に連歌指導、知ってる?埼玉の文学者たち」より引用)


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 それから、足利学校というのは、日本最古級の民間の学校である、創建されたのは、平安時代だというのだが、諸説がある。
 
 一説には、平安時代の公家、小野篁(たかむら)が、「史跡足利学校」(足利市昌平町)の地に、初めて営んだという。1549年11月5日付け「ザビエル書簡鎌」が、その由来の細かいところを、こう伝えている。

 「聞く所に依れば、当地より都まで300レグワあり。同市に付きては我等に大なる事を語り、戸数は九万を超え、一の大なる大学あり。其内に主なる学部五つを有す。(中略)

 都の大学の外に主なる大学五校あり。其名は高野(Coya)・根来(Nenguru)・比叡山(Feizan)・多武峰(Taninomine)なり。

 此等の大学は都の周囲に在り、各学生3500以上を有せりといふ。甚だ遠き所に坂東(Bandou)と称する他の大学あり。日本の最大且主要なるものにして、此所に入学する学生最も多し。

 坂東は甚だ大なる地方にして太守六人あり。其中一人の主なる者あり。他は皆之に服従せり。主なる太守は都の大主なる日本国王に服従す。此地方及び諸大学の広大なることに付き、我等は種々聞きたる事あれども、之を確めたる上通信せん為、先ず之を見んことを希望す。」(「耶蘇会士日本通信」)

(続く)

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♦️204の1『自然と人間の歴史・世界篇』資本の本源的蓄積(イギリス、普段の説明)

2020-12-09 10:02:30 | Weblog
204の1『自然と人間の歴史・世界篇』資本の本源的蓄積(イギリス、普段の説明)

 資本制(資本主義的生産様式)にいたるには、マルクスによって「本源的蓄積」となづけられる前段の歴史的過程があった。それは、封建制の中で培われていった。その創造劇だが、期間でいうと、数世紀にも跨る。ここではまず、イギリスを舞台にそのことがどういう坦懐を遂げていったかを俯瞰したい。まず封建社会の経済構造の中核をなすものは農民であって、14世紀終わり頃のイギリス農村での彼らは、農奴制から最終的な離脱の時期を迎えていた。15世紀に入ると、イギリス農村人口の大多数は自由な自由農民(「独立自由農民」という)に成り代わっていた。もっとも、社会の上部構造としては封建領主の権力があり、その下に家臣団がおり、さらにその下に家臣団の数に相応の農民たちがいて、上にいる非労働階級を支えていたのである。
 プロレタリアート創出を引き起こす農村変革の序曲は、15世紀の最後の3分の1期及び16世紀の最初の20~30年にかてけ起こった。一つは、15世紀の60~70年代から16世紀初めにかけて封建家臣団の中からこぼれ落ちるものたちが出てくる。これを、「封建家臣団の解体」と呼ぶ。これを促したのは、絶対権力の確立を目指す王権であった。
 二つは、羊毛マニュファクチュア(工場制手工業)の台頭により、これを営む封建貴族たちが農民の共同地を奪っていく。その背景には、フランドル地方を中心とする毛織物工業の繁栄による羊毛価格の騰貴があった。これに刺激された地主(ランドロード)たちが、王権や議会と頑強に対立して、それぞれの農地に領主と並ぶ封建的権利を有していた農民から暴力的にそれらの土地を奪い、また共同地を橫奪することにも血道をあげるのであった。後者の性格については、農民たちの養う家畜の放牧場であるとともに、彼らに燃料たる薪や泥炭などをも提供したものだ。
 参考までに、この頃トーマス・モア(モーア)(1478~1535、後に王朝の高級官吏となるも、ヘンリ8世の離婚問題に端を発し、ローマ教皇側に配慮し王に従わなかった罪で死刑に処せられる)は、この模様をみて、著書の中で「イギリスの羊です。以前は大変おとなしい、小食の動物だったそうですが、この頃では、なんでも途方もない大食いで、そのうえ荒々しくなったそうで、そのため人間さえもさかんに喰い殺しているとのことです」(トーマス・モア著、平井正穂訳「ユートピア」岩波文庫、1956)と比喩するのであった。その後で、こう続ける。
 「おかげで、国内いたるところの田地も家屋も都会も、みな喰い潰されて、見るもむざんな荒廃ぶりです。もし国内のどこかで非常に良質の、したがって高価な羊毛がとれるというところがありますと、代々の祖先や前任者の懐にはいっていた年収や所得では満足できず、また悠々と安楽な生活を送ることにも満足できない。その土地の貴族や紳士や、その上自他ともに許した聖職者である修道院長までが、国家の為になるどころか、とんでもない大きな害悪を及ぼすのもかまわないで、百姓たちの耕作地をとりあげてしまい、牧場としてすっかり囲ってしまうからです。」(同)
 こうした「牧羊囲い込み運動」は、イギリスにおいて、16世紀になっても延々と続く。それというのも、ヘンリー7世による1489年の条例以来ほぼ150年に及ぶこ囲い込み禁止令の発布も、この動きの前では無力にされていったのだから。
 二つ目の過程は、16世紀における宗教改革からは、イギリスにおける旧教会領(土地)の相当部分が没収されていく。そこに居住していた者(いわゆる「世襲的小作人」)たちは、かかる土地から追い出され、無産労働大衆(プロレタリアート)の中に投げ出される。旧教会領は、王の寵臣や有力貴族、投機的な生活をあわせもつ借地農業者や都市ブルジョアジーの面々であった。さらに、教会の10分の1税の分配にあづかっていた貧しい農民たちも、かかる土地収奪の過程で蹴散らされ、はじき出されていった。
 こうした事態にもかかわらず、17世紀の最後の数十年間にはまだ、独立自営農民の数は、彼らに置き換わった借地農業者の数を少し上まわっていたのではないか。クロムウェルがその権力掌握に当たって最大の拠り所にしていたのは、その独立自営農民であったし、農村にみられた賃金労働者の中にも、共同地の共有者の地位を保ち続ける者も相当数いたのではないか。
 だが、こうしたイギリス農村の土地所有にみるまだら模様も、18世紀の最後の数十年間に、農村に残っていた共有地のほぼ全体が奪われていく。これに力のあったのが、名誉革命によるスチュアート王朝復興のさいの、法律による封建的な土地所有制度の廃止であった。国有地になった土地の相当部分は、ウィリアム3世と彼に従う地主や資本家たちが牛耳るものとなっていく。これら両者を関連づけていうならば、彼らは国有地を合法的に横領するとともに、その同じ国家権力によって、古代ゲルマン的な土地制度に淵源をもつであろう共同地をも没収することに成功したのである。すべからくこの過程は、一方において農民や農村部民を工業プロレタりアートとして土地から遊離するとともに、他方では資本借地農場とか商人借地農場とと呼ばれる大借地農場を展開させるのである、

(続く)

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○236の1『自然と人間の歴史・日本篇』海外の目に晒されて(外国船の寄港、1750~1855)

2020-12-09 09:42:10 | Weblog
236の1『自然と人間の歴史・日本篇』海外の目に晒されて(外国船の寄港、1750~1855)

 18世紀も後半に入ると、日本列島の入り組んだ、長い海岸線に沿って外国船の渡航が相次ぐようになり、西洋列強との関係が煩雑になってくる。1792年(寛政4年)、ロシア船のラクスマンが根室に到来する。漂流民送還や我が国との通商を要求した。幕府はこれを拒絶し、長崎への廻船を支持した。

 1798年(寛政10年)、探検家の近藤重蔵が千島と択捉島(えとろふ島)を周回する。彼は、その調査の結果を「大日本恵土呂府」にまとめる。1799年(寛政11年)、松前藩が治めていた東蝦夷地を幕府の直轄領とする。1802年(享和2年)、幕府が東蝦夷地直轄のため箱館(現在の函館)に奉行所を設置する。

 1804年(文化元年)、ロシアの使節レザノフが長崎にやってきて通商を要求するも、幕府は拒絶する。同年の幕府は、弘前、盛岡の両藩に蝦夷地の警備を命じる、沿海の諸藩にも外国船警戒を通達する。

 1807年(文化4年)には、幕府が蝦夷地全体を直轄領とし、奉行所を松島におくとともに、松前藩を陸奥梁川に転封するのであった。1808年(文化5年)、今度はイギリスのフェートン号が通商を求めて長崎にやって来るが、幕府は食糧などを与えて追い返した。

 1811年(文化8年)、ロシアの士官ゴローニンが国後島(くなしりとう)にやって来て、測量を始める。ロシアの旺盛な領土拡大への意思がくみ取れる事件となる。幕府はこれを咎め、幽閉する。彼はこの間に「幽閉記」を書いている。
 おりしも高田屋嘉兵衛(たかだやかへい)がロシア側に拘束されていた。その嘉兵衛の身柄と引換に、翌年になってから幕府はゴローニンを釈放する。嘉兵衛による密貿易の疑いは晴れたものの、その後の幕府の嘉兵衛への追求は厳しく所有する千石単位の所有の船12隻を没収の上、淡路へ謹慎を命じられる。
 また、彼の養子の嘉市に対しては船家業を差し止めるなどで商売の息の根を止めようとするのであった(この事件の経緯について詳しくは、塩澤実信著・北島新平絵による『新しい大地よー探検と冒険の時代』理論社、1987)。

 1837年(天保8年)になると、さらにアメリカのモリソン号が鹿児島と浦賀の沖合に現れ、我が国に漂流民の送還と通商を求める。
 我が国外交が、諸事全般慌ただしくなっていくのは、世界の趨勢であったに違いない。その圧力を振り払おうとしても、相次ぐ来航と諸要求を突きつけられるのは、避け続けることができない。ゆえに、内外にわたる人々の意志決定の蓄積がものをいう時代となってきていた。

 1853年(嘉永6年)の8月10日には、ロシアのプチャーチンの艦隊4隻が、長崎に入港してくる。その前の7月26日に、彼らは寄港地の小笠原に立ち寄っていた。  
 長崎でのプチャーチンは、ロシア皇帝からの国書を幕府に渡し、通商を求める。幕府の引き延ばし策により、一行はそれからおよそ3ヶ月を長崎で過ごす。

 1854年12月には、そのうちのディアナ号が駿河湾で沈没する。1855年2月になり、幕府は重い腰を上げる形で、日露和親条約の調印を行う。

 これらの様子については、日本側からは川路聖あきら、ロシア側からは1953年にプチャーチン提督の秘書官として来日していたゴンチャロフが、その交渉に参加していた。
 そのゴンチャロフの弁として伝わる一端としては、初めて長崎では日本人見てからどのくらい経っての印象であろうか、「鎖国をしていると、しらずしらずのうちに、こうまで子供にかえってしまうものか」と辛らつだ。
 一方、交渉相手の幕府代表の川路聖あきら(かわじとしあきら)については、こう評している。
 「川路は非常に聡明であった。彼は私たち自身を反駁(はんばく)する巧妙な論法をもって、その知力を示すのであったが、それもこの人を尊敬しない訳にはいかなかった。その一語一語が、眼差(まなざ)しの一つ一つが、そして身振りまでが、すべて常識と、ウィットと、炯敏(けいびん)と、練達をなしていた。」(ゴンチャロフ著「日本渡航記」岩波文庫)

 ちなみに、ゴンチャロフの帰国後には「フレガート・パルラダ」(「日本におけるロシア人」を含む)が刊行される。

(続く)

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♦917『自然と人間の歴史・世界篇』新型コロナと中国(~2020.12.8)

2020-12-08 19:25:44 | Weblog
♦917『自然と人間の歴史・世界篇』新型コロナと中国(~2020.12.8)
 
 中国での感染及び対策などの状況ですが、主な流れを以下に記していきたいと考えます。
 
〇2019年12月30日午後5時43分、湖北省武漢市で医院を営む李文亮医師がネット配信にて「貨南水果海鮮市場確診7例SARS」の表題にて、人々に注意を喚起した。
 なお、以下では、現代中国語の漢字が日本漢字と大きく合わない場合があることから、そのときは適当な日本漢字なりを探して充てたい。蛇足ながら、戦後のある時、周恩来・当時の首相が日本側と漢字をできるものは一致させてはどうかと提案があったものの、当時の日本政府は断った経緯がある。

 なお、文中に紹介の中国の一般市民からの情報については、これまでのところ、主にテレビで放映された番組からの引用が欠かせません。その1としては、郭晶「武漢封城日記」、5月27日NHKのBS1で放映の「武漢封鎖76日記録、日記とラジオ市民の声」、5月25日NHKのBS1で放映の中国国営放送「武漢の24時間、ロックダウン・中国の記録」
 
〇それにもかかわらず、武漢市衛生健康委員会初の市民向け知らせには、こうある。「人から感染する証拠はない。状況はコントロールできる。」(「未発現明確的伝人証拠」)というのだ。
 
○2019年12月31日、武漢市政府が、原因不明の肺炎患者を確認したことを発表する。
 
○2019年12月31日に、中国はWHO(国連の世界保健機関)に、その事を報告している。
 ここにいうWHO(世界保健機関、1948年に設立)の本部は、2020年5月現在はスイスのジュネーブに、その事務所は世界150か所以上あるという。2020年5月現在で194かヵ国が加盟していて、職員は7000人以上に上るという。運営については、年に1回の総会で予算や政策などを決め、その執行は年2回の執行理事会で行われている。
 
 
○2020年1月1日、武漢市の公安当局が、ネット上にて事実と異なる情報を流したとして、8人を拘束、処分したことを発表する。
 
○武漢市肺科医院の杜栄輝(DU  RONGHUI)医師は、1月3日、CT画像にかつてない異常を見つけた。
 いわく、「大勢の肺炎患者を診ます。アデノウイルス、パラインフルエンザ、H1N1型インフルエンザもあります。」「一度に5~6人の初診の患者が来て、見たこともない肺炎の症状が、どの患者のも似ていて、ほぼ同じでした。胸膜に沿った部分も気管支に沿った部分も真っ白でした。」
 
○1月3日、米国の疾病対策センター(CDC)長官が、中国側から直接「武漢で原因不明の肺炎患者」の発生連絡を受ける。
 
○1月6日、アメリカが、中国にCDC専門家の派遣を申し出るも、中国は認めず。
 
〇1月6日、武漢市政府は、「原因不明の肺炎が発生している」ことを再び発表する。最初の症例は、2019年12月12日とあって、それから2020年1月5日までの間に、合わせて59人が感染したとのこと。
 
○1月9日、新型コロナウイルスが病原体であるとの専門家の判断を、国営テレビが報道する。


○1月11日、オーストラリア、シドニー大学のエドワード・ホームズ教授が、新型コロナウイルスの遺伝子情報を協力者とともに解明し、インターネット上に公開した。この中で、国境を越えて科学情報を自由に共有することが大切なことを力説している。

○1月12日、中国は、WHOに新型コロナウイルスの遺伝子情報を報告した。


○1月14日、WHOが中国当局による予備調査では「人から人に感染するという明白な証拠は見つかっていない」とツイッターに投稿した。
 ちなみに、WHOの専門家は同日、(人から人への)限定的な感染が起きている可能性があると述べている。
 
○1月14日から、武漢の空港、駅、バスの発着所などで、体温を検査するサーモグラフィーを335台以上配備した。


○1月15日、武漢市政府が、人から人への感染について「明確な証拠は見つかっていない」「感染の可能性の排除はできない」との見解を発表した。


○1月15日、習近平国家主席が、感染対策に全力を挙げるよう指示したと、新華社が報道した。
 
 
〇1月19日、武漢市で「万家宴」と称し、大勢の市民が市当局に招待されるなど、盛会であったという。
 
〇1月20日~、中国国家衛生健康委員会が、今回のウイルスは「人から人へ感染する」と先の見解を改めた。国営テレビ報道によると、「中国共産党の最高指導部は会議を開き、新型コロナ対策チームから報告を受け、今後の取り組みを話し合いました」とある。
   その画面にて、「中共中央政治局常務委員会召開会議」、研究加強新型冠状病毒感染的肺炎工作疫情控工作」とのタイトル、および「我能力的一時大考、我門一定要総結経験、吸取教訓。要針対今次疫情〇対中暴露出来適短板和不足、健全国家〇急管理体系、・・・」云々とある。要は、「我々は、今回の対応のまずさを、次の教訓に生かさなければならない、・・・」というのである。
 
○1月21日、アメリカ西海岸のワシントン州で、武漢から帰国した男性が感染していることを確認した。それが、アメリカでの感染第1号。
 
○1月31日、アメリカが、中国全土からの入国を制限する。
 
○2月7日、トランプ大統領と習近平主席が電話会談を行い、習近平氏はアメリカの入国制限の再考を求める。
 
○2月16日、WHOが、中国へアメリカ人2人を含む専門家を派遣した。
3月27日、、トランプ大統領と習近平主席が電話会談を行い、トランプ氏は「緊密に取り組む」と表明する。

🌕二月下旬、中国政府は、ウイルス感染が心配される野生動物の取引と消費を全面的に禁止した、と言われるものの、詳細は明らかでない。
 
○4月9日、国連安全保障理事会が、新型コロナの対応にちいて初会合を行うも、決議は採択できず。
 
〇1月22日、中国保健当局の記者会見が国営テレビで放映された。
 国家衛生健康委員会の李・副主任いわく、「医療従事者間や集合住宅で人から人への感染が拡大された。・・・武漢へは行かないでほしい。武漢の人は特別な事情がない限り市外に出ないでほしい。」
 「全力」で事に当たろうという見出しの当局の公告には、「2020年1月23日10時」を期して、「全市全城」を封鎖状態におき、市民の理解を「総請産人市民、旅客理解支持」との表現でねがう形であり、大上段からの、こわもてのものではないことに留意したい。


○1月22日、WHOの調査団が訪中し、武漢において人から人に感染したという証拠はあるが、完全に解明するにはさらなる調査が必要との見解を示した。


○1月23日、WHOが緊急委員会の結果として、この時点での緊急事態宣言を見送る。

 
〇1月23日、武漢市にロックダウン(都市封鎖)が発動される。鉄道は、武漢漢口駅などに堰が設けられ、入れなくしている写真が放映された。同市にある天河国際空港では、全便が欠航した。この日のことを、「武漢封鎖76日記録」(台湾において発行)の著者(武漢市在住)は、こう振り返っている。
 「目が覚めたら、武漢のニュースを知って、頭が真っ白になった。封鎖って何?いつまで続くの?私はどうすればいいの?全てがわからない。」 
 
〇1月28日付けの「ネットメディアにおける新型コロナウイルスによる肺炎の報道方針」(国家ラジオテレビ総局発)によると、「医療関係者の感動的な物語(「感人故事」)を宣伝しプラス面を描くこと」などと、利用者に指示があった。
 
○1月27日には、WHOのテドロス事務局長と幹部3人が北京に飛んだ。「公式の招待を受けたのは午前7時半。その日の午後8時には飛行機に乗っていた」という話が伝わっている。

 
○テドロス氏は、1月28日に習国家主席と会談を行う。そして、データと生物学的資料を共有することを特に協議したという。テドロス氏は習氏と握手する写真をツイッターに投稿し、「率直に協議した」、「(習氏は)歴史に残る国家的対応を担った」と書き込んだ。


○1月30日には、WHOが緊急事態を宣言した。また、アメリカが中国全土への渡航禁止をWHOに勧告する。

○2月、WHOは、この感染症を、英語のコロナウイルス(coronavirus)と病気(disease)とを組み合わせ、「COVIDー19」と命名した。


○2月3日には、テドロス氏がWHOの執行理事会で、「不必要な渡航・貿易制限」は勧めないと発言した。

〇2月7日、最初に感染を注意喚起した李文亮医師が、新型コロナの為死去した、と伝わる。彼は、前に市当局・警察から「デマを流した」と非難され、「自分の違法行為を反省しなさい、さもなくば法律により処罰する。わかったか?」(警察)と訊問された。その「訓戒書」(1月3日付け)には、「社会秩序を乱した」とか「法律違反だ」などとある。死後しばらくになって、一転、彼は「英雄」を意味する「烈士」とされるも、当局の責任は地方幹部の更迭にとどまった模様だ。
 ちなみに、彼の最後のネットへの投稿画面が残っていて、病院のベッドの上で呼吸器をつけた状態のものであって、「健全な社会の声は一つであるべきではない。治ったらすぐに現場に戻りたい」とのことである。この言葉は、たぐいまれな教訓そして真の勇者の偉大な発言として、世界の人々の間に永く語り継がれることだろう。
〇2月11日の武漢市(人口は約1100万人)では、累計で2万人の感染者を確認した。2月12日には、3万人を超える。この一日で1万3436人増とのこと。中国国家衛生健康委員会調べ。なお、この時点では、集計に漏れている人が多いのではないか、との指摘が多く寄せられていた。もっとも、この類いのことは中国ばかりではなく、4月のイギリスやアメリカの統計にも向けられている。
 
🌕ここに最前線でコロナ対策に当たったのが、日本の自治会に相当程度類似の役割を担う「社区」に他ならない。この組織が新型コロナに対して行うことは、並大抵のことではあるまい。
 まずは、地区の出入り口での体温検査や感染者の隔離、健康QRコードの確認といったことを徹底しておこなう。ただ一人の住民も、管理の枠外に追いやることはないという。
 そうして世界でも、まれに見るほどの注目を集めているその社区を、一説には、行政の末端組織としてコントロールしているのが中国共産党並びに政府だというのだが、実はそのルーツは、大方近代中国以前から自主的住民組織として受け継がれてきているものだという見方もあり、後者の立場からは一方向だけの捉え方では不十分なのではないかと考えられる。

○2月10日には、上海、北京など主要都市で、企業の操業が再開される。
 
○2月14日からのこととして、武漢の空港、駅、バスの発着所などで体温を検査するサーモグラフィを335台以上配備した。

 
〇2月17日付けの「中国共産党新聞」によると、「第一線で戦いにあたっている医療従事者に「致尊」」と表題にて、その中には「医療従事者は党の呼びかけに応じ人民を守る責務を全うして崇高な精神を見せてくれた」とある。

 
○2月20日、習近平国家主席が、対策に全力をあけるよう指示したことを、新華社が報道する。また、中国チームの専門家トップが、「人から人への感染が認められる」と指摘した。
 

○3月1日、中国政府は、「ネット情報コンテンツ環境管理規定」を施行した。「デマ」はもちろん、政治や経済、社会の秩序を乱す情報をネットを使用して流すのを禁じる内容だという。

 とはいえ、具体的に何がそれに当たるのかを巡り、論点は尽きない。例えば、「ネットコンテンツの制作者は国益を損なってはならないとし、献身的な仕事で「英雄」と称される党員の功績を否定する内容や、宗教政策の批判なども禁じる。自然災害や重大な事故に際し、「不当」な評論をさせないことも求めている」(2020年3月3日付け朝日人新聞)という。


○3月11日、WHOが、世界的な大流行を意味する「パンデミック」の状態だと認定する。


○3月12日時点での国内では、200以上の都市が採用しているというシステムに、「健康証明」がある。これを利用する段階には、自分のスマートホンを手にして、当該掲示板なりにしつらえてあるQRコードにアクセスしたりで、当該アプリを手に入れる。そしてこれの画面にて身分証番号、家族関係や移動履歴などの個人情報を登録すると、その人が感染しているかどうかのリスクが、緑、黄、赤の3段階で示されるという。
 個人情報を向こうに明かす見返りに、自己に関わる安全情報を入手できるという触れ込みであって、今のところ強制ではないものの、一部では登録しないと職場に復帰できなかったり、店舗に入れなかったたりすることがあるという。ちなみに、この時点での北京市政府ホームページには、当該「健康コード」のデモ画面が掲載されており、顔写真の下に「異常なし」とかの表示があるという。

 
○3月12日には、国家衛生委員会が、「感染のピークは過ぎた」と発言した。
○武漢市でとられた主な対策として伝わっているのは、次の通り。まずは、移動の制限が行われていく。1月下旬からは、市外との交通を遮断、市内交通機関の停止、それに市街地での自家用車の通行禁止。2月中旬からは、外出の原則禁止を打ち出す。次には、感染者の発見と隔離、そして治療。こちらは、2月上旬から重症者用の臨時病院2棟を建設した。新型コロナ専門の「火神山医院」は、工期10日で、2月3日に開院にこぎつけたという。同じく2月上旬、軽症患者のための臨時病院の14棟を開院した。2月中旬からは、全市民に対し1日2回の体温測定を義務付けした。
 
 
3月25日先進7か国外相会議にアメリカのポンペイオ国務長官がでかけて会議終了後に会見し、「武漢ウイルス」の呼称を用いるとともに、「中国共産党は我々の健康と生活のあり方に対する重大な脅威となっている」と批判したという。これに対しての外務省報道官は、「ウイルスの起源は複雑な科学的問題、米国の最優先課題は、自国の感染を食い止めて国際的にも役割を果たすことであり、中国の信用を傷つけて責任を転換することではない」と述べたという。
 これは一体どういう類いの話なのだろうか。そう考えるうちに思いだされるのが、かの「スペイン風邪」との命名に当時のスペインは反対したという。だが、そのかいなく、汚名を着せられてしまったという。今では、当時のアメリカから当該ウイルスが世界に広がったとされているものの、当時のこの方面の科学的知見は今日よりかなり低かったから、その分スペインの反論が劣勢に流されていったのは、あながち見当違いではあるまい。
 今回、日本の保守系メディアの中にも、アメリカのかかる主張を「グロテスク」とさえ形容していることから、憎しみしか生み出さないようなこのアメリカ政府の態度に同意できないというのが正論ではなかろうか。ちなみに、武漢のウイルス研究所から漏れだしたのではないかとか、そのウイルスを武器として実験中であったのではなどと、色々な説が日本でも飛び回っていたようなのだが、ようやく沈静化してきたようだ。
 
 
○3月31日、中国国家健康委員会は、新型コロナウイルスに感染しながら症状のない「無症状者」の数を、4月1日から新たに計上すると発表した。この措置は、無症状者を介した感染拡大が言われる中で、方針転換したものだという。
 それというのも、無症状なのに感染するのが、このウイルスの特徴だと追々わかってきた。それまでの中国政府は、「無感染者が感染を広げる確率は低い」として、数字の公表からはずしていたというのだ。
 それでも問題は多々あるようで、続けてこう報道されている。「国家衛生健康委員会は31日、当局が把握している無症状者が「30日までに1541人を数え、うち205人が外国からの入国者だ」と明らかにした。一方、香港紙サウスチャイナ・モーニングポストは、中国の政府統計に入らない無症状者が2月末で4万3千人以上いたと報じている」(4月1日付け朝日新聞)という。
 
○3月1日、ニューヨーク市ではじめての感染者が確認された。デブラシオ市長は、「市民には日常生活を続けてほしい」と語っていたという。これを報道した新聞は、同市を含むニューヨーク州とカリフォルニア州との差がどうしてできたのかを、現地の話としてこう伝えている。
 「当時。NY州(約1950万人)の感染者は約200人。人口が2倍超のカリフォルニア(CA)州と同程度であったが、いまNY州では10万人を超え、CA州の10倍近くに上る。
 国内では、外出規制令を出した時期が明暗を分けたとの指摘が上がる。NY州は22日、CA州の主要都市より5日遅れた。この5日間でNY州内の感染確認者は10倍超の1万7千人に急増。さらなる感染拡大を招く要因となった。」(朝日新聞、2020年4月5日付け)
 
〇4月2日、最初に感染を注意喚起した李文亮医師が、新型コロナへの注意喚起をしたことで人民に貢献したとして、「烈士」の称号を与えられる。
 
 
○4月15日、アメリカが、WHOへの拠出金の支払い停止を表明した。

 
○4月17日、武漢市政府は、これまでの累計確認死者数を訂正した。この訂正により、17日午前0時での武漢市の累計確認死者数は3869人となり、これは、これまで公表していた数より1290人多かったという。同市内の累計確認感染者数も、これまでより325人増えての5万333人と訂正した。市政府は、今回「調査を尽くし、自発的に訂正した」としており、情報開示に向けてやや前進したのではないかと、各国メディアからも見られている。
 おりしも4月15日の中国国家衛生健康委員会は、新型コロナウイルスに感染しながらこれといった症状のない「無症状者」の累計人数が6764人だったと、初めての公表に踏み切った。

 
○3月26日、サンチェス首相は、中国の習近平国家主席と電話会談をして、医療物資の援助を要請したという。ちなみに、「AFP通信によると、中国のIT大手アリババ集団は同日、200万枚のマスクをスペインに送ると表明した」(3月26日付け朝日新聞)という。

○4月19日までに明らかになった話として、「新型コロナウイルスは中国・武漢ウイルス研究所から始まった」というアメリカ・サイドからだされている話について、「その可能性は絶対にない」とする同研究所職員の反論を中国国営メディアが伝えたという。同研究所の所長と、同様に話したという。
 また、19日までに放送されたテレビ放送から、同研究所の袁志明(えんしめい)研究員は「われわれには厳格な(ウイルス)の管理制度がある」「退職者であれ学生であれ、職員は1人も感染していない」と述べたという。
 もっとも、アメリカ大統領と国務長官のこれまでの一連の発言は、証拠を示しての話ではなく、中国に政治的な圧力をかけ、また中国を国際的な孤立に追い込もうとする政治的立場からのものである可能性が強いのではないか。
 
○4月24日、「「Immuniry  passports(感染パスポート)  in  the  context  of  Copid19」(「Scientific  Brief  24  April  2020」)において、WTO(世界保健機関)は、「抗体ができたとしても、2度目の感染を防げるかは不明」との見解を示した。

 
〇4月26日、武漢市の新型コロナの感染患者の、残っていた全員が退院したと発表した。中国政府の統計によると、武漢市で入院した患者は累計で5万333人、3869人が亡くなり、4万6464人が治癒して退院した。同市での入院患者数は同月24日に47人であったが、そのうち約30人は症状が治まってもPCR検査で陽性が出続けていたという(朝日新聞、4月27日付け)。

 
〇5月2日から、武漢市を含む湖北省で公衆衛生に関する警戒レベルを最高1級から2級に引き下げた。湖北省政府が1日に発表した。中国は、感染症など公衆衛生上の警戒レベルを4段階で定めているとのこと。


 
〇米国東部時間の5月6日、米軍制服組のトップのミリー統合参謀本部議長が、新型コロナの発生源についての見解を記者会見で述べた。結論は、「われわれにはわからない」というものであった。また、元の軍幹部は自身のブログであろうか、このウイルスは自然から発生し、その由来も人為的なものではないのではないかとの見解を発表しているとのことであり、大統領や国務長官のこれまでの見解と一致していない。後者は、これを受けてであろうか、「確かだが、証拠はない」などとこれまでの強硬な主張から後退しているとのこと。
 そもそもWHOは、政治ではなく科学でもって、この問題を明らかにすることを訴えており、アメリカ首脳が根拠が示せない段階で中国を「悪呼ばわり」するのは、自らの意図が政治的なものであることをひけらかしているような印象も与えかねず、世界で今苦しんでいる中建設的な話にならず、いかがなものかと思う。




○5月13日、上海協力機構の外相会議でロシアのラブロフ外相はアメリカのコロナに関する対中攻撃を非難したと、環球時報が伝えた。14日の中国国営の中央テレビ局「CCTV」も、このラブロフ外相の発言を報道した。


○5月24日、北京で開催中の全国政治協商会議(全国政協)に出席している医師の孫鉄英・政協委員が、朝日新聞の取材に応じたという(同紙、2020年5月27日付け)。
 新型コロナウイルスへの対応で湖北省武漢市にも支援に入った孫氏は「(異常を察知し))医師に、中央政府に直接報告する権利を与えるべきだ」と指摘した。各界有力者が集うこの会議で、現場の医師が察知したら、国家衛生健康委員会に直接報告しなければならないとする制度の創設を提案する予定だという。
 これまでも、SARSの蔓延を受け病院が深刻な症例を中央機関に通報するシステムが設けてあったのだが、手続きの煩雑さもあり、役に立たなかったことが背景にあるという。今回の中国での初期対応の不備を反省し、感染症の初期情報が滞らないようにしたいとのこと。

 

 
(続く)
 
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♦️181の4『自然と人間の歴史・世界篇』エグモントらの悲劇(1567)

2020-12-08 09:44:55 | Weblog
181の4『自然と人間の歴史・世界篇』エグモントらの悲劇(1567)

 エグモント(1522~1568)は、ネーデルラント(現在のベルギーあたり)の貴族。当時は、第4代エグモント伯とも言い慣わされる。その居城は、ブリュッセル郊外ガースベーグ城にあった。
 かの地は、古くから大国の争奪となっていた。そこに根を張っていた、威風堂々の大貴族、それでいて、領民の声に耳を傾ける、賢明な人物として人気を博していたという。
 その彼が、スペインの対フランス戦争の際、スベインの噂に高いフェリペ2世軍の名将として登場し、サン・カンタン(1557)およびグラブリーヌ(1558)においてスペイン軍を有利に導くという、武勲を立てる。 
 1559年には、ブラバントとアルトアの州総督に任ぜられる。国王の覚えもめでたい存在、すなわち重臣の一人となっていたに違いあるまい。
 ところが、スペイン人総督アルバ公の圧政に苦しみ、自治を求めるネーデルラントの人々を見て、フェリペ2世に直訴に及ぶ。経済力を持っていたフランドル地方カルバン派との協力も辞さない姿勢にて、彼らのために国政の改革を訴えるのだが。
 だが、かれらの主張は守旧派の反感を買ったようなのだ。この抵抗運動のために、同志ホールン伯とともに1567年9月に逮捕される。そして、査問委員会にかけられる、はたせるかな、翌年の6月5日ブリュッセルの大広場に引き出され、斬罪(ざんざい)に処せられる。
 同市中央駅に近いプチ・サブロン公園には、ネーデルラント反乱の口火を切ったこの2人の愛国者の立像があるという。
 エグモントらのおもかげは、その後の資本主義の勃興の流れに乗り、後世に伝わっていく。ゲーテに霊感を与え、もっとも美しい悲劇の一つ「エグモント」(1787)が生まれる。
 また、その名前を被せた「エグモント序曲」が、いまなお親しまれているベートーベンの作品を生んだ。最初は憂いを帯びているものの、次第に時代の流れを感じさせるものになっていく。
 ちなみに、フランドルの中心都市ブリュッセル市内ベルギーにある、建国を記念した凱旋門が立てられたのは、この曲ができてから20年後のことなのだと伝わる。


(続く)

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♦️140の3『世界の歴史と世界市民』活版印刷術の発明(15世紀、グーテンベルク)

2020-12-07 22:23:13 | Weblog
140の3『世界の歴史と世界市民』活版印刷術の発明(15世紀、グーテンベルク)


 ドイツ生まれのグーテンベルク(1400頃~1468)は、印刷職人であった。
 マインツの生まれ。やがてシュトラスブルクに赴く。マインツ出身の金銀細工師フストと語らって印刷機を発明を志したようだ。
 試行錯誤を繰り返す中でも、活字をだんだんに小さく、そして洗練されたものに改良していく。
 そのうちに、ゴシック活字を用いて最初に36行のラテン語聖書(これを後に「グーテンベルク聖書」と言い慣わす)の印刷に成功する。

 ちなみに、アメリカのユタ州のCrandall Printing Museumには、グーテンベルク活版印刷機が展示されているとのこと。稼働の際には、ガチョウの革で包まれたスタンプに油性インクをつけて、そのスタンプを使って活版にインクをのせ、それを紙にかませ、プレスすることにより印刷を行うのだという。


 この発明たるや、潮のようにヨーロッパ各地に瞬く間に広がっていったようだ。グーテンベルク本人の実在は完璧に証明できないものの、そのような核となる技術者ないしその集団がいたのは確かだろう。そのような技術の開拓者の生存中に、協力者や職人たちも各所で印刷所を設立していくという流れであったようだ。


 活字による印刷工房は、マインツ周辺地域とライン河畔の都市シュトラスブルク、バンベルク、ケルン、バーゼル、アウグスブルクなどに広がっていく。1500年頃までには、ヨーロッパ東部を除いて全域に伝わっていったようだ。その間に、技術面での精密化、量産化を目標に、それなりの工夫が重ねられていったのではないか。


 主な顧客としては、当初は教会と大学都市などが中心であり、前者からは聖書、後者からは教材の印刷の発注が主であったようだ。
 追々には、各地での市民階級の動向とも相まって、王公や貴族、僧侶などの特権階級のみならず、一般人レベルでも著作や回顧録、英雄伝のような歴史書、ラテン語の文法書、暦書、人文書などが出版されていく。

(続く)


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